タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

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2017/04/02

ニャーナラトー師の法話3 ~私はこのように聴きました <瞑想の時間と質疑応答> ~

法話会の中で“心を発展させる機会”であり、“自分に戻る機会”を学ぶ場として、参加者全員で瞑想を実践いたしました。

そして、私達にわかりやすく「バーワナー」というものをお伝えくださり、瞑想実践のうえでのアドバイスをお伝えいただきました。


写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より


ニャーナラトー師は、「楽にして、自然に呼吸を観ましょう」ということだけを伝えられ、体系的な瞑想方法などについては触れられませんでした。

なぜならば、チャー師(アチャン・チャー)は、実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること、つまり常に自己を注意深く観察しながら生活を送るという姿勢をとても大切にされていたからです。

私は、ニャーナラトー師もまた、チャー師が大切にされていた生き方をしっかりと受け継いでおられるのだと感じました。


タイでは、いくつもの瞑想方法が実践されています。

これは、私がブログの中においてもご紹介させていただいている通りです。

しかし、どのような瞑想方法であっても、仏教の瞑想の目的はひとつです。

それは、「心を清らかにすること」、すなわち「自己の観察」であり、「気づき」です。


瞑想中に自分自身と“けんか”をしてしまう!?


心を発展させる機会や心を落ち着ける作業中、つまり「瞑想中」に自分自身と「けんか」をしてしまうことがあるのだということをお話されました。

自分自身と「けんか」をしてしまうとは、どのようなことなのでしょうか?

私にもそうした経験がありますので、ニャーナラトー師のこのお話はとても印象に残っています。


「今日の瞑想は、全然ダメだったな・・・」「なかなかうまく瞑想が進まないな・・・」などと、悲観をしたり、能力がないのだと落ち込んでしまう・・・。

そのような経験はありませんか?

おそらく、このような経験は、多くの方にとっても、一度や二度ではないのではないでしょうか。

瞑想実践者であれば、誰もがぶち当たる壁と言いますか、誰もが経験することがらなのではないかと思います。

自分のなかには、自身で想い描いている勝手な「理想」というものがあり、その理想と自身が認識している今の状況とに食違いを感じることで、“勝手な”苦しみを抱えてしまいます。

勝手な妄想・・・これが自分自身との“けんか”の本当の姿です。


良い・悪いの判断をせずに、思ったこと・感じたことをそのままに・・・。


ニャーナラトー師は、「“バーワナー”とは、“気づき”であると言い換えることができる」と、お話になりました。

そして、「気づき」をどのように育てていけばよいのかということについてお話を続けられました。


静かに瞑想していると、実にいろいろな心配事が出てきます。

心が乱れる、心が乱れない。

いい事があった、いい事がなかった。

好きなこと、好きではないこと。


出て来るいろいろな感情には逆らわないようにしてください。

出発点として線引き(良し悪しを決めてしまうこと)をしないようにしてください。


「今、私は、○○と思っているやん」と、気づけた時に状況が変わってくるのです。


その時、その時の気持ちや状態に気づくことが大切です。

瞑想している時に、いわゆる“雑念”が出てきても構わないのです。

こうしなければいけない・・・、こうでなければダメだ・・・。

そのようなことを思う必要はないのです。

これだけが答えだなどと言うことなんてないのです。


こういうのはいいけれども、ああいうのは駄目だ・・・と、いったような自分勝手な見方をやめる。

そして、自分勝手な決めつけや自分勝手な思い込みをやめる。

ものごとにいい・悪いの判断を加えないあり方を学び、身につけていくということが何よりも大切なことです。

その訓練が瞑想実践なのです。


温かな日差しがあったり、雨が降ったり、風が吹いたり・・・それらは、みんなごく自然なこと。


多くの人達と集まる機会によく話題にあがることは、「瞑想について」と、ストレス・仕事・人間関係など「人生一般について」の二点が最も多いのだとニャーナラトー師は言われます。

この二つは、一見すると、全く異なることのように思われますが、実は、同じなのではないでしょうか。


いわゆる“「瞑想」をしている時間だけ”の話なのではなく、人と人との関係も全く同じであるとお話されました。

フィルターをかけてしまう。
垣根を作ってしまう。

こうしたことが往々にしてあるというのが私達の日常です。

また、瞑想なのだからちゃんとしなければならない、瞑想なのだからしっかりと集中しなければならない・・・ついついそのように考えてしまいがちなのですが、そのように捉えてしまうと狭くなってしまうのだということを指摘されました。

