そして、私達にわかりやすく「バーワナー」というものをお伝えくださり、瞑想実践のうえでのアドバイスをお伝えいただきました。
写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より |
ニャーナラトー師は、「楽にして、自然に呼吸を観ましょう」ということだけを伝えられ、体系的な瞑想方法などについては触れられませんでした。
なぜならば、チャー師(アチャン・チャー)は、実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること、つまり常に自己を注意深く観察しながら生活を送るという姿勢をとても大切にされていたからです。
私は、ニャーナラトー師もまた、チャー師が大切にされていた生き方をしっかりと受け継いでおられるのだと感じました。
タイでは、いくつもの瞑想方法が実践されています。
これは、私がブログの中においてもご紹介させていただいている通りです。
しかし、どのような瞑想方法であっても、仏教の瞑想の目的はひとつです。
それは、「心を清らかにすること」、すなわち「自己の観察」であり、「気づき」です。
瞑想中に自分自身と“けんか”をしてしまう!?
心を発展させる機会や心を落ち着ける作業中、つまり「瞑想中」に自分自身と「けんか」をしてしまうことがあるのだということをお話されました。
自分自身と「けんか」をしてしまうとは、どのようなことなのでしょうか?
私にもそうした経験がありますので、ニャーナラトー師のこのお話はとても印象に残っています。
「今日の瞑想は、全然ダメだったな・・・」「なかなかうまく瞑想が進まないな・・・」などと、悲観をしたり、能力がないのだと落ち込んでしまう・・・。
そのような経験はありませんか?
おそらく、このような経験は、多くの方にとっても、一度や二度ではないのではないでしょうか。
瞑想実践者であれば、誰もがぶち当たる壁と言いますか、誰もが経験することがらなのではないかと思います。
自分のなかには、自身で想い描いている勝手な「理想」というものがあり、その理想と自身が認識している今の状況とに食違いを感じることで、“勝手な”苦しみを抱えてしまいます。
勝手な妄想・・・これが自分自身との“けんか”の本当の姿です。
良い・悪いの判断をせずに、思ったこと・感じたことをそのままに・・・。
ニャーナラトー師は、「“バーワナー”とは、“気づき”であると言い換えることができる」と、お話になりました。
そして、「気づき」をどのように育てていけばよいのかということについてお話を続けられました。
静かに瞑想していると、実にいろいろな心配事が出てきます。
心が乱れる、心が乱れない。
いい事があった、いい事がなかった。
好きなこと、好きではないこと。
出て来るいろいろな感情には逆らわないようにしてください。
出発点として線引き(良し悪しを決めてしまうこと)をしないようにしてください。
「今、私は、○○と思っているやん」と、気づけた時に状況が変わってくるのです。
その時、その時の気持ちや状態に気づくことが大切です。
瞑想している時に、いわゆる“雑念”が出てきても構わないのです。
こうしなければいけない・・・、こうでなければダメだ・・・。
そのようなことを思う必要はないのです。
これだけが答えだなどと言うことなんてないのです。
こういうのはいいけれども、ああいうのは駄目だ・・・と、いったような自分勝手な見方をやめる。
そして、自分勝手な決めつけや自分勝手な思い込みをやめる。
ものごとにいい・悪いの判断を加えないあり方を学び、身につけていくということが何よりも大切なことです。
その訓練が瞑想実践なのです。
温かな日差しがあったり、雨が降ったり、風が吹いたり・・・それらは、みんなごく自然なこと。
多くの人達と集まる機会によく話題にあがることは、「瞑想について」と、ストレス・仕事・人間関係など「人生一般について」の二点が最も多いのだとニャーナラトー師は言われます。
