タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


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2023/05/19

数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~


日本における数珠は、各宗派によってその意味を与えられていて、微妙にその位置が異なっている。


それぞれ詳しく調べてみると意外に面白い。


一方でタイの仏教には数珠は存在せず、日常の礼拝や正式な儀式、その他仏教関係の儀式の際においても数珠は一切使わない。


もちろん、瞑想の際も数珠は使わない。



しかし、ごく一部の瞑想法では、補助的に使用される例がある。


でも、それはあくまでも、瞑想を手助けするための小道具という以上の意味はない。



私は、本来、数珠とは“瞑想のための小道具”であったのではないかと考えている。


後に仏教の瞑想において、さまざまな形で活用されるようになっていったのではないかと推測している。



これについては、以前にも拙ブログの記事で話題に挙げている通りである。


(※【関連記事】を参照のこと。)



現在でも、例えば、真言の回数を数えることを必要とする宗派では、所謂カウンターとしての役目があることを挙げることができる。


それは、チベット仏教においても同様だ。



それでは、なぜ本来は数珠が存在しないタイのテーラワーダ仏教に数珠が存在するのかということが問題になる。


あくまで私見であるが、スリランカをはじめとする東南アジアの一帯は、かつてテーラワーダ仏教が信仰される以前は、密教色の濃い大乗仏教とともにヒンドゥー教が信仰されていたという歴史がある。


おそらくは、この時に大乗仏教とヒンドゥー教とともに数珠も東南アジア一帯へと伝来していたのではないかと思う。


数珠は、ミャンマーでも広く普及していることも考え合わせると、テーラワーダ仏教がタイへ伝来する以前の段階で、テーラワーダ仏教の瞑想が大乗仏教ないしはヒンドゥー教から“瞑想の小道具”として数珠を取り入れていたのではないだろうか。


タイの一部の瞑想法のなかに数珠を使うものが存在するという事実から、やはりどこかの段階でテーラワーダ仏教の瞑想が数珠を取り入れたということだけは確かなことだと思う。






タイの数珠
どちらもタイ北部・チェンマイの僧院にて
縁あっていただいたものである。





さて、それでは、歴史をさらに遡って、ブッダは数珠を使用したのだろうか?


・・・これも、あくまで私見であるが、単刀直入にブッダは数珠を使用していなかったのではないかと思う。



私がそのように考える根拠をいくつか挙げてみたいと思う。




【1】

パーリ仏典のなかに数珠の根拠が求められないこと。


日本の仏典の中には、数珠の意味やその功徳やを説く経典が存在するが、私が知る範囲では、テーラワーダ仏教にはそれが存在しない。もし、パーリ仏典のなかに数珠に関することが説かれた箇所をご存知の方がおられたら、是非ともご教示いただきたいと思う。


【2】

比丘出家の際に必須の資具ではないこと。


比丘出家の際に必ず準備をしなければならない必須の資具は、サンカティン(比丘が持つ袈裟)・チーウォン(袈裟)・サボン(腰巻)・アンサ(下着)・バーツ(鉢)・水こし・針・糸 である。数珠は含まれていない。


【3】

数珠を持たないのが比丘の基本のスタイルであること。


上記の通り、数珠は生活資具ではない。儀式の際も、瞑想の際も、出家生活において数珠を持ち、使うことはない。


【4】

教理上、瞑想理論上、直接関係を有するものではないこと。


教理上直接関係するのは瞑想だが、数珠との関連は見出せない。そもそも数珠を使わなくとも瞑想は可能である。決して必須のものではなく、『使っても瞑想は実践できる』というスタンスだ。事実、数珠を使う瞑想はタイにおいてはごく少数派であり、数珠の持ち込みを断る道場もある。


【5】

ごく一部の瞑想法で使われている以外、一切使われていないこと。


タイにおいては、プットーの瞑想法、あるいはタイ北部やタイ東北部の郊外の一部の僧院で使われている以外は、数珠は使われておらず、数珠を使わない瞑想法のほうがはるかに多数を占めている。瞑想という場面を除くと数珠を使う場面はない。




・・・などの理由を挙げることができる。



ただし、タイでは占星術や呪術的な方面も非常に盛んで、比丘が携わることも少なくない。


森林僧院系の寺院や瞑想修行系の寺院では戒律の順守が非常に厳しく、比丘が占星術や祈祷、呪術などに関わることを極度に忌避するため、比丘がそういった関係に携わっている姿を見ることはない。