これが、はじめに言われた「心を落ち着ける作業中に、自分自身と“けんか”をしてしまうことがある」ということなのです。


晴れの日があれば、雨の日もある。

風も吹けば、曇りの日もある。

あたたかな日差しもある。

それらは、ごくごく自然なことですし、ごくごく当たり前のことなのです。


瞑想実践も同じで、こうでなければならないということは一切ありません。

立っている時は、私は立っていると知り、坐っている時は、私は坐っていると知る。

ありのままの姿をありのままに観ていくことに努めていけばよいのです。


今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのであれば、私は、今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのだなと、感じたままの自分自身の姿を知ればよいのです。

そこに良い・悪いの判断や評価を加える必要ありません。


逆らわないこと=普通にすること
瞑想の時間=私一人の時間


こうしなければいけない・・・。
こうでなければ駄目だ・・・。

そのように思い込んでいる時点で、すでに状況(感情)の中へと入り込んでしまっているのです。

二流の時間だと思えば、二流の時間になってしまいますし、時間を無駄にしてしまったと思えば、時間を無駄にしてしまったことになります。

大切なのは、状況の中に入ってしまっている状態から抜け出すこと、あるいはそのような状態にはならないようにするということなのです。


ニャーナラトー師は、“今”の気持ちや状態に気づくことを「開かれた時間」という言葉で表現されました。

瞑想とは、ありのままの姿をありのままに観ていくことですから、瞑想実践の時間のことを「開かれた時間」というように仰ったのでしょう。


このように「気づき」の生活を送っていくと、変化していないようで少しずつ変化をしていきます。

すると、人間関係も自然に変化してきますし、ものごとの見方やとらえ方も変化してきます。

「なにごとにも恐怖感なく、すっきりとして生きていけるようになるのですよ」と、ニャーナラトー師は仰られ、瞑想実践の時間を結ばれました。


写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より


瞑想実践の時間を終えて、質疑応答の時間を設けさせていただきました。

今回の特別勉強会では、参加者全員に「質問用紙」をお配りして、自由に書いていただくという形式を採りました。

そのためか、とてもユーモアあふれるメッセージから、とても深いご質問まで、非常に幅広い内容のものが寄せられました。

そして、多くのお時間を質疑応答に当てさせていただき、とても有意義なものとすることができました。

なかには、非常に真摯なご質問や非常に深く学んでおられるご質問なども多数いただきました。

日々、真摯に実践され、日々、真摯に学んでおられることを肌で感じるもので、私自身、襟を正す思いで聴かせていただきました。


本来であれば、みなさま方からのご質問とニャーナラトー師からのお答えをおひとつおひとつご紹介させていただきたいところなのですが、ここでは、当日の質疑応答の中から、チャー師(アチャン・チャー)のお人柄を知り、偲ぶことのできる内容のものをおひとつだけ、ご紹介させていただきたいと思います。

余談なのですが、実は、私が準備をしていた質問と同じ内容のご質問で、非常に気になっていたことがらでした。


ご質問 :

アチャン・チャーとの面識はありますか?
もし、あるとしたら、アチャン・チャーの教えやお人柄、思い出などについて聞かせてください。


お答え :

アチャン・チャーの晩年は、体調を崩されていて寝ておられました。
私(ニャーナラトー師)は、お会いさせていただいたこと自体はあるのですが、実際にアチャン・チャーと言葉を交わしたことはありません。
ですから、お人柄ですとか、お言葉ですとかを直接は存じません。

このお話は、アチャン・チャーがお亡くなりになってからのことですが、ある方がアチャン・チャーはどのようなお人柄で、どのようなことを教えておられたのかということを(後世に)残したいということで、直接、アチャン・チャーを知る人達に「アチャン・チャーは、どんな人でしたか?」ということを聞いて回ったことがありました。

すると、全員が全員とも、全く違ったことを答えたのです。

あの人は、ああだと言う。
この人は、こうだと言う。

みんなバラバラのことを言うのです。

しかし、誰の言葉を聞いても、まさにその通りだという事ばかりだったそうです。

一瞬、とても矛盾しているようにも思えますが、アチャン・チャーは、ものごとの本質を言われる方だったということなのでしょうね。

本質だからこそ、誰がきいてもその通りだと思うことばかりだったのでしょうね。


※お話を一言一句正確に書き留めたものではございません。
上記のような内容のお答えであったということでご理解ください。


私は、チャー師のことを、お写真とタイで見聞したごくわずかのことしか知りません。
また、日本で出版されている日本語に翻訳されたご著書のうえでしかそのお人柄を知りません。