この二つは、一見すると、全く異なることのように思われますが、実は、同じなのではないでしょうか。
いわゆる“「瞑想」をしている時間だけ”の話なのではなく、人と人との関係も全く同じであるとお話されました。
フィルターをかけてしまう。
垣根を作ってしまう。
こうしたことが往々にしてあるというのが私達の日常です。
また、瞑想なのだからちゃんとしなければならない、瞑想なのだからしっかりと集中しなければならない・・・ついついそのように考えてしまいがちなのですが、そのように捉えてしまうと狭くなってしまうのだということを指摘されました。
これが、はじめに言われた「心を落ち着ける作業中に、自分自身と“けんか”をしてしまうことがある」ということなのです。
晴れの日があれば、雨の日もある。
風も吹けば、曇りの日もある。
あたたかな日差しもある。
それらは、ごくごく自然なことですし、ごくごく当たり前のことなのです。
瞑想実践も同じで、こうでなければならないということは一切ありません。
立っている時は、私は立っていると知り、坐っている時は、私は坐っていると知る。
ありのままの姿をありのままに観ていくことに努めていけばよいのです。
今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのであれば、私は、今日の瞑想は、駄目だったな・・・と感じたのだなと、感じたままの自分自身の姿を知ればよいのです。
そこに良い・悪いの判断や評価を加える必要ありません。
逆らわないこと=普通にすること
瞑想の時間=私一人の時間
こうしなければいけない・・・。
こうでなければ駄目だ・・・。
そのように思い込んでいる時点で、すでに状況(感情)の中へと入り込んでしまっているのです。
二流の時間だと思えば、二流の時間になってしまいますし、時間を無駄にしてしまったと思えば、時間を無駄にしてしまったことになります。
大切なのは、状況の中に入ってしまっている状態から抜け出すこと、あるいはそのような状態にはならないようにするということなのです。
ニャーナラトー師は、“今”の気持ちや状態に気づくことを「開かれた時間」という言葉で表現されました。
瞑想とは、ありのままの姿をありのままに観ていくことですから、瞑想実践の時間のことを「開かれた時間」というように仰ったのでしょう。
このように「気づき」の生活を送っていくと、変化していないようで少しずつ変化をしていきます。
すると、人間関係も自然に変化してきますし、ものごとの見方やとらえ方も変化してきます。
「なにごとにも恐怖感なく、すっきりとして生きていけるようになるのですよ」と、ニャーナラトー師は仰られ、瞑想実践の時間を結ばれました。
写真:『Forest Sangha Calendar 2017・2560』より |
瞑想実践の時間を終えて、質疑応答の時間を設けさせていただきました。
今回の特別勉強会では、参加者全員に「質問用紙」をお配りして、自由に書いていただくという形式を採りました。
そのためか、とてもユーモアあふれるメッセージから、とても深いご質問まで、非常に幅広い内容のものが寄せられました。
そして、多くのお時間を質疑応答に当てさせていただき、とても有意義なものとすることができました。
なかには、非常に真摯なご質問や非常に深く学んでおられるご質問なども多数いただきました。
日々、真摯に実践され、日々、真摯に学んでおられることを肌で感じるもので、私自身、襟を正す思いで聴かせていただきました。
本来であれば、みなさま方からのご質問とニャーナラトー師からのお答えをおひとつおひとつご紹介させていただきたいところなのですが、ここでは、当日の質疑応答の中から、チャー師(アチャン・チャー)のお人柄を知り、偲ぶことのできる内容のものをおひとつだけ、ご紹介させていただきたいと思います。
余談なのですが、実は、私が準備をしていた質問と同じ内容のご質問で、非常に気になっていたことがらでした。
ご質問 :
アチャン・チャーとの面識はありますか?
