私がここで記しているからと言って、他の方々もみなそうであるとは考えないでいただきたいということである。
私がここに記事として記していることがらは、決して一般的なことであるのではなく、私一個人の体験であり、私一個人の感情である。
また、記事の内容に、ご気分を害される方やご不快なお気持ちになられる方がいらっしゃるかもしれない。
抵抗感や嫌悪感を抱かれる方がいらっしゃるかもしれないとは思うが、あくまでも、私自身の瞑想実践の体験として、そうした感情があったのだという範囲でご理解をいただき、お読みいただければと思う。
次に、私がここに記事として記していることがらは、一人の男性修行者としての視点、そして私が経験してきた出家の生活・瞑想実践の生活という視点を前提として書いたものであるということをお知りおきいただきたいということである。
そこには、差別的な意図や女性を蔑視するような意図などは、全く含むものではないということをあらかじめご理解いただいたうえでお読み願いたいと思う。
文字のうえで正確にお伝えをするということは、いささか困難なことなのかもしれないが、誤解、曲解、歪曲されることなく、私の真摯な思いがここをお読みの方々のもとへ伝わることを切に願っている。
これから瞑想実践や出家生活を志す方々、あるいはすでに瞑想を実践されている方々にとって、何らかのお役に立つことができれば幸いであると思う。
~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~ |
社会的な通念として、性的な話題に触れることは、どちらかと言えば、忌避されるべきものであるかと思う。
それゆえに、公に語られることは少なく、禁忌な領域であるとも言える。
しかし、私は、求道者として、修行者として、修道者として、避けては通れない問題なのではないかと思うのだ。
なかなか語られることの少ない問題であるだけに、私個人としては、重く大きな問題なのではないかと考えている。
また、多かれ少なかれ、誰もがぶつかる問題なのではないだろうかとも思うのだ。
だからこそ、恥を忍んで、敢えてここに記事としてまとめてみようかと思い立った次第である。
男性であれば、少なからず誰もが抱えているであろうと思われる問題なのではないかと私は思っているのであるが、果たして実際のところはどうであろうか・・・。
もちろん、全ての男性に当てはまる問題ではないとしても、“多くの”男性が抱えている問題ではあるのではないだろうか。
一方で、特に女性の方にとっては、不快感や嫌悪感をお感じになる方がいらっしゃるかもしれないが、なにとぞお許し願いたいと思う。
どうか女性の方は、立場を逆にしてお読みいただき、ご理解に努めてくださればと思う。
男性に限った問題ではなく、たとえ女性であっても、男性ほどではないにしても、同じ問題で悩まされはしないだろうか。
それらの点に関して、是非とも、女性の瞑想実践者としての立場から、ご意見などをおうかがいすることができれば幸いである。
出家生活における、一日一食の生活、あるいは午前中のみの一日二食の生活は、やはり空腹にはなるが、翌朝には食することができるし、慣れればそれほど苦痛なものではない。
私が大変苦しめられた眠気も、私にとっては辛いものであったが、夜になれば眠りに就くことができるし、タイの出家生活では睡眠時間を自分である程度調整することもできた。
ところが、性欲というものはそうはいかない。
逃げ場がないのだ。
向き合うしかないのだ。
この「性欲」こそが出家生活で最も辛いと感じたことであった。
出家生活では、戒律によって、自慰行為の他、異性でっても、同性であっても、さらに動物との行為をも含むあらゆる性行為が禁じられている(※1)。
在家生活であれば、解消する手立てはそれなりにあるのかもしれないが、出家者である限りにおいては、性的な欲求を解消する手立てはないのである。
大変言いずらいことなのであるが、そうした出家生活の中では、夢精してしまうことがある。
しかし、性的なことのなかで夢精のみは、戒律に違反するものではなく、戒律の中において唯一除外されているものとなっている(※2)。
それは、おそらく自身で制御し得る範疇のものではない、生理現象としての側面を持つものであるからなのだろう。
たとえ夢精をしようとも、単なる生理現象として、身体の摂理に任せておくべきものだ。
また、ただただそのように観察をしていくべきものだ。
ところが、どうであろうか・・・
そこまで徹底した観察ができないのである・・・
