タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


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2022/08/19

タイにおける慈悲の瞑想 ~日本の慈悲の瞑想への違和感~


『慈悲の瞑想』をご存知だろうか。


日本で上座仏教に関心をお持ちの方であれば、何度も耳にされたことがあるだろうし、実践もされたことがあるのではないだろうか。


実は、タイでは、日本で一般的に行われているような形での『慈悲の瞑想』というものはない。


実践しないのだ。


驚かれただろうか。



『慈悲の瞑想』がどのような瞑想なのかという説明は、ここでは割愛させていただくとして、私は、タイではやらない日本の『慈悲の瞑想』というものに少々違和感を感じたことがある。



一般的に『慈悲の瞑想』は、「共感力が高まる」、「受容する力が高まる」、「良好な人間関係が築きやすくなる」、「セルフコンパッションを育てる」などといった“効果”があるとされている瞑想だ。


また、そうした“効果”を得たいがために『慈悲の瞑想』を実践する方は、非常に多いものと思われる。


それは、インターネットを検索すれば一目瞭然だろう。


もちろん、間違いではないだろうし、悪いことではない。


慈悲の心はとても大切であるし、心に重荷を抱えている人にとって救いとなるのであれば、大いに結構なことである。


効果が得られることであるのなら、大変良いことであるとは思うのだが、ただし、それが仏教の実践なのかと問われれば、それは『否』だ。


瞑想実践の結果として、共感力が高まったり、受容する力が高まるということは十分に考えられることであるし、もちろんそうであって構わないが、それ自体が瞑想の“目的”なのではない。


さらに、「セルフコンパッション」とは、「自分への思いやり」「どんな状況においてもありのままの自分を受け入れる」などといったことを意味するもののようであるが、そもそも仏教にそのような考えはなく、仏教ではない。



要するに、いつの間にか、『慈悲の瞑想』の目的が違ったものへとすり替わってしまっているのである。



私が感じた違和感は、このあたりにあるのかもしれない。



例えば、ウィキペディアには、下記のように『慈悲の瞑想』が説明されている。



『上座部仏教における、サマタ瞑想に入る際の40種類ある瞑想対象(四十業処)の中に、「慈・悲・喜・捨」の四無量心あるいは四梵住と呼ばれるものがあるが、それを簡便化したのが現代において広く行なわれている慈悲の瞑想である。』


(『慈悲の瞑想』Wikipediaより)



Wikipediaの説明にある通り、『慈悲の瞑想』とは、上座仏教における瞑想実践のひとつとして伝えられているもののひとつであるという理解でおおよそ間違いではないだろう。


しかし、この説明の「それを簡便化したのが現代において広く行なわれている慈悲の瞑想である」という部分が少々問題であるように思う。



タイでは、日本で行われているような形での『慈悲の瞑想』は実践されてはいないけれども、全くないというわけではない。


それでは、現代のタイでは、どのようなかたちで“所謂”『慈悲の“瞑想”』が実践されているのであろうか?



タイでは、日本のように『慈悲の“瞑想”』として単独で実践されることはない。


日本のような形では実践しないと言った方が適切だろうか。



厳密に言えば、『慈悲の“瞑想”』ではなく、タイ語では『慈悲を広げる』であったり、『慈悲を展開する』と表現されている。


そして、その実践として、日々、寺院や僧院などの勤行のなかで慈悲の文言(偈文)が読誦されるのだ。


すなわち、日本人が想起するような“瞑想”ではないわけである。


寺院によっては、慈悲の文言の読誦ではなく、『慈経(メッタスッタ)』を読誦することもあり、その文言や読誦形式は、寺院や僧院によって異なっていることもある。


しかし、必ずと言っていいほど、慈悲の文言は読誦されている。


もし、タイの寺院で朝課や夕課など、勤行に参加する機会があれば、是非とも注意をして聞いていただきたい。



すでに触れた通り、一般的に現在の日本で実践されている『慈悲の瞑想』のような形ではないが、慈悲の文言の読誦によって、心に注意を配り、願いを示し、慈悲の心を広げて、慈悲を展開していくという実践が行われる。