もし、あるとしたら、アチャン・チャーの教えやお人柄、思い出などについて聞かせてください。
お答え :
アチャン・チャーの晩年は、体調を崩されていて寝ておられました。
私(ニャーナラトー師)は、お会いさせていただいたこと自体はあるのですが、実際にアチャン・チャーと言葉を交わしたことはありません。
ですから、お人柄ですとか、お言葉ですとかを直接は存じません。
このお話は、アチャン・チャーがお亡くなりになってからのことですが、ある方がアチャン・チャーはどのようなお人柄で、どのようなことを教えておられたのかということを(後世に)残したいということで、直接、アチャン・チャーを知る人達に「アチャン・チャーは、どんな人でしたか?」ということを聞いて回ったことがありました。
すると、全員が全員とも、全く違ったことを答えたのです。
あの人は、ああだと言う。
この人は、こうだと言う。
みんなバラバラのことを言うのです。
しかし、誰の言葉を聞いても、まさにその通りだという事ばかりだったそうです。
一瞬、とても矛盾しているようにも思えますが、アチャン・チャーは、ものごとの本質を言われる方だったということなのでしょうね。
本質だからこそ、誰がきいてもその通りだと思うことばかりだったのでしょうね。
※お話を一言一句正確に書き留めたものではございません。
上記のような内容のお答えであったということでご理解ください。
私は、チャー師のことを、お写真とタイで見聞したごくわずかのことしか知りません。
また、日本で出版されている日本語に翻訳されたご著書のうえでしかそのお人柄を知りません。
チャー師がどのようなお人柄の方であったのか、チャー師の教えを直接受け継いでいる森林僧院で修行をなさってこられたお方ならではの温かなエピソードであると感じました。
今回のニャーナラトー師のご法話を聴聞させていただき、私は、どこか心が軽くなったような気がいたしました。
嫌な性格を治すことでもないし、嫌なことを無くすことでもない。
嫌な性格、嫌なことが、そのまま嫌でなくなるということなのです。
今までのそういった自分の在り方を全部ひっくるめて嫌ではなくなるのです。
だからこそ、自分自身とのつき合い方が楽になるのですよ。
と、ニャーナラトー師はお話くださいました。
善き心を育てていくことと、徳を積み重ねていくこと。
これは、出家であっても、在家であっても、何ひとつ変わるところはありませんし、今の私の生活の中にあったとしても何も変わるものではありません。
実生活のなかで常に「気づき」を保ちながら行動すること。
自己を常に注意深く観察しながら生活を送ることに努めること。
満たされた心も、満たされない心も、全てを含めて気づいていく。
私にとっては、日々、一分でも一秒でも、心を発展させる機会を持つようにしていくことを再度確認し、気持ちを新たにする機会を与えていただいた法話会となりました・・・私は、ニャーナラトー師のご法話をこのように聴かせていただきました。
私にとっても、みなさまにとっても、大きな功徳となり、善きご縁となりますように。
そして、日々が明るく、穏やかなものとなりますように。
今回のご縁を賜りましたことに深く感謝致します。
合掌・礼拝(3回)
サートゥ
(สาธุ / sādhu)
※記事の中には、ニャーナラトー師の言葉を多く引用しています。また、ニャーナラトー師の言葉に私の言葉や解釈を織り交ぜて表現している箇所も多くあります。そのうえで、私の「理解」として記事をまとめていますので、その点をご了承ください。
※また、ニャーナラトー師がお伝えされたかったことを正しく伝えることができていないかもしれません。これは、ニャーナラトー師には大変失礼かつ、申し訳のないことなのですが、ひとえに私の理解不足、そして未熟さゆえのことです。何卒お許し願いたいと思います。
(『ニャーナラトー師の法話3 ~私はこのように聴きました <瞑想の時間と質疑応答> ~』)
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8 件のコメント:
ブログ拝見しました。
ニャーナラトー師の法話(1~3)のご紹介ありがとうございます。
私も、「戒(シーラ)」が仏道修行の土台となるものだと思います。ミャンマーでは、サマタ瞑想でもヴィパッサナー瞑想でも、およそ瞑想修行を行うためには、まずは戒を守ることが大切であると言われます。戒なしで瞑想しても、どこかで壁にぶつかるみたいです。
