タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


ラベル サンマー・アラハン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル サンマー・アラハン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024/01/29

タイ国タンマガーイ寺院愛知別院参拝

タイのワット・プラ・タンマカーイ寺院の別院のひとつが愛知県江南市にある。


以前、拙ブログの記事 『日本にタイ寺院はいくつある?』 において紹介した日本国内に20箇寺(記事執筆当時)あるタイ寺院のなかのひとつである。


タイ国タンマガーイ寺院愛知別院は、以前は名古屋市中川区にあったのだが、タンマガーイ寺院公式ホームページによれば2016年7月に江南市へと移転したようである。


江南市は、私にとっては少し縁のある土地で、多少の土地勘もある場所なので、江南市へ移転したと知った時には、これは是非とも行かねばならないと思った。


また、何と言っても、私が住む東海地方(愛知・岐阜・三重)のエリアでは、唯一のタイ仏教寺院であるということもあり、移転の話は別にして、以前より訪問したいと思っていたタイ寺院である。


名古屋市内にあった時代からその存在を知ってはいたのだが、名古屋の寺院へはついに訪問することがかなわなかった。


今回は、かねてからの念願がかなっての訪問、いや参拝である。






令和6年(2024年)1月7日参拝





この寺院の建物は、以前は『尾北建機車輌』という重機を扱う会社だったようで、外観にその名残を感じ取ることができる。


写真の通り、非常によく目立つ建物であるうえ、『タイ国タンマガーイ寺院愛知別院』の文字も非常によく目立つので、この建物がタンマガーイ寺院なのだということが一目でわかる。


タンマガーイ寺院については、さまざまな見解があるが、そのことについてここでは論じないことにする。


ここでは、ひとつの訪問記録として、また懐かしいタイの雰囲気を感じ取れる場所に触れることができた喜び、そしてタイ上座仏教サンガに属する寺院の流れをくむ寺院に触れることができた喜びを綴ることにしたい。


なお、インターネットの諸々の記事を見ると、たまに宗派は『タンマガーイ派』だと記載しておられる人がいるようであるが、これは間違いである。


タイの仏教の宗派は、タンマユットとマハーニカイのふたつしかなく、タンマガーイ寺院とその系列寺院はマハーニカイに属する正式なタイサンガの一員である。


ゆえに“新興宗教”と呼ぶのも間違いで、厳密には“新興仏教寺院”あるいは“新興仏教グループ”とすべきだろう。


その意味においては、アチャン・チャー師の森林僧院のグループも同列である。


それはさておき、タイ国内では賛否ある寺院ではあるけれども、タイ滞在中にはタイの本部であるワット・プラ・タンマガーイ寺院で瞑想を指導していただき、寺院の中の出家者・在家者ともに、皆さま方には大変お世話になった。


こうした思いがあるというのは事実だが、単なる個人的な感情論を避けるためにも、私は寺院の賛否の問題とは分けて考えることにしている。




















さて、いよいよ参拝である。



私が訪問した日、訪問した時間は、5人のタイ人比丘がいらっしゃった。


その他何名かの在家信者の方もおられたようであるが、基本的にはタイ人比丘だけが常駐しておられるようである。



タイの作法に従ってお布施をさせていただき、祝福のお経をいただく。


出家中には何度も耳にしてきた聞き慣れた独特のトーンは、やはり懐かしいとしか表現することができない。


ただこれだけで、まるで故郷の家へと帰って来たかのような安らぎを覚え、深く心が和みおだやかになっていく。



お布施の後は、どこから来たのか、どのくらい時間がかかったのか、タイではどのくらい出家をしていたのか、どこのお寺で出家をしたのかなど、他愛もない会話をタイ語で交わした。


もう忘れてしまったタイ語をなんとか思い出しながらの会話で、それはそれはもう必死だ。



通常、タイの人たちは、こうした比丘と言葉を交わす時間に、もちろん雑談もあるだろうけれども、自身の悩み事を話したり、生活上の問題や課題を相談し、比丘からアドバイスをいただいたりするのである。


街のお寺であっても、田舎のお寺であっても、その点は同じだ。


タイにおいて寺院や比丘が人々の心の拠り所として機能している大きな理由のひとつである。



今回の参拝では、一般のタイ人参拝者は誰もいなかったが、以前に訪問したことのある長野県松本市のタイ寺院でも日本に在住しているタイ人たちが入れ替わり立ち替わり参拝し、このような時間を過ごしていた。