しかし、一般には、比丘が占いや祈祷を行うことは珍しくない。


タイで広く普及しているプラクルアン(プラ)と呼ばれるお守りは、たとえタイの神々やヒンドゥー教由来の神々をかたどったもの、または呪術的なものをかたどったものであっても、仏教の比丘によって入魂されて“お守り”や“護符”となる。


このように祈祷や呪術を行う際に比丘(あるいは在家の祈祷師)が数珠を使うことがある。


タイでは、数珠と言えば、瞑想というよりも、むしろこちらの方面で使用されることが多いかもしれない。



余談ではあるが、祈祷師や呪術師は、十分な知識や技術を身につけて一人前になるために、カンボジアやミャンマーへ留学して修行を積むらしい。


タイのお守りや護符には古代クメール文字(古いカンボジア文字・コームの文字)が書かれていることからもカンボジアで学び修行を積むというのは納得できる。


現在もなお、そのような伝統が生きているということは、いかにクメール文化の影響力が強かったかであろう。



なお、私は、呪術やまじないを学びたければ、ミャンマーへ行くといいとタイ人からすすめられたことがある。


その知人が言うには、タイよりもミャンマーのほうが呪術や祈祷の“本場”らしい。






タイの護符のひとつ
ここには古いカンボジアの文字が書かれている。
タイ人も何が書いてあって、
どういった意味なのか、
全く読めないしわからないという。





さて、話題を元に戻そう。



タイの瞑想では、数珠はいたって単純な使い方をする。


数珠の玉に触れている『感覚』そのものへと気づきを向けやすくするための“きっかけ”として用いられる。


あるいは、呼吸を数えたり、呼吸へと注意や気づきを向けやすくするための“きっかけ”として用いられる。


それ以上の意味はない。


このような使い方は、ミャンマーの瞑想に詳しい方からも伝え聞いており、ミャンマーにおいても同様の使い方であることを確認している。



タイの数珠も一応は、108個の玉がある。


しかし、数珠の玉の数に意味が与えられているわけではなく、『プットー』を唱えた回数や呼吸の回数が問われることもない。


注意や気づきを向ける単なる“きっかけ”でしかない。



ゆえに、数珠ではなく、ブレスレットでも瞑想はできるんだと教えていただいたことがある。


納得だ。


しかしながら、玉の数に意味がないのならば、なぜ数珠の玉が108個なのかということが非常に気になるところだが、残念ながらその点については情報を得ることができなかった。



ブッダ在世当時から原始仏教時代の仏教には、おそらく数珠はなかったのではないだろうか。


部派仏教時代の仏教にもまだ数珠はなかったのではないだろうか。


しかし、それ以降の仏教のどこかの発展段階において、数珠が仏教の瞑想へと取り入れられたのではないだろうか・・・と私は考えている。



現在のテーラワーダ仏教は、仏教史的にも、教理的にも、部派仏教の一派であることが確認されており、現存する唯一の部派仏教の一派であるとされている。


部派仏教時代の仏教の伝統を色濃く現代にまで伝えているテーラワーダ仏教に数珠がないことから、おそらくは、大乗仏教の影響を受けてテーラワーダ仏教へと取り入れられたものなのではないか?と考えている。


あるいは、現在においても、チベット仏教や日本の各宗派で見られる数珠の使用方法やその意味から考えて、数珠はヒンドゥー教が起源であり、ヒンドゥー教の影響を受けて取り入れられたものであるという可能性も十分に考えられるのではないかと思う。



以上は、勝手な想像である。


読者の皆さまは、いかがお考えであろうか。




【関連記事】


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)


『アーナパーナサティ』

(2010年05年17日掲載)


『タイの瞑想法についての一考察』

(2020年03年29日掲載)




(『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』)






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2022/12/19

タイのプラクルアンのこと

 

タイに一定期間滞在経験がある方であれば、『お守り』の存在にすぐ気が付くのではないかと思う。


タイの『お守り』とは、『プラクルアン』と呼ばれるもので、ブッダや高僧、タイやインドの神々の姿などをかたどったものである。


一般には『プラ』と呼ばれている。


(※単に『プラ』と言った場合、ブッダや仏像を指す場合もあるし、僧侶を指す場合もあるし、プラクルアンを指す場合もある。)