それと、「戒(シーラ)」は、「道徳」なのですね。勉強になりました。英文の仏教書を読むと、シーラをethic、virtue、moralなどと訳されていることが多く、やはり道徳や倫理として捉えられている感じです。「戒=道徳、倫理」というのは、自分的にはイマイチ?だったのですが、疑念が解消された感じでした。
瞑想(バーワナー)の実践では、やはり、何が生じても、善悪などの判断をせずに客観的に観察するということなのですね。私にとって、これが一番できていない点だと思っています。瞑想中に様々な雑念が生じるのですが、思わず善悪などの判断をしてしまっている感じです。観照というか、「ありのままに判断抜きに観察する」ことができるようになることが当面の課題です。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
以前にも記事として書かせていただいたことなのですが、先輩比丘達から「還俗して日本へ帰ったとしても、五戒だけはしっかりと守っていくように」と、励ましを受けたことがあります。「必ず五戒はお前を守ってくれるからな」と。
今になってようやく、その本当に意味するところがよくわかったように思います。瞑想実践中だけのことなのではなくて、日常生活上においても非常に大切なのだと実感しました。生活を整えることも然り、心を整えることも然り。
私も同じく、戒と言われてもしっくりと来なかったのですが、“道徳”さらには“善い生活習慣をつける”と説明されると、とてもしっくりときます。
なかなかありのままを観察していくことができずに、苦しんでいる一人なのですが、日々、継続して少しずつ善い習慣をつけるように努めて、心を育てていくしかないと思っています。「ありのままを観察する」には、まずは心が穏やかで、整っていなければできないことですからね。私も課題が山積みですが、一歩一歩、地道に進んで行くしかない、そのように思っています。
とても善き学びとなるコメントをいただきましてありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
こんにちは。
いつも興味深くブログ拝見させてもらってます。
タイのバンコクからコメントさせてもらっています。
ブログでアチャーン・チャー師の教えやお人柄に関する記述がありましたが、YouTubeやPodcast上でも師に関する多くの逸話が師を直接知る数々の直弟子によるトークで配信されています。一方で今年はアチャーン・チャー生誕100周年を記念して先月チャー師のイギリス人直弟子、アチャーン・チャヤサローが10年以上をかけて執筆したという伝記 "Stillness Flowing"が出版されました。800頁を超える分厚い本ですが、バンコクではスアンモーク・クルンテープ(BIA)にてハードカバーを無料配布しています。私が知る限り印刷本はそこで配布しているだけで郵送には対応していないようです。もしご希望であり、かつ入手の手段がないようであれば私が一冊確保しておきます。かなり分厚く重たいハードカバー本ですので日本まで郵送いたしますとは気軽にお約束できないのが心苦しいですが、手段は後で考えておきますので。印刷本でなくてもよろしければ今年中、6月17日の誕生日までに同書籍の電子書籍とオーディオブックがForest Sanghaのホームページから配信されるそうです。
またタイ語を読めるようでしたら同じくアチャーン・チャヤサローが1993年のチャー師の葬儀に合わせて出版したอุปลมณี(ウパラマニー)というタイ語の伝記の電子書籍をこちらからダウンロードできます。私は読んでいませんが、こちらも500頁を超える本だそうです。リンク先サイト下のPDFのアイコンをクリックするとダウンロードが始まります。因みに"Stillness Flowing"は同じ筆者による同じチャー師の伝記ですので重複する部分はあるでしょうが「ウパラマニー」の英訳という位置づけではないそうです。
https://www.jayasaro.panyaprateep.org/books/detail/62
ちなみ筆者のアチャーン・チャヤサロー師はこちらの動画で”Stillness Flowing"を紹介しています(1時間半超)。
https://www.youtube.com/watch?v=Y2JZlWsMzHw
"Stillness Flowing"は私も今読んでいる最中ですが、800頁強な本だけにチャー師の生い立ちからお人柄、修業スタイルまでかなり詳細に書かれています。
