タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


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2023/01/09

男性器を包丁で切断した比丘


『タイの出家生活で一番辛かったことは何ですか?』


このようによく質問を受けることがある。


タイという異国の地での出家生活とは、一体如何なるものかということに興味があるのだろうか。



私は、この問いに対して、ただ『感情とどう付き合っていくのかが最も辛かったことです。』とだけ答えることにしている。


なぜなら、その質問に対して大真面目に答えたところで、私が苦労してきたことは、誰にも理解されることはないだろうと感じているからだ。



特に日本人には。



何が一番の『苦痛』であるのかは人によって違うだろう。


それぞれ興味や関心が違うし、好みも趣向も違うからだ。


すなわち、人にって執着の対象が違うのだから、『苦痛』に感じることがらも違ってくるというわけである。


それほど執着を持たない対象であれば『苦痛』に感じることはないだろうし、執着を持つ対象になればなるほど『苦痛』は大きなものとなる。



『苦痛』とは、感覚であって、感じ方なのだ。



私にとっての一番の苦痛は、やはり『性欲』だ。


もしも、『性欲』に関する苦痛が解消されていたとしたら、私はタイへ帰って再出家をしていたかもしれない。


あるいは、還俗せずにそのままタイで出家生活を続けていたかもしれない。


今、このようにして在家生活を送っているのも、やはり『性欲』というものがあるからであって、強い執着があるからという理由も大きい。



タイの比丘が守るべき227の戒の第一条は、(異性・同性ともに)性的な交わりを禁じる条項だ。


出家者(沙彌と比丘)である限り、自慰行為をも含めた一切の性的な行為は行うことができない。


これを守り通すことができないのであれば、還俗するしかない。



この点が日本人には理解できないところである。


比丘をやりたければ、やったらいいではないかと思うかもしれないが、そうではない。


『性欲』を抑え切ることができなければ、比丘をやりたくても、やってはいけないのである。



それは、『性欲』というものを通して人間の真実の姿を観ていくための“きっかけ”とし、精神的な高みへと昇華させていくのが瞑想であり、出家生活であるからだ。


自ら進んで『性欲』に耽っていたのでは、在家生活となんら変わるところがないのである。



その“道”を理解できる日本人はどれだけいるだろうか。











本来は、日本の仏教においても出家者に性行為は認められるべきものではないと理解をしている(女犯の歴史についても、ひと通りは存知しているということをあらかじめ付記しておく。)。


宗祖仏教であるとか、宗派仏教であるといわれる日本の仏教にあっては、釈尊とまでは言わないまでも、せめて各宗派の祖師方が生きた道を歩むべきなのではないだろうか。


どの祖師方・高僧方に性行為を行い、家庭生活を営んだ出家者がいただろうか。


百歩譲って、もしも、それらが認められるとするならば、浄土真宗だけなのではないかと思う。


なぜならば、親鸞自身がそうした生き方に信念を持ち、救われるのだという確信を貫いた人だからだ。



日本の僧侶なら結婚も性行為も認められているのだから、何も問題はないという向きもあるかもしれないが、私の中では、その点だけはどうも釈然としない。


各宗派、それなりの説明がなされているようではあるが、やはりどこか腑に落ちない。


祖師方に直接訊ねさせていただきたいものである。



まさか“隠すは上人、せぬは仏”であったわけではあるまい・・・



だからこそ、私は、日本において『僧侶』となることができなかった。


私の中の何かが止めるのだ。



それゆえに、『タイの出家生活で一番辛かったことは何ですか?』というその質問に対して、大真面目に答えたところで、茶化されて終わりではないか。


私が苦労してきたことなど、誰にも理解されることはない。


誰も『性欲』の問題に対して真剣に向き合おうとしていないし、『性欲』というものに対して、はじめから開き直っているからである。


むしろ“我慢”をしている方が“馬鹿”だと言わんばかりだ。



最初から“無理”を前提にするのではない。


自己の懺悔(さんげ)というか、そうした自己を恥じる姿があってもよいのではないだろうかと思う。




さて、先日、インターネットで下記のような記事を目にした。


普段は、インターネットの記事をもとにブログの記事を書くことはしないのだが、私の実体験と重なるところがあり、また日本では決して見かけることのない非常に生々しい記事であったため、これは大変貴重だと思った。


このような機会はないと思い、拙ブログの記事として取り上げることにした。



無断転載禁止のため、URLを掲載しておくことにする。


それほど長い記事ではないので、まずは、ご覧いただきたいと思う。



記事には画像も掲載されているので、さらに生々しい。


このような生々しい画像を掲載しているところが、いかにも海外発信の記事らしくて良い。



おそらく、掲載には期限があるかと思うので、お早めにご覧いただくことをおすすめしたい。




【『知的好奇心の扉 トカナ』より】


『僧侶が自らの男性器を包丁で切断! 血まみれのまま「穏やかな微笑み」を浮かべ…』




【『デイリースター』より】※閲覧注意※


『セックスに飢えた仏教の僧侶は、ナイフでペニスを切り落とそうとしながら「微笑む」』

https://www.dailystar.co.uk/news/world-news/sex-starved-buddhist-monk-smiles-28861577?int_source=nba



記事の内容は、上段の記事と同じであるが、下段の記事では、画像に修正が加えられていない写真をそのまま閲覧することができる。


ただし、非常に生々しいので閲覧には注意されたい。


ちなみに、余談になるのだが、このくらいの写真は、私がタイにいた当時は、ごくごく当たり前にカラーで新聞に掲載されていた。


タイの新聞に慣れないうちは、毎回大いに驚かされたものだが、そのうちに慣れてくるものだ。


それほど抵抗感を覚えなくなる。


日本では、全くもって考えられない、あり得ない写真である。




詳しくは、上記のリンク先の記事をご覧いただきたいのであるが、一言で記事の概要をまとめて簡略に説明するならば、『比丘が自身の男性器を切断しようとした』という記事だ。


ただし、その動機については、『ただ手が動いて、切り始めた』と書かれているだけで、明確な動機はわからないとしている。


本当の理由は本人にしかわからないのだから、彼の動機その他については言及しない。



私が、ここで言いたいことは、『男性器を切断する』という行為についてである。



実は、何を隠そう、私も同じことを考えたことがあるのだ。


ただ記事の比丘と違うのは、行為に及んだか及ばなかったのかの一点でしかない。



記事を読む限りでは、その比丘は、相当感覚が麻痺していたように感じられる。


痛みを全く感じていないという点で、感覚が麻痺していたとしか思えない。


相当『性欲』に対して向き合ってきた結果なのか。


いずれにしても、彼のことは彼本人にしかわからないから、何も言いようがない。



そのような意味では、私のほうがまだ“正気”だったのかもしれない。



男性器を切断すれば、『性欲』の苦しみから解放されるに違いないということを考えはしたものの、もしも、男性器を切断すれば、当然のことながら筆舌に尽くしがたい痛みを味わうことになるだろうし、永遠に男性としての快楽も得られないことになる。