ブッダや高僧、神々の姿をかたどったものの他には、タイに伝わる精霊やインド由来の神々、さらには性器をかたどったものや、布製の護符、特別に祈禱を施された厄除けのものなど、タイのお守りは極めて多種多様で、材質も金属製のものや粘土製のものなど非常に多彩である。


日常生活のなかに深く浸透しており、人々の生活とは切り離せない存在ともなっている。



タイの人たちは、非常にお守り好きで、例えば、バスやタクシー、友人・知人の車に乗る機会があれば、ぜひとも運転席に注目して欲しい。


必ずたくさんのお守りたちが車を守っているはずだ。


あるいは、街ですれ違うタイの人たちの胸元に注目して欲しい。


特に男性に多いのであるが、お守りをネックレス状にして首にかけている姿を見ることができるはずだ。



このようにプラクルアンは常時、肌身離さず身につけられているものであるほか、さまざまなところに飾られる。



“お守り好き”という点では、日本も全く同じで、非常に親近感を覚える。


無宗教を堂々と標榜している日本人であるが、実は、日本人は尋常ではないほどのお守り好きだろう。


車を見れば、神社やお寺の交通安全のステッカーが貼られているし、運転席やダッシュボードのなかに、お守りを置いている人は多いことと思う。



このタイのプラクルアンであるが、近年、インターネット上にてさまざまなプラクルアンの画像がアップされるようになった。


それらを眺めるのが最近の私のちょっとした楽しみとなっている。



私が知っているもの以外にも、実にさまざまなタイプがあって、本当に面白い。



ちなみに、森林僧院や瞑想修行を主とする寺院などでは、呪術的なものや、お守りの類の頒布は嫌うので、このようなプラクルアンの類は僧院内には一切ない。


しかし、タイでの生活のほとんどを、そうした森林僧院に身を置いてきた私のところにさえも、たくさんの情報が入って来るのだから、どれだけタイの人たちの間にプラクルアンが浸透しているのかということをご想像いただけるかと思う。



日本へ帰国してから20年が経った今も、私の手元には、たくさんのプラクルアンがある。


私の仕事場も、プラクルアンに見守ってもらっている。


実は、私の手元にあるプラクルアンは、自分で手に入れたものではなく、タイ滞在中にさまざまな人たちからいただいたものばかりだ。


自分で手に入れたものは、ほんのいくつかしかない。



タイの人たちは、お互いの関係が打ち解けてくると、友情の証として、よくプラクルアンをプレゼントしてくれる。


私の手元にあるひとつひとつのプラクルアンには、そうした温かな思い出があり、私に譲ってくれた人たちの気持ちが籠っているのだ。



出会ったタイの人たちの温かな気持ちとともに集まってきたのが、私の手元にあるプラクルアンたちである。






サーマネーンたちが集うお寺の学校で
いただいたプラクルアン。
ともに過ごしたサーマネーンたちの
明るい笑顔が浮かんでくる。





私にタイ語を教えてくれた友達から
プレゼントされたプラクルアン。
一番のお気に入りのプラクルアンだ。





私は出家をしていたためか、手元にあるものは、ブッダや高僧をかたどったプラクルアンが多いのだが、実は、タイに伝わる神々やインド由来の神々をかたどったもの、また非常に絶大な“呪力”を有するという特別な祈祷が施されたものまであるようである。



“特別な祈祷”という言葉で思い出したのだが・・・言われてみれば、出家中にバンコクの超一流名門大学を卒業したとても真面目な先輩比丘が、これまたド真剣な顔をして“意中の人を振り向かせるお守り”というものの作り方を教えてくれたことがあった(実際に作っているわけではなく、そのようにして作るのだという話題である)。


さまざまな呪文を唱えながら、なんと女性の陰部の分泌液を混ぜつつお守りを作製していくというもので、いかにも『念』が込められた“効きそう”なお守りがあるものだ・・・そんな大層なものもあるのかと、話半分に聞いていた。


内心では、そもそもそんな“液体”を誰がどうやって入手するのだと、半ばシラけた思いで聞いていたのだが、インターネットを見る限りどうやらそういった話は、本当にあるようである。