この理解がタイにおける慈悲の実践の基本であり、慈悲の心を養い、他者への親切心を養っていくための仏教の実践行の基礎となるのである。



ちなみに、瞑想指導のひとつとしては、私の個人的な経験になるが、怒りの感情などがどうしようもなくなった時に、「慈悲の心を育てなさい」「慈悲の心を広げなさい」という指導を受けたことがある。


だが、よく振り返ってみれば、それは「『慈悲の“瞑想”』を実践しなさい」という指導ではなく、あくまでも、慈悲を広げて、慈悲の心を育てていきなさいという指導だ。






『初等教育1年(小学1年生)「仏教」』の教科書





さて、以前にもタイでは、小学校で『瞑想』が実践されているのだという話題を挙げたことがあるのだが、それは、「学校」において仏教の授業が行われているため、きちんと学んでいるからである。



例えば、タイの小学1年の教科書に記されている慈悲の実践について、その一部分を引用してみたいと思う。大変わかりやすく説明されている。




※以下、引用



心を管理することとは、心を明るくすることです。清潔で、静けさをもたらし、清浄にする方法です。これは、智慧をもたらします。


智慧を開発することとは、知ることを発達させることです。知ることを使って、問題を解決するのだと理解することです。そのことによって、幸せに過ごすことができるのです。



【心を管理することと智慧を発達させること】



1、お経をあげること


お経をあげることは、三宝に敬意を示すことです。訓練することで、心が明るくなります。お経の訓練は、まず初めに心を落ち着けることを手助けします。サティ(気づき)を生じさせる瞑想の基礎になります。



2、慈悲を広げること


慈悲を広げることは、他の人が善くあるようにと他の人のことを思いながら、心に注意を配り、願いを示すことです。これは、慈悲心のある人になることを手助けします。慈悲の言葉を唱え、他の人に親切を与えることは法(仏教)の実践です。


①正座をし、両手を合わせて、心を静めます。

 これは集中です。

②三宝に礼拝することを3回繰り返します。

③三宝に礼拝する言葉(偈文)お唱えし、慈悲を広げる言葉を念じながらお唱えします。



(略:三宝に礼拝する言葉)



《慈悲を広げる》



『サッペー・サッター』


生きとし生けるものは、生・老・病(痛み)・死に苦しんでいる友人たちです。



『アウェーラー・ホートゥ』


幸せでありますように。互いに敵意を持ち合いませんように。



『アッパヤー・パッチャー・ホートゥ』


幸せでありますように。互いに復讐しあったり、危害を加え合いませんように。



『アニカ―・ホートゥ』


幸せでありますように。身体と心に苦しみがありませんように。



『スキー・アッターナン・パリハラントゥ』


身体と心が幸せでありますように。不幸が尽き、苦しみを乗り越えられますように。



慈悲を広げていく実践が終わった時、同時に、心の中で「サートゥ」とお唱えして、手を合わせます。




※引用、終わり




(タイ国・『初等教育1年(小学1年)「仏教」』・教科書より)




※パーリ語の読みは、教科書に記載されている通りのタイ語読みとした。

※慈悲の文言(偈文)は、寺院によって若干の差異があり一定していない。ここでは、教科書の記載通りに引用した。




小学1年の教科書とあって、大変平易な文章によって仏教における慈悲の実践行について解説されており、非常にわかりやすいと思う。



これが、“所謂”『慈悲の“瞑想”』の本来の形であり、本来の意味である。











最後に触れておきたいことがある。



『慈悲の瞑想』とは、あくまでも、自分が楽な状態になるためであったり、自分の願望成就を願うのために行うものではないということだ。



ここで少し振り返って、考えていただきたいことがある。



『幸せでありますように』という言葉の『幸せ』とは、一体、どういった状態を指すのであろうか?