チャー師がどのようなお人柄の方であったのか、チャー師の教えを直接受け継いでいる森林僧院で修行をなさってこられたお方ならではの温かなエピソードであると感じました。


今回のニャーナラトー師のご法話を聴聞させていただき、私は、どこか心が軽くなったような気がいたしました。


嫌な性格を治すことでもないし、嫌なことを無くすことでもない。

嫌な性格、嫌なことが、そのまま嫌でなくなるということなのです。

今までのそういった自分の在り方を全部ひっくるめて嫌ではなくなるのです。

だからこそ、自分自身とのつき合い方が楽になるのですよ。


と、ニャーナラトー師はお話くださいました。


善き心を育てていくことと、徳を積み重ねていくこと。

これは、出家であっても、在家であっても、何ひとつ変わるところはありませんし、今の私の生活の中にあったとしても何も変わるものではありません。

実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること。

自己を常に注意深く観察しながら生活を送ることに努めること。

満たされた心も、満たされない心も、全てを含めて気づいていく。


私にとっては、日々、一分でも一秒でも、心を発展させる機会を持つようにしていくことを再度確認し、気持ちを新たにする機会を与えていただいた法話会となりました・・・私は、ニャーナラトー師のご法話をこのように聴かせていただきました。



私にとっても、みなさまにとっても、大きな功徳となり、善きご縁となりますように。

そして、日々が明るく、穏やかなものとなりますように。



今回のご縁を賜りましたことに深く感謝致します。


合掌・礼拝(3回)


サートゥ
(สาธุ / sādhu)




※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。

※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。



(『ニャーナラトー師の法話3 ~私はこのように聴きました <瞑想の時間と質疑応答> ~』)





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2017/03/23

ニャーナラトー師の法話2 ~私はこのように聴きました <「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」> ~

ニャーナラトー師のご法話の中で、最も印象に残ったことがらは、「ダーナ(dāna)」「シーラ(sīla)」「バーワナー(bhavana)」ということです。

タイにおいても、この言葉は、法話の中でよく耳にするものです。

タイ語では、「ターン(ทาน)」「シーン(ศีล)」「パーワナー(ภาวนา)」と言い、パーリ語の「dāna」「sīla」「bhavana」のタイ語訛りです。

(※なお、ここでは、ご法話の中での表現に合わせて「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」と表記させていただきます。)

今回のニャーナラトー師のご法話の中においも、何度も耳にした言葉でした。

ご法話の中で、これらの3つのことがらについて、具体的にどのようなことなのかを順番にわかりやすくお話くださいました。


アチャン・チャー(チャー師)
合掌・礼拝(3回)
ニャーナラトー師は、チャー師が設立された外国人専門の森林僧院であるワット・パー・ナーナーチャート(国際森林僧院)で出家されました。チャー師の流れをくむ森林僧院は、タイ国内をはじめとして世界各国に設立されています。


前回の記事では、「拠り所」というものをしっかりと築いていくように、ということをお伝えいたしました。

ご法話は、さらに拠り所を築くこととは、どのように生きることなのか、ということへと進められていきました。


大丈夫なのかなぁ・・・
これでいいのかなぁ・・・
何に頼ったらいいのかなぁ・・・

わからない・・・

どこか安心できない。
なぜか不安、なぜか心配。

多くの人がどこかにそのような気持ちを持っているのではないでしょうか。

それは、生活していくうえでの規範となるものや、指針となるものを何も持たないことに起因するのではないでしょうか。

ニャーナラトー師は、ご法話の中で、人生の基礎となるものとして「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」の実践ということを示してくださいました。


一つ目は「ダーナ」です。

ダーナとは、お布施をすることです。

自分のものを他者へ施すことを言います。

これは、サンガや比丘に対しての行為のみを指して言うのではなく、他の誰かのお手伝いをしたり、他者に何かを分け与えたり、提供したりするなどの行為全てを含みます。

実際に、私も、タイの方から誰かの手助けや役に立つような行為を「これもお布施だから、徳を積む行為なのだよ。」と教わったことがあります。

相手を喜ばせる行為をすることで、自身の心をも喜ばせることができるのです。

自身の心を喜ばせることで、その喜びを他者へとさらに大きく広げていくことができるのです。

「お布施」と言うと、日本人の場合、どうしても「お金」を想起してしまうのではないでしょうか。

ご法話の中でニャーナラトー師は、「お布施とは、“いいことをしましょう”ということなのです」と、お話になりました。

「お布施」=「お金」というイメージが強い日本人にとって、お布施とは「いいことをしましょう」ということなのだよ、という理解を示されることで、とても親しみやすく、自分にも実践できるものなのだなと感じることができたのではないでしょうか。


