私にとって大問題であったとしても、それが他者にとって当てはまるかと言えば、もちろんそうではない。
他者にとっては、全く問題ではないということはよくあることだ。
また、当然のことながらその逆もある。
時々、タイで非常に厳しい修行を積んで来たように言われることがあるのだが、全くもってそうではない。
タイの出家生活は、日本人が想像しているような生活ではなく、非常に穏やかな生活だ。
多くの日本人は、「一休さん」のような“厳しい”出家生活を想像されていることが多いようである。
そうした日本人がタイで出家をすると、非常に驚きを感じる人や、拍子抜けをしてしまう人がいると聞く。
私が思うに、タイの出家生活は、日本の“厳しさ”とは少し意味合いが異なる“厳しさ”があるのではないか。
タイにも「厳しい」と言われているお寺があるが、タイでは戒律の運用がより厳密であるということを指して“厳しい”と言う。
どちらかと言えば、あまり戒律には馴染みが薄い日本人にとっては、想像しずらいところなのかもしれないが、ご存知の通り、タイの仏教には「戒律」というものがある。
そのため、生活をしていくうえにおいて、大きく制限されることがたくさんある。
つまり、厳密に守るべき事柄が厳然として存在するということである。
それらは、沙弥・比丘ともに、出家者としての生活を続ける限りにおいては、必ず守らなければならない事柄だ。
しかし、それらを守れなくなった時、守り切れなくなった時、守りたくなくなった時・・・その時は、還俗をしなければならない。
在家での生活とは明確に異なる価値のなかを生きていく世界が出家という生き方なのである。
・・・このように表現をすると、どこか大変そうに感じられるかもしれないが、そう窮屈なものではない。
なぜならば、タイの多くの男性は、一生に一度は必ず出家生活を経験する。
逆に言えば、誰にでもできることなのである。
出家生活上守らなければならない事柄は、一旦、その生活の中へと入ってしまえば、それ程辛いと感じるものではない。
周囲の者達もそのように生活をしているし、何より社会全体からもそのように見られるのだから、そうせざるを得えないということもある。
その気になれば、自然と身について来るもののように私は思う。
~タイ国政府観光庁発行の小冊子『チェンマイ・タイ北部』4頁、ワット・パンタオの写真より~ |
それでは、タイの出家生活の中で、在家生活にはない事柄を思いつくままに書いてみたいと思う。
出家生活では、一日一食、あるいは午前中のみの一日二食の生活となるわけであるが、これは慣れれば全く辛いものではない。
少々空腹になってしまうこともあるが、私一人だけが食べるなと言われているわけではなく、また私の目の前に御馳走を並べられていて食べるなと言われているわけでもない。
周囲の者達も食べていないし、食べ物が出されることすらないのだから、比較的楽に過ごすことができる。
出家生活では、酒は飲めない。
酒が飲めないことに関して、辛いと感じるかそうでないかは、その人の嗜好にもよるとは思うが、私は特に気にはならなかった。
比丘は、お金を所持することができない。
そのため、どこへ行っても買い物ができないわけであるが、必要最低限のものは、お寺に相談をすれば何らかの形で解決してくれるので、心配は無用だ。
たとえ市場のような場所を通りかかったとしても、もともとお金を持っていないので、買うことができないため、何を見てもそれ程欲しくはならなかったし、買いたいという気持ちも起こらなくなったから不思議だ。
お寺での生活では、殺生は厳禁だ。
生き物を殺さないということに対して、特に注意が払われる。
蚊が飛んで来たら「パシンッ」と殺してしまいたいと思うかもしれないが、たとえ蚊であっても、蟻であっても、一匹たりとも殺さない。
特に森のお寺では、机の上に蟻などの小さな生き物が頻繁に歩いている。
そうした時、「そこに蟻がいるから注意しなさい。」、「さぁ、払ってあげなさい。」などと、よく住職から注意を受けたものだ。
また、森のお寺は修行のお寺である。
「走らない。」、「足の音をたてて歩かない。」、「なにごとも静かに。」・・・などと言ったこともまた、住職から何度となく注意を受けたことである。
全ての行動に対して注意深くなり、自己を観察しながら行動しなさい、ということだ。
これらのことは、どちらかと言えば細かなことで、少々鬱陶しいと感じるかもしれない。
しかし、大切なことである。
一旦、身につけてしまえば、ごく自然に注意ができるようになってくるものであると思うし、そのような立ち居振る舞いもできてくるようになってくるものなので、それ程苦痛に感じるようなものではない。