『幸せでありますように』という言葉の『幸せである』とは、一体、どういった状態になることを願っているのだろうか?



仏教において『幸せ』とは、心の静けさや心の落ち着き、安らかさやおだやかさを『幸せ』であると捉えているのに対して、多くの日本人が考える『幸せ』とは、自己の願望の成就であったり、さまざまな自己の欲望が満たされることであると捉えてはいないだろうか。


所謂『慈悲の瞑想』の実践の際に、『幸せでありますように』と自己の願望成就を願ってはいないだろうか。



もしも、『幸せ』の“定義”が自己の願望成就であるならば、日本人が実践している『慈悲の瞑想』は、仏教における「慈悲」とは大きくかけ離れたものとなってしまう。



『幸せ』とは、心のおだやかさである。


心のおだやかさという『幸せ』が成就された結果、個々の願望が成就されるということはあるだろう。



ところが、日本人の『慈悲の瞑想』では、全くの真逆ではないか。



仏教における『幸せ』とは、心の静けさや落ち着きであり、心の安らかさやおだやかさである。



仏教が教える『幸せ』と、日本人が理解している『幸せ』とは、どうやら大きく異なっているようであるし、深い溝があるように感じる。



タイの小学1年の教科書は、大変わかりやすく解説されている。


引用の文章は、なんと小学1年の教科書だ。


やはり、さすがは仏教国・タイであると感服させられるばかりだ。



日本人もタイの小学1年の仏教の教科書で、仏教を学んでみてはいかがであろうか。


きっと、腑に落ちることがたくさんあるに違いないし、理解できなかったことが理解できるに違いない。



まさに今の日本人にこそ必要なことばかりが書かれている。



仏教における『幸せ』とは、どういったことを指すのか、慈悲の心を広げていくとは、どういったことであるのか・・・これらのことが正しく実践されていてこそ『慈悲の瞑想』だ。


誤った仏教の理解となってしまわないためにも、よく理解を深めておくべきであると思う。



《参考文献》


『初等教育1年(小学1年生)「仏教」』(掲載画像のタイ国・教科書)


※教科書の写真と教科書の日本語訳は、タイに在住されているばいたらようさん(貝多羅葉さん)よりご助言、ご協力いただきました。


タイのテーラワーダ仏教の法話や瞑想会を中心にたくさんの貴重なお話を綴っておられます。ご興味のある方は、ぜひご覧ください。


この場を借りて、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。




(『タイにおける慈悲の瞑想 ~日本の慈悲の瞑想への違和感~』)






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2022/03/09

生老病死の『生』とは、どのような苦しみなのか?


私たち、人間がどうしても避けては通れない苦しみとして『生・老・病・死』がある。


四苦八苦のうちの『四苦』だ。


これは、よくご存知の事柄であるかと思う。


この中で、ひとつ、どのような苦しみなのかが、ややはっきりとしないものがある。


生老病死の『生』である。


なぜならば、日本語の『生』という漢字は、「生まれる」という意味で使われることもあれば、「生きる」という意味で使われることもあるからだ。



余談ではあるが、タイ人にとって日本語、特に表記に関しては、筆舌に尽くしがたいほど難しく感じるのだという。


日本語は、「漢字」に「ひらがな」、「カタカナ」に「数字」を混ぜて使う。


それだけではなく、近年では「ローマ字」なども文中に混ざっている。


さらに、漢字いたっては、複数の読み方がある。


しかも、漢字という文字そのものも無数にあり、日本人でさえも見たことのないような知らない漢字や読み方がわからないような漢字も少なくない。


タイ人が難しいと感じるのは、ごく自然なことだろう。


日本人でさえも、日本語は難しいと感じているのではないか。



「生まれる」と「生きる」の差も、そのような日本語ゆえのややこしさでもあろう。






タイで購入した仏伝より






さて、『生』の苦しみとは、「生まれてきた」苦しみであると理解するべきなのだろうか?


