タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


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2017/02/13

修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~

師の指導を成し遂げることができなかったとしても・・・師は、何も言わない。

「こういう結果でした」「結果、こうでした」と、師に報告をすれば、師はただ「そうですか」「ああ、そうでしたか」と、返事をするだけだ。

突き返されることも、破門されることもない。

怒られることもなければ、咎められることもない。


その次、自身がどういう行動を選択するべきなのか。

私は、今から何をするべきなのか。

どうしようと、何をしようと“私次第”なのだ。


・・・結論から言うと、規則正しく生活をしながら、こつこつと瞑想を実践していくという、ごく普通のやり方のほうが私には合っていると思った。

規則正しい生活、すなわち、規則正しく適度に寝て、規則正しく適量を食べて、規則正しく瞑想を実践していく。

そういった、ごく一般的なタイの瞑想実践のスタイルへと切り替えたのであった。

いや・・・そうした実践スタイルへと“戻った”のであった。


極端とも言えるような修行方法・・・断食や眠らない修行を実践したとしても、結局のところ、私はなにひとつ変わらなかったし、なにひとつわからなかった。

しかし、それは実際に実践してみたからこそ言える「学び」であったのかもしれない。


結果がどうであろうとも、全ては、自分から求めていかない限り、何かを示されることはない。

全て自分から求めていかなければならないのである。

私の方から、この先どのようにすべきかを師(瞑想指導者)に問い、教えを請わなければならない。

そのようにして初めて、次の指導を受けることができるのだ。


これは、タイでの修行全般について言えることであるが、修行に決まった課程や時間割、決まったコースなどがあるわけではない。

全てが自分自身に委ねられているのであり、全てが自分一人で歩んでいかなければならない道なのである。

師の方から答えを与えてはくれないし、道を示してもくれない。

疑問に感じたことや自分では答えを出すことができないようなことがらは、自ら進んで師のところへ申し出て、質問し、確認し、解決を図っていかなければならない。

・・・しかしながら、自分勝手な判断をするとしたならば、道を過つことすらあり得る。

全ては自分次第ではあるが、そこはしっかりと肝に銘じておくべきだ。


タイでの修行生活というものは、他人の目があるわけではなく、注意してくれる人もいない。

監視してくれる人も、補佐をしてくれる人も、誰もいない。

ただ一人だ。

ただただ一人で黙々と修行を続けていかなければならないのだ。

「まあ、いいや・・・」と、いった気持ちになったとしても、それはそれで一向に構わない。

そこまで。

それでおしまい。

ただ、それだけの話である。


極端な修行方法を実践して学んだことがあるとすれば、どのような状況下に置かれたとしても煩悩は、少しも減りはしないし、無くなりもしないということだろう。

断食をして、空腹の最中にあろうとも、眠気は容赦なく襲い掛かってくる。

空腹ならば、余計なことを考える余裕など無くなってしまうだろうと思いきや、麗しい女性が目に入って来れば、視線はいとも簡単にそちらへと向かってしまう。

性欲は枯れるどころか、激しく湧き上がってくるばかり。

厳然としてあるのだ。

興味が無くなくなってしまうなどといったことは決してない。


どんな欲望も、決して無くなりはしない。

普段の生活と何ひとつ変わらない。

むしろ、不要な考えや善からぬ考えが増すばかりだと言っても過言ではない。


眠らない修行も同様だ。

眠らない修行をして、性欲を断てるかと言えば、これもまた全くの見当違い。

どんなに眠くても、きちんと空腹になれば、激しい怒りの心もある。

しっかりと性欲だってある。


どんなに厳しく、極端な修行を実践したとしても、内面ががらりと変わるわけではないということである。

煩悩が無くなるわけでも、減るわけでも、悟りに近づけるわけでもない。

腹も立てば、怒りもする。

もし、変わるところがあるとするならば、達成感が得られるか、精神力が鍛えられるか・・・そのようなところだろう。

極端な修行とは・・・自分が納得するのか、納得できないのかの問題だ。


