そして、私達にわかりやすく「バーワナー」というものをお伝えくださり、瞑想実践のうえでのアドバイスをお伝えいただきました。
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| 写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より |
ニャーナラトー師は、「楽にして、自然に呼吸を観ましょう」ということだけを伝えられ、体系的な瞑想方法などについては触れられませんでした。
なぜならば、チャー師(アチャン・チャー)は、実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること、つまり常に自己を注意深く観察しながら生活を送るという姿勢をとても大切にされていたからです。
私は、ニャーナラトー師もまた、チャー師が大切にされていた生き方をしっかりと受け継いでおられるのだと感じました。
タイでは、いくつもの瞑想方法が実践されています。
これは、私がブログの中においてもご紹介させていただいている通りです。
しかし、どのような瞑想方法であっても、仏教の瞑想の目的はひとつです。
それは、「心を清らかにすること」、すなわち「自己の観察」であり、「気づき」です。
瞑想中に自分自身と“けんか”をしてしまう!?
心を発展させる機会や心を落ち着ける作業中、つまり「瞑想中」に自分自身と「けんか」をしてしまうことがあるのだということをお話されました。
自分自身と「けんか」をしてしまうとは、どのようなことなのでしょうか?
私にもそうした経験がありますので、ニャーナラトー師のこのお話はとても印象に残っています。
「今日の瞑想は、全然ダメだったな・・・」「なかなかうまく瞑想が進まないな・・・」などと、悲観をしたり、能力がないのだと落ち込んでしまう・・・。
そのような経験はありませんか?
おそらく、このような経験は、多くの方にとっても、一度や二度ではないのではないでしょうか。
瞑想実践者であれば、誰もがぶち当たる壁と言いますか、誰もが経験することがらなのではないかと思います。
自分のなかには、自身で想い描いている勝手な「理想」というものがあり、その理想と自身が認識している今の状況とに食違いを感じることで、“勝手な”苦しみを抱えてしまいます。
勝手な妄想・・・これが自分自身との“けんか”の本当の姿です。
良い・悪いの判断をせずに、思ったこと・感じたことをそのままに・・・。
ニャーナラトー師は、「“バーワナー”とは、“気づき”であると言い換えることができる」と、お話になりました。
そして、「気づき」をどのように育てていけばよいのかということについてお話を続けられました。
静かに瞑想していると、実にいろいろな心配事が出てきます。
心が乱れる、心が乱れない。
いい事があった、いい事がなかった。
好きなこと、好きではないこと。
出て来るいろいろな感情には逆らわないようにしてください。
出発点として線引き(良し悪しを決めてしまうこと)をしないようにしてください。
「今、私は、○○と思っているやん」と、気づけた時に状況が変わってくるのです。
その時、その時の気持ちや状態に気づくことが大切です。
瞑想している時に、いわゆる“雑念”が出てきても構わないのです。
こうしなければいけない・・・、こうでなければダメだ・・・。
そのようなことを思う必要はないのです。
これだけが答えだなどと言うことなんてないのです。
こういうのはいいけれども、ああいうのは駄目だ・・・と、いったような自分勝手な見方をやめる。
そして、自分勝手な決めつけや自分勝手な思い込みをやめる。
ものごとにいい・悪いの判断を加えないあり方を学び、身につけていくということが何よりも大切なことです。
その訓練が瞑想実践なのです。
温かな日差しがあったり、雨が降ったり、風が吹いたり・・・それらは、みんなごく自然なこと。
多くの人達と集まる機会によく話題にあがることは、「瞑想について」と、ストレス・仕事・人間関係など「人生一般について」の二点が最も多いのだとニャーナラトー師は言われます。
この二つは、一見すると、全く異なることのように思われますが、実は、同じなのではないでしょうか。
いわゆる“「瞑想」をしている時間だけ”の話なのではなく、人と人との関係も全く同じであるとお話されました。
フィルターをかけてしまう。
垣根を作ってしまう。
こうしたことが往々にしてあるというのが私達の日常です。
また、瞑想なのだからちゃんとしなければならない、瞑想なのだからしっかりと集中しなければならない・・・ついついそのように考えてしまいがちなのですが、そのように捉えてしまうと狭くなってしまうのだということを指摘されました。
これが、はじめに言われた「心を落ち着ける作業中に、自分自身と“けんか”をしてしまうことがある」ということなのです。
晴れの日があれば、雨の日もある。
風も吹けば、曇りの日もある。
あたたかな日差しもある。
それらは、ごくごく自然なことですし、ごくごく当たり前のことなのです。
瞑想実践も同じで、こうでなければならないということは一切ありません。
立っている時は、私は立っていると知り、坐っている時は、私は坐っていると知る。
ありのままの姿をありのままに観ていくことに努めていけばよいのです。
今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのであれば、私は、今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのだなと、感じたままの自分自身の姿を知ればよいのです。
そこに良い・悪いの判断や評価を加える必要ありません。
逆らわないこと=普通にすること
瞑想の時間=私一人の時間
こうしなければいけない・・・。
こうでなければ駄目だ・・・。
そのように思い込んでいる時点で、すでに状況(感情)の中へと入り込んでしまっているのです。
二流の時間だと思えば、二流の時間になってしまいますし、時間を無駄にしてしまったと思えば、時間を無駄にしてしまったことになります。