それとも、「生きる」苦しみであると理解するべきなのだろうか?



しばしば、議論となっているのを見かけるのであるが、果たしてどちらなのであろうか。



仏教思想は、言うまでもなくインドが発祥である。


本来であれば、原語であるパーリ語、あるいはサンスクリット語まで遡って字義を尋ねなければならないところであるが、浅学ゆえ割愛させていただきたい。



ここでは、タイでは、一般的にどのようにとらえられているのかということについて触れてみたいと思う。



日本語においては、「生まれる」も「生きる」も『生』という漢字でもって表現する。


ゆえに、『生』という一語だけでは「生まれる」なのか「生きる」なのかの判別がつきにくい。


一方で、タイ語では、「生まれる」と「生きる」は、別々の言葉として存在している。



タイ語で「生まれる」は、『เกิด(グーッ)』。


「生きる」は、『 มีชีวิดอยู่ (ミー・チーウィッ・ユー)』。



このように表現が同じではないのだ。


タイで『生・老・病・死』の『生』を表す場合には、「生まれる(เกิด)」の語を使用することがほとんどのようである。



このことから、『生・老・病・死』の『生』とは、どのような苦しみなのかを考えた場合、タイ語の表現に従って“「生きる」苦しみ”としてとらえるのではなく、“「生まれる」苦しみ”として理解するのが妥当であるといえるのではないだろうか。



つまり、こういうことである。



生まれたいなどと思ったわけでもないのに生まれてきて、老いたくもないのに老いていき、病みたくもないのに病んで、死にたいなどと望まないにもかかわらず、死んでゆく“苦しみ”だということであろう。


物心がついた頃には、“勝手に”この世に生まれていたわけである。


特に望んだわけでもないのに。


望み通りにならない苦しみの世界の中へと“無条件に”放り込まれているのである。



日本人にとっては、やや冷徹過ぎる理解だろうか・・・。



私は、その苦を潔(いさぎよ)く受け止めていくのが『気づき』であり、『瞑想』であると思っている。


この世に生まれ来て、気がついたら逃れられない苦しみのど真ん中に放り込まれている・・・というのが動かしがたい真実だ。


思い通りにはならない、人間として逃れられない必然的な苦しみとともにあるのだ。



このようにとらえてくると、『生・老・病・死』の『生』とは、タイ語における「生まれてくる苦しみ」であると理解する方が合点がいく。


どうしようもない苦しみの中を「生きる」のが、私たち人間なのであろう。



私の先生は、私にこのようにお話しくださった。




『望み通りになるものはない、という苦( dukkha)の、その不条理と理不尽を潔(いさぎよ)く「生きる」のが人間なのだと思っている。』




(『生老病死の『生』とは、どのような苦しみなのか?』)




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2020/12/09

私は悟れるのか?~瞑想修行で目指すべきこと~

 

ブッダの境地を目指したい。


私は、果たして悟れるのだろうか?