もうひとつ、私が楽しみにしていたのが、ここでしか入手することができない書籍を読むことだ。


タイの比較的大きな規模の寺院には、『施本』といって、自由に持ち帰ることができる小冊子や書籍が並べられている。“法施”である。


しかし、ここで誤解しないでいただきたいのは、あくまでも“施本”であり、自由に持ち帰っていいものだからといって、無料であるのではなく、自身の身の丈に応じたいくらかのお布施をして、徳を積んでいただきたいということだ。



詳しくは、拙ブログの記事:

『タイのお寺の施本』



今回、いただいた施本は、『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者 クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯 二番はいない』という書籍である。(以下、アージャーン・ジャンと表記する。)


アージャーン・ジャンは、タンマガーイ式瞑想法の創始者であるプラ・モンコン・テープムニー師の直弟子である女性であり、またタンマガーイ寺院の創立者でもある。


さらにこのアージャーン・ジャンの直弟子であるのが、現・タンマガーイ寺院の住職であるタンマチャヨー師である。






クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーン先生
(『二番はいない』より)




『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者
クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯
二番はいない』





プラ・モンコン・テープムニー師の伝記は、すでに読んでいるので、次に知りたいと思っていたのが、タンマガーイ式瞑想法の創始者であるプラ・モンコン・テープムニー師からどのようにアージャーン・ジャンへと伝授され、どのように広まっていったのか、そしてどのようにワット・パクナム寺院から独立してタンマガーイ寺院が創立され、発展していったのかということについてである。


ご興味のある方は、ぜひ関係寺院を訪問され、施本があるかどうかを尋ねていただき、ご一読いただきたい。


きっと快く教えてくださることと思う。


その際のお布施はお忘れなく。



詳しい書籍の内容は割愛するが、一点だけ、大変印象に残っていることがある。


それは、タイのタンマガーイ寺院は、非常に整理整頓されていて、掃除も非常に行き届いている。


その理由は、タンマガーイ寺院の創立者であるアージャーン・ジャンの教えと指導にあったのだということが、書籍の記述から知ることができたことである。


書籍の一節を引用してみたい。



『例えば、スリッパの並び方まで心を配ってください。

スリッパが散らかって、ほうきや、雑巾、ゴミ箱、そしてゴミまでが、あちらこちらに散乱していれば、それを見た信者さんたちは、瞑想でなかなか心を静止させることなどできないでしょう。

たとえ1時間かけて、やっと心を静止させることができたとしても、目を開けると、まだ散乱しているものが眼に入って、せっかくの瞑想が台無しになってしまいます。

反対に綺麗にしていれば、信者さんの心は容易に穏やかになって、自然と心を留め、静止させることができるでしょう。』(141頁より)



日本人からすれば、履物を揃えたり、ゴミをかたづけたりすることは常識の範囲内なのかもしれないが、タイにおいてはそういった習慣は薄い。


そうしたタイの慣習のなかにあって、タンマガーイ寺院の整然と乱れのない整頓のされ方は、とても素晴らしいと感じるとともに、どこか日本的なものを感じたため、深く私の記憶に残っている。


ああ、なるほど、こうした寺院の雰囲気は、このようなアージャーン・ジャンの指導の薫陶を受けたものだったのかと非常に腑に落ちた。






プラ・モンコン・テープムニー師
(ルアンポー・ソッド師)





タンマガーイ寺院愛知別院では、毎月第一日曜日に比較的大規模なお布施が行われるとのことである。


きっと、たくさんのタイ人たちが近隣からも、遠方からも集うのだろう。


寺院は広々としていていることもあり、おそらくはたくさんのタイ人たちで賑わうに違いないと、つい想像してしまう。



生まれ故郷であるタイを離れて、遠く異国の地である日本で暮らすタイの人たちにとっては、どれだけ心の安らぎとなる場所であり、どれだけ心を癒してくれる存在であるのだろうか。


そんな思いを考えただけで、少々こみ上げてくるものがある。


私もどこかタイ人になっているのかもしれないと思う。



ここは、まさに日本に在住するタイ人たちにとってのひとつの拠点であり、大きな拠り所なのだ。




【参考文献】


・『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者 クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯 二番はいない』