真面目な先輩比丘の話なのだから、やはり嘘偽りはなかったわけだ。


いやいや、出家者たる者、そもそも嘘をついてはいけないから、やはり本当の話なのだ。


これは、いかにも『力』がありそうではないか!タイの呪術的な民間信仰の一面である。



兎にも角にも、タイのプラクルアンは、見ていて飽きることがないほど多彩で、大変面白いのだ。



私は、当時、タイへ仏教を学びに来たのだからと、努めて他のものへは関心を向けて来なかった。


しかし、仏教を学ぶ目的がなければ、もしかするとプラクルアンの愛好家になっていたかもしれないと思わなくもない。


ところが、軽々しく愛好家になっていたかもしれないとは口が裂けても言えないほど、非常に奥が深い世界であるというのがプラクルアンの世界だ(ゆえに、一時の興味であって、愛好家になっているということはないと思うのだが・・・)。






日本へ帰国する前に先輩比丘から
いただいたプラクルアン。
このエピソードに関しては下記の記事。
『煩悩の国の歩き方』





タイをガイドしてくださった方から
いただいた小仏像。
こういった小仏像もプラクルアンの
一種とされているようだ。





タイは、ご存知の通り敬虔な仏教国とあって、プラクルアンは生活とともにある非常に身近な存在だ。


身近ではあるけれども、決して粗末に扱ってはならない存在でもあり、特に丁重に扱うべき存在として心得ておかないといけない。


それは当然と言えば当然であるが(日本のお守りに関しても同じだろう)、その一方で、有名な高僧による製作であったり、絶大な呪力を持つとされているものであったり、骨董的な価値があったりすると、大変高価な値段で“取引き”されることがある。


タイでは、プラクルアンの専門雑誌がいくつも刊行されているほどで、その愛好家の多さが容易に想像できるわけであるが、例えば、貴金属などと同じく“投資”目的で売買されることもあるというから驚きだ。


事実、信じられないほど高額なプラクルアンや目が飛び出るほどのプレミアがついたプラクルアンが存在するのである。



この点は、インターネットのオークションサイトや販売サイト等で『お守り』や『御朱印』が取引きされることに対して、あまり良い印象を受けない日本の感覚とは大きく異なるところである(信仰形態や意味合いが異なるので、比較できないことであるということをあらかじめ断っておく)。


神聖なものを寺院以外の場で販売していたり、売買や投資の対象とするのは、日本人としては大いに戸惑うところだろう。



それはさておき、タイには、日本人には想像もつかないほどのプラクルアンの一大マーケットが存在するのだ(※1)。



さて、タイ好きの間ではよく知られるようになってきたプラクルアンであるが、こうしたプラクルアンの扱い方について、あまり知られていないことがある。


特に注意しておかなければならないことがいくつかあるので、記しておくこととしたい。




・『買う』とか『購入する』とは言わず、『借りる/お借りする(タイ語:เช่า・チャオ)』と言わなければいけない。


・足元や床に置いてはならない。ブッダや神々の分身、あるいはブッダや神々の力がこもったものであるとして、丁寧に扱うようにすること。


・人から受け取る際は、合掌してから受け取ること。特に僧侶から受け取る際は、必ず受け取る前に合掌しなければならない。

(僧侶から物を受け取る際は、どのような品物であっても、受け取る前に必ず合掌してから受け取ること。)


・男女の交わりを行う際は、身につけていてはいけない。身につけたまま行為を行ってしまうと、お守りとしての『力』が消えてしまうと言われているため、必ず身体から外したうえで行為を行わなければならない。




タイにおいては、神聖なものであるのだから、決して粗末に扱ってはならないのは当然のことであるが、このような常識もあるので、もしもタイでプラクルアンを手にされることがあれば、少しだけ思い出していただければと思う。



プラクルアンを身につけていると(鉄砲の)玉に当たらないと言われているのは、タイに滞在経験がある方であれば、一度くらいは耳にされたことがあるかと思う。


それだけ一般に広く浸透しており、深く人々の心そのものともなっているプラクルアンだけに、仲良くなった『友情の証』として譲っていただけたことは、本当に嬉しく思ったものだ。