この問いは、仏教徒として瞑想を実践している者であれば、誰もが抱いたことがあるのではないだろうか。


少なくとも、私にはそうした問いが常にあった。



実は、私は、学生の頃からそのような問いを抱いていた。


私には悟り得る能力があるのかどうかという疑念というか、果たして私は悟ることができるのだろうかという疑問だ。


そこで、悟りを開くことができるのだということを立証するために、大乗仏教の経典や論書から論証したのが私の卒業論文であった。











仏教が究極的に目指しているところは、言うまでもなく、悟りであり、輪廻からの解脱である。


それは、ブッダの一生がそうであったことからも明らかなことである。



ところが、ブッダのように今生(今の人生)で悟りに至ることができるとは限らない。



条件付きで可能であったとしても、今生で“必ず”悟りに至ることができるといったことは、どの経典、どの論書を探しても記されてはいない。


そもそもが死んだら必ず誰もが「成仏する」(悟りを得る)といったことは、仏教のうえからはあり得ないことだ。



さて、タイの仏教では、条件が揃えば、今生においても阿羅漢になる(悟りに至る)ことができる可能性があるとされている。


しかし、大多数の者は、おおよそ今生で悟れるとは考えてはいない。



一瞬、それは、仏教の教えに反するもののように感じられるのだが、実は、今生で悟りに至ることのみが仏教の目的ではないので、矛盾するところではない。



仏教を実践する目的は、悟りに向かって自己の心の境涯を上げていくという一言に尽きるのではないだろうか。


それは、仏教の学問、瞑想、全ての実践において目的とするところであり、全て心の境涯を上げていくことへと繋がるものである。











タイの仏教には、天界へ生まれることを願うという考えが比較的強く見られる。


今生でたくさんの善き徳を積み、より善き境涯である天界へと生まれることを願うというものである。



実際に、タイのある瞑想指導書(※1)には、瞑想の実践で得られる善い結果として、



『将来、天界へ行くことが約束された者となる』


『7年間実践を続け、五力(信・精進・念・定・慧)が強まれば、現世でアラハン(阿羅漢)、もしくはアナーカーミー(不還)となる』



という記述があり、阿羅漢(=解脱を得る)となることができる可能性を否定していないのと同時に、瞑想を実践して、心を磨いたその功徳によって天界へと生まれることができるのだと説明されている。



このことからも、悟りに向かって自己の心の境涯を上げていくことが仏教実践の目的であることが明確に理解することができる。


すなわち、たとえ天界へ生まれることを目指したとしても、それは心の境涯を磨いていることに他ならず、仏教の目的から外れるものではないということがわかる。



仏道修行の目的は、悟りを得ることに他ならないのだが、自己の心の境涯を上げていくこと、すなわち心を磨き、育てていくことであると言える。



ブッダが悟り得たように、今生で悟りを得ることができなければ意味がないと、かつての私は考えていたわけであるが、決してそういうわけではない。


少しずつ、少しずつ、心を育てていくところに瞑想修行の大きな意味があるのである。



(『私は悟れるのか?~瞑想修行で目指すべきこと~』)



※1、参考文献

『ウィパッサナー瞑想・修習の導き ウィウェーク・アーソム ウィパッサナー瞑想センター』刊(日本語版)2002年 2頁より引用。一部加筆。









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2013/10/13

仏教の基本的姿勢3・自己責任


仏教の基本的姿勢として、「今」、「自分」、そして、もうひとつ重要な姿勢が「自己責任」であると私は思う。


自業自得という日本語がある。
どちらかと言うと悪い意味で使用されるこの言葉。
これは紛れもなく仏教を起源とする言葉である。

「自業自得」とは、いわゆる「自己責任」ということだ。
自業自得は、なにも悪い結果を招いた時のことばかりを言うのではない。
善き結果を生んだ時もやはり自業自得なのだ。

よく耳にするタイ語に「タムディー・ダイディー」という言葉がある。
「よいことをすると、よいことが得られる」
といった意味合いの言葉で、タイ人の根底にある価値観のひとつだ。


関連記事⇒『タイ人は自業自得がお好き!?』


仏教における「業」の考え方は、いいことも、悪いことも、自分の選択や行為、行動の上にあるということを教えるもので、どんな結果であったとしても、最終的には自己が招いた結果なのであるということだ。

