タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


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2024/02/19

タイのお坊さんの団扇・タラパット

タイのお寺でよく見かけるのが、長い柄の付いた美しい団扇である『タラパット』だ。


どこのお寺にもある比丘が使用する仏具のひとつである。


なによりも大変美しく、比丘が着座する席の近くに置かれていることが多いこともあり、ひときわ目を引く存在だろう。


古くは、ヤシの葉っぱで作られていたものが、現在では布で作られており、とてもシンプルなデザインのものから、大変細かく美しい刺繍が施された作りのものまで、非常に多彩なデザインのものがある。


少し特別なタラパットとしては、比丘としての位を受けた際に贈られたり、タイの仏教における学僧の試験に合格した際にその試験の階級に応じて贈られたりするものがある。


その際のタラパットは、特別なものであることもあり、ひときわ美しく、きらびやかなもので、一目で特別なものだとわかる。


特に高位の比丘に対して贈られるタラパットは、手の込んだ緻密な刺繡が施されていたり、なかには宝石が散りばめられていたりするものもある。



このタラパットのデザインのなかには、仏教的なメッセージが込められたものもある。


経文からある一節が引用されていたり、簡単な法話が刺繍されていたりすることもある。



例えば、葬儀用のタラパットで、



アニッチャー ワタ サンカーラー


ウパータワヤタンミノー


ウッパチッタワー ニルッチャンティ


テーサン ウーパーサモー スコー



【日本語訳】

もろもろの作られたものは、

実に無常であり、生滅するものである。


生じては滅びる、

それらの静まるところに、安らぎがある。



という4句の文言を一組・4本を一組として、として刺繍されているものがあったそうだ。


実は、この話は、実際に私が見たものではなく、私がタイで大変お世話になった方がタラパットについて話されていた時に聞いた話である。


私は、葬儀の際にこうしたメッセージを儀式に参加している在家者たちに、敢えて見えるように発するというところに、タイの仏教の素晴らしさを感じるのである。



このようにタラパットのデザインは、とてもバラエティに富んでいる。






写真:向かって左側に立てられているのが『タラパット』





さて、特に面白いと感じたのは、その使われ方だ。


簡略に言えば、タラパットは比丘が在家者の前で読経をする際に使用されるのだが、具体的には少し改まった儀式や在家者に対して戒を授ける時などに使用される。


冒頭に触れた通り(上記の画像参照)、タラパットは長い柄が付いた形状をしており、読経の際に通常は右手でその柄を持ち、比丘の顔の前に団扇を立てながら読経する。


読経の際にお経の頭出しをする比丘がひとり持つ場合と、読経する比丘全員が持つ場合とがある。



タイでは、“お坊さんの団扇”だといっても、決して扇いで(あおいで)涼をとるための道具ではないのだ。



日本人からすると、読経する比丘がひとり、あるいは全員が、どうして顔の前に団扇を立てるのかと大変不思議に思うのではないだろうか。


率直に言えば、かなり風変わりな風景なのである。


なぜ顔を隠すのかが大変不思議でならない。



これには諸説あるようであり、統一した見解があるのどうかもよくわからないところではあるが、そうしたなかで『顔を隠すため』という理由が比較的共通した説明である。


顔を隠す理由としては、ブッダの言葉とそれを語る比丘の顔とが重なってしまうことを防ぐためで、実際にブッダ言葉(お経)を語る“口”である比丘個人がブッダと同一視されてしまうことを防ぐため、ということを意図している。


つまり、読経する比丘の個性を消すためだ。


ブッダや仏法は、ブッダや仏法である。


比丘個人の人格や容姿などを通じて発生する、比丘個人に対する感情とが重ならないようにするためで、ブッダや仏法は、ブッダや仏法として受け取るべきであるという姿勢を示すものだ。


