まだ私がタイへ入国して間もない頃・・・のちに私が出家をさせていただくことになる森の修行寺の門を初めて叩いた時のことである。
当時、その修行寺は、ベテランの長老比丘ばかりが数人止住する静かな僧院であった。
私が初めて訪れた時は、ちょうど雨安居の季節で、安居を過ごすためにタイ各地の縁のある森林僧院からベテランの長老比丘ばかりが集まったと聞いている。
(※森林僧院では、交流のあるタイ国内各地の僧院との行き来があり、特に安居の時期になると他の縁のある僧院へと互いに赴いて安居の期間を過ごすことがある。)
そんな長老比丘の一人から言われた言葉が忘れられない。
『仏法を学ぶ者、瞑想を学ぶ者は、自然を学ぶ者である。
あなたは、すでに自然を学ぶ者だ。ここでしっかりと学んでいきなさい。』
さすがは、出家歴も長い長老比丘の言葉である・・・と思えるようになったのは、随分と後になってのことだ。
この時、この言葉を言われて、嗚呼、そうだ!とは思えなかった。
嗚呼!そうだ!と思えた方はどのくらいいるだろうか?
あなたは、この言葉を聞いて、どのようにお感じになられたであろうか?
私は、曲がりなりにも、仏教の大学を仏教教学専攻で卒業した人間だ。
ところが、『仏法を学ぶ者は、自然を学ぶ者である』とは、わかったような言葉であって、いまいちよくわからない言葉だった。
当時は、こんな程度の理解でしかなかった。
実践を伴わない、机上だけで仏教を学んだに過ぎないのだから、致し方がないのかもしれない。
森のお寺というところは、実に素晴らしいところである。
敢えて瞑想しようとしなくても、ただその場にいるだけで瞑想になるのだから、なんとも不思議な場所だ。
瞑想の実践が生活に馴染んで来るに従い、自分というものの姿をこれでもかというほどまで見せつけられるようになってきた。
実に、さまざまな感情が湧き起こり、さまざまな欲望が渦巻くのであった。
森のお寺の静寂な雰囲気からは想像すらできないほど、私の心の中は激しく葛藤に苛まれることになった。
しかし、そうした状況もしばらくすると、それらはごく自然な現象なのではないかと思えてきた。
・・・ふと力が抜けた瞬間、『サティ』や『観察する』といったことの本当の意味が腑に落ちた気がしたのであった。
欲望や愛欲、感情や思考のど真ん中にいた時には、全く見えなかったものが、ほんの少しだけ見えたように感じたのだ(・・・もっとも、そのような瞬間など、またすぐに吹き飛ぶのであるが)。
そこが『瞑想』の素晴らしいところで、サティ(気づき)の素晴らしいところだ。
こうした学びは、サティなしでは、全く知ることさえも、感じることさえもできないことだったに違いない。
まだ私がタイへ入国して間もない頃に言われた言葉・・・
『仏法を学ぶ者、瞑想を学ぶ者は、自然を学ぶ者である。
あなたは、すでに自然を学ぶ者だ。ここでしっかりと学んでいきなさい。』
おそらく、瞑想を深めれば深めるほど、こうしたこの言葉は、さらに実感できるようになるのではないだろうか。
なぜならば、仏法は自然そのものであるし、私そのものであるし、瞑想そのものであるからだ。
深く観察を続けていくと、否定することのできない真実へと辿り着く。
それこそが自然の姿なのであり、自然のプロセスなのであり、真実の姿なのである。
その後、日本へと帰国し、“迷走”の生活の中でこれでもかというほど痛めつけられ、苦しみ、もがいていくなかにおいて、
『仏法を学ぶ者、瞑想を学ぶ者は、自然を学ぶ者である。』
という言葉の深さを知り、本当にその通りであったと、さらに実感させられていくのであった。
さすがは長老比丘の言葉であると感服する以外にない。
(『瞑想を学ぶ者は、自然を学ぶ者である』)
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