タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2016/11/07

バンコクのある病院にて

※この記事は、2008年4月12日に掲載した『死を直視する~不浄観~』のタイトルを改めたもので、加筆・訂正・修正と多少の編集を加えて再掲載したものです。


今回再掲載した『死を直視する~不浄観~』の記事は、当ブログ内で最も古い記事のひとつであり、かつ閲覧数としても上位の記事である。

憶測ではあるが、それだけ関心が高いことを示唆しているではないかと思う。

日本では、このような修行法は受け入れられるものではないし、到底理解されるものでもないだろう。

しかし、真摯に苦悩を越えようとする者のための真摯なる修行法のひとつとして脈々と今日まで受け継がれてきているのだということをご理解いただいたうえで、その機縁に出会った者の真摯なる感想であるとしてこの記事を受け止めていただければと思う。

そして、少しでも穏やかなる心への一助としていただくことができればと思い、ここに再掲載させていただいた。



知る人ぞ知る有名な小冊子。
タイの仏教書籍店で「仏教書」として売られているものである。
‟身体の各部分の姿を注意深く観ていく”ことで「私のこの身」の本当の姿を知るのである。
不浄観を修するための小冊子で、ここでは掲載することができないような生々しい写真がカラーで掲載されている。



≪ご注意≫
この記事は、修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄もありますが、タイという風土の中で、比丘の修行法のひとつとして認められているということ、現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。



【不浄観】
身の不浄を観じて貪心を治する。自身の不浄を観ずる、他身の不浄を観ずるの2種がある。
(宇井伯壽・『佛教辞典』より抜粋・一部編集)
 

不浄観・・・タイでは、現在においても仏教の修行法のひとつとして位置づけられ、実際に修されている。

誰もにやってくる『死』というものを直視する、もっとも直接的な方法なのではなかろうか。

自分自身の身体、あるいは他人の身体への執着を離れ、人間の本当の姿を知ることを目指し、さらにはゆるぎない悟りの境地へと導こうとする極めて具体的、かつ即物的な方法だ。


学生の頃より「不浄観」なる修行法があるらしいことは知っていた。

不浄観とは、ごくわかりやすく表現するならば、死体を見つめる修行法のことである。

経典の中には、墓場で寝起きをしたり、墓場で瞑想することを勧めるといった記述もある。

しかし、昔のインドではそんな修行法もあったのだろうな・・・程度の認識であった。

その不浄観が現在においても実際に行われていると知った時には大変な驚きを感じたことを記憶している。


現代の日本社会では、そのような修行法などはまさに狂気とも言える、全く常人の理解を越えた範疇に属するものなのではないだろうか。


『死』そのものを忌避しようとする現代の日本。

日本で『死』とは、忌み嫌われるべきもの、日常の生活からはできるだけ遠ざけるべきものと理解されている。

しかし、『死』とは、この世に生を受けたものすべてに確実にやって来ることであり、決して避けては通れないことである。

『生』を受けたその瞬間から『死』は決定している。

人間はみな死亡率100%なのである。

人生の中で唯一確実なもの、それが『死』なのである。


「不浄観」が現在でも行われていると知ったのは、上座仏教を特集したある書物との出会いであった。

タイの森の寺についての記事の中で不浄観についても記載されていたのだった。

「今でも本当に不浄観があるのか!?」

・・・というのが率直な感想であった。

私は、大学時代に文献で読んで以来、記憶の片隅に埋もれていた「不浄観」というものに、興味をもった。


幸運にもタイでの出家中に仏教の修行者として「不浄観」を修することができた。


不浄観への興味の第一は、やはり「性」の問題への対処である。

男性である私にとって、女性への執着は、非常に強く、根深いものがある。

いくら綺麗で、容姿端麗な女性であっても、一皮剥げば同じではないか。

ある意味、非常に短絡的ではあるが、そのような執着から少しでも離れることができるのではないかと思ったのである。


そして、もう一つは、わが身もまたそのようになる・・・すなわち、死体となる・・・ということへの対処。

『死』は、他人事ではなく、間違いなく、確実にこの私の身にもやってくる問題である。

今、生きている私の身体も、命尽きれば、やがて死体となり、朽ち果て、骨となってしまうものではないか。

『死』という漠然とした不安、何が起こり、どのようになってしまうのかわからない『死』。

そのような恐怖と不安から開放されたい。

そういった思いがあった。


バンコク市内のある大きな病院の一室。

その部屋には、死体が数体並べられていた。

部屋の外には、おそらく数日を経ているであろう腐りかけた死体もある。

見るに耐えない・・・ハエがたかっているものも置かれている。

すべて医学解剖のためのものなのだそうだ。

日本では、おそらく医師か医師を目指す学生しか目にすることが許されない場所だろう。


そのような場所へ比丘が不浄観という修行をするために、立ち入ることを許されるのであるから、仏教を尊ぶタイの姿勢が窺える。


ある死体の前へ通された。

聞けば、昨日まで生きていたのだという。

おそらく、何時間か前までは動いたり、歩いたり、誰かと話をしていたであろう彼。

まるで眠っているかのようにも思える。

しかし、それはもう『人』ではなく、死体というただの『物』だ。

たんたんと内臓を取り出していく病院の職員。

臓器を取り出して私達へ見せてくれたり、胃袋を切って中身を出してくれたりもした。

私の腹の中にも、すぐそこに横たわっている彼と同じ『物』が入っており、やがて命尽きれば、彼と同じ「死体」という『物』と化す。


そんなわが身・・・。


一緒に行ったタイ人比丘の一人は、顔をしかめていた。

またある一人は、「マスクをしていてはにおいがかげなくなる。」と言って、あえてマスクをせずに近くまで行き、まじまじと腹の切り裂かれた死体を見つめていた。

同行したタイ人比丘達と何を話したのかは覚えていない。

おそらく他のみんなもそれぞれのものを感じたことだろう。

ただ覚えているのは、寺へと帰ったとき、

「どうだったかい?恐かったか?」

と数人の比丘達から質問されたことだけだ。

私は、

「大丈夫だよ!」

とだけ答えた。


“人間はただの糞袋”


という表現を何かの本で読んだことがあるが、まさにそうである。

容姿という袋の中に、内臓やらゲロやら糞やらを詰め込んだものが人間だ。

老いも若きも、男も女も同じなのだ。
 

さて、愛欲は断ち切れたか?

『死』を恐れることはなくなったか?


・・・『元の木阿弥』だ。


還俗し、日本で出家前と同じく普通に生活をしている今。


きれいな女性を見れば、抱きたいと思う。

やはり、死も恐い。

見えない『死』というものへの漠然とした不安もある。


結局は、何ひとつ変わってはいないのだ・・・。


いま生きているのは確かなことであり、死にゆく存在であるということも確か。

その自覚からこれからが始まるのではないかと思う。


本当の意味で『死』を「理解」するのは、なかなか難しい。

それほどまでに煩悩は深いということでもある。
 

わが身もまた遠からず・・・



タイのお葬式で必ず唱えられるパーリ語の偈文がある。


『アニッチャー ワダ サンカーラー ウパータワヤタンミノー
ウッパチッタワー ニルッチャンディ デーサン ウーパーサモー スコー』

『もろもろの作られたものは実に無常であり、生滅するものである。
生じては滅びる、それらの静まるところに、安らぎがある。』



※この記事は、2008年4月12日に掲載した『死を直視する~不浄観~』のタイトルを改め、加筆・訂正・修正と多少の編集を加えて再掲載したものです。



(『バンコクのある病院にて』)







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