それを思うと、とてもではないが行為に及ぶことなどできない。


ただでさえ、私にとっての『性欲』とは苦しみそのものであるのに、そうしたジレンマも加わってさらに苦しくなるのである。



もっとも、このように考えていた時点で、やはり私のほうが“正気”だ。











『性欲』さえなければ、どれだけ楽になるだろうかと何度思ったことか。


そのような思いから、男性器を切断すれば、『性欲』は無くなるだろうと考えるのはごく自然なことである。



こうした『性欲』に関する悩みを私の師に吐露したことがあった。


師は、私に以下のように諭してくださった。




『性欲というものは、表面的に消し去ろうとしても意味がない。


たとえ、男性器を取り去ったとしても、それはごく表面的なことであって、全く意味がないことなのだよ。


そんなことをしても『性欲』は消え去らない。


性欲というものの本質を見抜かなければ、全く意味がないのですよ。


性欲というものの本質を見抜いてこそ、性欲から離れることができるものなのだよ。


仏典の中にもそのようなお話がありましたね。』




そうである。全く師のおっしゃる通りである。


男性器を切断したところで、『性欲』は消え去りなどしないのだ。



『性欲』=『男性器』というのは、一見すると至極真っ当にも思えるのだが、実は、非常に短絡的な図式で、『性欲』の本質を全く見抜いていない、単なる妄想なのである。



現に、男性器を取り去った人の話では、男性器を取り去った後も『性欲』ははっきりと“ある”と明言している。


男性器を取り去ったとしても、『性欲』は消え去らないことの証であり、私の師の言葉が正しいことを証明する言葉だ。



男性器を包丁で切断した比丘の真意はわからない。


しかし、男性器を切断するという行為を考えたことのある私には、どこか他人事には思えなかった。


私も頭が狂ってしまいそうになるほどまで苦しい思いを経験している。


『性欲』にとりつかれ、頭がおかしくなってしまうほど追い詰められるのだ。


『瞑想』で云々のレベルではない。


私の中でこれでもかというほど煮えたぎっているのだ。


それは、地獄の真っ赤に染まった池がグツグツと煮えたぎっているかのような状態だ。


それほどまでに、『性欲』というものは根強く、強大なものなのである。



この苦しみが誰に理解できようか・・・











人の行為や行動は、『性欲』に支配されていると言っても過言ではないと私は思っている。


さまざまな方面における人間としての活動の原動力ともなっている側面が『性欲』にはあるのではないだろうか。



『性欲』のない人はいない。


一見真っ当なことを行っているように思えるようなことでも、実は、『性欲』に支配されている行動であることも多い。


問題にされないからわからないだけなのだ。



日本では、『性欲』は肯定されている。


双方の合意さえあれば、何でもありなのが日本であり、それは仏教の世界にもおよんでいる。


その現実をこれでもかというほど見せつけられ、愕然とさせられてきたのが学生時代であった。



日本の仏教では、『性欲』の問題に対して誰も真剣に向き合おうとしていないし、『性欲』というものに対して、初めから開き直っている。


もはや、出家とは何なのかの意義が消え去り、『性欲』と向き合うことの意味への理解が微塵もない。


『性欲』というものの“本質”を見ようとしない者に対して、私が大真面目に答える必要などない。



この記事をご覧になられて、ご不快になられた方がいらっしゃったとしたら、なにとぞ大らかな目で見ていただきたいと思う。


これは、自身の苦い体験から綴った『性欲』の敗北者たる私の戯言(ざれごと)だと受け取っていただきたい。


おそらく多くの日本人にとっては、衝撃的とも受け取れる『僧侶が自らの男性器を包丁で切断!』というタイトルの記事を読んで、かつて私がタイで悩まされたことと重なったのだ。


その時の思いを踏まえて、綴っておこうと思い立った次第である。



悟りを得る因縁を欠いた者がいるとすれば、この私のことであると思う。



私は、『性欲』に敗北したのである。


私は、『性欲』に敗北した情けないただの挫折者なのである。






【ブログ内関連記事】


『瞑想修行中の苦悩 ~性欲~』


『瞑想修行中の苦悩 ~煩悩の国へ帰るということ~』


『出家生活で辛かったこと1 ~性欲と瞑想中の眠気~』


『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』




【参考文献】


・『知的好奇心の扉 トカナ』 (2023.01.05 20:00 配信)

僧侶が自らの男性器を包丁で切断! 血まみれのまま「穏やかな微笑み」を浮かべ…


・『デイリースター』(2023年1月3日 配信)

セックスに飢えた仏教の僧侶は、ナイフでペニスを切り落とそうとしながら「微笑む」






(『男性器を包丁で切断した比丘』)






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2017/09/04

【後編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~

瞑想していると、時に穏やかではないこともある。

自身で書き綴るのも恥ずかしく、情けなく、そして辛い。

それでも、嫌な自分、苛立つ自分、見たくもない自分の姿をも徹底して観察をしていかなければならないのだ。

真摯に向き合おうとすればするほど、それらは見ざるを得ないものであると痛感するようになってくる。

そして、それらは、避けては通れないものだと覚悟を決めざるを得なくなってくるのであった。


性の問題に限らず、どのような欲であろうとも・・・何がその人にとって大きな問題なのかは、それぞれに異なるのだろうけれども・・・誰にとっても、必ず何らかの大きな壁にぶつかるのではないかと思う。

その時、とても重要となってくることが、長老の言葉で言うところの「根本的なところを観ていかなければならない」ということだと思うのだ。

もし、“根本的なところ”が腑に落ちていなければ、表面的なことばかりを解決しようとすることになってしまい、どれだけ努力をしたとしても、どれだけ実践をしたとしても、単なる徒労に終ってしまうのではないだろうか。


一度、大きな快感を得たならば、それを求めたくなるというのが人間の性(さが)だ。

ところが、その欲求の赴くがままに、そして求めるがままに行動していたのでは、負の連鎖へと嵌っていってしまうだけである。

欲するがままに、心が赴くがままに行動すればよいではないかというのが、昨今の日本の風潮のように思える。

そのような風潮の日本にあって、こうしたことを書いたとしても「ピン」と来ないのかもしれないが、欲の赴くがままに行動をなすのであれば、それは理性がないのと同じであり、動物と全く変わるところがない。

理性を持っているのが人間であり、理性を保ちながら生きるのが人間である。

そして、ダンマを理解することができて、ダンマを実践することのできる存在こそが人間という存在なのだ。






常に心を正しく保ち、心の流れを穏やかに保つこと。

それが仏教における瞑想の目的であり、非常に大切なことである。


何か欲するものに向って思いが生じた時、その対象に向って心を無くし、勝手な妄想をさらに大きくしてしまう。

それをそのまま放ったらかしにして、妄想をどんどんと大きく膨らませ、遂には、制御不能な状態へと陥ってしまう。

・・・何を隠そう、それが日常の“己”の姿である。

己の心は、常に制御不能、常に錯綜状態であると言っても過言ではないのかもしれない。


そのようになってしまわないために、いつも心に様々な状態が生じてきたら“瞬時に”とらえるようにして、“瞬時に”観察をしていくよう努めていなければならない。

すなわち、まだまだ妄想が小さなうちにその妄想に気づき、観察し、手放すということである。

感情が湧き上がって来たらすぐさま「サティ」をするのだ。

そうでなければ、感情はみるみるうちに膨れ上がり、さらには収拾がつかなくなってしまうだろう。


性欲もまた同じである。

私が見ている美しい姿とは・・・実は、髑髏であり、骸骨であり、白骨であり、そして糞袋である・・・勝手に私が美しく妄想しているだけの姿に過ぎないものなのだ。

そして、わが身もまた全く同じ姿だ・・・実は、髑髏であり、骸骨であり、白骨であり、そして糞袋である・・・という事実を覆い隠しながら、日々、美しく妄想を膨らませているだけに過ぎないのだ。


