タイ佛教修学記

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2024/01/29

タイ国タンマガーイ寺院愛知別院参拝

タイのワット・プラ・タンマカーイ寺院の別院のひとつが愛知県江南市にある。


以前、拙ブログの記事 『日本にタイ寺院はいくつある?』 において紹介した日本国内に20箇寺(記事執筆当時)あるタイ寺院のなかのひとつである。


タイ国タンマガーイ寺院愛知別院は、以前は名古屋市中川区にあったのだが、タンマガーイ寺院公式ホームページによれば2016年7月に江南市へと移転したようである。


江南市は、私にとっては少し縁のある土地で、多少の土地勘もある場所なので、江南市へ移転したと知った時には、これは是非とも行かねばならないと思った。


また、何と言っても、私が住む東海地方(愛知・岐阜・三重)のエリアでは、唯一のタイ仏教寺院であるということもあり、移転の話は別にして、以前より訪問したいと思っていたタイ寺院である。


名古屋市内にあった時代からその存在を知ってはいたのだが、名古屋の寺院へはついに訪問することがかなわなかった。


今回は、かねてからの念願がかなっての訪問、いや参拝である。






令和6年(2024年)1月7日参拝





この寺院の建物は、以前は『尾北建機車輌』という重機を扱う会社だったようで、外観にその名残を感じ取ることができる。


写真の通り、非常によく目立つ建物であるうえ、『タイ国タンマガーイ寺院愛知別院』の文字も非常によく目立つので、この建物がタンマガーイ寺院なのだということが一目でわかる。


タンマガーイ寺院については、さまざまな見解があるが、そのことについてここでは論じないことにする。


ここでは、ひとつの訪問記録として、また懐かしいタイの雰囲気を感じ取れる場所に触れることができた喜び、そしてタイ上座仏教サンガに属する寺院の流れをくむ寺院に触れることができた喜びを綴ることにしたい。


なお、インターネットの諸々の記事を見ると、たまに宗派は『タンマガーイ派』だと記載しておられる人がいるようであるが、これは間違いである。


タイの仏教の宗派は、タンマユットとマハーニカイのふたつしかなく、タンマガーイ寺院とその系列寺院はマハーニカイに属する正式なタイサンガの一員である。


ゆえに“新興宗教”と呼ぶのも間違いで、厳密には“新興仏教寺院”あるいは“新興仏教グループ”とすべきだろう。


その意味においては、アチャン・チャー師の森林僧院のグループも同列である。


それはさておき、タイ国内では賛否ある寺院ではあるけれども、タイ滞在中にはタイの本部であるワット・プラ・タンマガーイ寺院で瞑想を指導していただき、寺院の中の出家者・在家者ともに、皆さま方には大変お世話になった。


こうした思いがあるというのは事実だが、単なる個人的な感情論を避けるためにも、私は寺院の賛否の問題とは分けて考えることにしている。




















さて、いよいよ参拝である。



私が訪問した日、訪問した時間は、5人のタイ人比丘がいらっしゃった。


その他何名かの在家信者の方もおられたようであるが、基本的にはタイ人比丘だけが常駐しておられるようである。



タイの作法に従ってお布施をさせていただき、祝福のお経をいただく。


出家中には何度も耳にしてきた聞き慣れた独特のトーンは、やはり懐かしいとしか表現することができない。


ただこれだけで、まるで故郷の家へと帰って来たかのような安らぎを覚え、深く心が和みおだやかになっていく。



お布施の後は、どこから来たのか、どのくらい時間がかかったのか、タイではどのくらい出家をしていたのか、どこのお寺で出家をしたのかなど、他愛もない会話をタイ語で交わした。


もう忘れてしまったタイ語をなんとか思い出しながらの会話で、それはそれはもう必死だ。



通常、タイの人たちは、こうした比丘と言葉を交わす時間に、もちろん雑談もあるだろうけれども、自身の悩み事を話したり、生活上の問題や課題を相談し、比丘からアドバイスをいただいたりするのである。


街のお寺であっても、田舎のお寺であっても、その点は同じだ。


タイにおいて寺院や比丘が人々の心の拠り所として機能している大きな理由のひとつである。



今回の参拝では、一般のタイ人参拝者は誰もいなかったが、以前に訪問したことのある長野県松本市のタイ寺院でも日本に在住しているタイ人たちが入れ替わり立ち替わり参拝し、このような時間を過ごしていた。