二つ目は「シーラ」です。

「シーラ」とは、「戒」のことですが、単なる禁止事項のことを言うのではなく、「道徳」のことです。

参考までに、私の手元にありますタイ語辞典を引いてみますと、

【シーラ】(ศีล
戒、戒律
掟、道徳、道理、倫理

(大学書林『タイ日・日タイ 簡約タイ語辞典』平成12年 515頁。)

などと書かれています。

日本では、あまり「戒」ということが定着していないため、しっくりと来ない方が多いのかもしれませんが、仏教でいう「戒」とは、わかりやすく言えば、生活規範のことであり、善い習慣性を身につけることで、「悪いことはやめましょう」という実践徳目のことを言います。

すなわち、「私は、善い習慣性を身につけるための、こういう項目を実践していきます」ということが「シーラ」の意味するところなのです。

この“こういう項目”というのが、次の5つの項目です。

1、生き物を殺さない
2、与えられていないものを取らない
3、淫らな行為をしない
4、いつわりをかたらない
5、放逸の原因となる酔わせる酒・麻薬類を使用しない

(※五戒の訳文は、サンガ文庫『増補版・手放す生き方』2016年 318頁より引用。)

この5つの項目が在家の仏教徒が守るべきことがらで、日々心がけて、生活の指針とすべきことがらです。

これが心身を整えるための最も基礎となるものであると言えるものです。


三つ目は「バーワナー」です。

「バーワナー」とは、「修習(しゅじゅう)」と表現されていますが、わかりやすく言えば、瞑想すること、修行することです。

ニャーナラトー師は、これを「心を発展させること」、つまり「自分の心に直接はたらきかけること」、「直接、心そのものにはたらくもの」、「直接、自分の心に向き合うもの」であるとお話されました。

私は、これは、とても平易で、非常にわかりやすい表現だと感じました。

残念ながら日本は、仏教国でありながら仏教に馴染が薄いため、決して理解が容易な言葉ではないように思います。
また、日本では瞑想というものが一般的ではないうえに、修行と言われても何をすることなのかがはっきりとしていません。

ニャーナラトー師がお話されたように、「心を発展させること」「自分の心に直接はたらきかけること」「直接、心そのものにはたらくもの」「直接、自分の心に向き合うもの」という表現は、瞑想や修行とは何なのかを理解し、深めていく手助けとなるものなのではないでしょうか。

そして、そういうことならこの私にも実践できるのではないか、とより身近に、より私のこととして感じることができるのではないでしょうか。


この後、法話会では実際に自分に戻る機会であり、心を発展させる機会として、「瞑想」の時間が設けられ、私達にわかりやすく「バーワナー」というものをお伝えくださいました。


・・・生きる自信となり、自己の信頼となるもの。

また、人生の揺るぎない拠り所となるもの。

それが、「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」という3つの善い行いの実践です。

これらの実践こそが、確固たる人生の拠り所となるものであり、人生の土台となるものに他ならないのではないでしょうか。


ニャーナラトー師がご法話のはじめにお話されましたように、仏教とは、私達日本人が一般的に想起するような「宗教」なのではなく、道徳であり、善き習慣性の構築そのものであるのです。

そして、より善く、より心穏やかに生きるためのトレーニングなのです。


ニャーナラトー師は、「結果は、心の中にあるのです」と仰いました。

ご法話の中で「どうか“本気で”生きてください」と何度も仰ってみえたことがとても深く私の心に残っています。

それはまさに、“心穏やかな生活のすすめ”であるとも言えるものなのではないでしょうか。


このわたくしは、今、どのように行動して、今、どのように生きることが心穏やかな生き方へとつながるのだろうか?ということをニャーナラトー師は直接語りかけてくださり、伝えてくださったのだと私は聴かせていただきました。



合掌・礼拝(3回)

サートゥ
(สาธุ / sādhu)




< つづく ・ 『ニャーナラトー師の法話3 ~私はこのように聴きました <瞑想の時間と質疑応答> ~』 >



※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。
※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。



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2017/03/19

ニャーナラトー師の法話1 ~私はこのように聴きました <拠り所> ~

私の学びとして、今回聴かせていただいたニャーナラトー師のご法話についての記事を、数回に分けて書かせていただきます。

あくまでも、私の経験や理解を通したものですので、私とは違った学びをなさった方も当然のことながらおられる事かと思いますので、是非ともそのようにお読みいただければと思います。


合掌・礼拝(3回)