仏教では、たとえ性欲であろうとも、他のどのような感情であろうとも、それらはどれも同じく執着すべきものではない。






私の至りついた答え・・・

感情を無くすということは、不可能なことである。

今生において聖者の域に入るということも、凡夫の私には到底不可能なことである・・・。

私にできることがあるとすれば、感情を「観察する」ということしか方法はない。


どのような感情やどのような欲求も「サティ」をしていくということ。

すなわち、いかなる時も徹底的に「観察」し、「洞察」していくということ。


ところが・・・非常に情けないことであるが、徹頭徹尾、観察し、洞察していくということに徹することもまた、この私には不可能なことなのであった。

情けない私の姿を何度も何度も突き付けられた。

やればやる程、その能力の無さと徹底できない私の姿が明らかとなるのであった。

だが、それでも・・・駄目でも、駄目でも、地道にやっていくしかないのではないか・・・私はそう思っている。

煩悩の全てを無くすことはできない・・・無くすことはできないのだけれども、無数にあるうちのほんのいくつかでも無くすことができればそれでいい。

あるいは、無数にあるうちのほんのいくつかを、そしてほんのわずかばかりを“小さく”できるのであればそれでいいではないか・・・。


「欲」という感情を「観る」という作業は、出家であれ、在家であれ、何ら変わるところがないのではないだろうか。

在家で生きていたからと言って、決して自分の行為・行動を観察し、洞察していかなくてもよいということはないはずだ。

・・・突き詰めて考えてみると、結局のところ、出家であろうと、在家であろうと、変わらないのではないかと思うようになった。

どのような感情やどのような欲求も、いかなる場所であっても、いかなる時であっても、観察していくことに努めなければならない。

今ある自身の立場、今いる自身の場所、そして今ある自身の段階(レベル)で観察していくしかないだろう。


私は、これまで記事に綴ってきたような自身の課題を完全に越えることができていたならば、もしかすると、再びタイの山奥へと帰り、再び比丘として出家生活を選んでいたかもしれない。

しかし、私は、この日本の地で、ごく普通の在家の生活者としての道を歩み、現在に至っている。


今ある私を無理なく生きる。

今できることを無理なく実践する。

それが今の私にできるダンマの生き方なのではないかと思っている。



(『【後編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』)





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2017/08/29

【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~

「欲」というものの「根本的なところ」を見抜いてこそ、本当の解決策が見えてくる。

己の心に生じてくる様々な状態を瞬時にとらえて、ただただ観察していくこと。

すなわち、即座に「サティ」をすること。

私は、今のところ、これ以上に有効な手立てを知らない。


感情や感覚を「観察する」こと、そして客観的に自己を観ていくことこそがその解決策なのではないかというところに至ったのだ。

生きている限り、何らかの感情が起きて来る。

感情、すなわち欲というものは、消えることはないということであるが、少なくとも、聖者の域に入るか、相当の境地に達しない限り、到底、望めるものではない。

しかし、消すことができない“欲”という“感情”を、ただ客観的に観察していくということであれば可能である。

言い換えるならば、感情の赴くままに行動して、感情の濁流に巻き込まれて、さらには感情の泥沼の中へと嵌り込んでいく選択をするのか、それとも感情を客観的に観察していくことに努めて、冷静さを保ち、穏やかさを保って生きていく選択をするのかの違いであるかと言えよう。


・・・結局のところ、長老は、私に対して「根本的なところを観ていかなければならない」ということは、はっきりと仰ったのだけれども、明確にこうしなさいとか、こういう方法を実践しなさい、といったような具体的な方策までは教えてはくださらなかった。

この会話を交わした後も、長老とは何度も話す機会があり、たくさんのことを話した。

他愛もない話題から、ダンマの話題まで。

その中で、不浄観に関する話題を幾度か交わしたことを記憶している。

長老が仰った「根本的なところを観ていかなければならない」とは、「性欲も単に己の妄想にしか過ぎないものである」ということを教えているのだと、私は理解している。

いや、それしか考えられない。

長老と交わしたたくさんの会話を吟味していくと、やはりこの答えしか私には導き出すことができない。


根本的なところを観るとは、己が見ている妄想を、単なる“妄想である”と早く見抜きなさいということだ。






日本へ帰国してから、あるテレビ番組を目にする機会があった。

そこでは、男性器を取り去り、性転換をして女性となった元男性が「性欲は、全く無くなっていないです。女性になった今も、性欲は旺盛です。」と、はっきりとお話しされていらしたのだった。

私は、この時・・・ああ、あの時、長老が言っていた言葉は、やっぱり正しいことだったんだ・・・たとえ、男性器を取り去ったとしても、性欲そのものは無くならないんだ。

あの時の私の考えは、安易だったんだな・・・そのように思った。


「表面的なことばかりを解決しようとしても意味がないのです。

もっともっと根本的なところを観ていかなければならないのですよ。」


という、あの時、長老が仰ったあの言葉を思い出したのだった。


たとえ、男性器を取り去ったとしても、性欲というものが無くなることはなく、男であったとしても、女であったとしても、そこが「性欲」というものの本質なのではない。

・・・根本的なところを観ることができなければ、何ひとつ変わるところはないのだ。


どんなに苦しくても、どんなに耐え難いものであったとしても、出家生活を続けていくというのであれば、“性欲”は乗り越えなければならない問題である。

これが、私が“厳しくない出家生活”ではあるが、一生続けるとなると、やはり“厳しい”と感じる理由だ。

それは、すぐに習慣にできるものではなく、すぐに身につけることができるものでもない、多分に内面的な問題であるからである。

それだけに、もっとも難しく、もっとも厳しいことであると言っても過言ではないように思う。


ある有名な森のお寺に止住していた時のこと。

その森のお寺は、非常に尊敬を集める森のお寺で、毎日、多くの人達が遠方から参拝や瞑想のためにやって来る。

時には、日本で言うところの“社員研修”のように、会社や学校から団体で参拝に来ることもある。


これは・・・必然的に女性が目に入る機会や、(直接触れるという意味ではなく)女性と接触してしまう機会が増えるということを意味している。

原則として、森のお寺では、出家者と在家者とが交わることは決してないのではあるが、本堂や瞑想するためのお堂をはじめ、どうしてもその場を同じくしなければならない場合が出てくるというわけだ。