日本語版 タンマガーイ寺院刊行 2009年



【関連書籍】


・『チャオ・クン・プラ・モンコン・テープムニーの生涯とその教え』

T・マグネス著 藤吉慈海訳 タイ国:ワット・パクナム刊行


・『インド・タイの仏教』

藤吉慈海著 大東出版社 1991年 


※『チャオ・クン・プラ・モンコン・テープムニーの生涯とその教え』は、『インド・タイの仏教』のなかに収録されている。



【関連記事】


『タンマカーイ寺院の素晴らしいところ』


『タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~』



【タイ国タンマガーイ寺院愛知別院公式ホームページ】

愛知別院 Aichi Dhammakaya Temple – タイ国タンマガーイ寺院



【タイ国タンマガーイ寺院公式ホームページ】

タイ国タンマガーイ寺院 – (dhammakaya.jp)




【タンマガーイ寺院の表記について】

拙ブログでは、タイ語の発音にしたがって『タンマカーイ』という表記に統一しているが、インターネット上では『タンマガーイ』という表記が多い。また寺院の公式ホームページにおいても『タンマガーイ』という表記となっていることから、この記事では『タンマガーイ』と表記することとする。

なお、『ダンマカヤ』という表記は、パーリ語の『タンマカーイ』の英語表記を日本語読みにした表記である。


アージャーンの表記について

タイ語で『先生』を意味する敬称。日本語では、アチャンと表記されることが多い。拙ブログでは、アチャン(一部、アーチャン)という表記に統一している。タンマガーイ寺院関連の書籍では『アージャーン』という表記となっているため、この記事では『アージャーン』と表記した。日本語の表記の違いである。




(『タイ国タンマガーイ寺院愛知別院参拝』)






▼ご購読はコチラから▼





ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓





仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。






Facebook : Ito Masakazu





2010/05/17

サンマー・アラハン(ワット・パクナム)


ワット・パクナム、正しくはワット・パークナーム・パーシーチャルーンという。


日本で『ワット・パクナム』と言えば、この寺を指すが、バンコク市内には『ワット・パクナム』という同名の寺がいくつかあるらしい。

バンコク市内でも『ワット・パクナム』と言えば、たいていはこの寺へ案内してくれるが、「パーシーチャルーン」まできちんと伝えないと、どこのワット・パクナムなのかがわからず、別のワット・パクナムに案内されることもあるという。


さて、このワット・パクナム、タイ国内では、有名な大寺院のひとつである。


通称、サンマー・アラハンの瞑想法、いわゆる法身瞑想法
(※大乗仏教の『法身』とは、意味が異なるので注意。)発祥の寺としても非常に知られており、外国人出家者が多くいる寺としてもよく知られている。


しかし、現在では、瞑想寺というよりも、どちらかと言うと学問寺に近い性格の寺となっている。

タイ全土から仏教の学問を志して多くのサーマネーン(沙彌)達や比丘達が寺院内の学校で勉学に励んでいる。


また、比丘やサーマネーンだけではなく、日々、多くの参拝の人々で常に賑わっている。

現在でも瞑想指導が行われており、瞑想を学ぶことができる。

しかし、決して瞑想に最適な環境ではなく、瞑想に励む比丘も決して多くはない。


どちらかと言うと、修行寺という性格は薄くなりつつあるように感じる。


日本との交流の歴史は長く、およそ数十年前から日本人が比丘としてこの寺で出家し、修行に入っている寺でもある。

以来、現在に至るまでその交流は連綿と続いており、日本との縁が深い寺となっている。


おそらく、ワット・パクナムで滞在・修行をした経験があるという日本人は多いのではないだろうか。

さらに、さまざまな日本の宗教団体においてもワット・パクナムとの交流が持たれており、日本では、比較的その名が知られたタイ仏教寺院のひとつとなっており、タイ仏教の代名詞ともなっている。

なお、千葉県にはこのワット・パクナムの日本別院があり、日本に滞在しているタイ人達の心の拠り所となっている。


タイで通称「サンマー・アラハン」と呼ばれている瞑想法が、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師によって創始された瞑想法である。

この通称「サンマー・アラハン」と呼ばれる瞑想法(法身瞑想法とも呼ばれる)は、瞑想する際に呼吸に合わせて「サンマー・アラハン」と唱えることから、タイではこのように通称されており、プラ・モンコン・テープムニー師の弟子によって創始されたワット・プラ・タンマカーイの瞑想法をも含めて「サンマー・アラハン」と呼ばれる。