今回のタイ佛教修学記・特別勉強会では、タイの慣習にならって、集まりの一番はじめに比丘より五戒を受けることから始まりました。

私達在家者の側から、比丘に対して五戒を受けることを要請する文言を唱えます。
そして、比丘の側から授けられた五戒をひとつずつ復唱していくのです。

タイでは、機会があるごとに比丘から五戒を受けます。

それが単なる“慣習”となっている側面もあるようですが、その意味を尋ねれば、五戒とは、私達の生活において最も基本となるもので、日々穏やかに過ごすための拠り所となるものです。

だからこそ、繰り返し機会があるごとに五戒を受けるのです。

ところが、五戒を完璧に守り切ることは容易なことではありません。

真剣に向き合えば向き合うほど、その難しさが理解できるはずです。

では、守れないから、不可能だからと言って一蹴してしまっていいのでしょうか。

そうではないはずです。

守ることができれば言うことはありませんが、守ろうと努めていく姿勢に意義があるのだと思います。

あるいは、五戒に沿った生活を心がけていくことこそが大切だと思うのです。

私は、五戒というものを意識するだけでも、その生活は変わってくると実感しています。


今回のニャーナラトー師のご法話では、私達の実生活の中でどのようにして心穏やかに生きていくのかということを中心にお話をされました。

ご法話では、はじめに「宗教と言うと、どこか“危ない”というイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか?どうか“宗教”という言葉のイメージでとらえずに聞いていただきたいです。」という語りかけから始まりました。

「宗教」=「危ない」というイメージは、残念ながら、今の日本における「宗教」のごく一般的なイメージであると言わざるを得ないでしょう。

・・・実は、こうしたブログを書いております私も“宗教”というと「怪しい」「危ない」「胡散臭い」「騙される」「マインドコントロール」などといった言葉を思い浮かべてしまいます。

そして、そのような「目」で見てしまいます。

私は、お話のはじめにこうした表現を出されたということは、宗教というものを想起させずに仏教を伝えようとなさったニャーナラトー師の工夫であるように感じました。


さらに「今の日本人の多くが“不安”というものを抱えて生きているのではないでしょうか。」と、問いかけられました。

この問いかけを耳にして、あなたは、どのようにお感じになりましたか?

私は、まさにその通りだと思いました。

何者かわからない、正体不明の漠然とした「不安」というものが常に付きまとっているように感じます。

私もかつては、その例外ではありませんでしたから、そうした不安をよく理解できます。

では、この私達が抱えている「不安」とは、一体何者なのでしょうか。

また、何に起因するものなのでしょうか。


ニャーナラトー師は、「拠り所がないこと」に起因しているのではないかと、私達に投げかけられました。

そして、「たくさんあれば幸せになるというものではないのです。」ということを仰いました。


これは、どういうことかと言いますと、多くの人は、お金や物など、何でもたくさんあれば豊かで、幸せな人生になるのだという思い込みを持っています。

しかし、実は、そうではないのだということなのです。

私達の身の回りには、あまりにもいろいろな“もの”で溢れかえっています。
何に関しても、いっぱいあり過ぎるのです・・・必要なものも、不必要なものも。

さらに、かたちがある“もの”だけではなく、「情報」に関しても、もの凄い量の情報で溢れかえっています。

ありとあらゆるものに関して、量も多いし、変化していく速度も速い。

しかも、半端ではありません。

ありとあらゆるものが、あまりにも多過ぎると、どれを選べばよいのかもわからなくなってしまう。

そして、どれが本当なのかがわからなくなってしまう。

必要なのか、不必要なのかすらもわからなくなってしまう。

本当のものがわからなくなると、本当のものを選ぼうとする。

そこで、新たな苦しみが生まれてしまうのですね。

なんでもすぐに答えを出さなければならないと思っている。

すぐに答えが出なければおかしいし、すぐに答えを出さなければいけないと思っている。

こうして、さらに追い詰めて、さらに苦しみを作り出してしまっているのです。
そして、不安を大きく膨らませてしまっているのです。

もしも、それらの不安を越えられる何かの「技術」をもっているのであれば、もちろんそれを使えばいいですし、実践すればいいでしょう。

しかし、そうした「技術」もいいのだけれども、「まずは人生の“土台”というものをしっかりとしなければならないのです。」ということをニャーナラトー師は、ご法話のなかでお話くださいました。