もうひとつ、私が楽しみにしていたのが、ここでしか入手することができない書籍を読むことだ。


タイの比較的大きな規模の寺院には、『施本』といって、自由に持ち帰ることができる小冊子や書籍が並べられている。“法施”である。


しかし、ここで誤解しないでいただきたいのは、あくまでも“施本”であり、自由に持ち帰っていいものだからといって、無料であるのではなく、自身の身の丈に応じたいくらかのお布施をして、徳を積んでいただきたいということだ。



詳しくは、拙ブログの記事:

『タイのお寺の施本』



今回、いただいた施本は、『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者 クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯 二番はいない』という書籍である。(以下、アージャーン・ジャンと表記する。)


アージャーン・ジャンは、タンマガーイ式瞑想法の創始者であるプラ・モンコン・テープムニー師の直弟子である女性であり、またタンマガーイ寺院の創立者でもある。


さらにこのアージャーン・ジャンの直弟子であるのが、現・タンマガーイ寺院の住職であるタンマチャヨー師である。






クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーン先生
(『二番はいない』より)




『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者
クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯
二番はいない』





プラ・モンコン・テープムニー師の伝記は、すでに読んでいるので、次に知りたいと思っていたのが、タンマガーイ式瞑想法の創始者であるプラ・モンコン・テープムニー師からどのようにアージャーン・ジャンへと伝授され、どのように広まっていったのか、そしてどのようにワット・パクナム寺院から独立してタンマガーイ寺院が創立され、発展していったのかということについてである。


ご興味のある方は、ぜひ関係寺院を訪問され、施本があるかどうかを尋ねていただき、ご一読いただきたい。


きっと快く教えてくださることと思う。


その際のお布施はお忘れなく。



詳しい書籍の内容は割愛するが、一点だけ、大変印象に残っていることがある。


それは、タイのタンマガーイ寺院は、非常に整理整頓されていて、掃除も非常に行き届いている。


その理由は、タンマガーイ寺院の創立者であるアージャーン・ジャンの教えと指導にあったのだということが、書籍の記述から知ることができたことである。


書籍の一節を引用してみたい。



『例えば、スリッパの並び方まで心を配ってください。

スリッパが散らかって、ほうきや、雑巾、ゴミ箱、そしてゴミまでが、あちらこちらに散乱していれば、それを見た信者さんたちは、瞑想でなかなか心を静止させることなどできないでしょう。

たとえ1時間かけて、やっと心を静止させることができたとしても、目を開けると、まだ散乱しているものが眼に入って、せっかくの瞑想が台無しになってしまいます。

反対に綺麗にしていれば、信者さんの心は容易に穏やかになって、自然と心を留め、静止させることができるでしょう。』(141頁より)



日本人からすれば、履物を揃えたり、ゴミをかたづけたりすることは常識の範囲内なのかもしれないが、タイにおいてはそういった習慣は薄い。


そうしたタイの慣習のなかにあって、タンマガーイ寺院の整然と乱れのない整頓のされ方は、とても素晴らしいと感じるとともに、どこか日本的なものを感じたため、深く私の記憶に残っている。


ああ、なるほど、こうした寺院の雰囲気は、このようなアージャーン・ジャンの指導の薫陶を受けたものだったのかと非常に腑に落ちた。






プラ・モンコン・テープムニー師
(ルアンポー・ソッド師)





タンマガーイ寺院愛知別院では、毎月第一日曜日に比較的大規模なお布施が行われるとのことである。


きっと、たくさんのタイ人たちが近隣からも、遠方からも集うのだろう。


寺院は広々としていていることもあり、おそらくはたくさんのタイ人たちで賑わうに違いないと、つい想像してしまう。



生まれ故郷であるタイを離れて、遠く異国の地である日本で暮らすタイの人たちにとっては、どれだけ心の安らぎとなる場所であり、どれだけ心を癒してくれる存在であるのだろうか。