比丘個人の人格や容姿如何によっては、仏教の教えを素直に聞けないという事態が発生することも十分にあり得る。


そうしたことを無くすために『顔を隠す』のであろう。



私は、こうしたところにも、なんとも真摯なテーラワーダ仏教の姿勢を垣間見ることができると、しみじみと感じたのであった。



余談はであるが、私が出家生活のほとんどを過ごした森林僧院では、このタラパットを使用する機会が極めて少ない。


そのため私は、タラパットを使う機会は、ついに出家生活の中で一度もなかった。


一度くらいは、使ってみたかった気もするが、それはそれである。



ちなみに、比丘の持ち物としての“団扇”は、テーラワーダ仏教圏全般に存在する。


スリランカにも存在するし、ミャンマーにも存在するが、その形状と使い方がタイとは異なる。


スリランカでも、ミャンマーでも、タイのような使われ方はしないと現地出身の比丘から伝え聞いているが、スリランカやミャンマーでは、具体的にどのような使われ方をするのかについて詳しい方がいらっしゃれば、ぜひとも情報をお聞かせいただきたいと思う。


私が知る範囲では、タイのものは、団扇の形状とその使われ方がテーラワーダ仏教圏のなかでも、特徴的かつ独特だと言えるのではないだろうか。



大変興味を覚えると同時に、読経する比丘個人の個性を消して、お経すなわちブッダが説く教えそのものとして在家者の耳へと届けて、心へと届けようというその姿勢にどこまでも真摯な姿勢を感じるのであった。




【『タラパット』の日本語表記について】

タイ語では『ตาลปัตร(taa lá pàt)』であるが、タイ語の発音を厳密に日本語で表記すると『ターラパット』となる。しかし、タイ語の発音上長音には聞こえないため、拙ブログでは『タラパット』で統一することとした。



【参考サイト】

『博物学 お坊さんの団扇』


私の友人が管理するサイトである。『タラパット』の画像が多数収録されているので、このサイトをご覧いただければ『タラパット』をご存知ない方にも、本記事の内容がより理解しやすいかと思う。また、そのデザインの多彩さもおわかりいただけると思う。

このサイトに収録されているものは、比較的一般の寺院で目にすることのできる『タラパット』が中心であるが(なかには滅多に見られない大変貴重なものも収録されている)、博物館や大寺院の展示室などに展示されているものともなると、これらとまた違って芸術品クラスのもの存在する。その美しさ、多彩さに魅了される日本人も多いのだそうだ。これをきっかけにタイの寺院に興味を持っていただければと思う。




(『タイのお坊さんの団扇・タラパット』)






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2023/03/09

森のお寺と町のお寺


タイは、日本人の渡航先として、常に上位にランキングされるほど絶大な人気を誇っている。


旅行のパンフレットなどで、タイの美しい寺院の写真を目にする機会もきっと多いことだろう。


タイの寺院というと、だれもが大変きらびやかで、派手なイメージをお持ちなのではないだろうか。



一方で、拙ブログにおいては、よく話題にしている森林僧院(森のお寺)は、大変質素で、きらびやかさなどまるでない。


あたかも、これでも文明社会なのかと思わされるほど、実に素朴な佇まいの寺院である。



そんな森のお寺であるが、近年、瞑想が大変注目されていることもあってか、訪問する日本人が増えているのだという。


特にタイで瞑想体験を志す日本人が増えているというのである。



タイの寺院は、実にさまざまなタイプがあり一様ではない。


それは、日本も同じなのかもしれないが、大きく分けて町のお寺と森のお寺があり、その生活スタイルは大きく異なっている。


拙ブログの読者様にとっては、そうした違いはすでにご存知の通りであるかと思うのだが、今回は改めて、町のお寺と森のお寺の違いを簡略に列挙してみたいと思う。
















『森のお寺』というのは、自然の山野に交わってブッダの時代により近い生活を実践できるように、町や村から離れたところに建てられた修行のためのお寺のことで、タイ語でワット・パー(森のお寺)と呼ばれている。