私は、出家生活の多くの時間を森のお寺で過ごしました。

ニャーナラトー師のこのお話には、大いに頷かされるものがありました。

私達の身の回りには、あまりにも多くの“もの”があり、あまりにも多くの“情報”があります。

森のお寺には、何もありません。

何もないのですけれども、心が穏やかになっていくのです。

これこそまさに「たくさんあれば幸せになるというものではないのです。」というニャーナラトー師の言葉の通りであると思いました。

何もない。

何もないのに、とても心が落ち着くのです。
何もないのに、安心感があるのです。


この安心感は、一体どこから来るものなのでしょうか。




近年では、自己啓発的な方面のことがらや、精神的な方面のことがらを教えるものが多くなっている気がします。

人間の「心」というものの傾向をよく分析されたいいものもたくさんあります。

不安を解消するための「技術」としては、悪くはないのかもしれません。

しかし、自身の生活の基盤となるもの、自身の生活を整える“何か”がないといけません。

そうでないとすぐに崩れてしまいますし、いつ折れてしまうかわかりません。


それでは、どうしていけばよいのでしょうか。

自身の生活を整える“何か”とは一体何なのでしょうか。


ニャーナラトー師は、それは「シーラ」(戒=五戒)という基盤を築いていくことである、と仰いました。


私は嘘をつかないよ、私は泥棒をしないよ・・・といった「自分」をしっかりと作り上げていくことこそが大切なのです。

そうすれば、悩み事の解決や問題・課題の解決などは、自然についてくるものです。

戒に沿った生活をすれば、決して後悔することはありません。
あるいは、後悔することは少ないのです。

戒を守って生きることは、自信にもなりますし、他者から信頼されるばかりではなく、自分への信頼にもなるのですと、お話しくださいました。


私は、五戒を守って生きることとは、善き生活習慣を身につけて、自己の身を整えることであると理解しています。

これこそが確固たる自己の基盤となるもの、すなわち“拠り所”であると思っています。

生活をしていくこととは、業(行為、行い)を積み重ねていくことですから、善いことをすれば善い結果へとつながっていきますし、悪いことをすれば悪い結果へとつながっていきます。

ニャーナラトー師は、このことを「厳然たる客観的事実である」と、表現なさいました。


実は、私・・・つい最近まで、戒を守ることや自己の身を整えるということが、どうして人生の基盤となり、拠り所となるのかという意味がさっぱりわかりませんでした。

しかし、ある時、ふと、腑に落ちたのです。

今、この瞬間、今、この時の行為・行動が明日の私につながっていくのです。

さらには、その先の未来の私の人生へとつながっていくのです。

そのことが腑に落ちた時、心は自然に安らぎ、あれだけ抱えていた漠然とした不安は小さくなっていきました。

自身の行動の基準となるもの、それが「拠り所」ということの意味するところで、自身の人生への信頼となるものなのではないかと思うのです。

ところが、もし、そこが信頼できないとなると、全てが成り立たなくなってしまいますし、全てがもろくも崩れ去ってしまうのではないでしょうか。


ひとえに因果律(因果の法則)を信頼できるのか、できないのかにかかっているのではないかと思います。

もし、ここを信頼できないのであれば、仏教を信じることはできないと言っても過言ではないのではないでしょうか。

なぜならば、因果律とは、仏教の根本であり、根幹となるものだからです。

因果律を信頼しているからこそ、未来を信頼することができるのです。
そして、自身の人生への信頼や自信にもつながってくるのです。

それが、ニャーナラトー師が言われる「戒に沿った生活をすれば、決して後悔することがない。」という言葉の意味するところなのではないかと私は聴かせていただきました。


ニャーナラトー師は、戒と言う基礎がしっかりとできていれば、問題解決は自然についてくるものだと仰いました。

戒を守って、身を整えたところで、すぐに問題解決がはかられるものではないのかもしれません。
しかし、心身を整えることは、問題解決の第一歩であるということが言えます。

なぜならば、心身ともに整った状態にあるからこそ、冷静な判断が可能となるからです。

そして、物事の見方やとらえ方が変わり、今の私がとれる選択肢に変化が現れるのです。

その結果、問題解決へと向かうための、より適切な判断と、より最善の選択が可能になるのです。


自然に問題が解決してしまうとは言いながらも、実は厳然たるプロセスがあるのです。

それは、「怪しい」ものでも、「危ない」ものでも、「超自然的」なものでもありません。

まさに客観的事実なのです。


もちろん、私にも不安はたくさんあります。
日々の悩みもたくさん抱えています。

しかし、言葉では言い表すことなどできませんが、漠然とした「不安」というものは、それほど大きくはありません。

そういった意味では、とても心穏やかに生きています。

因果律への信頼・・・このことが腑に落ちた時、漠然とした「不安」というものは解消されるのでしょう。

不安ならば、今できる最善のことをやればよいのです。

問題解決に至るには、時間的に多少ゆっくりなのかもしれませんが、これがニャーナラトー師が仰るところの「基礎をしっかりとする」「拠り所」ということなのだと、私は聴かせていただきました。