そんな思いを考えただけで、少々こみ上げてくるものがある。


私もどこかタイ人になっているのかもしれないと思う。



ここは、まさに日本に在住するタイ人たちにとってのひとつの拠点であり、大きな拠り所なのだ。




【参考文献】


・『ワット・プラ・タンマカーイ寺院の創立者 クンヤーイ・アージャーン・ジャン・コンノッユーンの生涯 二番はいない』

日本語版 タンマガーイ寺院刊行 2009年



【関連書籍】


・『チャオ・クン・プラ・モンコン・テープムニーの生涯とその教え』

T・マグネス著 藤吉慈海訳 タイ国:ワット・パクナム刊行


・『インド・タイの仏教』

藤吉慈海著 大東出版社 1991年 


※『チャオ・クン・プラ・モンコン・テープムニーの生涯とその教え』は、『インド・タイの仏教』のなかに収録されている。



【関連記事】


『タンマカーイ寺院の素晴らしいところ』


『タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~』



【タイ国タンマガーイ寺院愛知別院公式ホームページ】

愛知別院 Aichi Dhammakaya Temple – タイ国タンマガーイ寺院



【タイ国タンマガーイ寺院公式ホームページ】

タイ国タンマガーイ寺院 – (dhammakaya.jp)




【タンマガーイ寺院の表記について】

拙ブログでは、タイ語の発音にしたがって『タンマカーイ』という表記に統一しているが、インターネット上では『タンマガーイ』という表記が多い。また寺院の公式ホームページにおいても『タンマガーイ』という表記となっていることから、この記事では『タンマガーイ』と表記することとする。

なお、『ダンマカヤ』という表記は、パーリ語の『タンマカーイ』の英語表記を日本語読みにした表記である。


アージャーンの表記について

タイ語で『先生』を意味する敬称。日本語では、アチャンと表記されることが多い。拙ブログでは、アチャン(一部、アーチャン)という表記に統一している。タンマガーイ寺院関連の書籍では『アージャーン』という表記となっているため、この記事では『アージャーン』と表記した。日本語の表記の違いである。




(『タイ国タンマガーイ寺院愛知別院参拝』)






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2021/12/19

タンマカーイ寺院の素晴らしいところ


先日、タイのタンマカーイ寺院について指摘されているいくつかの問題点について考察してきた。


これらの問題点は、タイにおいて実際に指摘さている事柄である。


拙ブログにおいて記事としてまとめるにあたり、また特別勉強会を開催するにあたって、タイ在住の複数の方に聞き取りを行ったうえで、まとめさせていただいている(過去にメールで聞き取った内容も含む)。


ゆえに、できる限り中立的な立場を貫くものであり、タイ国内にある実際の声を伝えるものであるということをお伝えしておきたい。



しかしながら、私がタイへ渡った目的は、より原点に近い仏教を学ぶことであり、上座仏教での出家を通じて瞑想を修学することであった。


そうした経緯ゆえ、タンマカーイ寺院に対して批判的な見方へと傾斜しているというご批判があるかもしれないが、何卒お許しいただきたいと思う。


私が求めたのは、こうした仏教のあり方ではなかったということであり、賛否のご判断は、あくまでも読者諸氏の側にあるということをまず申し上げておきたい。




関連記事:


『タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~』




タンマカーイ寺院に関係されている方々にとっては、些か聞きづらいことがらが多かったのではなかろうかと思う。



しかし、私もタイでの出家生活の一時期をパトゥンターニー県のタンマカーイ寺院で瞑想指導を受けた身であり、全く内部を知らず一方的に記述しているわけではない。



タンマカーイ寺院のたくさんの人たちのお世話にもなっており、あたたかなご厚意を受けてきている。



より中立性を保つためにも、批判されている点ばかりではなく、私から見たタンマカーイ寺院の素晴らしいところについても触れておきたいと思う。









タンマカーイ寺院の巨大なホール
白い服装の人たちは在家の信者たち

タイでは白い服装は、
寺院へ参拝する在家者の正装である。






◆積極的かつ先進的な布教方法



タンマカーイ寺院の優れたところ。



それは、まず何を置いても、非常に先進的な布教方法であろう。



住職の説法は、毎回、同時に巨大モニターへと映し出されており、さらに境内の各所へと同時生中継(今で言うところのライブ配信)されている。



寺院内のどこに居ても、ほんの少し手を止めるだけで、住職の法話を聴くことができるのだ。



それだけではない。



法話によっては、同時通訳が施されて、世界各国へと同時生配信されている。



この話は、私がタイへと渡った20年程前の話である。



当時の私は、その先鋭的な手法に非常に驚いた。



日本の伝統仏教教団や大寺院はこのようなことはやっていない。



これは、私が帰国後に気づいたことであるが、日本のタイレストランや在日本タイ人たちの間において、この生配信がよく視聴されているようなのだ。



当時のタイとしては、これだけの先鋭的かつ、斬新なことを毎日実施しているのは、タンマカーイ寺院を置いて他にはない(これだけ大規模に実施しているところは、現在でも、他には無いのではないだろうか)。



また、歌やアニメーションなどを取り入れた映像を駆使する法話の手法は、目を見張るものがある。



外国人である私の目から見ても、大変わかりやすいものだ。



ちなみに、そうした姿勢は現在もしっかりと継続されており、YouTubeやFacebookなどでLive配信されているので、寺院内の様子をはじめ、説法や法要の様子などをLiveで視聴することができる。



私がタイに学んだ当時からは、想像もつかないインターネット社会となった現在であるが、先見の明があるというか、時代を先取りしているといってよいものだ。









この画像は、
撮影のためのものかと思われるが、
実際にこの画像のように
屋外でも瞑想修行を行っている






◆非常に真面目な修道生活



タイ社会では、これだけ厳しい批判の的となっているタンマカーイ寺院であるが、寺院の内部は非常に閑静かつ、大変真面目な姿勢で、とても真摯な修道生活が送られている。



瞑想の修学を希望する者に対しては、境内に瞑想修行に適したエリアが設けられており、まるで森林僧院にいるかのような、より簡素な生活を送ることができる。



また、時間に対して比較的緩やかなタイ社会にあって、非常に厳格であり、服装や履物などに対しても厳格である。



平たく言えば厳しい。



身なりに厳しく、細かなところまで指導される。



これは、おそらく日本人にとっては、ごく当たり前のことなのかもしれないが、タイにおいては、非常に珍しいと言える。




外国人に対しても、大変広く門戸が開かれており、短期間の瞑想修行コースなどが用意されている。



なお、日本人に対しては、日本人向けの『短期出家コース』が用意されており、インターネット上に公開されていて応募することができる。



日本人であっても、タンマカーイ寺院において一時出家が可能なのだ。



この短期出家コースで出家を果たされた日本人の知人が何人もいるのだが、誰もが大変真面目な姿勢と、整備された瞑想環境に感銘を受けたと話されており、それがきっかけとなってテーラワーダ仏教に興味を持ち、今も学びを継続されている人が多い。



日本には、こうした仏教的環境がないというのは残念極まりないことであるが、仏道修学のきっかけとなるほど、素晴らしい環境だということは、強調しておきたい。



実際に、タンマガーイ寺院内で瞑想を学ばせていただいた私も十分納得するところである。






背後に見えているのが
タンマカーイ寺院の大仏塔
非常に特徴的な形をしている



タンマカーイ寺院の大仏塔は、
無数の小型の仏像で覆われている






◆学問にとても力を入れている



タンマカーイ寺院では、学問に対して非常に力が入れられており、仏教の学問が奨励されている。



タイ国内における最年少の仏教教学試験合格者を輩出しているという。



また、日本の各大学へも多数の留学生を派遣しており、東京大学をはじめ、仏教系大学の大学院卒業者を何人も輩出している。



もっとも、そうした留学経験者たちは、将来的にはタンマカーイ寺院内の超エリート街道を歩む比丘たちであろうかと思われる。



私がタンマカーイ寺院に滞在させていただいた際に、東京大学大学院を卒業されたという長老比丘に面会させていただいたことがある。



特別な待遇であったことから、おそらくかなり高い地位の比丘だったのではないかと思う。



そのような方に面会させていただき、大変恐縮であった。



日本語が非常に堪能であったことは、言うまでもない。



日本にいるタイ人比丘の留学生のほとんどが、このタンマカーイ寺院出身者なのではないと言われているほど多数の留学生を送り出しているのである。




◆おわりに



以上、ここに挙げたことがらは、タンマカーイ寺院の素晴らしいところのごく一部に過ぎないが、他の伝統的なタイ寺院にはない大変優れたところがたくさんあるということが伝わったのではないかと思う。