一方で、以前よりその町や村にあるお寺のことを、タイ語でワット・バーン(村のお寺)、すなわち『町のお寺』と呼んでいる。


ただし、単に森にあるから『森のお寺』と呼称されることもあり、両者は明確に区別されているわけではない。



近年、『森林僧院』などという日本語表記をよく見かけるようになってきたが、これは『forest monastery』の日本語訳である。



さて、町のお寺と森のお寺とはどのように違うのであろうか。



単なる立地の違いであるのではなく、先述の通り、『ブッダの時代により近い生活を実践できるように町や村から離れたところに建てられた修行のためのお寺』であるため、やはり戒律の順守に厳しいという点が挙げられるだろう。


町のお寺では許されることであっても、森のお寺では決して許されないことが数多くあるのだ。


細かく挙げればきりがないのだが、代表的な点を挙げるとすれば、森のお寺では、お金に『一切』触れることができなかったりする。



とにかく森のお寺では戒律が厳しい。


正直なところ、どうしてこんなことくらいダメなんだと思うこともしばしばだが、こればかりは慣れるしかない。


私は、森のお寺での出家であったため、厳しい方を先に身につけていたので良かった。


もしも、逆だったとしたら、おそらく窮屈で堪らなかっただろう。



戒律云々ではなく、生活上の違いもたくさんある。



まず、森のお寺は、朝が早い。


起床時間は3時半、4時からの勤行だ。


森のお寺によっては、托鉢のために歩く距離が半端ではない。


麓の町や村まで一時間ほどかけて歩かなければならない。



読誦するお経も町のお寺とは異なる。


大雑把に言って、町のお寺と森のお寺とでは読誦形式が異なるのだ。


タイ全土、ある程度の標準化は見られるものの、やはり地方色による違いも濃い。



起居する場所も違う。


森のお寺では、一人に一棟の小さな小屋が与えられる。


町のお寺では、日本で言えば『寮』のような個室が与えられる。


特に新人のうちは相部屋であることも多い。
















町のお寺では許されることであっても、森のお寺では許されないことの最大のことは、比丘は必ず沙彌や在家者を介して物品を受け取らなければならないことだろう。


町のお寺であれば、ある程度の範囲内であれば、比丘一人でどのようなことでもできる(戒律の観点から言えば不可であることもあるが)。


ところが、持戒堅固な森のお寺では、比丘一人で自由に物品を手にすることができない。


比丘は、在家者からの布施によって生活をなす者であるため、すべてが献上されたもの(布施されたもの)しか受け取れないからだ。


食物に関しては、特にそうである。


托鉢で供養されたものであったとしても、お寺でもう一度、在家者から布施を受け取る所作でもって、布施される。


外出の際には、比丘は必ず侍者として沙彌を伴うか、沙彌がいなければ在家者を連れて行かなければならない。


非常に大雑把な表現であるが、比丘は一人では何もできないのである。



このように町のお寺であれば、ある程度は自由であるが、森のお寺へ行けばそうではないということがたくさんあるのである。


出家というだけでも、日常生活に相当な制限がかかるのであるが、そうした生活上の制限がさらに厳しくなるのだ。



これも、敢えてブッダの時代により近い生活を実践できるように設けられた場であり、瞑想修行のための場であるので、そのことを思えば理不尽さは一切感じないし、むしろありがたくもあるだろう。


ブッダの時代そのままの生活ではないにしても、戒律遵守の生活は、より古い出家生活の様式を伝えていることに間違いはないのだから、やはり古の時代の比丘たちの生活、そしてブッダその人の姿を思わずにはいられない。




(『森のお寺と町のお寺』)






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2022/10/19

本当に“駆け込み寺”があるタイ


タイには、文字通りの『駆け込み寺』がある。


もっとも、お寺自体が、どこのお寺であったとしても、いつ、だれが、どのような目的で訪問しようとも、全く構わない場所であるので、お寺そのものが『駆け込み寺』だといっても過言ではないだろう。