年末年始にウボンのラオスとの国境まで行ってきたついで、初めてWat Pah Nanachatにも立ち寄ってきました。お会いしていませんが、そこで出家して3年目という日本人の僧侶がいると聞いたのと、はるばるニューヨークから来たという日本人女性が修業していました。先月の26周忌には大きな追悼イベントがあったようですが、6月にも聖誕祭みたいなのがあるのではないかと思い、またウボンに行くことを考えております。
それではブログ更新、楽しみにしております。
以上、ご参考まで。
Jun Ikeda 様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
非常に詳細な情報をありがとうございます。現在では、オンラインでも仏教に関するさまざまな情報が発信されているところに時代を感じますね。ご存知の通り、タイでは“小冊子”から“書籍”と言えるような出版物に至るまで「施本」という形で無料配布されています。こうしたところは敬虔な仏教国らしいところであり、また非常に素晴らしいと思える一面だと私は感じています。
さて、つい先日、アチャン・チャー師の生誕100年の記念行事が開催されたらしいというお話を風の便りにではありますが私もおうかがいをしております。森のお寺で過ごしていた時のことを懐かしく思い出しました。
ところで、アチャン・チャー師の修行スタイル、すなわちアチャン・チャー師が教えていた具体的な「瞑想法」を知りたいという日本人が相当数いるようです。私が理解している範囲ですと、アチャン・チャー師は生活そのものの中において瞑想を深めていくことを重視されています。その場、その時、その人物、そしてその人物のその時の状況や状態に応じた最も適切と思われることがらを指導されていたと理解をしています。実際に、私が滞在していた森のお寺においてもそうした指導でした。
私もさらに詳しくアチャン・チャー師の生い立ちやお人柄、瞑想スタイルやエピソードなどを、直接アチャン・チャー師に学んだ直弟子の方々の言葉から深く学びたいという思いはあるものの、非常に恥ずかしながら、英語もタイ語も容易に読みこなせるようなレベルにはありません。施本については、機会があればということで結構かと存じます。Ikeda様のお気持ち、とても嬉しく、とてもありがたく存じます。本当にありがとうございます。深く感謝の気持ちをお伝えさせていただきたいと思います。
私は、ほんのごく一部しか知りませんが、こうした素晴らしい人物の書籍は、是非とも日本においても広く知られて欲しいものだと思いますね。
コメントをいただきましてありがとうございます。
また、さまざまなお話ができればと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。
いつも興味深くブログを拝見させてもらっています。
追記となりますがアチャーン・チャーと言う人物に興味ありましたらまた洋書の紹介で恐縮ですが、1970年代にVarapanyo比丘としてワット・ノンパーポンで出家したアメリカ人、Paul Breiter氏が書いた”Venerable Father: A Life with Ajahn Chah”という本もお薦めです。同書は西洋人としては比較的早い1970年にタイで出家し77年に還俗するまでの5年間をアチャーン・チャーの直弟子としてワット・ノンパーポンで修業したBreiter氏がその経験をしたためた本ですが美辞麗句を並べたり美化して神格化されたりすることのない、著者がありのままに見た等身大の人間・アチャーン・チャーが登場します。チャー師という人物のみならず、私も当時のタイにいましたが70年代というバンコクでさえ貧困を感じられた時代の開発に取り残されたウボンの貧しい村の分院で過ごした雨安居や初期のワット・ノンパーポンの様子も伝わってきて時代考証という点でも非常に貴重です。また還俗後もチャー師の訪米時に再会し、付き人・通訳としてお伴していますが師弟関係を超えた人間味溢れるやりとりや、その後何度もタイを訪れては在家として再会したチャー師の晩年の様子も紹介されています。
Paul Breiter氏は還俗後チャー師の教えを纏めた有名な”Still Forest Pool”や”Being Dharma”の翻訳・監修に携わっていますが”Venerable Father”の方が面白いこともあって私にはこちらの方がすらすらと読めてしまいました。”尚、Venerable Father”と上記2冊は米Amazonから電子書籍(Kindle)としても購入できます。