どのようなことも「観る」、ただただ「観る」ことに努める、ただただこつこつとやっていく、ということに行き着くのではないかと思う。


徹底して「観察」していくしかないのだ。


~タイで購入したブッダの伝記『ブッダの生涯』の挿絵より。~


必要以上の食事や必要以上の睡眠は、言うまでもなく単なる欲であり、怠け心である。

適度に食物を摂り、適度に睡眠を摂る。

必要最低限度でありつつも、適度の生活こそが、病むことなく、苦しむことなく、最良の状態で、修行生活を長期的に継続していくことを可能にするものなのだということを肌で感じた。



断食も、眠らない修行も、私の取り組み方が中途半端だったという反省はあるのかもしれない。

もっと徹底してサティをしていけば、結果はもっと違ったのかもしれない。

しかし、私にはこれが限界だった。

断食にしても、眠らない修行にしても、やればやるほどに頭がおかしくなってしまいそうな瞬間すらあった。

もはや、発狂寸前の状態にまで陥ったこともあった。


単なる我慢大会、あるいは単なる自己満足や達成感の享受としてしまってはいけない。

文字通り、それはその時、単なる「苦行」となってしまうのだろう。


私は、総崩れとなった。

だが、この結果が私としての限界だったのだから後悔は一切ない。



私は、この実践が終わったあとも、長らくその森のお寺で過ごした。

ある時、アチャンの随行として、信者さんのところへ一緒に出かける機会があった。

街なかのベンチに腰をかけながら、信者さんが迎えに来るのを待っていた時のことである。

・・・その時、アチャンが私に対してぽつりと言った言葉がとても心に残っている。


「ものごとには段階があるんですよ。
次の段階がありますからね。
あなたは、まだ(私が示した修行を)卒業したわけじゃありませんからね。」


と、笑みを浮かべながら私に言った。

私のことを見ていてくれたような言葉で嬉しくもあり、一方でお前はまだまだだと言われたようで悲しくもあるような、実に意味深長な言葉だった。

アチャンが言わんとする真意は、実のところはわからない。

わからないけれども、私と2人だけの時にぽつりと私に渡されたその言葉。

・・・ふと、歩行瞑想中に倒れてしまった時に、


「(眠らない修行の)歩行瞑想で倒れた人は、あなたが初めてです。」


と言われたことがあったのを思い出した。

やはり、どこか私のことを見ていてくれたように感じる気持ちの方が大きく、どこか励まされた気がして嬉しかったことを憶えている。


いろいろと考え合わせたのち、私の出した結論は・・・私は、私が出家をした北タイの小さな森のお寺へと帰るという決意をしたのであった。

そして、ひたすらやってくる日々の中で、淡々と瞑想に励むことになる・・・。



規則正しく、お寺で定められた日課の中で、自分に合ったペースを守りながら、毎日同じ生活を繰り返し、瞑想実践を積み重ねていく・・・日々こつこつと。

これが私にとって最も良いという結論だった。


お寺での生活、出家の生活、特に瞑想実践は実に孤独だ。

どこへも逃げられない。

誰も助けてくれない。

それが瞑想に他ならない。


いや、それは、瞑想中だけのことではない。

当時を振り返ってこの記事を書いている今、このことは、はっきりと断言できることだ。

修行中であろうとなかろうと、出家であろうとなかろうと、それは何ひとつ変わるものではない。


人生もまた孤独なものであるということ。

そして、どこへも逃げられないものであるということ。


徹底して自分自身を観察していかなければならないのは、出家中であっても、瞑想中であっても、在家での生活の最中であっても、すべては全く同じなのである。

まさに、仏教の実践とは、実生活そのもの、人生そのものであったということである。

そして、それがダンマであったということである。


どんなことも徹底して観察していく。

それは、気が遠くなるほど遥かなる道だ。

ついつい、私なんかには不可能だとあきらめてしまいたくなるほどの遥かなる道である。

しかし、それが、穏やかなる心への唯一の道なのではないかと改めて思うのである。


やらずにはおられなかった・・・。

私にとっては、求道への、修行への、そして悟りへの篤い篤い思いの発露に他ならないものであった。

だが、極端なことを実践する必要はなかった。

私にできることを地道にやっていくしか方法はないし、それが最も自然な生き方なのだと思う。



あなたは、総崩れとなってしまった時、どのような結論を出すだろうか?