全ての結果は、甘んじて受け入れなければならない。

それゆえ、瞬間瞬間の一つ一つの行為・行動が重要となってくるのである。


タイの仏教に関する儀式の中で、唱和されるものに『五戒』がある。
ほとんどのタイ人はこの文言を諳(そら)んじている。


生き物を殺さない
盗みを行わない
よこしまな性関係をもたない
嘘をつかない
飲酒をしない


これらは、人間の一つ一つの行為・行動の戒めであり、努力目標であり、指針である。
ゆえに何度も何度も戒を受け、口に出し、心に刻む。

最低限、この五つの条項を守って生きてゆけば、人生を大きく踏み外すことはないのではないか。


仏教は、徹底した自己責任の立場をとる。
自己の行為は誰も代ってくれるものではないし、背負ってくれるものでもない。
自己の幸せも自己にしかわからない。
自己の気持ちは他人にはわからない。
また、自己が他人に介入することもできない。


自己の一つ一つの行為・行動が大切であるということを常に心に留めておかなければならない。

自己の一つ一つの行為・行動が自己を方向づけるのだということを常に心に留めておかなければならない。

そして、もちろんそのように行動しなければならない。


今、この瞬間の選択とその行動が大切であり、これから踏み出すであろう一歩こそが大切なのだ。


この一歩が覚悟を持たねばならない一歩かと思うとどこか怖くもある。
しかし、自己を変えるべき一歩であることを思えば希望の一歩でもある。


『自己責任』


これが仏教の基本的姿勢であり、もっとも心しておかなければならない仏教の生き方である。



(『仏教の基本的姿勢3・自己責任』)