そもそも、『駆け込み寺』などという言葉すら必要ないほどである。


なぜならば、全てが『駆け込み寺』だからだ。



例えば、アルコール中毒の方を社会復帰させたり、治癒や療養することを目的として滞在することを受け入れているお寺がタイにある。


さらには、どのような事情があり、なぜお寺へと駆け込んで来るのかもよくわからないような人までいるのであるが・・・



私が出家をさせていただいたタイの山奥の森の修行寺でも、アルコール中毒の方の受け入れをされていた。


僧院長がそうした方面に大変熱心なお方であったからだ。



お寺では、もちろんお酒はご法度である。


それゆえ、お寺の中には、アルコール類は一切ないし、関係するものも一切ない。


口にすることもなければ、眼に入ることもない。


匂いを臭いをかぐこともなければ、お酒の瓶やパッケージさえも、一切眼にすることはない。



お寺という場所は、自分と真正面からしっかりと向き合う場所でもある。


お寺であるのだから、仏教の学びや『瞑想』に励む機会と、そのための時間はたっぷりとある。


お寺のどこまでも静寂な環境がまた仏教の学びや『瞑想』の実践を通して、自己を深く見つめていくことを促してくれるのだと・・・私がお寺の中で、ともに過ごさせていただいてきたなかで感じることができた。


単に治療や療養という目的だけではなく、ごく自然に仏教や『瞑想』がともにあるのだ。










さて、日本人として、大変興味深かったのは、どのような理由なのかは全くわからないのだが、お寺へと駆け込んで来る人がいるということである。


しかも、それは、老若男女問わずである。


日本で言うところのまさに『駆け込み寺』だ。



日本では、理由なし、予約なし、身分証明書なしの状況で駆け込んで来て、受け入れてくれるお寺はまずないだろうし、単刀直入に言うならば、非常識極まりない人物ということになるだろう。


ところが、タイでは、文字通りの『駆け込み寺』が存在するのである。



タイのお坊さんは、人々の悩み事の相談にも乗るという役割を果たしている。


ゆえに“駆け込み”ではないまでも、日々、たくさんの人たちの話を聞く。


ある程度、心が落ち着くまで、お寺の中で、ゆっくりと心の整理をするということもあるだろう。



タイでは、お寺は、『徳』を積む場所であるとされている。


お寺で徳を積むことができ、悩み事を聞いてもらい、相談にも乗ってもらい、さらに重ねて心が晴々とするのではないだろうか。



お寺にある程度長く滞在していると、出家者、在家者を問わず、たくさんの人たちの出入りがあることに気がつくはずである。


在家の人たちであっても、『瞑想』修行や宿泊が可能であるので、こうした治療や療養をはじめ、悩み事相談や瞑想実践以外の目的であったとしても、お寺へと来る人たちがたくさんいる。



ごく自然なかたちで、お寺や仏教、そして『瞑想』が、生活の中へと溶け込んでいるということは、とても素晴らしいことであると感じた。



なんと言っても、悩みや苦しみを抱えている人たちの『支え』となり『力』となることが実際に機能しているという点がとても素晴らしいと感じた。



お寺の境内へと入ると、まるで私の『家』へと帰って来たかのような深い安らぎを覚えるのは、何も恐れたり、警戒したりする必要のない心から安心できる“心のふるさと”だからなのだろう。



(『本当に“駆け込み寺”があるタイ』)





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2022/09/09

高僧の肉声を拝聴しながら

 

タイでは、比丘の説法を拝聴しながら瞑想を行うことがよくある。


他の比丘たちも、一般の参拝者も、分け隔てなく同じで、ごく普通にある何の変哲もないタイのお寺の風景だ。



比丘による読経のあと、説法を拝聴し、その後、瞑想へと入ることが多い。


比丘の説法がそのまま瞑想の時間となることもある。



説法として受け取るのか、瞑想指導として受け取るのかは、個人によって異なるのかもしれないが、ともかく説法を拝聴しながら瞑想を行うのだ。


日本人としては、そのようなことは少々考えずらく、そもそも説法を聞きながら瞑想するなど、気が散るではないかとお感じになった方も多いのではないだろうか。


もっとも、私にとっては、タイ語は外国語なので、それほど気が散らなかったというのが本音のところであるのだが、もしも、母国語並みに100%タイ語を理解することができたとすれば、また話は違うのかもしれない。