静かな森のお寺での日々。

森の中での瞑想、勤行、托鉢・・・そんな穏やかな日々。


心に受ける刺激が少ない空間であるだけに、在家生活の中では、なんでもない出来事であったとしても非常に大きな刺激となり得てしまうのであった。

それだけに、目に入った麗しい女性の姿は、非常に眩しく、強烈に焼き付いてしまい、さらには、何度も何度も浮かび上がり、ぐるりぐるりと頭の中を駆け巡るのであった。

収まらぬ空想、止まらぬ想像、そして膨れあがっていく妄想・・・。

一層の事、女性がいない世界へ行きたい!・・・何度そのように思ったことだろうか。


嗚呼・・・。

嗚呼・・・辛い・・・。


私は遂に、その森のお寺を出る決断をしたのであった。

有名で、非常に人気のある森のお寺であったが故に、私にとっては逆に辛い環境となってしまったようである。

なんとも皮肉なことだと思う。


タイでは、明確に出家と在家、男性と女性の空間が分けられる。

特に、比丘や沙弥の出家者については徹底されている。

近年では、タイへの渡航者が増加し、関心が高まってきたこともあってか、「タイの比丘は、女性に触れることができない。」という事が広く知られてきている。

一般に広く知られるに従って、さまざまな見解が聞かれるようになってきてもいるようだ。

その一部に、差別的だとの見方があるようである。

しかし、私は、これは決して差別であるとは思わない。


性欲というものに悩まされた私の立場から言うならば、とても修行者思いな環境であり、非常に修行者の立場というものに立脚した環境であると思う。

仏教というものを、そして出家者という存在を大切にしているからこその姿勢だと思うのだ。

さらに言えば、修行者と言うのは、比丘のことだけを指すのではない。

瞑想を実践する者や悟りへの道を志す者、すなわち仏教を己の生きる道とする者・・・男性にとっても、女性にとっても、双方にとって正しく道を歩めるよう配慮された環境こそがお寺であり、仏教の生き方なのではないだろうかと思うのである。



< つづく ・ 『【後編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』 >



(『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』)





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2017/08/19

出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~

常にサティに努め、常に注意深く生活することに努める・・・それが出家の生活である。

そして、また、そうした生活を実際に可能なものとしてくれている環境こそが出家という空間だ。


実は、性欲の根深さについては、タイへ渡る以前から聞かされていたことであった。

・・・まだ私がタイのことについて調べていた頃、タイで出家し、さらにスリランカで修行をされた経験を持つある日本人の方から聞いた体験談だ。

その方が、若かりし頃にタイで修行をしておられた時のこと。

もう、何十年も前のお話なのだろう。


本物の人骨で不浄観を修しておられた時のお話を聞かせていただいたことがあった。


「髑髏がね、ゆっくりと私の方を見つめてきて、“こちらへいらっしゃい・・・”と、とても綺麗な女性が艶めかしく微笑みかけてくるんだよ。

その瞬間にね、ハッ、と我に返ったんだよ。

これほどまでに性欲が強いなんて、私自身も驚いたね。」


このお話は、とても強く私の印象に残った。

タイへ渡った時代が違うためであろうか、私は、本物の髑髏で不浄観を修する機会には恵まれなかったし、そのようなことができるということも聞くことはなかった。

しかし、死体の写真でであれば、容易に修することができるので、私は、仏教書として頒布されていた死体の写真や本などをクティ(居室)に置いて不浄観を修したのであった。

これは、以前にも記事にしていることなのだが、タイでは、死体の写真が仏教専門の書店などで修行のための仏教書として頒布されている。

また、特にタイの森のお寺などで多く見られることなのだが、お寺の中に死体の写真が飾られていることがある。

これらはみな、人間の本来の姿、人間のありのままの姿を常に忘れないようにして、思い出させるためのものだ。

自身の身体をよくよく観察し、何度も何度も吟味をして、身体への執着や愛着から離れるようにするのである。

これも不浄観のひとつだ。



~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~



その後・・・タイで私も、お話をうかがったその日本人の方と似たような体験をすることとなった。

私の場合は、実際の死体(髑髏)を目の前にしていたわけではないし、髑髏が美しい女性となって微笑みかけてくると言ったようなリアルな体験ではなかったが、その方が言っておられたことをはっきりと理解することができた出来事であった。

それまでは、薄気味の悪い髑髏が美しい女性になって微笑みかけてくる・・・そのようなはずなどないだろう、髑髏が美しい女性に見えるものなら是非とも見てみたいものだと、心のどこかで思っていたのであった。


私は、クティの中で死体の写真を眺めながら、


「・・・この写真の死体は、生きていたならば、どんなに美しい女性なのだろう・・・。

嗚呼・・・。

たとえ、死体でもいい。

死体でもいいから抱いてみたいものだ・・・。」


迂闊にも、そのように考えた瞬間が何度もあった。

男とも、女とも判別がつかないような死体の写真を見ながらである。

実際に腐りかけた死体を目の前にして、そのようなことなど思えるはずがないのにである。


自身の身体も、目の前の写真と同じく、ひとたび縁が尽きれば、横たわり、腐り果て、男とも女とも判別がつかないようになり、朽ち果てていく存在だ。

・・・そのように自分の身体を吟味し、観察をして、瞑想をしなければならないのにである。


私の目に入っている人間の姿は、まさに妄想だ。

会社の同僚も、つい先ほどすれ違ったあの人も、そしてすぐ目の前にいるその人も・・・。

全ての美男も、全ての美女も、実は全てが髑髏であり、骸骨を見ているに過ぎないのだ。


ところが、私の修し方が不十分、かつ不徹底であったことから、このように死体の写真を目の前にしながらも、美しい女性を想像してしまうという、なんとも愚かな結果となってしまったのだ。


・・・嗚呼!

何と!・・・何と情けないことなのだろうか!!






私がタイで親しく教えを受けた長老が語ってくれた言葉をよく思い出すことがある。

ある時、私がその長老にこぼした言葉があった。


私:

「性欲がとてもつらいのです。

男性器など無くなってしまえばいい、そのように思うことがあります。」


長老:

「たとえ、男性器を削ぎ落してしまったとしても、解決できる問題ではないのですよ。

表面的なことばかりを解決しようとしても意味がないのです。

もっともっと根本的なところを観ていかなければならないのですよ。

私もね、長らく苦しめられましたよ。

今でさえも、時々現れることがありますよ。」


と、長老は実に穏やかな表情と柔らかな口調で仰った。


“今でさえも、時々現れることがありますよ。”


・・・嗚呼、長老のような存在のお方が、ほんの少しだけ人間的な回答をされたことに安堵したのであった。

長老のように瞑想修行を積んでこられたお方であっても、そのような瞬間がおありなのかと、実に勝手ながら、私の苦しみを理解していただけたかのように感じたのであった。

同時に、この長老からの言葉は、私も全くその通りであると感じたのであった。

たとえ男性器を取り去ったとしても、たとえ女性のいない環境に身を置いたとしても、たとえ敢えて自分の身体を苦しめてみたとしても、「性」への欲が完全に無くなるわけではない。

まさに「根本的なところ」を観ていかなければ解決しない問題なのだ。

性欲であろうと、愛欲であろうと、そして他の感情も同じく、全くの自分勝手な「妄想」によるものに過ぎない。

それは、他の事象と同じく、執着するべきものではない。


おそらく、長老と私とでは、湧き上がって来る感情の大きさが異なるのであろうが、感情が湧き上がって来るという点については、長老も私も同じであるといえる。

では、一体、長老と私との違いはどこにあるのだろうか・・・。

感情が制御できるのかできないのか、サティができるのかできないのか、その違いなのであろうか・・・。


・・・これは、帰国してからのことである。

ある機会に、あるご高齢の男性へ私から質問をさせていただいたことがあった。


「大変失礼なのですが、性欲というものはありますか?」


と。

すると、その男性は、


「恥ずかしながら、やっぱりこの歳になってもありますねぇ。」


と、お答えくださった。


私は、この答えに、やっぱりか・・・という、ある意味での納得にも似た感情を抱くと同時に、愕然としたのであった。

たとえ、歳を重ねたとしても性欲というものは消えないものなのか!