~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~
ブッダの一生を場面ごとに描いたものであるのだが、女性が非常に色っぽく描かれているように見えるのは私の妄想だろうか。 あるいは、ブッダが見抜いた「欲」の“正体”を表現しようとしているからなのだろうか。 この苦しみは、ブッダも通った苦しみだったのだろうか・・・ふと思わずにはいられなかった。 |
ここからは、私の赤裸々な実体験となるのであるが、一切の性的な行為を禁じられているという環境は、相当に辛い。
私の体験を基にするならば、平均すると、おおむね2週間に一度から1ヵ月に一度程度の間隔で夢精が起こる。
しかし、これは、規則的に一定間隔で起こるというようなものではなく、全く一定していない。
何週間、何ヵ月も起こらないこともあれば、連続で起こることもある。
その日、その時の体調に影響されるのであろう。
そのあたりの明確な理由は、医学的な領域になるのだろうか、私にはわからない。
“夢精”という文字を書きはするものの、夢を見ることすらなく、突然起こることもある。
私の場合、例えば、柱にもたれかかり、うたた寝程度の仮眠をとっていた際に突然起こったこともあった。
男性であれば、ある程度のご理解をいただけるものと信じたいが、これもまた大変言いずらいことなのであるが、夢精は、紛れもなく大きな身体的快感を伴う。
さらには、この身体的快感を伴う夢精を待ちわびさえもする。
出家生活では、自分自身によって“故意”にはできないため、“故意”ではない形のものを“待つ”しかないわけである。
単なる生理現象、単なる身体の摂理であると、徹底した観察ができれば問題はない。
しかし、快感が大きければ大きい程、快楽が大きければ大きい程、徹底した客観的な観察が難しい。
快感を快感と感じず、楽しみを楽しみとせず、「ただただそのような事実を事実として観察する」ことができるようになるまでには、相当な実践を積まなければならないだろう。
私は、この時・・・そのように感じた。
大変情けなく、大変お恥ずかしいことながら、私はそこまで徹底したサティにまで高めることができなかった。
出家をして、周囲に女性がいないような環境に身を置いたとしても、女性への欲そのものが消えるというわけではない。
異性への煩悩をかき立てる“きっかけ”となるような存在は、できる限り遠ざけるほうが望ましいし、好ましくない“きっかけ”は、より少ない環境の方が望ましいということは言うまでもないことだ。
ところが、“きっかけ”に触れていないからと言って、欲そのものが無くなってしまうのかと言えば、残念ながらそうではない。
私は、単に“きっかけ”にさえ触れなければ、そのうち欲そのものが無くなってしまうだろうと期待をしたが、それ程単純、かつ簡単なものではなかった・・・。
離れているつもりであったとしても、いつ、どこで、何が“きっかけ”となってしまうのかが、愚かな凡夫にはわからない。
だからこそ、常にサティを高めるように努め、常に注意深くならなければならないのだ。
以前にも記事としたことがあるが、たとえ断食をしたとしても性欲は消えるものではなかった。
たとえ眠らない修行をしたとしても性欲は消えるものではなかった。
少しばかり身体を苦しめてみたところで、性欲を若干弱める程度の効果はあっても、根本的に消えてしまうということは断じてない。
本当の意味で生きるか死ぬかの瀬戸際でも彷徨わない限り、常に現れてくるものだと私は思う。
敢えて身体を苦しめてみたところで、性欲は消えるものではなかったのだ。
断食の時でさえも、眠らない修行の時でさえも・・・情けないことに、麗しい女性が通りかかれば、注意はすぐさまそちらへと向かってしまい、大いに気にかかってしまう・・・
妄想の世界を都合よく美しく膨らませ、楽しんでしまっているという始末。
単なる生理現象、単なる身体の摂理である夢精に伴う身体的快感・・・「ただただそのような事実を事実として観察する」ことができない私の愚かさ・・・。
挙句の果てには、徹底した観察ができぬ自分に嫌気がさし、気が狂ってしまいそうになってしまう始末であった。
嗚呼・・・
< つづく ・ 『出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~』 >
註:
※1
比丘が常に保つべき227箇条ある戒のうち、性行為を禁ずる項目は、下記のように記載されている。なお、これは227箇条ある戒のうちの第一番目となっている項目で、いかに大きなものであるのかがわかる。