このことについてタイ人に訊ねてみたところ、




『瞑想しながら説法を聞く方がよく集中して聞くことができるんだ。


だから、とてもよく頭の中へ入ってくるんだよ。』




このように話してくれた。


なるほど、瞑想しながら説法を聴くことで、集中力を高めた状態で聴くことができる。


集中力を高めながら聴くから、理解もよくできるというわけである。






スアンモークを創立したプッタタート師





ワット・ノーンパーポンを創立したチャー師





さて、タイでは、このように瞑想と説法を同時に行うことがままあるわけであるが、現在はすでにご存命ではない著名な高僧の法話を録音したテープが説法としてかけられることもある。


(現在は、テープではなく、CDやDVDなど、デジタル化されていることと思うが。)


例えば、プッタタート師によって創立されたスアンモークでは、プッタタート師の説法が録音されたテープが流されていたし、アチャン・チャー師によって創立された森林僧院の系列寺院では、アチャン・チャー師の説法が録音されたテープがかけられていた。


現在は、もうすでに生きていらっしゃらない著名な高僧の法話や説法を、直々の肉声でもって拝聴することができるのである。


これは、なんともありがたいことだ。


私ももっとタイ語の理解力があれば、タイの著名な高僧方の教えにさらに深く触れることができたのにと、大いに悔やまれる。


とは言え、著名な高僧に縁(ゆかり)のある僧院にて、しかも、その高僧の肉声を耳にすることができるだけでも非常に感慨深いものがある。



もっとも、タイ人たちは、録音テープであろうとなかろうと、高僧の説法であろうとなかろうと、そのようなことはあまり関係がない。


いつでも、だれの説法でも、大変熱心に説法へと耳を傾けながら、瞑想に励んでいる。


こうした大変真摯な姿は、どこの寺院やどこの僧院へと行ったとしても変わることはないし、誰による説法であったとしても、決して変わることはない。



ちなみに、タイでは、著名な高僧による著書をはじめ、説法や法話関係の出版物は非常に多くある。


また、CDなどの音声による媒体も多数あり、僧院より広く頒布されている。


この点が日本と大いに異なる点であるが、商用目的としての頒布ではなく、法施目的の品物として無料頒布されているのである。


このようなものが無料でいいのかと、こちらの側が心配になってしまうほどのものまで無料で頒布されているのだから驚くほかない。


とはいえ、やや高額な(と思われる)頒布物に関しては、安価ではあるが一定の値段が設定されていたり、お気持ち程度のお布施を促される場合もあるが、タイの人々は、そのようなことを言われようが言われまいが、自ら進んでお布施をする。


自分の思いに応じて、自分の現在の器に応じて、身の丈に応じたお布施をすればいいのだから、それほど重たく考える必要はない。


頒布物を手にしておいて何もお布施をしないというのは、おおよそタイではあり得ないことではあるが、仮にも今は、経済的に余裕がないのであれば、余裕ができた時に、または別の機会に別の形でお布施をすればいいと考えるのがタイ人である。



残念ながら、日本の価値観とは大きく異なるところであり、日本が大変狭く、非常に器が小さく感じてしまう瞬間だ・・・。


お布施の互助関係による相互扶助、お布施の循環社会とでもいうべき、仏教の精神が根付いているのである。



タイの著名な高僧は、私も写真でしか見たことがない。


しかし、録音テープによる説法という形で、ありがたくも直接肉声を耳にすることができた。


タイの人たちは、どのようなことを思いながら、説法を聴き、瞑想に取り組んでいたのであろうか。


きっと、書籍などで読んだり、伝え聞いたりして、尊敬の念を高めつつ、一言一言を噛みしめながら著名な高僧の肉声を聴いていたに違いないだろう。


なかには、師弟関係を結んだ直弟子であるかのように、肉声を拝聴していた人もいたのではないだろうか。



・・・そこまで想像が膨らむと、それは、私の妄想でしかないのかもしれないが。




(『高僧の肉声を拝聴しながら』)






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