タイ国内において、通称「ユプノー」ことマハーシ系の瞑想法(日本で紹介されているいわゆる「ヴィパッサナー瞑想法」)に続いて、比較的知られた瞑想法となっている。


「サンマー・アラハン」の瞑想法こと、ワット・パクナムの瞑想法は、日本ではあまり知られていないが、実はすでに数十年も前に日本へ紹介されている瞑想法である。


数十年前は、上座仏教そのものや瞑想自体に関心が薄かったという時代背景もあり、専門書の中で南伝仏教における瞑想法のひとつとして紹介されているに過ぎないが、数十年前当時としては、比較的詳しくその瞑想法が紹介されているように感じる。


おそらくは、マハーシ系の瞑想法が日本に紹介される以前は、日本では上座仏教の瞑想法といえばこの瞑想法を指すほどの位置だったのではないかと私は推察している。



この瞑想法に関しては、『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』の頁にて詳しく紹介することとするので、ここでは省略する。

『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



◎ ワット・パクナム瞑想法

ワット・プラ・タンマカーイ瞑想法とともに別の項目で紹介することにしたい。

なお、ワット・パクナム瞑想法の概要に関しての書籍は、上記の通り、すでに日本でも数冊出版されており、詳しい歴史については、そちらを参照していただきたい。



◎ワット・プラ・タンマカーイ瞑想法

ワット・パクナムの分家とも言うべき存在がワット・プラ・タンマカーイである。

基本的には、ワット・パクナムの瞑想法と同様のものであり、その流れをくむものであるが、より進歩的な側面が見られるほか、タイの瞑想法の中では特異な存在でもあると思われるので、ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイのこの2つの瞑想法について、別に項目を設けて紹介したい。


なお、ワット・プラ・タンマカーイについても、近年、詳しい研究書が出版されているので、詳しく知りたい方は、そちらを参照していただきたい。

タイの近代化と関連した問題や教義的な解説までかなり詳細な部分まで知ることができる。


『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



(『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』)



【メールマガジンのご案内】

メールマガジン『こころの探究のはじまり』を配信しています。
全45話にわたって求道の旅路を綴っています。




2007/07/04

ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~


ワット・プラ・タンマカーイ(以下、タンマカーイと記す)は、瞑想法(タンマカーイの瞑想法(※)については、別に項目を設けているのでここでは触れない。)や寺の規模、布教法や集客力のほかにも、他のタイの寺とは異なる点があり、すべてにおいて非常に特徴的である。



(※関連記事:『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



まず、誰もがタンマカーイであると判別できる特徴をあげてみる。



〇仏塔


タンマカーイの仏塔は、タイの伝統的な様式(伝統的といっても、地方によってもその様式は異なるが)とは大きく異なり、まるでUFOのような、巨大な円盤のような形をした仏塔である。

その仏塔の容姿は、誰が見ても非常に強く印象に残る。


ちなみに、タンマカーイ寺院が使用しているロゴマークも、この仏塔をデザインしたもの。



〇仏像


タンマカーイの仏像もまた、タイの伝統的な様式の仏像(仏像の様式もまた時代によって様々ではあるが)とは大きく異なり、非常に特徴的なもので、一目でタンマカーイの仏像とわかる。


言葉では説明が難しいが、マネキンのようなどこかリアルな人の姿を現したもののような印象を受ける。


それは、すでに“タンマカーイ様式”ともいえる独特なものと言っていい。



さらに、大乗仏教的思想が入っているということを挙げることができる。



もっともこれは、公式な場で聞いたものではなく、私が僧坊を同じくした僧侶達から教えられた事柄である。



よって、タンマカーイの公式な教学としては存在しないのかもしれないが(もちろん上座仏教であるので、タンマカーイ独自の教学というものは本来ならばあり得ないはずである。)、一般の僧侶からこのような教えを聞くことができるということは、内部において類似することがらが教えられているという可能性を考えることができる。


あくまで私の想像の域を脱し得ないが、非常に興味深い。



では、以下に紹介することとする。



〇タンマカーイにみる大乗仏教的思想


タンマカーイ(※)に至るには、個人の持つ『徳』により、早いか遅いかの違いがあるが、一生懸命に瞑想をすれば誰にでも到達が可能な境地である。



※タンマカーイ・・・パーリ語:ダンマ・カーヤのタイ語訛り。ダンマ・カーヤ=法身。ただし、大乗仏教でいう法身とは意味が異なるので注意が必要。ここでいう「タンマカーイ」とは、この寺院の瞑想法によるひとつの境地をいう。 