逆に言えば、私も、その年齢まで性欲とつき合っていかなければならないということだ。

これは、おそらく人間として生まれた限りにおいては、解決を図らない限り、永遠の課題となってしまうものなのだろうと思う。



長老が言う「根本的なところ」とは、一体どういうところのことなのだろうか。

そして、それは、私にも解決が可能なもので、実践が可能なことなのだろうか・・・。



< つづく ・ 『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』 >



(『出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~』)





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2017/08/12

出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~

今回の記事を掲載するにあたり、まずはお断りをさせていただきたいと思う。

私がここで記しているからと言って、他の方々もみなそうであるとは考えないでいただきたいということである。

私がここに記事として記していることがらは、決して一般的なことであるのではなく、私一個人の体験であり、私一個人の感情である。

また、記事の内容に、ご気分を害される方やご不快なお気持ちになられる方がいらっしゃるかもしれない。

抵抗感や嫌悪感を抱かれる方がいらっしゃるかもしれないとは思うが、あくまでも、私自身の瞑想実践の体験として、そうした感情があったのだという範囲でご理解をいただき、お読みいただければと思う。

次に、私がここに記事として記していることがらは、一人の男性修行者としての視点、そして私が経験してきた出家の生活・瞑想実践の生活という視点を前提として書いたものであるということをお知りおきいただきたいということである。

そこには、差別的な意図や女性を蔑視するような意図などは、全く含むものではないということをあらかじめご理解いただいたうえでお読み願いたいと思う。


文字のうえで正確にお伝えをするということは、いささか困難なことなのかもしれないが、誤解、曲解、歪曲されることなく、私の真摯な思いがここをお読みの方々のもとへ伝わることを切に願っている。

これから瞑想実践や出家生活を志す方々、あるいはすでに瞑想を実践されている方々にとって、何らかのお役に立つことができれば幸いであると思う。



~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~


社会的な通念として、性的な話題に触れることは、どちらかと言えば、忌避されるべきものであるかと思う。

それゆえに、公に語られることは少なく、禁忌な領域であるとも言える。

しかし、私は、求道者として、修行者として、修道者として、避けては通れない問題なのではないかと思うのだ。

なかなか語られることの少ない問題であるだけに、私個人としては、重く大きな問題なのではないかと考えている。

また、多かれ少なかれ、誰もがぶつかる問題なのではないだろうかとも思うのだ。


特に男性である私にとっては、非常に大きな問題であり、大きな課題であった。

だからこそ、恥を忍んで、敢えてここに記事としてまとめてみようかと思い立った次第である。


男性であれば、少なからず誰もが抱えているであろうと思われる問題なのではないかと私は思っているのであるが、果たして実際のところはどうであろうか・・・。

もちろん、全ての男性に当てはまる問題ではないとしても、“多くの”男性が抱えている問題ではあるのではないだろうか。

一方で、特に女性の方にとっては、不快感や嫌悪感をお感じになる方がいらっしゃるかもしれないが、なにとぞお許し願いたいと思う。

どうか女性の方は、立場を逆にしてお読みいただき、ご理解に努めてくださればと思う。

男性に限った問題ではなく、たとえ女性であっても、男性ほどではないにしても、同じ問題で悩まされはしないだろうか。

それらの点に関して、是非とも、女性の瞑想実践者としての立場から、ご意見などをおうかがいすることができれば幸いである。



出家生活における、一日一食の生活、あるいは午前中のみの一日二食の生活は、やはり空腹にはなるが、翌朝には食することができるし、慣れればそれほど苦痛なものではない。

私が大変苦しめられた眠気も、私にとっては辛いものであったが、夜になれば眠りに就くことができるし、タイの出家生活では睡眠時間を自分である程度調整することもできた。


ところが、性欲というものはそうはいかない。

逃げ場がないのだ。

向き合うしかないのだ。


この「性欲」こそが出家生活で最も辛いと感じたことであった。


出家生活では、戒律によって、自慰行為の他、異性でっても、同性であっても、さらに動物との行為をも含むあらゆる性行為が禁じられている(※1)。

在家生活であれば、解消する手立てはそれなりにあるのかもしれないが、出家者である限りにおいては、性的な欲求を解消する手立てはないのである。


大変言いずらいことなのであるが、そうした出家生活の中では、夢精してしまうことがある。

しかし、性的なことのなかで夢精のみは、戒律に違反するものではなく、戒律の中において唯一除外されているものとなっている(※2)。

それは、おそらく自身で制御し得る範疇のものではない、生理現象としての側面を持つものであるからなのだろう。


たとえ夢精をしようとも、単なる生理現象として、身体の摂理に任せておくべきものだ。

また、ただただそのように観察をしていくべきものだ。


ところが、どうであろうか・・・

そこまで徹底した観察ができないのである・・・



~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~
ブッダの一生を場面ごとに描いたものであるのだが、女性が非常に色っぽく描かれているように見えるのは私の妄想だろうか。
あるいは、ブッダが見抜いた「欲」の“正体”を表現しようとしているからなのだろうか。
この苦しみは、ブッダも通った苦しみだったのだろうか・・・ふと思わずにはいられなかった。


ここからは、私の赤裸々な実体験となるのであるが、一切の性的な行為を禁じられているという環境は、相当に辛い。

私の体験を基にするならば、平均すると、おおむね2週間に一度から1ヵ月に一度程度の間隔で夢精が起こる。

しかし、これは、規則的に一定間隔で起こるというようなものではなく、全く一定していない。

何週間、何ヵ月も起こらないこともあれば、連続で起こることもある。


その日、その時の体調に影響されるのであろう。

そのあたりの明確な理由は、医学的な領域になるのだろうか、私にはわからない。


“夢精”という文字を書きはするものの、夢を見ることすらなく、突然起こることもある。

私の場合、例えば、柱にもたれかかり、うたた寝程度の仮眠をとっていた際に突然起こったこともあった。


男性であれば、ある程度のご理解をいただけるものと信じたいが、これもまた大変言いずらいことなのであるが、夢精は、紛れもなく大きな身体的快感を伴う。

さらには、この身体的快感を伴う夢精を待ちわびさえもする。

出家生活では、自分自身によって“故意”にはできないため、“故意”ではない形のものを“待つ”しかないわけである。

単なる生理現象、単なる身体の摂理であると、徹底した観察ができれば問題はない。

しかし、快感が大きければ大きい程、快楽が大きければ大きい程、徹底した客観的な観察が難しい。

快感を快感と感じず、楽しみを楽しみとせず、「ただただそのような事実を事実として観察する」ことができるようになるまでには、相当な実践を積まなければならないだろう。


私は、この時・・・そのように感じた。


大変情けなく、大変お恥ずかしいことながら、私はそこまで徹底したサティにまで高めることができなかった。


出家をして、周囲に女性がいないような環境に身を置いたとしても、女性への欲そのものが消えるというわけではない。

異性への煩悩をかき立てる“きっかけ”となるような存在は、できる限り遠ざけるほうが望ましいし、好ましくない“きっかけ”は、より少ない環境の方が望ましいということは言うまでもないことだ。