今年は生誕100周年ということで200近いテープレコーダー音源をデジタルマスター化した法話が配信される予定なのと(タイ、またはラオ語)それらを纏めた本が10冊出版される予定だそうです(まずはタイ語で)。前述の通りForest Sanghaのポッドキャストでも既に4本ほど配信済みですが中でも1978年元旦にワット・ノンパーポンに2ヶ月間滞在後、本国への帰国を控えたイギリス人女性に向けた「インフォーマルな法話」”Living with the Cobra”は特にお薦めです。チャー師の教えはよくシンプルでダイレクト、かつ”down to earth”(地に足が着いた?)などと言われていますがここでも比較的わかりやすく大切なことを説いています。小鳥のさえずりや鶏の鳴き声、夜半に録音されたと思える法話はコオロギの鳴き声も聞こえてきて「森の寺」や「洞窟の寺」の雰囲気を感じ取れます。
以上、アチャーン・ニャーナラトーの記事にアチャーン・チャーに関するコメントばかりで恐縮ですがご紹介したく。それではブログ更新、今後とも楽しみにしております。
Jun Ikeda 様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
私は、ワット・ノーンパーポンの朝夕の勤行CDを持っています。時折、そのCDを聴きながら当時のことを思い出すのですが、そのCDも同じく同時に鶏の鳴き声などが入っており(おそらく“レコーディング”というよりも、いつも通りの“日常”をそのまま録音したのでしょう。)、本当に森のお寺の雰囲気をよく感じ取ることができます。あたかも、私自身が森のお寺にいるかのような気持ちにさせられます。
アチャン・チャー師の西洋人の弟子達は、還俗後もさまざまな方面において、さまざまな形でもってご活躍なさっているようですね。おそらく、西洋人にとってテーラワーダ仏教やその瞑想と接触したことは、まさに衝撃だったのではないかと思います。なぜならば、仏教の説く価値観は西洋における既存の価値観にはないものであるからです。さらには、仏教の生きた実践方法もまた大きな驚きだったのではないかと思います。
その点、日本には多少形を変えてはいますが根底では仏教の思想が流れており、現代においても確かにその“かけら”程度は残っています。ですから、日本人にとってのテーラワーダ仏教との接触は、西洋人にとってのそれとは大きく異なるのではないかと思うのです。それゆえに多くの日本人の場合は、“衝撃”ではなく“驚き”でとどまるのではないでしょうか。もっとも、近年ではその“かけら”ですらも残存していませんから、やはり日本人においても今後“衝撃”は大きくなっていくことでしょうし、さらに“衝撃”を受ける人は増えていくのではないかと個人的には考えています。
すでにアチャン・チャー師は神格化されていますので、自分とは異なった世界に存在した人となってしまっています。等身大でありつつも偉大なる師の人間味溢れる人物像を伝えていくということは、極めて大切なことであると考えます。また、実際に教えを受けて、実際に悩みつつ励まされながら道を歩んできた弟子達による、というところが極めて重要なところかと思います。
それによってどれだけの人達が“善ききっかけ”と出会うことができ、善き励ましを得られることか・・・その与える善き影響力の大きさは計り知れないのではないかと私は思うのです。
タイにおいて、また英語圏の国々においてこういったことが盛んになっているということは、実に素晴らしいことであると感じる一方で、日本はまだそうとは言えない状況なので非常に羨ましくも感じますね。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
いつも興味深くブログを拝見させてもらっています。
衝撃、あったであろうと思います。
"Stillness Flowing"の著者、Ajahn Jayasaro師はイギリス人として生まれながらキリスト教に代表される宗教・信仰には一切興味がなかったそうです。一方で西洋的思想、価値観と相容れないかというとそうでもなかったと思いますので、受け入れられる土壌はあったのではないかと思います。私にはむしろテーラワーダ仏教がタイで広まったことに驚きを感じることがあります。
さて、以前ご紹介しましたその”Stilness Flowing”ですがPDFと電子書籍版がリリースされました。
印刷書籍同様、無料で配布されていますのでアチャーン・チャーに関してこれ以上詳細に書かれた本はないと思える同書、英語がおわかりの方は是非この機会にダウンロードしてみることをお薦めします。
https://www.jayasaro.panyaprateep.org/books/detail?id=65%3Flang