悩みや苦しみの本質は、今も昔も全く変わるものではありません。

しかしながら、情報過多で、何を選ぶべきかわからず、何を信じてよいのかもわからない・・・さらに、その規範となるものも、基準となるものも何もないというのが、今の日本の実情であるような気がします。

そんな時代を生きる私達にとって、生きるヒントとなるものがここにあるのではないかと感じました。



合掌・礼拝(3回)

サートゥ
(สาธุ / sādhu)




< つづく ・ ニャーナラトー師の法話2 ~私はこのように聴きました <「ダーナ」「シーラ」「バーワナー」> ~ >



※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。
※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。



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2017/03/14

「アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想・お布施の会」ご報告


《 「アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想・お布施の会」ご報告 》


平成29年3月12日(日)にタイ佛教修学記・特別勉強会『アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想・お布施の会』を開催させていただきました。

お忙しいなかを多数の方々にご参加いただき、無事に終えることができましたことをここにご報告させていただきます。




合掌・礼拝(3回)
右側の写真は、アチャン・チャー(チャー師)。


とても穏やかな口調で語られたニャーナラトー師のご法話は、その言葉のひとつひとつがゆっくりと身に浸み入ってくる、大変心に響くものでした。

それは、ニャーナラトー師のとても温和で、とても真摯なお人柄と、今までの長い森林僧院での出家生活からの言葉であったからに違いありません。

さらに、イギリスのアマラワティ僧院に止住しておられることから、仏教的な土壌にはいない人達に仏教を伝える時の工夫や、英語的表現からなされるアプローチなどがあり、私達日本人にとっても非常にわかりやすく、理解を深める助けとなるものでした。

他にも、まだお伝えしたいと思うことはたくさんございますが、ニャーナラトー師からの言葉は、とても一言では伝えきれるものではありません。

私個人といたしましても、非常に大きな学びとなり、そしてとても励みとなるものでした。


当勉強会が、皆様方にとって善ききっかけとなり、善き励みの場としていただくことができれば、私としてはこれほどの喜びはございません。


今回は、ご都合の合わなかった方もいらっしゃったことかと思います。

また、大変申し訳ないことなのですが、キャンセル待ちとさせていただきました方もいらっしゃいました。

今後もこうした勉強会を開催していきたいと考えておりますので、是非、またの機会にご参加いただければと思います。


主催者として、ゆきとどかなかった点など多々あったことかと存じます。

ここにお詫び申し上げますとともに、ご参加くださった皆さま方へ篤くお礼申し上げます。


今後の参考とさせていただきたいと思いますので、当勉強会に関するご意見・ご感想等がございましたら、是非ともお聞かせください。



今後ともよろしくお願いいたします。



みなさまにとって大きな功徳となり、善きご縁となりますことを願っております。



(『「アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想・お布施の会」ご報告』)





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2017/02/15

平成29年3月・特別勉強会のお知らせ


≪ 『タイ佛教修学記』 特別勉強会のお知らせ ≫


◇◇ 「アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想、お布施の会」 ◇◇


平成29年3月1日現在:
定員に達しましたので受付を終了させていただきました。


『タイ佛教修学記』特別勉強会として、平成29年3月12日(日)名古屋にて「アチャン・ニャーナラトー師の法話と瞑想、お布施の会」を開催いたします。


アチャン・ニャーナラトー師は、タイの著名な高僧アチャン・チャー師の流れを汲む日本人比丘で、日本においても広くご活躍されていらっしゃり、お名前をご存知の方も多いことかと思います。

今回、アチャン・ニャーナラトー師をお招きして、ご法話を賜り、ともに仏法を学び、ともに瞑想の時間を過ごさせていただきたいと思います。


当ブログにおいても触れていますが、私が長く過ごした森のお寺のひとつ、タイ・カーンチャナブリー県にあるワット・パー・スナンタワナーラーム僧院が、アチャン・チャー師が住した森のお寺であるワット・ノーンパーポン僧院の第117番目の支院にあたる森のお寺です。

その森のお寺で、かつてアチャン・ニャーナラトー師も長らく修行をされておられました。

私と直接の面識があるわけではございませんが、時期は違えど、同じお寺で止住しておりました。

個人的な思いではございますが、今回、アチャン・ニャーナラトー師をお招きしてお話を賜る機会に恵まれましたことにご縁に感じ、とても喜びに感じております。


仏教や瞑想に関して興味をお持ちの方やタイの仏教に興味をお持ちの方をはじめ、生き方のヒントを求めていらっしゃる方など、きっと有意義なものとしていただけるのではないかと思っております。

