いつも通りのことをいつも通りに行う。
朝、いつものように托鉢へ出かけ、いつものように勤行をする。
そして、いつものように境内を掃除し、いつものように過ごすのである。
変わることは何ひとつない。
ただ、朝の托鉢の時だけは少しだけいつもと違う。
1月1日の朝の托鉢だけは、とてもたくさんの食べ物がお布施されるのだ。
1月1日のこの日、私はラオスからタイへ留学に来ていた先輩比丘について街へと托鉢に出たことを記憶している。
私は、毎日、そのラオスからの留学生である先輩比丘とともに托鉢に出ることになっていたのだ。
彼は、
「今日の托鉢は、いつもの托鉢とは違うぞ。さぁ、出発だ!」
と、とても楽しみな表情をして私に言ったことを覚えている。
先輩比丘の言った通り、この日のお布施の量の凄さにはさすがに驚いた。
単調な生活が続く出家生活の中では、ちょっとした楽しみなのかもしれない。
先輩比丘がこの時を楽しみにするのも、どこかうなずける気がする。
タイには“初詣”という習慣はないが、人々は人生の節目ごと、日常の節目ごとには必ずお布施をしたり、寺へ参拝したりする。
ゆえに、正月という節目のこの日は、いつもよりも参拝者が増えるわけである。
寺の中の比丘達は、いつもと変わらぬ時を過ごすのであるが、一般世間においては、タイでもやはり正月は少しだけ賑やかになるのである。
実は、2年前にも同じような内容で記事を書いている。
⇒2年前の記事:『世間は世間、出家は出家』
何もない、いつも通り、というのがタイの寺のいいところだと私は思うからだ。
それは、出家である比丘とは、何をすることが目的なのかを思えばそれは明白だと思う。
タイの新年は、比丘や寺へのお布施から始まり、比丘はそのお布施を快く受け取り、祝福する。
正月は、そうしたお布施の量が、いつもより「多い」のである。
~『仏教とタイの人々』1999年・表紙より~ |
さて、この正月は、どのように過ごされただろうか。
毎年この時期には、テレビから忙しそうな日本の寺の風景が映し出される。
そして、参拝を待つたくさんの人達が映し出される。
私が学生の頃にお世話になったとある寺院の年末年始もそうであった。
僧侶も職員も、その準備で猫の手も借りたいくらいの状況だった。
日本の忙しそうな寺の風景を目にするたびに、ついつい、正月であっても“平常通り”のタイの寺での生活を思い出してしまうのだ。
大晦日、そして正月。
単にカレンダーが12月から1月へと変わるだけである。
平成27年から平成28年へ、2015年から2016年へと日付が変わるだけである。
特に変わることなど何もないはずだ。
しかしながら、区切りやけじめ、“節目”というものを大切にするのは、悪いことではない。
そういったことを大切にするのは、日本のいいところなのだと思う。
私のような怠惰な人間にとっては、区切りやけじめというものは、よき機会だ。
この機会に、自己を見つめ、昨年の自分と比較し、成長を確認してみるものも善いことなのではないだろうか。
お正月・・・寺へ初詣でには行かれただろうか。
何か祈願をされただろうか。
自己の力を超えたことがらを願うこともあるのかもしれないが、願い事の多くは、自己の努力を伴うものなのではないだろうか。
「祈願」とは、誓いを立てることなのではないかと私は思う。
今風に言い換えれば、「決意表明」や「宣言する」という表現にも近いように思う。
私は、こういうことを努力してまいります。
私は、こういうことに向かってまいります。
私は、こういうことを成し遂げます・・・など。
誓いを立てたことがら、決意したことがらを常に心に留め、常に意識して、常に努力していくことで、
今、なすべきことは何なのかを正しく知ることができるのではないだろうか。
そうすることで、次になすべきこと、次に選択すべきことがらがおのずと明らかになってくるのではないだろうか。
正しく自己を知ることは、なかなか容易なことではないのかもしれない。
しかし、容易ではないからこそ、こうした“けじめ”の時が必要なのかもしれないと思う。
是非、この機会に、自己をふり返り、善き誓いを立ててはいかがだろうか。
何らかの行動を起こしたならば、それが因(原因、きっかけ)となり、必ず果(結果)を結ぶのだから。
(『日本のお正月に思う』)
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