タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/07/09

タイのお寺の施本

書籍といえば通常は、出版されたものである。


そうでないならば、自費出版であるとか、個人的に製本をして作製、配布されたものであるかだろう。



私たちが手にして仏教を学んでいる書籍のほとんどは販売を目的として、どこかの出版社から出版されたものである。



タイにおいても一般書店に仏教書は数多く販売されているが、同じく寺院や僧院などにおいてもたくさんの仏教に関する書籍が配布されている。


販売されているのではなくて、“配布”されているのだ(※なかには販売している寺院もある。)。



こうした書籍を“施本”という。


書籍によって法を伝え、法の喜びをわかち合っていく、すわなち法施としてものである。



日本の寺院においても配布されているのを目にすることがあるが、それはパンフレットないしは小冊子程度のものが多いように思う。


一方で、タイでは、これを自由に持って帰ってよいものなのかと目を疑ってしまうほどの“書籍”が配布されているのである。


近年では、書籍だけではなく、CDやDVDなど多彩なようである。



(※なかには、料金が明示されている場合もあるが、通常の価格から言えば気持ち程度の金額だ。おそらくは、それなりの製作費がかかっているものと推察する。)



ただし、無料で持ち帰ったとしても全く問題はないのだが、自分の身の丈に応じた金額を喜捨するのというのが一般的だ。


定価や金額は一切決められていない。


というよりも、身の丈に応じた布施をするのが喜捨である。


おそらく日本人であれば、一体いくら支払えばよいのかと戸惑ってしまいそうであるが、思う金額を喜捨すればいいのだ。


金額は、定められていた方がわかりやすいというのが日本人的感覚なのだと思う。


もし、金額が定められていたら、高いと感じれば手に取らずに終わってしまうだろうし、書籍を頒布する側も、法を学ぶ側も、互いに徳を積まずに終わってしまう。



タイは布施の文化が根づいており、布施の精神が大きく社会の中を巡っている。


これは、日本人には理解できない世界なのかもしれない。


仏教という万人にとって尊いものであるという共通した価値観のうえに成り立っている文化であり、施しの精神の文化であり、わかち合いの文化である。


私など、その一端に触れた程度にしか過ぎず、ここで記したことも、ほんのごく表面的なもので、もっともっと深く広いものであるということを是非とも知っておいていただきたいと思う。






外国人修行者専門の森林僧院
ワット・パー・ナーナチャートの英語による施本
著名な高僧アチャン・チャー師ゆかりの僧院である。






日本とも関係の深い寺院である
ワット・パクナムの日本語による施本
日本語に訳された瞑想指導書と
ルアンポー・ソッド師の伝記。








施本を手にして仏教を学ぶのも功徳、喜捨するのも功徳である。


それだけではない。


書籍としてまとめられるまでの過程において、関係した人たちのすべてが功徳を積んでいるのである。


つまり、身施、行為による布施であるとされているのである。



少しでも仏法の興隆に携わることであるならば、それ自体が功徳なのだ。



私もとある僧院において簡単な施本の校訂と編集の作業を手伝わせていただいたことがあるのだが、こうした出版に至るまでのほんの小さな過程のひとつに携わることそのものが尊い行為であるのであり、私も徳を積むことができたわけである。



ここでひとつだけ特筆しておきたいことがある。



タイの施本の内容は、非常に素晴らしいということだ。


仏教が説かれているのだ。


これがまさに法話であり、これがまさに仏教だという内容である。


仏教書に仏教のことが書かれているのは、普通のことではないかと思われるかもしれないが、ぜひこのまま読み進めていただきたい。


残念ながら、日本の仏教書とは比べ物にならないと思う。



もしも、施本にご興味をお持ちであれば、いくつかは日本語に訳されているものがあるので、是非とも手に取っていただき、読んでいただきたいと思う(近年は、出版社から出版されたもの、あるいは私的に翻訳され、広く公開されているものなど多数存在する。)。


非常に残念なことに、日本の場合は、出版社を通すことで、販売目的で書籍が出版されるため、どうしても『販売』することが優先されてしまうのである。


“売る”ことが“目的”なのだ。


それもそのはずで、そうでないと、出版自体が叶わないことになる。


資本主義社会のもとにあっては、致し方のないことではあろう。


そうなると、どうしても世間受けが良いことを書かなければいけなくなるし、必然的に注目されるような話題を採り上げないといけなくなる。


人が目を背けたくなるようなことは書けないのだ。


書籍の内容だけではなく、さまざまな課題も生じて来る。


装丁上の問題や定価の問題も生じ、一筋縄ではいかない。


実は、日本で知人の出版に携わったことがあるのだが、著者は書きたい内容や書かなければいけない内容を自由に書くことはできないと話していた。


やはり、制約が多く、できないことも多いのだそうだ。



法が説かれていないものは法話ではない。


法が説かれていないものは仏教書ではない。



日本の仏教書がどこか空虚に感じられるのは、世間を意識した世間受けが良いことばかりが書かれているからではないかと感じるのであるが、いかがであろうか?



寺院や僧院から直接出版されることの意義は大きいと思う。



施本を手にする際の喜捨は強制ではない。


もしも、どうしても喜捨できない、あるいは幾分少ない喜捨であったと感じたのであれば、また別の機会に喜捨すればいいのであるし、その喜捨が別の場所であったとしても構わないのである。


ここで喜捨するのが無理なのであれば、別の機会、別の場所、別の人への喜捨であっても良いのである。


このようにして、布施の文化は、大きく大きく、広く広く、社会全体へと広がっていくのである。



そこに金銭が携わらず、値段をつけられることがなく、時間や労力も省みないというのは、日本人にとっては不思議なことに思えるのではないだろうか。



不思議でも何でもない。


それらは、すべてが布施であるからだ。


布施の目的は、布施そのもの以外にない。




(『タイのお寺の施本』)






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