(関連記事:『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



そして、タンマカーイの境地に至れば、苦しんでいる人々を助けることができる。
さらに地獄の世界に落ちた人々をも助けることができる。



タンマカーイの境地に至り、さらに進んで涅槃の境地に至ることも可能であるが、タンマカーイの境地に留まり、人々を助けることのほうが望ましい。


ルアンポー(ワット・プラ・タンマカーイの現住職=タンマチャヨー師)は、生きているすべての者を涅槃へと至らせなければ、自分は涅槃へは至らない、と教えているという。



どこかで聞いたことはないだろうか?


まさに、大乗仏教の菩薩道である。


菩薩とは、上座仏教では修行時代のブッダを指し、菩薩の救済というのは上座仏教の教学にはない。


しかし、タンマカーイの境地に留まって救済がなされると説明しているところが非常に興味深い。



タイ仏教の歴史の中では、地獄が強調されるものや阿羅漢が教化するといった要素のものは伝えられているが、タンマカーイのものはタイ在来のそれらとは異なり、特徴的であるといえる。



(関連記事:『阿羅漢と天人』



タンマカーイでは、出家者、在家者ともに、多くの華僑が信者となっており、その影響を受けたものなのであろうか。


次に紹介するものは、寺で説法を聴いた時に受けた印象である。



〇堕地獄と生天


タンマカーイで特に印象に残るのは、『地獄』と『天』についての説法である。


もっとも、『地獄』は、タイの仏教では「業」の思想と共に広く一般に浸透しているものではあるが、タンマカーイでは特に強調されているような印象を受ける。



一般のレベルでは、善行を積み、瞑想を行うという行為は、涅槃を求めるための修行というよりも、来世は現世よりもよりよい境地に生を受けるため、あるいは天界に生を受けて苦しみのない日々を過ごしたいという願いによるところが大きい。


阿羅漢の境地を求めたいといったような、より深く仏教を追求する者を除けば、堕地獄と生天の考え方は、タイではごく一般的な仏教理解であるといえる。


そうしたタイの思想的背景の中にあってなお強調されていると感ずるということは、よほど強調されているのであろう。



また、タンマカーイでは、飲酒や喫煙が堕地獄の原因であると強調されており、布施や持戒が生天のための善行であると強調する。



さらに、これらの内容を盛り込んだ歌やアニメを様々な映像や画像と組み合わせて、説法の間に放映したりもされる。



余談ではあるが・・・アニメや様々な映像や画像と組み合わせた説法は、視覚と聴覚の双方から訴えるもので、子どもから大人までわかりやすい。


タイの寺では、地獄の絵や天界の絵などをよく見かける。


いわゆる「絵説き」であるが、タイでは特に珍しいものではない。



善行や瞑想といった「徳」のある行いを勧めるというように個人の積徳が説かれること自体は珍しくはないが、これらを歌やアニメを様々な映像や画像と組み合わせて、さらに巨大モニターを駆使して放映しているという点は、現代版リニューアルだとも言え、非常に斬新だ。


しかし、経済成長が著しく、発展した当時のタイにおいても、こうした手法はまだまだ珍しかった。


ちなみに、説法は国内国外の各支部へ衛星中継されており、同時に世界の各地で聴聞することができる。


説法の衛星生中継というのも驚きである。



この堕地獄と生天の強調は、タンマカーイのひとつの特徴であるといえるのではないかと思う。


このように堕地獄と生天、そして瞑想と大乗仏教的な救済という構図が浮かんでくる。



タイ人は、徳を積むために寺へ足を運ぶ。

お布施をする。

瞑想をする。



誰のために徳を積むのか・・・それは、もちろん自分のため。

あるいは、両親のため、親しい人のためであったりと様々である。

そのような背景の上にタイ仏教が成り立っている。



タンマカーイにおいてもその根底は、そのようなごく普通のタイにおける仏教と変わらない。


しかし、タンマカーイにはタイの伝統的な仏教の枠組みの中には収まらない、タイの伝統的な仏教との違いを感じる。




関連記事:

『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』

『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』

『ワット・プラ・タンマカーイ~寺院での出家生活~』



(『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』)