大変貴重な機会ですので、是非お越しいただければと思います。






【 講師ご紹介 】

アチャン・ニャーナラトー 師

奈良県生まれ。京都大学医学部をご卒業され、医師国家試験に合格されるも、タイの著名な高僧の一人であるアチャン・チャー師の流れを汲む森のお寺で出家され、その後もタイ国内の森のお寺で修行に励まれたのち、同じくアチャン・チャー師の流れを汲むイギリスのアマラワティ僧院へ移られて、現在は、副住職としてご活躍されていらっしゃいます。比丘として、とても真摯に仏道実践に励まれていらっしゃるお方です。


【日時】

平成29年3月12日(日)
13:00~16:00


【プログラム】

〇アチャン・ニャーナラトー師の法話
〇瞑想
〇質疑応答(交流会を兼ねます)
〇お布施

などを予定しております。


【会場】

名古屋市中村区竹橋町13-18
オフィスワンタケハシ5階
スポーツ医学&カイロプラクティック研究所

<アクセス>
http://www.sportsdoc.jp/access.htm

※名古屋駅から徒歩約5分程の場所です。


【参加費】

2000円

※参加費は、全てアチャン・ニャーナラトー師へのお布施と交通費とさせていただきます。

※一応の目安として上記の通り設定させていただきますが、お布施ですので必ずしも上記の通りでなくても構いません。
各自任意で結構です。

少しでも皆様方の功徳となりますようにとの願いからのものであります。

ご縁のあった全ての方々にとって、広大なる功徳となりますことを願っております。


【お申込み】

会場の都合により、人数を最大20名様までとさせていただきます。
参加をご希望される方は、お早めに下記までお申込みください。

お申し込み後、1~2日以内にご返信をさせていただきます。
(返信がない場合は、お手数ですが、もう一度メールを送信してください。)

なにとぞ、ご協力をお願い致します。


<メール>
buddhanoomiashi@gmail.com

※ブログからでも結構です。


【お問い合わせ】

ご質問がございましたら、下記アドレスまでお気軽にご連絡ください。

<メール>
buddhanoomiashi@gmail.com

※ブログからでも結構です。






≪ ご注意 ≫

◇ご理解とご協力をお願い致します◇

・参加費は、お釣りのないようにご用意いただきますようご協力ください。
・お飲み物等の準備はございませんので、必要な方は各自でお持ちください。
・筆記用具等は、必要に応じて各自でご準備ください。
(※講師へ質問を記入する用紙をご用意しております。できれば、筆記用具をご持参ください。)

・会場には、椅子・机等はございませんので、服装等にご注意ください。
(※特にスカート等は避けていただくようお願いいたします。)
・個人的にお布施をご希望される方は、お申し出ください。お布施のためのお時間を予定しております。
(※参加費とは別に、お金をお布施される場合は、お声かけください。タイでは、戒律によって比丘はお金に触れることを禁じられておりますので、私が責任を持って戒律に触れることのないようにお取次ぎいたします。)
・タイでは、戒律によって比丘は女性に触れることを禁じられておりますので、女性の方は、ご配慮願います。特に、握手等はご遠慮くださいますようお願いいたします。
また、女性の方がお布施される際には、差し出された布の上にお布施の品物を置いていただくようお願いいたします。
・会場には、椅子がございません。お座りになる際には、比丘(僧侶)に対して足を向けるなど、失礼にあたる行為をお慎みくださいますようお願いいたします。

・ご質問等大歓迎です。どうぞご遠慮なくご質問ください。直接質問しずらいという方は、配布の質問用紙をご利用ください。

・ご縁ですので、お集まりいただいた方々同志、是非とも交流を深めていただくことができれば幸いです。


◇今後の参考とさせていただきたいと思いますので、ご意見・ご感想等お聞かせください。
お気軽にメーッセージをお寄せください。お待ちしております。


◇ともに法を学ぶことができますことを楽しみにしております。


◇今後ともよろしくお願いいたします。



■特別勉強会の開催にあたりまして、スポーツ医学&カイロプラクティック研究所様よりオフィスを会場としてご提供いただきました。

多大なるご協力を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。

誠にありがとうございました。


『スポーツ医学&カイロプラクティック研究所』

http://sportsdoc.jp/



(『平成29年3月・特別勉強会のお知らせ』)





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