毎朝の托鉢は、裸足で出かけなければならない。
全くの素足で町や村を歩くわけであるが、なかには砂利道や舗装されていない道、あるいは汚い道を歩かなければならない時もある。
田舎であれば、牛の糞がたくさん落とされた道を行かなければならないことも多々ある。
しかし、そのようなことは、数日歩けばすっかり慣れてしまう。
どんな砂利道であっても、なんなく歩けてしまうようになる。
あるお寺で出家したての新米比丘が大層痛がって歩いていた様子を見たことがあるのだが、私はいつの間にか慣れてしまっていたので、そのような経験をすることはなかった。
思いつくままにいくつかを挙げてみたが、こうした生活上のことは、身につけようとする姿勢を持ってさえいれば、必ずそれなりに身について来るものなので、慣れないうちは苦痛に思うことはあっても、やがては解消されるものだと思う。
日本のお寺での生活の方がはるかに厳しいのではないかと思う。
それに比べれば、実に穏やかだ。
ところが、こうした非常に穏やかな出家生活であるが、一生続けるとなると、やはり厳しいのではないかと思うのである。
“厳しくない出家生活”が、なぜ“厳しい”のだろうか。
また、どういったところが“厳しい”のだろうか。
~タイで購入したブッダの伝記『ブッダの生涯』の挿絵より~ |
私が出家生活で最も辛かったと感じたこと・・・それは、性欲と瞑想中の眠気だ。
身につけることができなかったし、習慣とすることもできなかったことだろう。
性欲と瞑想中の眠気以外は、特に辛いと思った記憶は、これと言って残っていないように思う。
記憶に残っていないのだから、おそらく、性欲と瞑想中の眠気以外のことは、それ程苦痛には感じなかったということなのだろう。
まず、瞑想中の眠気であるが、これには大層悩まされたし、とても苦労した。
非常に苦しく、まさに闘いでもあった。
しかし、瞑想中の眠気に関しては、非常に苦しいものではあったが、解消可能な部類のものであると思う。
タイの出家生活は、いたって自由だ。
ある程度の日課が決められてはいるが、それ程厳密であるわけではなく、ある程度、自分で自由に時間を振り分けたり、調整することができる。
どうしても体が辛かったり、どうしても眠気が激しいということであれば、就寝時間を早めるなり、少し長めに休息時間を設けるなり、適度な昼寝時間を設けるなどして、睡眠時間を少し調節すれば、いくらかは楽になる。
ただし、くれぐれも自己に負けないようにしなければ、いとも簡単に生活が崩れてしまうので非常に注意が必要だ。
ここが「自由」であることのいいところでもあり、悪いところでもある。
また、「歩く瞑想」というものがあるので、坐るとどうしても眠ってしまったり、眠たくて仕方がないというような状況であるのならば、すぐに歩く瞑想へ切り替えて瞑想実践することも可能だ。
一旦、坐ったら、雨が降ろうとも、槍が降ろうとも、ずっと坐っていなければならないということはない。
ゆえに、瞑想中の眠気に関しては、非常に苦しいものではあったが、解消可能な部類のものであると思うのである。
ところが、性欲というものは、そういうわけにはいかない。
出家生活の中において、最も辛く、最も厳しいものだと言っても過言ではないと私は思う。
仏教では、性に関しては、特に厳しい。
性交渉はもちろんのこと、自慰行為も許されない。
一切の性的行為が禁じられているのである。
性欲は、瞑想していようが、していまいが、いつでも、どこでも現れてくるものだ。
しかも、非常に根強く、非常に根深く、非常に手強い。
全く解消のしようがない。
性欲とは、出家生活のうえでは、避けては通れない事柄なのではないかと思う。
ところが、あまり語られることはないし、そうしたことを話題にすることも少ない。
どちらかと言えば、忌避されることであり、禁忌なことだろう。
私の体験談となってしまうのかもしれないが、少し綴ってみたいと思う。
真摯に修行に打ち込み、真剣に向き合ってきた者の一人としての素直な感情を書いてみたい。
どうか単なる下世話な話題として受け取らないでいただきたいと思う。
非常に辛かったことでもある。
死体の写真を見ながらも、艶かしい女性の姿を想像してしまい、たとえ死体でもいいから抱いてみたいという感情が起こった程だ。
あなたは、果たしてこの状況をご理解いただけるだろうか。
一体、どのようにして、この状況を越えていけばよいのだろうか。
< つづく ・ 『出家生活で辛かったこと2 ~出家生活と性欲~』 >
(『出家生活で辛かったこと1 ~性欲と瞑想中の眠気~』)
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