ワット・プラ・タンマカーイ ~寺院での出家生活~


タイの仏教の中で、特に目をひくのは、ワット・プラ・タンマカーイ(以下、タンマカーイと記す)である。


タンマカーイは、タイの仏教サンガ・マハーニカイ(※)に属しつつも、あらゆる面において、他の寺とは異なる点が多く、タイの仏教の中ではやはり特筆すべき存在であると思う。


(※タイの仏教は、マハーニカイとタンマユットの2つの宗派がある。)



タンマカーイは、ワット・パクナムで修行したメーチー・チャーン師とその弟子であるタンマチャヨー師によって創始された寺である。


よって瞑想法も、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師による瞑想法(タイでは、通称「サンマー・アラハン」と呼ばれている。)を継承するもので、基本的には同様である。


しかし、タンマカーイではワット・パクナムの瞑想法よりもさらに進歩的な瞑想法を提唱している。


タンマカーイの瞑想法については、別の頁(※)で紹介するとして、寺での生活を私がお世話になった一週間をもとに紹介してみたい。


(※『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



僧院内での生活は、一言で表現すると、非常に規律正しく、「真面目」である。


タイの一般的な町の寺などでは、ある程度の個人的な所有物が認められており、比較的自由である。


しかし、タンマカーイでは、個人的な所有物といえば、戒律内で認められた僧の資具と本や筆記用具などの勉強に関する物品のみしか持ち込むことができない。


しっかりとした規律の中で、集団生活がおくられている。



テレビなどの娯楽物もなく(もっとも本来は、僧院にあること自体が好ましくないものではあるが、町の寺では僧坊に置かれており、一般化している。)、履物もきちんとそろえることを指導されるほか(タイでは履物を揃える習慣はない。)、美しく衣をまとうようにとの指導も厳しく行われ、きれいなものを身につけよとの指導もある。


僧坊内や境内に散らかった雰囲気はなく、ゴミや落ち葉などはきれいに掃除されている。


瞑想の時間もきちんと取られ、みな真面目に瞑想へ取り組む。


このように僧の守るべき戒律とともに生活上の規律をも正しつつ、それぞれの持ち場や与えられた場所で一日を過ごす。



さらに驚くことがたくさんある。


ゆうに1000人、2000人を超える僧侶達がいっせいに食事をとるその景色は、実に壮麗である。


僧侶の具体的な人数はともかく、あれだけの僧侶達が一斉に集まり、食事をとるその景色は、見た者にしかわからない。


小さな寺なら全員そろって食事をとることも一般的だが、大きな寺であるほど、僧侶達がいっせいにひとつの場所へ集って、食事をとることは少なく、各所属集団ごとに食事を取ることが多い。


そして、夜には在家の信者達や他の寺の僧侶達も招いて説法が行われるのであるが、その説法にまた驚かされる。


タンマチャヨー師が説法をするのであるが、その説法の様子が、正面の巨大モニターをはじめ、数メートルごとに設置された大きなモニターに生中継されるといったハイテクを駆使した(といっては言い過ぎか?)説法なのである。


この説法のあいだには、仏教の教えを織り込んだ歌と画像・映像がモニターで流されたりもする。


モニター中継することによって、広いホールに集った説法を聴きに来た在家の人々にも見えるというわけである。


さらに、この様子は、海外にも放送されているという。


場所によっては同時通訳・生中継されている。


月に4回あるワン・プラ(布薩日)には、さらに多くの何百人・何千人もの信者が集まる。


説法を聞き、瞑想をし、お布施をするといった風景は、他の寺院と何ひとつ変わらないのであるが、大集団で一斉に瞑想を行うその風景や長蛇の列をなしてタンマチャヨー師へ直接お布施をするその風景は圧巻で、驚くばかりである。


タンマチャヨー師は、ひとつのカリスマ的存在であると言えるのかもしれない。


町の寺でも、森の寺でも、また大きな寺でも、小さな寺でも、ある程度の近代化はあっても、タイでは説法やその他すべてに関して、基本的には伝統的な形式を踏襲していると言ってよい。