大切なのは、状況の中に入ってしまっている状態から抜け出すこと、あるいはそのような状態にはならないようにするということなのです。
ニャーナラトー師は、“今”の気持ちや状態に気づくことを「開かれた時間」という言葉で表現されました。
瞑想とは、ありのままの姿をありのままに観ていくことですから、瞑想実践の時間のことを「開かれた時間」というように仰ったのでしょう。
このように「気づき」の生活を送っていくと、変化していないようで少しずつ変化をしていきます。
すると、人間関係も自然に変化してきますし、ものごとの見方やとらえ方も変化してきます。
「なにごとにも恐怖感なく、すっきりとして生きていけるようになるのですよ」と、ニャーナラトー師は仰られ、瞑想実践の時間を結ばれました。
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| 写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より |
瞑想実践の時間を終えて、質疑応答の時間を設けさせていただきました。
今回の特別勉強会では、参加者全員に「質問用紙」をお配りして、自由に書いていただくという形式を採りました。
そのためか、とてもユーモアあふれるメッセージから、とても深いご質問まで、非常に幅広い内容のものが寄せられました。
そして、多くのお時間を質疑応答に当てさせていただき、とても有意義なものとすることができました。
なかには、非常に真摯なご質問や非常に深く学んでおられるご質問なども多数いただきました。
日々、真摯に実践され、日々、真摯に学んでおられることを肌で感じるもので、私自身、襟を正す思いで聴かせていただきました。
本来であれば、みなさま方からのご質問とニャーナラトー師からのお答えをおひとつおひとつご紹介させていただきたいところなのですが、ここでは、当日の質疑応答の中から、チャー師(アチャン・チャー)のお人柄を知り、偲ぶことのできる内容のものをおひとつだけ、ご紹介させていただきたいと思います。
余談なのですが、実は、私が準備をしていた質問と同じ内容のご質問で、非常に気になっていたことがらでした。
ご質問 :
アチャン・チャーとの面識はありますか?
もし、あるとしたら、アチャン・チャーの教えやお人柄、思い出などについて聞かせてください。
お答え :
アチャン・チャーの晩年は、体調を崩されていて寝ておられました。
私(ニャーナラトー師)は、お会いさせていただいたこと自体はあるのですが、実際にアチャン・チャーと言葉を交わしたことはありません。
ですから、お人柄ですとか、お言葉ですとかを直接は存じません。
このお話は、アチャン・チャーがお亡くなりになってからのことですが、ある方がアチャン・チャーはどのようなお人柄で、どのようなことを教えておられたのかということを(後世に)残したいということで、直接、アチャン・チャーを知る人達に「アチャン・チャーは、どんな人でしたか?」ということを聞いて回ったことがありました。
すると、全員が全員とも、全く違ったことを答えたのです。
あの人は、ああだと言う。
この人は、こうだと言う。
みんなバラバラのことを言うのです。
しかし、誰の言葉を聞いても、まさにその通りだという事ばかりだったそうです。
一瞬、とても矛盾しているようにも思えますが、アチャン・チャーは、ものごとの本質を言われる方だったということなのでしょうね。
本質だからこそ、誰がきいてもその通りだと思うことばかりだったのでしょうね。
※お話を一言一句正確に書き留めたものではございません。
上記のような内容のお答えであったということでご理解ください。
私は、チャー師のことを、お写真とタイで見聞したごくわずかのことしか知りません。
また、日本で出版されている日本語に翻訳されたご著書のうえでしかそのお人柄を知りません。
チャー師がどのようなお人柄の方であったのか、チャー師の教えを直接受け継いでいる森林僧院で修行をなさってこられたお方ならではの温かなエピソードであると感じました。
今回のニャーナラトー師のご法話を聴聞させていただき、私は、どこか心が軽くなったような気がいたしました。
嫌な性格を治すことでもないし、嫌なことを無くすことでもない。
嫌な性格、嫌なことが、そのまま嫌でなくなるということなのです。
今までのそういった自分の在り方を全部ひっくるめて嫌ではなくなるのです。
だからこそ、自分自身とのつき合い方が楽になるのですよ。
と、ニャーナラトー師はお話くださいました。
善き心を育てていくことと、徳を積み重ねていくこと。
これは、出家であっても、在家であっても、何ひとつ変わるところはありませんし、今の私の生活の中にあったとしても何も変わるものではありません。
実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること。
自己を常に注意深く観察しながら生活を送ることに努めること。
満たされた心も、満たされない心も、全てを含めて気づいていく。
私にとっては、日々、一分でも一秒でも、心を発展させる機会を持つようにしていくことを再度確認し、気持ちを新たにする機会を与えていただいた法話会となりました・・・私は、ニャーナラトー師のご法話をこのように聴かせていただきました。
私にとっても、みなさまにとっても、大きな功徳となり、善きご縁となりますように。
そして、日々が明るく、穏やかなものとなりますように。
今回のご縁を賜りましたことに深く感謝致します。
合掌・礼拝(3回)
サートゥ
(สาธุ / sādhu)
※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。
※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。
(『ニャーナラトー師の法話3 ~私はこのように聴きました <瞑想の時間と質疑応答> ~』)
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