他の伝統的なタイ寺院には見られない、特徴的かつ先鋭的な姿勢が、タンマカーイ寺院の特筆すべき点だ。



寺院内部の印象を一言でまとめるならば、とても「真面目」であることだろう。



しかしながら、そのような真面目が寺院がどうして数々の(寺院運営の面における)スキャンダルを起こしてしまうのだろうか。



残念ながら、それは私にはわからないし、あくまでもその点の追求が私の目的ではないのだから、これ以上は触れないこととしたい。




いい面、悪い面、双方お伝えすることができれば、この記事も少しはお役に立つことができたのではないかと思う次第である。




一般の出家者や在家信者たちと、寺院運営における幹部の人たちとの思惑は違うということなのだろうか・・・。




【関連記事】


タンマカーイ寺院の問題点について ~タイ社会における認識~


タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~


『タンマカーイ寺院の素晴らしいところ』




※ここに記述している寺院内における私の体験に関する箇所は、私がタイで瞑想を学んだ約20年前の体験をもとにしていることをあらかじめお断りしておく。


※今回、タンマカーイ寺院について記事としてまとめるにあたり、タイ在住の方に直接聞き取りを行っている。具体的なお名前については、ご本人様の承諾を得ていないため、公表は差し控えることとする。


※掲載しているタンマカーイ寺院関連の画像は、全てフリー素材の『pixabay』より。




(『タンマカーイ寺院の素晴らしいところ』)






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2021/11/19

タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~

 

◆気づきにくい大問題




前回の記事では、タイではタンマカーイ寺院の問題をどのように認識されているのかについて、私のエピソードとともに簡略に触れてきた。



ここでは、具体的には、何がどのようにそれほどまでに大問題なのかについて、見ていきたいと思う。



まずは、もう一度、タンマカーイ寺院の問題点を挙げてみることとする。




1、タンマカーイ寺院の瞑想法は、サマタである。

(サマタ的な瞑想しか説いておらず、ヴィパッサナーについて説かれた部分がない。よって、悟りへと到るための道であるヴィパッサナーを説くものではない。



2、タンマカーイ寺院では、「我(アッタ)」を説いている。

(仏教は、無我(アナッター)を説くものであるが、無我を否定し、我を説いている。仏教を独自に解釈しており、すでに仏教教義から大きく逸脱している。)



3、タンマカーイ寺院における寺院運営の問題。

(土地問題、金銭トラブル、その他多くの疑惑があり、反社会的手法による進め方が周囲とのトラブルを招いている。タイ社会では、1、2、の問題よりも、3、の問題の方が大きく取り扱われ、一般の関心ももっぱらこの問題の方である。)




おおむね以上の通りであるが、タイ社会の関心事としては、むしろ順番が逆で、話題にされることといえば、もっぱら3、の寺院運営に関する問題のみである。



日本においても、インターネット上で見ることができる記事は、もっぱら3、についての記事のみであるというのも、タイ社会のこうした実情を反映しているのはないだろうか。



もっとも、3、に関しては、仏教の問題というよりも、寺院運営上の問題であるので、仏教教義そのものとは何ら関係がない。



携わっている人の人間性の問題であり、モラルの問題である。



単なるスキャンダルだ。




すっかり見落とされている問題が1、と2、の問題である。



タイ社会においても、それほど関心をひかないためなのか、話題にされることもなければ、明確に問題点を指摘し、説明できる者も極めて少ない。



ただ、「仏教教義上、間違っていることを言っているらしいから、タンマカーイ寺院とは深く関係しない方が良い。」というアドバイスに留まるのみである。



実際に、私は、何人ものタイ人からこのような忠告を受けた。



ところが、どこがどのように間違っているのかについて説明を求めると、うまく濁されてしまうのであった。



タイの人たちの間においても、間違ったことを説いているという認識は明確にあるのであるが、どこがどのように間違っているのかまでは、深く理解をしているわけではないと思われる。






このような巨大なホールで
住職の説法が行われる。
(私は、滞在時、このホールの向かって
左端にて説法を聴聞させていただいていた。)