あるいは、伝統的な形式の上に成り立っている。


その意味では、タンマカーイはすべてに関して非常に斬新である。



また、余談ではあるが、タイでは、日本以上に都会と田舎との差が大きい。


都会を少しでも離れれば、とてものどかな風景がごく当たり前ににひろがっている。


こうしたタイにあって、田舎から出てきた人が、この風景を目の当たりにしたら、きっと私が驚いた以上に驚くのではなかろうか・・・。



その集客力、その手法、規模の大きさ、出家・在家を問わず、これだけの多くの人達が集まるのであるから、それだけ大きな魅力があるのであろう。


私が率直に感じたのは、なんといっても真面目な生活態度だ。



「この寺はほんとうにいい所だ。おまえもずっとここにいろよ。
瞑想がしたければ瞑想ができる。仏教の勉強がしたければもちろん勉強だってできる。
この寺へ引っ越して来いよ!」



と、私をいろいろと親切に案内してくれた若い僧侶が笑顔で言ってくれた。



彼が自信を持ってそう言うのもうなずける。




関連記事:

『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』

『ワット・プラ・タンマカーイ~特筆すべきその特徴~』

『ワットパクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』



(『ワット・プラ・タンマカーイ ~寺院での出家生活~』)

ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法


ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、タイでは通称「サンマー・アラハン」と呼ばれており、ワット・パクナムのプラ・モンコン・テープムニー師によってはじめられた瞑想法である。


この瞑想法を行う代表的な寺が、宗家であるワット・パクナムと、その弟子が開いたワット・プラ・タンマカーイである。


子弟関係にあたるので、基本的には同じ瞑想法とみなしてよいが、ワット・プラ・タンマカーイの瞑想法のほうがより発展した瞑想法をとる。



また、このワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、タイの瞑想法の中では非常に特徴的なものであるといえる。


呼吸系の瞑想法である通称「プットー」やマハーシ系の瞑想法である通称「ユプノー」など、タイの主な瞑想法は、『大念処経』を基にしており、密接に関連するもので、呼吸や動作を通じてサティ(知る・気づき・・・「今の心」「今を気づく心」)を非常に重視するが、「サンマー・アラハン」の瞑想法ではサティは重視しない。



また、ワット・プラ・タンマカーイでは、「サンマー・アラハン」の瞑想法をより発展させた瞑想法が特筆されるばかりでなく、その寺の活動においてもタイの伝統的仏教教団に属しながらも、一線を隔すものであると思われ、注目に値する。



関連記事:

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』の頁を参照のこと。



ただし、この「サンマー・アラハン」の瞑想法、特にワット・プラ・タンマカーイの瞑想法に関しては、タイのサンガの中において一部からは疑問の声があり、賛否両論があることを付け加えておきたい。



具体的な瞑想法についての紹介へ移る前に、その主な疑問点を紹介することにしたい。
そして、その賛否について述べることはここでは避けたいが、私の目から見た所感を補足として紹介することにしたい。




①ワット・プラ・タンマカーイの瞑想法は、単にサマタ(止、精神を集中させる瞑想)の瞑想であって、ヴィパッサナー(観、ものごとをありのままに観る瞑想)の瞑想ではない、という点。


②仏教は「無我」を説くことが基本的教説であるが、タンマカーイは「我」を説くものであり、仏教を逸脱しているのではないか、という点。


まずは、この2点が教学的批判であるが、これらはごく一部の学僧(学者)レベルの間で疑問が提唱されているに過ぎず、一般のレベルにおいては、厳密な瞑想法や教義的な問題に対する関心は薄いため、これらの問題について詳しく説明できるタイ人は少ない。


③ワット・プラ・タンマカーイの寺院運営に関する批判。


次に、寺院に対する批判である。
教学的に正統なのかどうかという問題よりも、どちらかと言えばこちらの問題の方が大きく疑問視されている。
それは、おそらくタイ国・サンガに対して投げかけられている問題としての性格を帯びていることもあり、より人々の関心を惹きやすいためであろう。




こうした両論があるために、タイ人の間にも親タンマカーイ派と反タンマカーイ派が存在するようである。



先ほど「賛否両論ある」と表現したのは、このような事情による。
賛否のほどは、各個人においてご判断されたい。



さらに特筆すべきは、不思議なことに同じ「サンマー・アラハン」の瞑想法をとるワット・パクナムに対しては、瞑想法への批判や疑問の声は全くないということである。



このことからも、ワット・パクナムが比較的保守的な立場をとる寺である一方で、ワット・プラ・タンマカーイがいかに突出した存在で、その活動がいかに活発であるのかがわかる。



関連記事:

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』



現在のワット・パクナムは、瞑想の道場という性格も伝えてはいるが、どちらかと言えば学問寺としての性格が強く、故プラ・モンコン・テープムニー師の寺として、師を信仰する人々で常に賑わっており、バンコクの中でも有名、かつ人気の寺院の1つとなっている。




