私たち、人間がどうしても避けては通れない苦しみとして『生・老・病・死』がある。
四苦八苦のうちの『四苦』だ。
これは、よくご存知の事柄であるかと思う。
この中で、ひとつ、どのような苦しみなのかが、ややはっきりとしないものがある。
生老病死の『生』である。
なぜならば、日本語の『生』という漢字は、「生まれる」という意味で使われることもあれば、「生きる」という意味で使われることもあるからだ。
余談ではあるが、タイ人にとって日本語、特に表記に関しては、筆舌に尽くしがたいほど難しく感じるのだという。
日本語は、「漢字」に「ひらがな」、「カタカナ」に「数字」を混ぜて使う。
それだけではなく、近年では「ローマ字」なども文中に混ざっている。
さらに、漢字いたっては、複数の読み方がある。
しかも、漢字という文字そのものも無数にあり、日本人でさえも見たことのないような知らない漢字や読み方がわからないような漢字も少なくない。
タイ人が難しいと感じるのは、ごく自然なことだろう。
日本人でさえも、日本語は難しいと感じているのではないか。
「生まれる」と「生きる」の差も、そのような日本語ゆえのややこしさでもあろう。
さて、『生』の苦しみとは、「生まれてきた」苦しみであると理解するべきなのだろうか?
それとも、「生きる」苦しみであると理解するべきなのだろうか?
しばしば、議論となっているのを見かけるのであるが、果たしてどちらなのであろうか。
仏教思想は、言うまでもなくインドが発祥である。
本来であれば、原語であるパーリ語、あるいはサンスクリット語まで遡って字義を尋ねなければならないところであるが、浅学ゆえ割愛させていただきたい。
ここでは、タイでは、一般的にどのようにとらえられているのかということについて触れてみたいと思う。
日本語においては、「生まれる」も「生きる」も『生』という漢字でもって表現する。
ゆえに、『生』という一語だけでは「生まれる」なのか「生きる」なのかの判別がつきにくい。
一方で、タイ語では、「生まれる」と「生きる」は、別々の言葉として存在している。
タイ語で「生まれる」は、『เกิด(グーッ)』。
「生きる」は、『 มีชีวิดอยู่ (ミー・チーウィッ・ユー)』。
このように表現が同じではないのだ。
タイで『生・老・病・死』の『生』を表す場合には、「生まれる(เกิด)」の語を使用することがほとんどのようである。
このことから、『生・老・病・死』の『生』とは、どのような苦しみなのかを考えた場合、タイ語の表現に従って“「生きる」苦しみ”としてとらえるのではなく、“「生まれる」苦しみ”として理解するのが妥当であるといえるのではないだろうか。
つまり、こういうことである。
生まれたいなどと思ったわけでもないのに生まれてきて、老いたくもないのに老いていき、病みたくもないのに病んで、死にたいなどと望まないにもかかわらず、死んでゆく“苦しみ”だということであろう。
物心がついた頃には、“勝手に”この世に生まれていたわけである。
特に望んだわけでもないのに。
望み通りにならない苦しみの世界の中へと“無条件に”放り込まれているのである。
日本人にとっては、やや冷徹過ぎる理解だろうか・・・。
私は、その苦を潔(いさぎよ)く受け止めていくのが『気づき』であり、『瞑想』であると思っている。
この世に生まれ来て、気がついたら逃れられない苦しみのど真ん中に放り込まれている・・・というのが動かしがたい真実だ。
思い通りにはならない、人間として逃れられない必然的な苦しみとともにあるのだ。
このようにとらえてくると、『生・老・病・死』の『生』とは、タイ語における「生まれてくる苦しみ」であると理解する方が合点がいく。
どうしようもない苦しみの中を「生きる」のが、私たち人間なのであろう。
私の先生は、私にこのようにお話しくださった。
『望み通りになるものはない、という苦( dukkha)の、その不条理と理不尽を潔(いさぎよ)く「生きる」のが人間なのだと思っている。』
(『生老病死の『生』とは、どのような苦しみなのか?』)
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