〇「淫を行う。畜生に対するものをも含む。」
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁
〇「何れの比丘といえども、諸比丘の学と戒とを具足しつつ、学の放棄を表明せず、または力の弱いことを(他者に)伝えることなく淫法をを為すらならば、雌の畜生と為すに至るまでパーラージカ(という罪)であり、共に住することはできない。」
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 21頁
※2
比丘が保つべき227箇条の戒のなかに「夢精」について記述されている項目には、下記のように記載されている。これは、自身では意図的に制御することが不可能な生理現象だからであろう。
〇「故意に自慰をなす。ただし、夢中を除く。」
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁
〇「故意に精液を泄らせば、夢中を除きサンカディセーサ(という罪)である。」
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 25頁
(『出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~』)
※1
比丘が常に保つべき227箇条ある戒のうち、性行為を禁ずる項目は、下記のように記載されている。なお、これは227箇条ある戒のうちの第一番目となっている項目で、いかに大きなものであるのかがわかる。
〇「淫を行う。畜生に対するものをも含む。」
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁
〇「何れの比丘といえども、諸比丘の学と戒とを具足しつつ、学の放棄を表明せず、または力の弱いことを(他者に)伝えることなく淫法をを為すらならば、雌の畜生と為すに至るまでパーラージカ(という罪)であり、共に住することはできない。」
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 21頁
※2
比丘が保つべき227箇条の戒のなかに「夢精」について記述されている項目には、下記のように記載されている。これは、自身では意図的に制御することが不可能な生理現象だからであろう。
〇「故意に自慰をなす。ただし、夢中を除く。」
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁
〇「故意に精液を泄らせば、夢中を除きサンカディセーサ(という罪)である。」
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 25頁
(『出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~』)
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2 件のコメント:
こんにちは。
いつも興味深くブログを拝見させてもらっています。
出家僧と性欲の問題、私も常々気になってはいましたが、忌避されやすい話題を正面から捉えて率直かつ赤裸々に取り上げていただいたことを感謝いたします。
別スレのコメントで紹介させてもらいましたアチャーン・チャーの英文伝記、”Stillness Flowing”でも性欲の問題は取り上げられています。アチャーン・チャーも頭陀行者として修業していた若い頃は性欲には大いに悩まされたそうです。「性欲なんて大したことない」という人もいるのかもしれませんが、少なくともアチャーン・チャーにとっては修業上の大きな障害で大いに悩み、苦しんだようです。
”Stillness Flowing”では若い頃、歩行瞑想で自信の性器が袈裟とこすれて刺激されるのを嫌い、森の奥深い場所に歩行瞑想用の道を在家の人にならしてもらい、袈裟を腰までたくしあげて歩行瞑想をしたというエピソードが紹介されています。また森の中でとてもビジュアルかつリアルな、女性器が多数現れては消える、妄想というよりは幻覚に近いものを見たという赤裸々というよりはほとんど露骨とも言える描写のエピソードもあります。抑えがたい強烈な性欲にどう対処したかというと瞑想において人並み外れた集中力と智慧を発揮して立ち向かったというよりは、ただひたすらに歯を食いしばって過ぎ去るのを堪え忍んだだけだそうです(”good, old-fashioned, unromantic, teeth-gritting endurance”と表現されています)。