自身で書き綴るのも恥ずかしく、情けなく、そして辛い。
それでも、嫌な自分、苛立つ自分、見たくもない自分の姿をも徹底して観察をしていかなければならないのだ。
真摯に向き合おうとすればするほど、それらは見ざるを得ないものであると痛感するようになってくる。
そして、それらは、避けては通れないものだと覚悟を決めざるを得なくなってくるのであった。
性の問題に限らず、どのような欲であろうとも・・・何がその人にとって大きな問題なのかは、それぞれに異なるのだろうけれども・・・誰にとっても、必ず何らかの大きな壁にぶつかるのではないかと思う。
その時、とても重要となってくることが、長老の言葉で言うところの「根本的なところを観ていかなければならない」ということだと思うのだ。
もし、“根本的なところ”が腑に落ちていなければ、表面的なことばかりを解決しようとすることになってしまい、どれだけ努力をしたとしても、どれだけ実践をしたとしても、単なる徒労に終ってしまうのではないだろうか。
一度、大きな快感を得たならば、それを求めたくなるというのが人間の性(さが)だ。
ところが、その欲求の赴くがままに、そして求めるがままに行動していたのでは、負の連鎖へと嵌っていってしまうだけである。
欲するがままに、心が赴くがままに行動すればよいではないかというのが、昨今の日本の風潮のように思える。
そのような風潮の日本にあって、こうしたことを書いたとしても「ピン」と来ないのかもしれないが、欲の赴くがままに行動をなすのであれば、それは理性がないのと同じであり、動物と全く変わるところがない。
理性を持っているのが人間であり、理性を保ちながら生きるのが人間である。
そして、ダンマを理解することができて、ダンマを実践することのできる存在こそが人間という存在なのだ。
常に心を正しく保ち、心の流れを穏やかに保つこと。
それが仏教における瞑想の目的であり、非常に大切なことである。
何か欲するものに向って思いが生じた時、その対象に向って心を無くし、勝手な妄想をさらに大きくしてしまう。
それをそのまま放ったらかしにして、妄想をどんどんと大きく膨らませ、遂には、制御不能な状態へと陥ってしまう。
・・・何を隠そう、それが日常の“己”の姿である。
己の心は、常に制御不能、常に錯綜状態であると言っても過言ではないのかもしれない。
そのようになってしまわないために、いつも心に様々な状態が生じてきたら“瞬時に”とらえるようにして、“瞬時に”観察をしていくよう努めていなければならない。
すなわち、まだまだ妄想が小さなうちにその妄想に気づき、観察し、手放すということである。
感情が湧き上がって来たらすぐさま「サティ」をするのだ。
そうでなければ、感情はみるみるうちに膨れ上がり、さらには収拾がつかなくなってしまうだろう。
性欲もまた同じである。
私が見ている美しい姿とは・・・実は、髑髏であり、骸骨であり、白骨であり、そして糞袋である・・・勝手に私が美しく妄想しているだけの姿に過ぎないものなのだ。
そして、わが身もまた全く同じ姿だ・・・実は、髑髏であり、骸骨であり、白骨であり、そして糞袋である・・・という事実を覆い隠しながら、日々、美しく妄想を膨らませているだけに過ぎないのだ。
仏教では、たとえ性欲であろうとも、他のどのような感情であろうとも、それらはどれも同じく執着すべきものではない。
私の至りついた答え・・・
感情を無くすということは、不可能なことである。
今生において聖者の域に入るということも、凡夫の私には到底不可能なことである・・・。
私にできることがあるとすれば、感情を「観察する」ということしか方法はない。
どのような感情やどのような欲求も「サティ」をしていくということ。
すなわち、いかなる時も徹底的に「観察」し、「洞察」していくということ。
ところが・・・非常に情けないことであるが、徹頭徹尾、観察し、洞察していくということに徹することもまた、この私には不可能なことなのであった。
情けない私の姿を何度も何度も突き付けられた。
やればやる程、その能力の無さと徹底できない私の姿が明らかとなるのであった。
だが、それでも・・・駄目でも、駄目でも、地道にやっていくしかないのではないか・・・私はそう思っている。
煩悩の全てを無くすことはできない・・・無くすことはできないのだけれども、無数にあるうちのほんのいくつかでも無くすことができればそれでいい。
あるいは、無数にあるうちのほんのいくつかを、そしてほんのわずかばかりを“小さく”できるのであればそれでいいではないか・・・。
「欲」という感情を「観る」という作業は、出家であれ、在家であれ、何ら変わるところがないのではないだろうか。
在家で生きていたからと言って、決して自分の行為・行動を観察し、洞察していかなくてもよいということはないはずだ。
・・・突き詰めて考えてみると、結局のところ、出家であろうと、在家であろうと、変わらないのではないかと思うようになった。
どのような感情やどのような欲求も、いかなる場所であっても、いかなる時であっても、観察していくことに努めなければならない。
今ある自身の立場、今いる自身の場所、そして今ある自身の段階(レベル)で観察していくしかないだろう。
私は、これまで記事に綴ってきたような自身の課題を完全に越えることができていたならば、もしかすると、再びタイの山奥へと帰り、再び比丘として出家生活を選んでいたかもしれない。
しかし、私は、この日本の地で、ごく普通の在家の生活者としての道を歩み、現在に至っている。
今ある私を無理なく生きる。
今できることを無理なく実践する。
それが今の私にできるダンマの生き方なのではないかと思っている。
(『【後編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』)
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