リンクの下に3つのアイコンがありますが、いずれかをクリックするとダウンロードが始まります。中央のアイコンがPDF版ですがPDFであれば特別なアプリに依存することなく開くことができます。
一方でもしKindle端末などの電子書籍リーダーやタブレットをお持ちであればお持ちの専用リーダーやアプリに応じたファイルフォーマットを取り込んで読むのが一番読みやすいと思います。ちなみにMの文字のアイコン(右側)がアマゾンKindle用フォーマット(MOBI)でeの文字のアイコンがePUBと言ってSony, iBook, B&Nなどの専用フォーマットです(左側)。
それらのアプリや端末に依存せずともPDF版であればノートパソコンなどでもすぐに開いて読むことができますが、私も印刷本を4割まで読んだところで電子書籍に切り替えましたがやはりiPadでKindle(アプリ)に取り込んだ電子書籍の方が圧倒的に読みやすいです。
タブレットや電子書籍リーダーがなくてもPDFで読めますが、800頁を超える書籍をパソコンやスマホの画面で読むのは辛いものがあると思いますのでこの機会にタブレットや専用端末などをお買い求めてもよいかもしれません。一方専用端末がなくともKindleのアプリはパソコンやタブレット、スマホ等の端末に無料でインストールできますので無料インストールしたアプリにMOBIフォーマットの同書を取り込んで開くことは可能です。PDFのまま読むよりはずっと読みやすいと思いますのでKindleなどをまだ利用されたことがないという方もこの機会にインストールされてみるのもいいかもしれません。
尚、日本ではアチャーン・チャーの瞑想法に強い関心が寄せられているとのことですが、「アチャーン・チャー式瞑想法」もワット・ノンパーポン固有の瞑想法というものも存在しません。しかしアチャーン・チャーがどう瞑想を指導していたかということは”The Heart of the Matter”という章で詳細に解説されており、その章自体が一冊の瞑想の指南書と読めるくらいの情報量があります。
Ajahn Jayasaroが20年の歳月をかけて執筆した800頁を超える同書、私自身未だ完読しておりませんが施本とはいえこれだけの力作を無料で施してもらえることを身に余る幸せと思って毎日ありがたく読んでいます。
日本でも最近漸くアチャーン・チャーに関する関心が高まっているのか、日本にいない私にはよくわかりませんが、是非ご紹介してあげてください。
それでは今後ともブログ更新を楽しみにしております。
Jun Ikeda 様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
貴重な情報をいただきましてありがとうございます。
インターネット上の記事をいくつか読んでみますと、アチャン・チャーはどのような瞑想法を採用していたのかということに複数の人が関心を寄せているようです。現在、テーラワーダ仏教の瞑想法として紹介されているものの多くは創始者がはっきりとしており、明確な方法論が示されています。ゆえに、瞑想指導者はある特定の方法論に基づいた指導と実践をしているものと理解されている節があります。日本では「宗派」の概念が非常に強固なこともあって、こうした理解と観念を生み出しやすい土壌があるのではないかと私は考えています。
実際には、まさに対機説法ともいうべき実に臨機応変なものであったということは、アチャン・チャーのいくつかの著書(現在、日本国内の一般書店で入手可能な著書)やワット・ノーンパーポンの系列寺院での生活や雰囲気などから汲み取ることができます。
仰る通り、すでに“書籍”とも言えるような冊子を施本として無料で配布されているというのは、日本からすると全く考えられないことで驚きそのものです。さすがは敬虔な仏教の国であると感服するばかりです。一方で、一応は仏教国であると認識されている日本の状況がとても残念に思えてなりません。
今後もテーラワーダ仏教への関心は高まっていくものと思われます。おそらく、近い将来、日本語に訳された書籍が出版される時が来るかと思います。そうなればアチャン・チャーへの関心ばかりではなく、尊敬と敬愛の念がさらなる高まりを見せるのではないかと思います。
単なる仏教書や単なる瞑想指導書という枠を越えた出家・在家を問わず、非常に素晴らしい「生き方」が示されているものなのですから。
コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
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