一方で金銭的価値がつけられることも多く、単に『お守り』としての価値以外の価値が付されることがあるのがプラクルアンでもある。


プラクルアンの価値を見極めるには、深い経験と知識が必要であり、相当な“プロ”でないと目利きができない。所謂本物なのか偽物なのかの判断は素人では到底不可能だ。


私がインターネットでたくさんのプラクルアンを眺めている通り、近年は、日本の市場でもよく見かけるようになったものの、それらはおおむねタイではそれほど“価値”のあるものではない、所謂“偽物”であるといわれている。



私の手元にあるプラクルアンたちの金銭的な価値は私にはわからない。


所謂“本物”なのか”偽物”なのかも、私にとってはどうでもいい問題だ。



プラクルアンはプレゼントされても嬉しいが、タイ人にプレゼントをしても非常に喜ばれる。


私が、あるタイ人に『このプラクルアンは“偽物”かもしれないけれども、あなたにどうぞ。』と言ってプレゼントさせていただいた際に、『これは、あなたからもらったプラクルアンだから価値があるのよ。』と言ってくださった時には、とても嬉しく、大変心が温まったことを覚えている。



そんな人と人とをつないでくれるのも、プラクルアンのご利益なのかもしれない。




※1、【参考資料】

・NHK出版『ブッダ大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』1998年

156頁~160頁が参考になる。大変面白く興味深い記事である。



※2、【関連記事】


『タイのお守りとタイで出会った人々1』


『タイのお守りとタイで出会った人々2』


『タイのお守りとタイで出会った人々3』


『タイのお守りとタイで出会った人々4』


『タイの呪術』


『煩悩の国の歩き方』




(『タイのプラクルアンのこと』)






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2022/08/09

タイの毘沙門天信仰


タイは、言うまでもなく上座仏教(テーラワーダ仏教)を信仰する敬虔な仏教国であるが、タイの信仰は、純然たる上座仏教だけではなく、大変多様で奥が深いものである。


例えば、ヒンドゥーの神々や華僑による大乗仏教の観音菩薩、道教の神々なども信仰されており、街中のいたるところで、そうした信仰に関する建物を見かけることができるほか、いわゆる“ご利益”のある神様もたくさん信仰されている。




《関連記事》


◆タイの観音さま


◆タイで出会った観音菩薩




出家の比丘においては、神々を拝むことはないのであるが、一般在家の立場においては、自由かつ重層的な信仰がなされているのだ。



私が最も長く過ごした森の修行寺や瞑想修行系の僧院では、特に戒律遵守が徹底されているばかりでなく、呪術的なものや占いに関するものについても厳禁が徹底されている。


そのような関係で、タイの大寺院やご利益で有名なお寺などではお馴染みであり、タイの人々が大変好む「お守り」などは、修行系のお寺には一切置かれていない。



ちなみに、ここでは、敢えてお守りを「販売する」という表現を避けることにした。


なぜなら、タイでは、お守りを寺院で購入する際には、「買う」とか「購入する」という表現を使わず、「借りる」「お借りする」という表現を使用し、特別な言い方をするからである。


それは、単なるモノではないのだから、当然と言えば当然だろう。


日本においても、「授与する」とか「授かる」と表現するのであるから同じである。



ヒンドゥーの神々への信仰はよく知られている通りであるし、どのような願いごとでも聞き届けてくれるというガネーシャは、タイにおいても人気の神様で、日本ではタイの観光名所としてもよく知られている通りだ。