◆サマタしか説かないタンマカーイ寺院の瞑想




それでは、具体的にタンマカーイ寺院の教えのどこがどのように間違っているのかを見ていきたい。




1、タンマカーイ寺院の瞑想法は、サマタである。



タンマカーイ寺院の瞑想法は、透明で傷のない「光の玉」や「水晶玉」をイメージし、それを身体の中心に置いて、そこへと意識を集中させていくという方法をとる。



光の玉のイメージ自体は、サマタ(止)瞑想の40業処のひとつである「光明遍」で説明されているもので、特に問題はないのであるが、瞑想の教えがもっぱらサマタに終始しているという点が大きな批判点である。



ご存知の通り、サマタによって心を静めてから、ヴィパッサナーへと移るというのが、最も無理のないプロセスであり、最終的に、「無常・苦・無我」の観察を深めていき、洞察を深めていく、そして悟りへと向かって行くというのが上座仏教における瞑想の基本である。




これについてタンマカーイ寺院の側では、サマタの段階を達成する者がいないため(ないしは時間がかかるため)、実際問題としてヴィパッサナーの段階の指導まで至らないのだと説明しているという。



(※近年、あまりにも批判が激しいため、敢えてヴィパッサナーという言葉を入れて、このように説明されるようになってきたとの指摘を聞いている。


批判に応えるような形で、少しずつ説明も変わってきているらしい。ただし、この指摘はあくまでもタイをよく知る人からの情報である。)



確かに、サマタの段階をある程度身につけることは、並大抵ではないということは、瞑想経験者であれば、容易に理解ができよう。



ゆえに、この説明がもし本当であるのなら、納得できる一面もある。



ただ、やはりヴィパッサナーに相当する瞑想がなく、サマタしか説かないという批判のほうが的を得ていると感じる。



しかし、問題は、これだけではない。




◆仏教の解釈そのものが間違っている




タンマカーイ寺院では、冒頭に触れた瞑想を重ねていくと、「タンマカーイ」という“境地”へと至る、と教えている。



タンマカーイというのは、漢字で表記するならば、「法身」である。



これは、大乗仏教における「法身」とは、意味が全く異なる概念なので注意が必要だ。




上座仏教における「タンマカーイ(法身)」とは、仏教の教えの全てが集まったもの、仏教の教えの集合体のことを例えて表現した用語であり、パーリ三蔵の中にたった4箇所しか登場しない用語であるのだという。



このことから、そもそも「タンマカーイ」という言葉の解釈の誤りを指摘できるのであるが、そのような境地など元来上座仏教に説かれたものではないし、瞑想的に言ってもそのような境地へと到ることが目的なのでもない。




これは、仏教教義の誤った理解のほんの一例であって、こうした仏教の解釈の誤りが多数認められ、公に説かれている点が大問題である。



しかも、それをタイサンガの一員として行われている点が大きな批判の的なのである。



ここから、次の2、の問題へと繋がっていく。




2、タンマカーイ寺院では、「我(アッタ)」を説いている。




もう少し「タンマカーイ」という語について触れておきたいと思う。



タンマカーイ寺院では、「タンマカーイ」という“境地”は、“アッタ(我)”であるということを説いていたり、涅槃はアナッター(無我)ではないといったことを公式に説いている点が大問題である。



涅槃はアナッターではない、涅槃はアッタである。



この見解は、タンマカーイ寺院の公式見解であり、仏歴2544年(西暦2001年)頃に寺院側が教義解釈として公式に表明したものなのだそうなのだ。




私が以前に掲載したブログの記事では、タンマカーイ寺院のクティで同室になった比丘から教えていただいたこととして記述したが、今回、タンマカーイ寺院側が公式に主張した教説であるということが確認できた。