1968年にアチャーン・マハー・アモーンという僧によりアチャーン・チャーの最初の伝記が書かれたときにこのエピソードが紹介されたそうですが、ご存知のよう一見性にオープンなようで非常に保守的なタイ社会、ましてや1960年代という時代背景においてその頃既に阿羅漢として注目と尊敬を一身に浴び始めていた高僧として相応しくなく、一般受けしないことを危惧した著者が割愛することを求めたそうですが、この逸話が掲載されなければ伝記の出版そのものを白紙に戻すよう、チャー師は頑なに拒否したそうです。”Stillness Flowing”の著者、アチャーン・チャヤサローはアチャーン・チャーが後年、ほとんど神格化され始めていた晩年もこのエピソードを法話で何度となく繰り返して披露し、性欲がごく自然なことで固い決意により乗り越えることが可能と直弟子に説いたことを伝えています。ただひたすら歯を食いしばって過ぎ去るのを堪え忍ぶだけでは同じ問題に悩む若い僧にとってあまり参考にはならなかったのかもしれませんが、アチャーン・チャヤサローは彼ほど尊敬され、崇められた高僧でもやはり同じ問題で大いに悩み、苦しんだことを後世に伝えることで若い世代の僧を励まし、鼓舞したかったのであろうと回想しています。
それでは今後ともブログ更新を楽しみにしております。
Jun Ikeda 様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
そのようなお話が紹介されているのですね。初めて知りました。「ただひたすらに歯を食いしばって過ぎ去るのを堪え忍んだ」という言葉は、まさにその通りであると思います。やはり、道を歩んでこられた方の言葉であると感じました。
高度に集中して性欲を抑えるといった対処法や、性欲が現れたらすぐさま観察をして妄想が大きくならないようにするといった対処法があります。しかし、根深く抑えがたい強烈な性欲は、そうそう簡単に対処ができるものではなく、それ程生やさしいものでもありません。個人によっても違うとは思いますが、私にとっては極めて困難なものでした。
どのような対処法を採ろうとも、最終的には根本的な部分で性欲を越えなければなりません。高度な集中にしろ、観察にしろ、根本的な部分で越えていなければ、ごく一時的な対処に終わり解決にはなりません。やはり「ただひたすらに歯を食いしばって過ぎ去るのを堪え忍ぶ」しかないのだと思います。しかし、ここで分かれ道となるのが、耐え忍ぶことを継続していくことができるのか、できないのかということなのではないかと私は思っています。
ゆえに、タイでの出家生活は、ごく短期間(数ヵ月から数年単位)であれば比較的「楽」だと思うのですが、先が見えない長期間あるいは一生の出家生活ともなると、性欲は相当な苦しみとなるのではないでしょうか。
特に、性的な経験(自慰行為や異性との性交など)による「快感」や「快楽」を知ってしまってからの出家は、非常に大きな苦しみになると感じました。そういった意味では、何も経験のない幼少の頃から(しかるべき環境で)出家していた方が楽なのではないかと感じたことがあります。
私には、この「性欲」を越えることができませんでした。アチャン・チャー師のように固い決意が持てず、耐え忍ぶことができなかったのです。もし、私が「性欲」というものを越えることができていたならば、もう一度タイへ帰って再出家していたかもしれませんし、日本で普通に家庭を持って生きるという人生は選択していなかったかもしれません。もちろん悔しいという思いはありますが、私は私のレベルで生きてもいいんだ、いやそこからしか道はないんだと思うに至りました。
アチャン・チャー師のお話を聞いて、阿羅漢なのではないかとまで言われた高僧と全く同じ道を歩んでいるというところに私は大いに親近感を覚えました。私も、アチャン・チャー師の体験談は非常に励みになるものだと思いますし、同時に、もし私が出家者の立場であったならば、この「私」もアチャン・チャー師のようになることができる“可能性”が十分にあるのだと感じることでしょう。神格化される程の人物が歩んできた極めて人間的で、実に生々しい体験談は、同じ苦しみに悩み悶えている者達にとっては極めて価値あるものだと思います。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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