そうした信仰のひとつに、毘沙門天信仰がある。



タイにおいても盛んに信仰されており、特に近年、毘沙門天信仰の人気が急上昇しているのだという。


これには、私も大変関心を抱いた。



ちなみに、神様への信仰にも流行り廃りがあるというから、さらに大変興味深い。






タイ・バンコクのワット・サッタータム寺院の
ターオ・ウェーッスワン(毘沙門天)。
こちらの毘沙門天がバンコク市内では、
大変人気があるということである。





日本では、毘沙門天は仏教における天部に属し、仏法を守護する護法の善神である。


一般的には、七福神の一人としてその名をよく知られているのは、ご存知の通りかと思う。


北の方角を守護する神であり、四天王の一人として祀られる場合は「多聞天」と呼ばれ、単独で祀られる場合は「毘沙門天」と呼ばれる。


なお、『毘沙門』とは、サンスクリット語の『ヴァイシュラヴァナ』の音写である。


戦いの神であり、勝利をもたらす神であるとされているほか、さまざまな財宝の神であり、たくさんの福徳を授けてくれる、幅広いご利益を授けてくれる神であるとされている。


毘沙門天は、夜叉や羅刹(鬼神)といった眷属を従えており、それらの総大将というか、統率者であるとされているというのが、日本における毘沙門天信仰の概略である。



タイでは、ターオ・ウェーッスワンと呼ばれ、篤く信仰されているのだ。






タイ・サムットソンクラーム県にある
ワット・チュラマニー寺院の
ターオ・ウェーッスワン(毘沙門天)。
こちらの毘沙門天がタイで
最も人気があるということである。




タイの毘沙門天こと、ターオ・ウェーッスワンは金棒を持っており、夜叉(タイ語:ヤック)の姿で現わされることが多く、日本の毘沙門天とは大きく異なる。


そのため、見た目ではタイのターオ・ウェーッスワンが日本の毘沙門天であるとは、知っていないと気づきにくい。



(パーリ仏典では、「ヴェッサヴァナ」と呼ばれており、「ターオ・ウェーッスワン」はそのタイ語訛りであろう。)



一方で、日本と同じく、四天王の一人として北方を守る神であるとされ、商売繁盛や金運上昇といった財宝の神として信仰されている点は、日本の信仰とほぼ同じである。


このように大きなご利益が得られると信じられているため、タイでは、ターオ・ウェーッスワンのお守りがたくさん作られており、大切に肌身離さず所持している人は多い。



もとより、お守りを大変好むタイの人たちの間では、なにもターオ・ウェーッスワンのお守りだけに限らず、ブッダや高僧のお守りをはじめとして、実にさまざまなお守りがあり、お守りを持っていないタイ人はいないほどである。




《関連記事》


◆タイのお守りとタイで出会った人々1


◆タイのお守りとタイで出会った人々2


◆タイのお守りとタイで出会った人々3




私は、タイ入国後、すぐにタイのお寺で宿泊をさせていただくこととなった。


出家前にお寺以外の宿に泊まったことはたったの数日しかなく、まして一般家庭に泊めていただいたことは一度もなかった。


出家後は、厳格に戒律を厳守する森の修行寺で過ごし、還俗後はタイ人の友達の家庭に泊めていただいたこともあったのだが、非常に残念なことに、タイの民間における信仰を知る機会はほとんどなかった。



出家中にタイ人比丘たちの話題に挙がるほど知られた信仰であれば、私の耳にも入ってくるというものであるが、僧院内は私語厳禁であり、瞑想三昧の日々である。


何と言っても、森の修行寺では、戒律遵守、純然たる仏法の立場より、呪術的なものや占い、民間信仰や迷信的なものは忌避され、徹底して厳禁されているのだ。



よって在俗の信仰は知る由もないということになるのだが、そうしたことを学びにタイまで来たわけではないのだから、少々残念に思わなくもないが、それでよい。



このようにして、タイの仏教に関連する信仰の形について、詳しく知るようになったのは、おもに日本へ帰国してからのことである。


タイは、上座仏教が広まる以前は、密教色の濃い大乗仏教が信仰されていたという歴史があり、ヒンドゥーの神々が信仰されていても何ら不思議ではない。


また、ターオ・ウェーッスワン(毘沙門天)について言えば、パーリ仏典にも記載がある仏教の護法神であるから、仏教信仰の一側面であるといえるものだ。



しかしながら、ルーツを経典に求めることができる存在であったとしても、出家の比丘としては信仰しないもの(むしろ信仰してはいけないもの)というのは、実は多い。



礼拝対象はブッダのみ。


比丘が手を合わせてもよい存在は、ブッダと目上の比丘のみだ(具体的に言えば、先輩比丘、長老比丘、師匠である比丘、先生である比丘、住職の比丘など)。



どのようにしてタイへと広まり、どのように信仰されているのだろうか?


ルーツは如何なるもので、日本との違いはどのようなところにあるのだろうか?


パーリ仏典には、記載はあるのかないのか?



このようなことを紐解いてみるのは、実に興味深く面白い。




※写真は、タイのバンコクに在住されているたーれっくさんにご協力いただきました。


この場を借りて、お礼申し上げます。ありがとうございました。


たーれっくさんは、タイの仏教や神様について、漫画でわかりやすく紹介されていらっしゃる方です。ご興味のある方は、ぜひ検索してください。




(『タイの毘沙門天信仰』)






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