すなわち、単に一介の比丘が主張している(理解している)教説であるのではなく、寺院が公式に教えている教説であるということだ。



仏教を学んでいる人であれば、すぐにその誤りに気がつくかと思うのだが、涅槃をアッタであるとするのは、明らかに間違いであり、すでに仏教を逸脱していると言える。




先ほども少し触れたが、こうした主張をタイサンガの一員として表明している点もまた厳しく批判されている



いうまでもなく、タンマカーイ寺院もタイサンガの一員であり、マハーニカイの一員だ。



本来であれば、このような勝手な教義解釈などあり得ないことで、許されるはずがない。




もっとも、タイサンガを離脱したうえで、独自の宗教グループ(所謂、新興宗教)としてであれば、どのように主張していようが自由であろう。



しかし、タイサンガに属しつつも、このようなテーラワーダ仏教の教えを曲げて解釈し、変えていこうとしている点が厳しく批判されている。



それは、当然の批判であろうかと思われる。






これらの画像はすべてフリー素材の
『pixabay』からのものであるが
その特長から一目でタンマカーイ寺院の
風景であるとわかる。





◆なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか?




タンマカーイ寺院には、熱烈な支持者が多数いる。



前回の記事で、タイ社会を二分するといっても過言ではないと表現したのは、明らかに無視できないほど多数のタンマカーイ寺院の信者の存在からだ。



それは、本当に、タイ社会を二分しているからである。




なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか? ・・・この疑問には、明確に答えは出せないだろう。




社会の“声”としては、「我」つまり、「私」があるように説くことで、お布施(金品・寄付金など)が集まりやすくなるからだとの指摘がある。



また、仏教行事を派手に演出することについても、大きく立派に演出して、よりきらびやかに見せる方が人々の心を掴み、崇める奉る心を膨らませる効果が見込まれて、より多くの人々が集まるからだとの指摘・分析もある。




さらに、その集まった莫大なお金の使途が不明であるという点も批判の的で、疑惑の目が向けられている。



実際に、寺院関連の土地取得の際には、周囲とのさまざまな摩擦を生んでおり、トラブルが発生している。



数々の金銭トラブルが報じられており、タンマカーイ寺院の現住職であるルアンポー・タンマチャヨー師は、現在も(2021年現在)未だに指名手配中であるとされている。



公式の場には一切姿を現さなくなり、寺院のどこかに隠れているのではないかとも噂されている。



タンマカーイ寺院には、こうしたトラブルがたくさんあるのである。



寺院の規模が桁外れであることは、画像を見ていただければ、すぐにおわかりいただけるのではないだろうか。



このような寺院や僧侶の在り方もまた、本来の在り方ではないとの厳しい批判がある。




しかしながら、多数の人たちに支持されるということは、それだけ人々の心を満たす何かがあるのだと思う。



実際に、タンマカーイ寺院の内部は、こうした社会からの批判とは裏腹に、非常に“真面目”そのものであり、大変活き活きとした出家生活と、非常に真摯な人々の信仰の姿がある。



そうした姿を見ると、熱烈に信仰するのも理解ができる気がするのである。



あくまでもこれは、私の感覚的なものではあるのだが・・・。




寺院への貢献度がそのまま「徳」の高さに換算されることが強調される点が大変目立つ。



出家も在家も、眼を疑うような規模の数の集団の中へと入れば、思わず心を奪われてしうのかもしれない。



タイトルを「タンマカーイ寺院の問題点」としていることから、批判的な点ばかりに考察を加えてきたが、もちろんいいところもたくさんある。



例えば、寺院内は、大変真面目な生活態度であるし、非常に先進的な布教方法を取り入れている。



美しく見せることもひとつの布教方法なのかもしれない。



明確な答えを導き出すことはできないが、いいところもたくさんあるという指摘をもって、なぜ、明らかに間違っているのに熱烈に支持されるのか? という問いの答えのひとつとしたいと思う。






タンマカーイ寺院に限らず、
タイでは白い服装は、在家仏教徒の正装である。






◆タンマカーイ寺院の問題点の総括




個人的には、タンマカーイ寺院の問題点の核心は、仏教教義(瞑想)の誤った理解であると思っている。



解釈そのものが間違っているし、しかも、多数の誤りが認められるという。



全く別の教団として活動しているのであれば、何も問題はないのだが、上座仏教すなわちタイサンガの一員であるという枠組みの中において活動しているというのが一番の問題点である。