《 修行か?それとも苦行か? ・結・ 》



(『修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~』)





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2017/02/05

修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~

タイの修行寺などでは、よく夜を徹して瞑想を実践するということがある。

それは、ある特定の日に行われることが多い。


例えば、ワンプラの日や瞑想の集まり、お寺での研修会の最終日といった日である。

出家の者も在家の者も、とても熱心に、しかも徹夜で瞑想を実践しているその姿には、強く心がゆさぶられるものがある。


ところが、なかには、「私は、徹夜瞑想が苦手だからいいのよ。」と言って、端っこのほうで堂々と眠っている参加者もいる。

それもまた許されているのである。


このおおらかさ・・・なんともタイらしくて、とても微笑ましい風景だと私は思う。



ある日・・・森のお寺のアチャン(瞑想指導者である長老)に、瞑想に関するさまざまなことを相談していた話の流れから、


「あなた、眠らない修行というものをやってみてはどうですか?」


と提案された。

私に対して直々にそのように言われるからには、やはり「やってみます。」以外の返事はない。

もちろん、断食をした時の記事に記した通り、この時も同じくやらずにはおられなかったのだ。


ここで言う「眠らない修行」とは、「できる限り目覚めている時間を増やす」というもので、完全に睡眠時間を無くすというものではない。

また、ひたすら坐って瞑想(坐禅)をしていなければならないというものでもなく、眠ってしまうと思えば、いつでも歩く瞑想に切り替えてもよい。

とにかく目覚めていることに努め、目覚めていること自体をしっかりと自覚することに努める、というものである。


一日の睡眠時間は、指導者と相談をして一定の時間に決める。

私の場合は、相談しながら最終的に一日2時間だけ睡眠を摂ることとし、それ以外は決して眠らないということに決まった。


余談ではあるが、必要最低限の睡眠時間以外は、怠け心の現れであり、煩悩であるとされる。

必要以上の睡眠は、食べ過ぎるのと同じであるというわけである。

しかし、どこまでが必要最低限の睡眠時間なのかという、その判断が非常に難しい。


アチャンが言うには、一日に数十分から数時間程度眠れば、それで十分なのだとか・・・。


(アチャンは、一日20分の睡眠で十分なのだと仰ったと記憶しているのだが、さすがにそれは私には不可能であった。20分どころか、30分であっても、1時間であっても私には不可能だった。「目覚めている」ということを念頭に、少しずつ睡眠時間を増やしつつ、最終的に一日2時間だけ睡眠を摂るというところに落ち着いたのであった。しかしながら、この“一日2時間だけ睡眠を摂る”というのでさえも、私にとっては相当過酷なものであった・・・。)