ところが、“きっかけ”に触れていないからと言って、欲そのものが無くなってしまうのかと言えば、残念ながらそうではない。

私は、単に“きっかけ”にさえ触れなければ、そのうち欲そのものが無くなってしまうだろうと期待をしたが、それ程単純、かつ簡単なものではなかった・・・。

離れているつもりであったとしても、いつ、どこで、何が“きっかけ”となってしまうのかが、愚かな凡夫にはわからない。

だからこそ、常にサティを高めるように努め、常に注意深くならなければならないのだ。


以前にも記事としたことがあるが、たとえ断食をしたとしても性欲は消えるものではなかった。

たとえ眠らない修行をしたとしても性欲は消えるものではなかった。

少しばかり身体を苦しめてみたところで、性欲を若干弱める程度の効果はあっても、根本的に消えてしまうということは断じてない。

本当の意味で生きるか死ぬかの瀬戸際でも彷徨わない限り、常に現れてくるものだと私は思う。

敢えて身体を苦しめてみたところで、性欲は消えるものではなかったのだ。


断食の時でさえも、眠らない修行の時でさえも・・・情けないことに、麗しい女性が通りかかれば、注意はすぐさまそちらへと向かってしまい、大いに気にかかってしまう・・・

妄想の世界を都合よく美しく膨らませ、楽しんでしまっているという始末。


単なる生理現象、単なる身体の摂理である夢精に伴う身体的快感・・・「ただただそのような事実を事実として観察する」ことができない私の愚かさ・・・。

挙句の果てには、徹底した観察ができぬ自分に嫌気がさし、気が狂ってしまいそうになってしまう始末であった。



嗚呼・・・



< つづく ・ 『出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~』 >



註:

※1
比丘が常に保つべき227箇条ある戒のうち、性行為を禁ずる項目は、下記のように記載されている。なお、これは227箇条ある戒のうちの第一番目となっている項目で、いかに大きなものであるのかがわかる。

〇「淫を行う。畜生に対するものをも含む。」 
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁

〇「何れの比丘といえども、諸比丘の学と戒とを具足しつつ、学の放棄を表明せず、または力の弱いことを(他者に)伝えることなく淫法をを為すらならば、雌の畜生と為すに至るまでパーラージカ(という罪)であり、共に住することはできない。」 
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 21頁


※2
比丘が保つべき227箇条の戒のなかに「夢精」について記述されている項目には、下記のように記載されている。これは、自身では意図的に制御することが不可能な生理現象だからであろう。

〇「故意に自慰をなす。ただし、夢中を除く。」
佐々木教悟著『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』1986年 平楽寺書店 99頁

〇「故意に精液を泄らせば、夢中を除きサンカディセーサ(という罪)である。」
落合隆編『パーティモッカ227戒経 タイ・テーラワーダ仏教 比丘波羅堤木叉』2011年 中山書房仏書林 25頁



(『出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~』)





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2017/07/16

出家生活で辛かったこと1 ~性欲と瞑想中の眠気~

何が辛いと感じるのか、何を厳しいと感じるのか・・・それは、人によってそれぞれ異なるものであるから一概に言えるものではないだろう。

私にとって大問題であったとしても、それが他者にとって当てはまるかと言えば、もちろんそうではない。

他者にとっては、全く問題ではないということはよくあることだ。

また、当然のことながらその逆もある。


時々、タイで非常に厳しい修行を積んで来たように言われることがあるのだが、全くもってそうではない。

タイの出家生活は、日本人が想像しているような生活ではなく、非常に穏やかな生活だ。

多くの日本人は、「一休さん」のような“厳しい”出家生活を想像されていることが多いようである。

そうした日本人がタイで出家をすると、非常に驚きを感じる人や、拍子抜けをしてしまう人がいると聞く。

私が思うに、タイの出家生活は、日本の“厳しさ”とは少し意味合いが異なる“厳しさ”があるのではないか。

タイにも「厳しい」と言われているお寺があるが、タイでは戒律の運用がより厳密であるということを指して“厳しい”と言う。

どちらかと言えば、あまり戒律には馴染みが薄い日本人にとっては、想像しずらいところなのかもしれないが、ご存知の通り、タイの仏教には「戒律」というものがある。

そのため、生活をしていくうえにおいて、大きく制限されることがたくさんある。

つまり、厳密に守るべき事柄が厳然として存在するということである。

それらは、沙弥・比丘ともに、出家者としての生活を続ける限りにおいては、必ず守らなければならない事柄だ。

しかし、それらを守れなくなった時、守り切れなくなった時、守りたくなくなった時・・・その時は、還俗をしなければならない。

在家での生活とは明確に異なる価値のなかを生きていく世界が出家という生き方なのである。


・・・このように表現をすると、どこか大変そうに感じられるかもしれないが、そう窮屈なものではない。

なぜならば、タイの多くの男性は、一生に一度は必ず出家生活を経験する。

逆に言えば、誰にでもできることなのである。


出家生活上守らなければならない事柄は、一旦、その生活の中へと入ってしまえば、それ程辛いと感じるものではない。

周囲の者達もそのように生活をしているし、何より社会全体からもそのように見られるのだから、そうせざるを得えないということもある。

その気になれば、自然と身について来るもののように私は思う。



~タイ国政府観光庁発行の小冊子『チェンマイ・タイ北部』4頁、ワット・パンタオの写真より~


それでは、タイの出家生活の中で、在家生活にはない事柄を思いつくままに書いてみたいと思う。


出家生活では、一日一食、あるいは午前中のみの一日二食の生活となるわけであるが、これは慣れれば全く辛いものではない。

少々空腹になってしまうこともあるが、私一人だけが食べるなと言われているわけではなく、また私の目の前に御馳走を並べられていて食べるなと言われているわけでもない。

周囲の者達も食べていないし、食べ物が出されることすらないのだから、比較的楽に過ごすことができる。


出家生活では、酒は飲めない。

酒が飲めないことに関して、辛いと感じるかそうでないかは、その人の嗜好にもよるとは思うが、私は特に気にはならなかった。


比丘は、お金を所持することができない。

そのため、どこへ行っても買い物ができないわけであるが、必要最低限のものは、お寺に相談をすれば何らかの形で解決してくれるので、心配は無用だ。

たとえ市場のような場所を通りかかったとしても、もともとお金を持っていないので、買うことができないため、何を見てもそれ程欲しくはならなかったし、買いたいという気持ちも起こらなくなったから不思議だ。