このワット・パクナムは、日本の仏教界とも交流があり、留学僧の交流もある。



日本でその名を聞いたことのある方もいることかと思う。



そのため、早くからこの瞑想法は日本に紹介されており、研究書や著書が数冊出版されているので、日本でもその歴史や瞑想法などを詳しく知ることができる。



また、ワット・プラ・タンマカーイについては、最近、詳細な研究書が出版されているので、日本語で寺の活動や瞑想法を詳しく知ることができる。



関連記事:
『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』



前置きが長くなってしまったが、次に簡単にワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法を紹介してみたい。
以下、ワット・プラ・タンマカーイは、「タンマカーイ」と記す。




◎ワット・パクナムの瞑想法


まず、姿勢を整え、無理のないように座る。

呼吸を整え、「サンマー・アラハン」を唱える。


そして「球」を鼻孔のあたりに思い浮かべ、鼻孔→目頭の中心→のどのあたり→へその上2指のところへと「球」を引き入れて、移動させ、「球」をへその上2指のところで静止させる。


この位置に「球」が安定するように何度も「サンマー・アラハン」を唱える。


この「球」に精神を集中させることができるようになると、心を整えることができ、情緒が安定してくるという。


さらに、この「球」から光が発するのが見えるようになり、この光が消えないよう持続させるように集中する。


この段階で瞑想の導入とする。


タイでの通称「サンマー・アラハン」という呼び名は、このように瞑想の時に「サンマー・アラハン」と唱えることからこのように呼ばれている。




◎タンマカーイの瞑想法


上記のワット・パクナムの瞑想法と基本的には同様である(タイでは同様の瞑想法と捉えられている)が、さらに進んで「光の球」を思い浮かべる方法などをより具体的に教えている。


光の球の思い浮かべ方について・・・


思い浮かべる場所は、目を閉じた時の中心、あるいはお腹のへその上2指のところのどちらでもよい。


いろいろな色が浮かんだり、球がぼんやりとしていたり、はっきりとしなかったり、大きくなったり小さくなったり、また動き回ったりするが、無理にはっきりとした光の球を思い浮かべようとせず、楽に力を抜き、それらの状態を眺めるようにする。


そうすればやがて落ちついてきて、はっきりと光の球が見えてくるようになる。


それが難しかったら・・・



お母さんの顔を思い浮かべる、お父さんの顔を思い浮かべる

自分の家を思い浮かべる、自分の部屋を思い浮かべる

自分の部屋にある机を思い浮かべる、イスを、本を・・・思い浮かべる


机の上に置いてあるコップを思い浮かべる

同じようにして、水晶球を思い浮かべる

さらに、光の球を思い浮べるようにする



このようにして、具体的にあるものを思い浮かべることからはじめ、コップや水晶球のように、より光の球に近いものを思い浮かべ、やがては光の球を思い浮かべられるように訓練していく。


そして、よりはっきりと光の球を思い浮かべ、その状態を保つことができるように繰り返し、繰り返し訓練する。



ひらたく言えば、イメージトレーニングを積むわけであるが、はっきりと光の球を思い浮べるための前段階的な瞑想訓練ともいえる。


こうして繰り返し光の球を思い浮べ、それを保つことに努め、瞑想を深め、境地を深めていくわけである。


また、「ブッダのイメージ」を常にへその上2指のところに保っておくということも教えている。
さらに、水晶球(ガラス玉)を瞑想の小道具として使うこともすすめている。



ワット・パクナムでは、上記のような光の球の思い浮べ方のトレーニングやブッダのイメージを保っておくことなどに関しては全く触れていない。



以上は、サンマー・アラハンの瞑想法の“導入部分”である。


導入部分であるとは言っても、ここに紹介した段階に至るにも相当の集中が必要である。



このようにタイの多くの瞑想法で重視する「サティ」(気づき)には触れることなく、「光の球」やブッダのイメージを保つことで瞑想の境地を高めていくという方法論が非常に特異であるといえる。




関連記事:

『サンマー・アラハン(ワット・パクナム)』

『ワット・プラ・タンマカーイ ~特筆すべきその特徴~』

『ワット・プラ・タンマカーイ~寺院での出家生活~』



(『ワット・パクナムとワット・プラ・タンマカーイの瞑想法』)