これは、つい最近になって耳にした話であるが、ごくごく短時間の睡眠で過ごすという健康法があるのだそうだ。

実際に実践している人もいるらしい。

まさに、この時、タイで私が聞いた話と同じで興味を持った。

一日に通常では考えられないようなごくごく短時間の睡眠で過ごすという生活は、おそらく不可能なことではないのだろう。


さて、アチャンは、この眠らない修行の意義として、


〇目覚めていることをしっかりと自覚する。
〇目覚めている時間が大切であり、重要であるので、目覚めている時間を増やす。


を挙げ、その効果として、


〇サティの力が高まる。
〇精進・努力の力が高まる。
〇忍耐する力が高まる。
〇「苦しい」感覚を観る。
〇感情に無常を観る。


ことであると教えてくださった。

眠気とは、心が沈むことであり、煩悩であるのだから、しっかりと目覚めている時間をほんの少しでも増やすようにせよというものである。


私は、睡魔には特に弱い性質のようで、大変苦しめられた。

おそらく、他の人よりも弱いのではないだろうかと思うほどである。


私にとって瞑想とは、まさにこの睡魔との闘いであると言っても過言ではないと思っている。


さらに、アチャンから眠気が襲って来た時の対処方法についてもたくさん教えていただいた。


〇ブッダのことを考える。(=ブッダの徳を思う。)
〇ダンマのことを考える。(=ダンマの徳を思う。善き方向へ頭を働かせる。)
〇目を開けて光を見る。
〇光を想像する。
〇耳をつねる。
〇目をこする。
〇姿勢を正す。
〇軽く体を動かす。
〇お経を読む。
〇歩行瞑想に変えてみる。
〇気分転換を行う。(=掃除、洗濯、水浴びなど)


坐って瞑想をしていて、どうしても眠たくなるようであれば、歩く瞑想に切り変えたり、それでも眠たくなるようであれば、坐って瞑想をしないということも指導していただいた。