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2013/10/06

仏教の基本的姿勢2・自己を生きる

自己を生きているだろか。

ともすれば、「自己」ではなく、「自己の感情」を生きてはいないか。

人間とは、感情というものに左右されやすいものである。

「今を生きる」ことは学生時代の仏教の講義の中においても聞くことができたように記憶している。


しかし、「自己を生きる」などとはあまり耳にしたことがない。

そう、「自己を生きる」とは、私が瞑想から感じたものである。


瞑想では、徹底して自己と向き合う。

浮かんでは消えていく、数限りない感情や妄想・・・
それらとひたすら向き合う。


慣れないうちは感情や妄想に容易に飲み込まれてしまう。

徐々に慣れてくると、感情や妄想に対して少しずつ客観的に接することができるようになってくる。

ただ単に映画を見ているかのように。


自己の姿を見つめていこうとすることによって、自分が勝手にそう見ていただけなのではないか・・・ということに気づかされてくる。

実は自己が「ものごとを見る」ことから、この世界を見ることが始まるのだということがわかる。


他でもない、世界を見ているのはこの自分自身だからだ。

つまり、自己のものごとの見方や考え方が、世界をどのように見るのかということにほかならないでのある。


他人が自分の人生を生きるわけではない。

他人が自分の人生を決めるわけでもない。

他人が自分の人生の中に入れるわけでもない。


自分は自分。

他人は他人。


他人もそれぞれが自分なのである。

自分はこの自分しかいない。


突き詰めてみると、自分の人生は自分にしか生きれないわけであるし、自分の人生は自分にしか変えることはできない。


自己の感情もまた自分にしかコントロールができないし、この世界の見方を変えるのもまた自分にしかできないのだ。

次から次へと自己の感情や妄想が襲ってくる。


まるで、濁流に飲み込まれるかのように・・・。


様々な感情は必ず浮かんでくるものである。

人間なのだから。

しかし、それらの感情や妄想をつかんでしまってはいけない。

また、それらの感情や妄想を膨らませてしまってもいけない。


すべて手放す。


つかんでしまいそうになったら手放す。


感情や妄想をつかんでしまった結果が喜怒哀楽の感情を生む。

感情や妄想を膨らませてしまった結果が嫉みや恨みとなる。

自分が最も向き合わなければならない存在は自分自身である。

物事を冷静に判断し、見抜く力を身につけなければならない。


怒りや恨みの心でもって見た世界は、怒りや恨みの世界でしかない。

自己の心が穏やかになれば、自己が見る世界も穏やかなものとなる。


私がこの世界を見るのである。

私自身がこの世界を生きるのである。


心は、この世界を穏やかなる存在に見ることもできるが、矛盾と怒りに満ちた恐ろしい世界に見ることだってできるのである。


「生きとし生けるものたちが幸せでありますように」


瞑想の最後によく行う慈悲の瞑想である。

これは、自己の中に穏やかなる心を育てることによって、自分から他者へ広げてゆくことなのだと思う。

まずは、自己の心が穏やかでなければ、穏やかな目でもって世界を見ることなどできないのである。

また、他人に対しても穏やかに接することができない。


自己を生きる。

自己の心を穏やかにすることから始まる。



『仏教の基本的姿勢3・自己責任』



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2013/09/27

仏教の基本的姿勢1・今を生きる

今を生きるとは何か。

有名な『毒矢の喩え』を仏教の講義の中で何度となく耳にしたのは学生時代のことであった。

「仏教とは、過去のことでも未来のことでもなく、『この今、なすべきことが何かということこそが大切なのだ』と言うことを教えているのです。」と教わった。

学生であった当時の私は、そうなんだと教授の言ったことをそのまま受け取ったのを覚えている。

しかし、その仏教の教えは、私の心を震わせ、伝わるものがあっただろうか。


私達は、常に何かを考えている。
深く眠りに就いている時間を除いては、おそらく何も考えていないという時間はないはずである。
人は常になにかしらのことを想い、考えているはずだ。

このことを瞑想して初めて自覚し、体感した。


瞑想を修すれば、すぐに見せつけられる。
過去のことを思い出していたり、まだ見ぬ未来のことに思いを巡らせていたりする自分を。

過去に囚われることによって、あるいは執着することによって苦しみを生む。
未来を妄想し、空想することによって一喜一憂する。

そして、悩みごとの多くは、単に勝手な妄想を膨らませていた結果であることに気づかされる。


瞑想とは、今を生きることのトレーニングであるとも言えるのではないだろうか。

瞑想では、すでに過ぎ去ってしまった過去に囚われることなく、いまだ訪れていない未来のことに喜んだり、悲しんだり、恐れたりすることなく、今、この瞬間瞬間に注意を払うように教える。

私達の思考の大部分は、勝手な妄想であり、所詮は自分の考えの中でしかないことを知らなければならない。
そのことを身につけるために瞑想を修するのである。

今の自分、今この瞬間の行為に気づけるように習慣づけるのである。

タイの多くの瞑想法における要点はここにあると私は思う。


果たして、今を生きているだろうか・・・

気づけば、過去のことを思い出していたり、まだ見ぬ未来のことに思いを巡らせていたりする。
そして、自分自身で勝手に妄想を膨らませ、勝手に悩みを作り出し、勝手に大きくしているのではないか。

しかし、今の自分、今この瞬間の行為に気づけるように習慣づけるのは容易なことではない。

この難しさもまた瞑想に取り組んで痛感させられたことのひとつだ。

ほんの少しだけでもいい。
ほんの瞬間でもいい。

自己の作り出せる妄想から離れ、今の自分を観察することができれば、少しは苦しみの正体を知ることができるのではなかろうか。

その気づきは微々たるものかもしれないが。
その瞬間の積み重ねこそ、冷静な自己につながるのではないか。

ブッダの教説の基本、つまり仏教の基本的姿勢とは、今、この瞬間を生きることだ。

大学の講義で聞いた『この今、なすべきことが何かということこそが大切なのだ』ということは確かだと思う。
だが、この今なすべきことが何かということを正しく判断できる自分であらねばならない。


今の私の姿勢がもっとも重要で、常に冷静さを保つことが肝要である。
善きことを考え、善き選択をする。

今あるこの状況を認識したうえで、次の一歩をどう踏み出すのかを教えている。
つまり、次の一歩の踏み出し方、より善き出発の方法を説いているのではないだろうか。

瞬間瞬間の私が未来へとつながっていく。



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