涅槃はアッタ(我)であり、涅槃はアナッター(無我)ではない。



この一点の、この解釈を採り上げてみても、それはすでに仏教ではない。



仏教を逸脱した教説を説いている点が最も大きな問題であると思う。




瞑想法そのものへの批判については、すでにタンマカーイ式瞑想法の創始者であるワット・パクナムのルアンポー・ソッド師の時代からすでに指摘されていたことである。



このことは、瞑想法の創始者であるルアンポー・ソッド師の生涯について書かれたものが収録されている 藤吉慈海著『インド・タイの仏教』大東出版 P264 に指摘されており、はるか以前より瞑想法として問題があることが指摘されていたことがわかる。



タンマカーイ寺院の瞑想法は、ワット・パクナムの瞑想法である。



ワット・パクナムの瞑想法を受け継いだタンマカーイ寺院の瞑想ほうがより進歩的なことを説いてはいるが、皮肉にも、ソッド師の時代から指摘されてきた瞑想の問題点も同じく、問題点としてより進歩的に大きく発展してしまっているように感じるのは私だけであろうか。




何を行うにしても桁外れに規模の大きな仏教行事は、人目をひくのに十分過ぎるほどだ。



タンマカーイ寺院の支持層は、都市部の富裕層に多いとされている。



政治と関りを持った時期もあったようである。



このような状況とも関連して、心のよりどころを求める人々に、「瞑想」という形で応えつつも、ある意味では、都合よく仏教を解釈しているという一面が大きな問題となっているのだろう。




タンマカーイ寺院や森林僧院の発展にみられるように、タイ社会において、瞑想は確実に求められている存在である。



しかし、瞑想が単なる目先の欲求を満たすためだけのものとなっていたとしたら、それは本末転倒も甚だしいのではないだろうか。




どのような道を選ぼうとも、個人の自由ではあるが、今一度、仏教とは? そして瞑想とは何を目指したものであるのか? を見直してみるべきだと思う。




さらには、仏教における幸せの形というものを見直すべきなのではないかと思う。





多くの在家者が瞑想実践のために
寺院内に滞在している。





外国人向けの短期出家コースや
短期滞在瞑想実践コースなどが設けられている。
外国人の受け入れについても
非常に丁寧な態勢が整っていると言える。
実際に非常に手厚く親切だ。





◆おわりに




最後に、この記事は、タンマカーイ寺院やこの寺院で実践されている瞑想法について、その良し悪しを主張するものではないということを付記しておきたい。


ここに記したことがらは、タイ社会におけるひとつの声であり、実情のひとつとして紹介するという立場を貫いているつもりである。



批判の声は容易に知ることができるのだが、どこのどういう点が問題なのかについては、ほとんど知ることができない。


その点に触れてみようと試みた。



ここでは、「批判」からの視点であるが、タンマカーイ寺院を好意的に受け取っている方々がたくさんいることはすでに触れた。


私もタンマカーイ寺院で1週間ほど修行をさせていただいたことがあり、全く知らずに記述しているわけではない。


良いところも、悪いところも、理解をしているつもりである。


寺院内の比丘たちは、実に真面目な方々ばかりで、日々真摯に瞑想実践の生活に勤しんでいる。


僭越ながら、その良い面をよく理解をしているつもりである。



寺院についての見解や瞑想法の良し悪しについては、あくまでも、ご自身で体験していただき、ご自身で触れていただいたうえで、ご判断いただく問題であると認識している。



どのようにご判断いただくのかは、それぞれ各自に委ねたいと思う。






◆参考文献:


・蓑輪顕量 『仏教瞑想論』 春秋社 2008年

・藤吉慈海 『インド・タイの仏教』大東出版 1991年

・浦崎雅代 『現代タイにおけるヴィパッサナー瞑想 ~実践者と支援者にみる互酬的関係の創造~』 中央学術研究所紀要42号 (インターネット掲載)

・K.プラポンサック 『タイ上座仏教における瞑想実践法の現在 調査報告』 (インターネット掲載)



※掲載のタンマカーイ寺院関連の画像は、全てフリー素材の『pixabay』より。


ルアンポー・ソッド(師) ・・・ ルアンポー・ワット・パークナーム、プラ・モンコン・テープムニー、チャオクン・プラ・モンコン・テープムニー など複数の呼び方がある。『ルアンポー』は敬称、『チャオクン』は僧侶に贈られる称号。階位名。





(『タンマカーイ寺院の問題点について ~誰もが気づきにくい大問題~』)





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