お寺での生活では、殺生は厳禁だ。

生き物を殺さないということに対して、特に注意が払われる。

蚊が飛んで来たら「パシンッ」と殺してしまいたいと思うかもしれないが、たとえ蚊であっても、蟻であっても、一匹たりとも殺さない。

特に森のお寺では、机の上に蟻などの小さな生き物が頻繁に歩いている。

そうした時、「そこに蟻がいるから注意しなさい。」、「さぁ、払ってあげなさい。」などと、よく住職から注意を受けたものだ。

また、森のお寺は修行のお寺である。

「走らない。」、「足の音をたてて歩かない。」、「なにごとも静かに。」・・・などと言ったこともまた、住職から何度となく注意を受けたことである。


全ての行動に対して注意深くなり、自己を観察しながら行動しなさい、ということだ。

これらのことは、どちらかと言えば細かなことで、少々鬱陶しいと感じるかもしれない。

しかし、大切なことである。

一旦、身につけてしまえば、ごく自然に注意ができるようになってくるものであると思うし、そのような立ち居振る舞いもできてくるようになってくるものなので、それ程苦痛に感じるようなものではない。


毎朝の托鉢は、裸足で出かけなければならない。

全くの素足で町や村を歩くわけであるが、なかには砂利道や舗装されていない道、あるいは汚い道を歩かなければならない時もある。

田舎であれば、牛の糞がたくさん落とされた道を行かなければならないことも多々ある。

しかし、そのようなことは、数日歩けばすっかり慣れてしまう。

どんな砂利道であっても、なんなく歩けてしまうようになる。

あるお寺で出家したての新米比丘が大層痛がって歩いていた様子を見たことがあるのだが、私はいつの間にか慣れてしまっていたので、そのような経験をすることはなかった。


思いつくままにいくつかを挙げてみたが、こうした生活上のことは、身につけようとする姿勢を持ってさえいれば、必ずそれなりに身について来るものなので、慣れないうちは苦痛に思うことはあっても、やがては解消されるものだと思う。

日本のお寺での生活の方がはるかに厳しいのではないかと思う。

それに比べれば、実に穏やかだ。


ところが、こうした非常に穏やかな出家生活であるが、一生続けるとなると、やはり厳しいのではないかと思うのである。

“厳しくない出家生活”が、なぜ“厳しい”のだろうか。

また、どういったところが“厳しい”のだろうか。



~タイで購入したブッダの伝記『ブッダの生涯』の挿絵より~


私が出家生活で最も辛かったと感じたこと・・・それは、性欲と瞑想中の眠気だ。

身につけることができなかったし、習慣とすることもできなかったことだろう。


性欲と瞑想中の眠気以外は、特に辛いと思った記憶は、これと言って残っていないように思う。

記憶に残っていないのだから、おそらく、性欲と瞑想中の眠気以外のことは、それ程苦痛には感じなかったということなのだろう。


まず、瞑想中の眠気であるが、これには大層悩まされたし、とても苦労した。

非常に苦しく、まさに闘いでもあった。

しかし、瞑想中の眠気に関しては、非常に苦しいものではあったが、解消可能な部類のものであると思う。


タイの出家生活は、いたって自由だ。

ある程度の日課が決められてはいるが、それ程厳密であるわけではなく、ある程度、自分で自由に時間を振り分けたり、調整することができる。

どうしても体が辛かったり、どうしても眠気が激しいということであれば、就寝時間を早めるなり、少し長めに休息時間を設けるなり、適度な昼寝時間を設けるなどして、睡眠時間を少し調節すれば、いくらかは楽になる。

ただし、くれぐれも自己に負けないようにしなければ、いとも簡単に生活が崩れてしまうので非常に注意が必要だ。

ここが「自由」であることのいいところでもあり、悪いところでもある。


また、「歩く瞑想」というものがあるので、坐るとどうしても眠ってしまったり、眠たくて仕方がないというような状況であるのならば、すぐに歩く瞑想へ切り替えて瞑想実践することも可能だ。

一旦、坐ったら、雨が降ろうとも、槍が降ろうとも、ずっと坐っていなければならないということはない。

ゆえに、瞑想中の眠気に関しては、非常に苦しいものではあったが、解消可能な部類のものであると思うのである。


ところが、性欲というものは、そういうわけにはいかない。

出家生活の中において、最も辛く、最も厳しいものだと言っても過言ではないと私は思う。


仏教では、性に関しては、特に厳しい。

性交渉はもちろんのこと、自慰行為も許されない。

一切の性的行為が禁じられているのである。


性欲は、瞑想していようが、していまいが、いつでも、どこでも現れてくるものだ。

しかも、非常に根強く、非常に根深く、非常に手強い。

全く解消のしようがない。


性欲とは、出家生活のうえでは、避けては通れない事柄なのではないかと思う。

ところが、あまり語られることはないし、そうしたことを話題にすることも少ない。

どちらかと言えば、忌避されることであり、禁忌なことだろう。


私の体験談となってしまうのかもしれないが、少し綴ってみたいと思う。

真摯に修行に打ち込み、真剣に向き合ってきた者の一人としての素直な感情を書いてみたい。

どうか単なる下世話な話題として受け取らないでいただきたいと思う。


非常に辛かったことでもある。

死体の写真を見ながらも、艶かしい女性の姿を想像してしまい、たとえ死体でもいいから抱いてみたいという感情が起こった程だ。


あなたは、果たしてこの状況をご理解いただけるだろうか。

一体、どのようにして、この状況を越えていけばよいのだろうか。



< つづく ・ 『出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~』 >



(『出家生活で辛かったこと1 ~性欲と瞑想中の眠気~』)





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2015/03/08

瞑想修行中の苦悩 ~性欲~

瞑想修行のなかで、最も苦しかったこと・・・

前回の記事では「睡魔」だったと書いた。

もうひとつある。
それは・・・「性欲」だ。

眠気は、一度襲われると相当なものがある。
しかし、適度な睡眠をとれば収まるものでもある。

ところが、性欲はそういうわけにはいかない。

常に心の奥底で影を潜めている。
時に、ふつふつと湧きあがってくるものがある。

それはまるで赤くドロドロと燃え盛る“マグマ”のようだとでも表現したらよいだろうか。

戒律によって性的なことは一切禁じられている。
「ダメだ」と言われると余計に湧きあがってくるものだ。

言うなと言われると言いたくなる、するなと言われるとしたくなる・・・いかにも人間的ではないかと笑われもするかもしれないが、真剣な話である。

性欲は、眠気をはるかに凌駕する苦悩であると私は思う。


女性に目が行く。
性的なものを求めてしまう・・・

・・・普段の生活の中では、特に意識されることなく過ぎているはずだ。
いわゆる男の“スケベ心”で終わる話なのかもしれない。

しかし、瞑想実践のなかでは明確に意識しなければならない。

それは紛れもない「性欲」であり、自己の「妄想」だ。
性欲の根強さと根深さを思い知らされた。

瞑想によって、いかにして「性欲」というものの正体を見抜いていくかが重要だ。
すなわち「性欲」というものの“真の姿”を見抜き、それらが単なる“自己の妄想”にしか過ぎないものであると見破っていかなければならない。

