タイでは、比丘の説法を拝聴しながら瞑想を行うことがよくある。
他の比丘たちも、一般の参拝者も、分け隔てなく同じで、ごく普通にある何の変哲もないタイのお寺の風景だ。
比丘による読経のあと、説法を拝聴し、その後、瞑想へと入ることが多い。
比丘の説法がそのまま瞑想の時間となることもある。
説法として受け取るのか、瞑想指導として受け取るのかは、個人によって異なるのかもしれないが、ともかく説法を拝聴しながら瞑想を行うのだ。
日本人としては、そのようなことは少々考えずらく、そもそも説法を聞きながら瞑想するなど、気が散るではないかとお感じになった方も多いのではないだろうか。
もっとも、私にとっては、タイ語は外国語なので、それほど気が散らなかったというのが本音のところであるのだが、もしも、母国語並みに100%タイ語を理解することができたとすれば、また話は違うのかもしれない。
このことについてタイ人に訊ねてみたところ、
『瞑想しながら説法を聞く方がよく集中して聞くことができるんだ。
だから、とてもよく頭の中へ入ってくるんだよ。』
このように話してくれた。
なるほど、瞑想しながら説法を聴くことで、集中力を高めた状態で聴くことができる。
集中力を高めながら聴くから、理解もよくできるというわけである。
スアンモークを創立したプッタタート師 |
ワット・ノーンパーポンを創立したチャー師 |
さて、タイでは、このように瞑想と説法を同時に行うことがままあるわけであるが、現在はすでにご存命ではない著名な高僧の法話を録音したテープが説法としてかけられることもある。
(現在は、テープではなく、CDやDVDなど、デジタル化されていることと思うが。)
例えば、プッタタート師によって創立されたスアンモークでは、プッタタート師の説法が録音されたテープが流されていたし、アチャン・チャー師によって創立された森林僧院の系列寺院では、アチャン・チャー師の説法が録音されたテープがかけられていた。
現在は、もうすでに生きていらっしゃらない著名な高僧の法話や説法を、直々の肉声でもって拝聴することができるのである。
これは、なんともありがたいことだ。
私ももっとタイ語の理解力があれば、タイの著名な高僧方の教えにさらに深く触れることができたのにと、大いに悔やまれる。
とは言え、著名な高僧に縁(ゆかり)のある僧院にて、しかも、その高僧の肉声を耳にすることができるだけでも非常に感慨深いものがある。
もっとも、タイ人たちは、録音テープであろうとなかろうと、高僧の説法であろうとなかろうと、そのようなことはあまり関係がない。
いつでも、だれの説法でも、大変熱心に説法へと耳を傾けながら、瞑想に励んでいる。
こうした大変真摯な姿は、どこの寺院やどこの僧院へと行ったとしても変わることはないし、誰による説法であったとしても、決して変わることはない。
ちなみに、タイでは、著名な高僧による著書をはじめ、説法や法話関係の出版物は非常に多くある。
また、CDなどの音声による媒体も多数あり、僧院より広く頒布されている。
この点が日本と大いに異なる点であるが、商用目的としての頒布ではなく、法施目的の品物として無料頒布されているのである。
このようなものが無料でいいのかと、こちらの側が心配になってしまうほどのものまで無料で頒布されているのだから驚くほかない。
とはいえ、やや高額な(と思われる)頒布物に関しては、安価ではあるが一定の値段が設定されていたり、お気持ち程度のお布施を促される場合もあるが、タイの人々は、そのようなことを言われようが言われまいが、自ら進んでお布施をする。
自分の思いに応じて、自分の現在の器に応じて、身の丈に応じたお布施をすればいいのだから、それほど重たく考える必要はない。
頒布物を手にしておいて何もお布施をしないというのは、おおよそタイではあり得ないことではあるが、仮にも今は、経済的に余裕がないのであれば、余裕ができた時に、または別の機会に別の形でお布施をすればいいと考えるのがタイ人である。
残念ながら、日本の価値観とは大きく異なるところであり、日本が大変狭く、非常に器が小さく感じてしまう瞬間だ・・・。
お布施の互助関係による相互扶助、お布施の循環社会とでもいうべき、仏教の精神が根付いているのである。
タイの著名な高僧は、私も写真でしか見たことがない。
しかし、録音テープによる説法という形で、ありがたくも直接肉声を耳にすることができた。
タイの人たちは、どのようなことを思いながら、説法を聴き、瞑想に取り組んでいたのであろうか。
きっと、書籍などで読んだり、伝え聞いたりして、尊敬の念を高めつつ、一言一言を噛みしめながら著名な高僧の肉声を聴いていたに違いないだろう。
なかには、師弟関係を結んだ直弟子であるかのように、肉声を拝聴していた人もいたのではないだろうか。
・・・そこまで想像が膨らむと、それは、私の妄想でしかないのかもしれないが。
(『高僧の肉声を拝聴しながら』)
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