実に性欲とは、自己の想像や妄想、思い込みの産物なのである。


そこまで性欲の正体というものを解しているにもかかわらず、いとも簡単に性欲に飲み込まれてしまう。

眠気とともに、特に「性欲」というものに苦しみ続けることになったことも、私の天性の性質によるものなのだろうか。

それとも、“動物”としての本能なのか・・・。

嗚呼・・・。


過去の記事においても、出家中の最も大きな苦悩として「性欲」について触れている。

⇒関連記事:

『死を直視する~不浄観~』

『死体の写真と煩悩』

浮かび上がってくる性欲を「妄想」としてサティしたり、ひたすら呼吸へと意識を戻すことが最も基本的な対処方法であった。

ただひたすら自己の感情をサティするしかない。
あるいは、すぐさま手放し、また呼吸の観察へ戻し対処していくしかない。

そしてもう一つ。
自己の身体の各部分をしっかりと観察していくことで対処する。

すなわち、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚をはじめ、心臓や肺、腸や胃、大便や小便など、身体の各部分を詳らかに観察していく。
そして、人間の身体の真の姿、ありのままの姿を観察し、自己の勝手な妄想や思い込みに気づいていくのである。

人の体は美しいものであろうという自己の思い込みを“思い込み”であると知る。
そして、この身体は不浄なるものの集まりであると観察し、性欲を抑制していくのである。

さらには、死体の観察だ。

森の寺などによく飾られている、骨の写真や死体の写真などで、この身体の不浄を観ずるのである。

⇒関連記事:『死体の写真と煩悩』

タイでは、そのための小冊子や写真などが売られている。
私もバンコクの仏教書籍の書店で売られていた不浄観のための骨や死体、内臓の写真が載せられた小冊子を持っていた。

これは、れっきとした仏教書で、身体の姿を観察するためのものだ。
ひたすら身体を観察し、自己の性欲を単なる妄想であると気づかせるのである。

そして、身体とは単に「このようなものである」と知るのである。(※註1)


私の身体とは、ただ“このようなもの”であり、単に“このようなもの”でしかない。

そう、“このようなもの”なのだ。


ある日、私は、大変お世話になった尊敬している師にこのように尋ねたことがあった。


「性欲が消え去らず、大変苦労しています。
性欲から離れることができる方法はありますか?」

と。師は、


「恥ずかしいことだけれども、私だって完全に性欲から離れることができているわけではない。
時々、苦しめられることだってある。

しかし、性欲というものは、表面的に消し去ろうとしても意味がない。
あるいは、たとえ男性器を取り去ったとしても意味がない。
性欲というものの本質を見抜かなければ、全く意味がない。

性欲というものの本質を見抜いてこそ、性欲から離れることができるものなのだよ。」


と私に諭してくれた。

尊敬する師のような方でも性欲に悩まされることがあるのだということに、少しばかりの親近感を覚えた。

実際に、男性器などなくなってしまえばよいのにと思ったことさえあった。
しかし、そのようなことをしたところで性欲は消え去りはしないということだ。

性欲=男性器であるとの短絡的な考えも、本質を全く見抜いていない妄想だということである。

全く性欲はなくならない。
性欲の本質を見抜き切ることの難しさを感じた。


また、性欲についてこんなことを語ってくれた師(先程の師とは別人)もいた。

私がタイで出家する前に日本でさまざまな人を訪ね歩いていた頃、何十年も前にタイでの出家経験を持つある師の体験談だ。

それは、非常にインパクトのあるものだった。


「性欲は相当に根深い。

私は、出家中に寺で骨を並べて不浄観を修していた。
そうしたら、髑髏(どくろ)がそれはそれは美しい女性になってきた。
そして、ゆっくりと私の方を見つめてにっこりとほほ笑みかけてきた。

思わずはっとして我に返った。

これほどまでに性欲は根強いものなのかと思い知ったね。」


と、師は私へこのように当時の体験談を聞かせてくれた。

髑髏が美しい女性になってほほ笑みかけてくる・・・それほどまでに性欲は強く、妄想させるものなのであるということだ。


私は、ついに性欲を消し去ることはできなかった。

性欲を消し去るどころか、数週間から数カ月ごとに起きる「夢精」による快感を心待ちにすることさえあった。

大変情けないことである。
しかし、事実、そういう感情もあったのだ。

戒律では、故意ではない、生理現象によって起こるものとして夢精を禁じてはいない。(※註2)
戒律に違反するものではないが、心待ちにするという感情自体が性欲の現れだ。

そうした感情をもただただありのままを観察せねばならない。

私が自己の苦悩を打ち明けた師達もまた同じく、性欲に苦しめられてきた経験をしている・・・それだけが私の唯一の慰めであった。


眠気が最も苦痛だったと記したが、私にとっては性欲の方がはるかに大きな苦痛であった。


まずは、しっかりとサティによって対処をしたり、身体の観察によって対処していくことが大切である。
そして、妄想を妄想であると知り、その正体を見抜くことが大切だ。

“ある程度”は、それらで対処が可能だろう。

しかし、眠気と同様、それ以上に強い性欲を越えるには、やはり“瞑想の喜び”を得る段階まで到達することが必要なのではないかと感じた。

私は、そこまで到達することができなかったが・・・。


別のある師からは、

「性欲を越えるには、性欲以上の快感を得るしかない。
瞑想することが性の快感以上の快感となれば、性欲なんてそう難しい問題ではなくなるのではないか。
まだ瞑想することが楽しくないのではないかな。」

と言われた。

確かにその通りだと思った。
性欲以上の快感を得ることができれば、性欲など興味すらなくなってしまうことだろう。


男女関係や性欲から、どれだけの悩みや苦しみが生まれていることか。
邪な性欲は、大いにトラブルを招きやすい。

ここは、はっきりと理解しておきたいことだ。

眠気にしても、性欲にしても、人間の根幹に関わる「欲求」であるため、そう簡単に対処できるものではないのかもしれない。
かといって、欲望が赴くままに行動していいはずはない。

常に自己を観察できる自分を磨いておかねばならない。


タイの女性は美しい。

街ゆく若い女学生達の姿は特に深く印象に残っている。
黒いスカートに白いブラウス。
これは、タイの女学生達のごくスタンダードな服装だ。
彼女達の姿は、実に爽やかで、実に美しく私の目に映ったことを記憶している。

今も、ついつい綺麗に着飾った街ゆく女性達に視線がゆく。
ああ、抱いてみたいものだと思う。

男性であれば少なからずいだいたことのある感情なのではなかろうか。
逆に女性にはこうした感情はないのだろうか。
是非とも聞いてみたいと思う。


性欲は、単なる妄想であると自己に説き聞かせることができなかった。

元の木阿弥となってしまった。



※註1

参考文献:

『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』
中山書房仏書林 2014年/100頁~102頁

※註2

戒律には、以下のようにあり、「自慰」は禁じているが「夢精」は除外している。

・「故意に自慰をなす。ただし夢中を除く。」
『インド・東南アジア仏教研究Ⅱ 上座部仏教』
平楽寺書店 1986年/99頁

・「故意に精液を泄らせば、夢中を除きサンカーディセーサである。」
『パーティモッカ二二七戒経 タイ・テーラワーダ仏教・比丘波羅堤目叉』
中山書房仏書林 2011年/25頁



(『瞑想修行中の苦悩 ~性欲~』)





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