〇坐らない。
〇ひたすら歩く。
〇ひたすら立つ。
〇ひたすら同じペースで歩き続ける。
〇眠くなってきたら、歩行のスピードを変えてみる。


・・・などなど、ごく基本的なサマタ瞑想や散漫な心を集中させるための手法、おそらくアチャンも実践してきたであろう手法まで、実にさまざまな方法を教えていただいた。





ブッダは果たしてどうだったのだろうかと、
ただひたすらにブッダのことを思う。

しかし、
私にはブッダのように
卓越した瞑想の力はない・・・。





眠らない修行は、初日から辛い。


不意に襲ってくる眠気。

何度も襲ってくる眠気。


この時、眠気に流されてしまうのではなく、眠気そのものをサティしていかなければならない。

そのためには、1分でも1秒でも、ほんの少しでも覚醒している時間を増やすのである。


ところが・・・眠気は、何をしても去らない。

アチャンに教えていただいたことや自分でアレンジを加えたものなど、さまざまなことを試してみた。

軽い眠気であれば去っていくこともあった。

気分転換として、水浴びをしたり、掃除をしたり、ストレッチを行う、身体をゆっくりと動かす・・・などなど。

しかし、強い眠気は一筋縄ではいかない。

何をやっても、目が覚めるのはほんの一時のことでしかなかった。

再び坐って瞑想に入ると、すぐに眠気に襲われてしまう始末だ。


これだけたくさんの目覚めるための手法を教えていただいたにも関わらず、どれも私にとって効果的なものはなかった。


何をやっても眠い。

何をやっても眠ってしまうのだ。


最終的には、「坐らない」というところに行き着いた。

坐ればすぐに、瞬間的に眠ってしまうからだ。


瞬間的に眠りに入る・・・果たして、この状態を想像していただけるであろうか。

ゆえに、ただひたすら歩く瞑想だけを実践するというかたちに至ったのである。

一日2時間の睡眠時間も、寝過ぎてしまわないように、椅子に座って眠ったり、柱にもたれてかかって眠るようにした。


・・・眠気というのは、日ごとに積もってくるようで、歩きながらであっても居眠ってしまうようになった。

歩行瞑想をしながら、何度も足を踏み外してしまったり、何度も転倒しそうになったりした。

本当に転倒してしまったりもした。

朝の托鉢中には、何度も、居眠ってしまい、私の前を歩く先輩比丘にぶつかりそうになった。

歩いている道から外れそうにもなった。


“睡魔”は、場所を問わず、どこであっても容赦なく私に襲い掛かって来るのであった。


遂には、眠気一色になってしまった。


・・・もう、何をしても眠い。

どんなことをしても眠気が去らない。


眠らない修行の目的・・・


「常に覚醒していること(目覚めていること)で、「気づき」を保ち、サティの力を身につけるために行う」


最初にそのように教わったはずであるが、ただただ眠いばかりで、「気づき」どころではないし、瞑想どころではない。

坐ればすぐに眠ってしまう。

歩いていても、こっくりこっくりと居眠ってしまう。

歩いていても、である。

ひたすら眠気に耐え、ひたすらふらふらになりながらも歩くばかりであった。


歩きながら居眠ってしまう・・・これもまた、果たして、想像していただけるであろうか。


ついには、歩行瞑想をしながら眠ってしまったようで、意識をなくしてしまった。

気がついたら、倒れて血を流していた。


歩きながら眠りの中へと入ってしまったようなのだ。


歩行瞑想をしていると、突然、「バシンッ!」という強い衝撃を感じたのであった。

壁か看板にでもぶつかってしまったのかと思ったが・・・

・・・違った。

地面に倒れていたのだ。

しかも、血まで流しているではないか!

ほんの先程まで、眠いとは思いつつも、意識しながら歩いていたはずだった。


そう、その“はず”だった。


歩いていたにも関わらず、居眠ってしまったことにすら気づかなかったのだ。

ほんの一瞬の出来事だった。


・・・この時は、「睡魔に負けた!」と思ったことを鮮明に覚えている。


この悔しさ、脱力感、絶望感・・・言葉では表現することのできない複雑な気持ち。

今でも忘れることができない。


「嗚呼・・・私は、ついに睡魔には勝てなかったのだ・・・。」





ひたすら歩行瞑想を続ける。





できるだけ眠らない修行をどのくらいの期間実践したのかということは、はっきりと記録していないのでわからない。

相当辛かったことだけを記憶している。


断食と同様、すでに瞑想どころではなくなってしまっていた。

やはり、結局は、終わってみれば、ただの我慢大会のようでしかなかったように思う。


もっともっと自分に厳しく、もっともっと徹底して「目覚めていることをしっかりと自覚する」ことに取り組んでいれば、さらに進展していたのかもしれない・・・と、思わなくもない。

もしかすると、私の修行に対する決意と取り組み方が中途半端だったからなのかもしれない・・・と、思うこともある。

どうして私にはできなかったのだろうという悔しい思いもある。

しかし、当時としては、これが私の限界だったのであり、それ以上はできなかったのだ。


嗚呼・・・やっぱり、私には瞑想の才能も能力もなかったのだ・・・と、落胆した。


私は、またもアチャンが指導される通りに実践することはできなかった。


なかには、こうした方法で、「気づき」を高め、サティの力を身につけることができる人もいるのだろう。

私に親しく指導をしてくださったアチャンのように。

アチャンは、おそらく並々ならぬ努力の人であったに違いない。



気づきを保ち、サティの力を身につける・・・


どのようにしてサティを磨き、どのようにして身につけていくのかということは、“あなた次第”というのがタイのスタイルだ。

自分から教えを求めていかない限り、誰も道を示してはくれない。

これもまた、タイのスタイルである。


・・・「今、ここに、ありのままの自己を観察する」という基本を忘れないこと。


その基本を忘れてしまった時、それは無意味な「苦行」となってしまうのではないだろうか。

必ず心得ておかなければならないことだと私は思う。



《 つづく ・ 『修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~』 》



関連記事:

『瞑想修行中の苦悩~眠気~』

『徹夜瞑想』



(『修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~』)





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2017/01/30

修行か?それとも苦行か?~断食をする~

私が実践したことのあるやや極端な修行方法・・・断食をする。

ここで言う「断食」とは、完全に飲食を断ってしまうというようなものではなく、真水だけは摂ってもよいというものだ(ちなみに、真水の摂取は、戒律上も問題はない。)。

実践期間は、個人で自由に決めてもよいとのことで、私の場合は、アチャン(瞑想指導者である長老)との相談によって、15日間実践することにした。


・・・結論から言うと、規則正しく生活をしながら、こつこつと瞑想を実践していくという、ごく普通のやり方のほうが私には合っているという結論に達した。

極端な修行方法など取らなくとも、ごくごく普通に瞑想を実践し、継続していくことのほうが大切であると私は感じているため、このやや極端な修行方法に関する話題は、あまり他人に話したことがない。

しかし、どのような実践方法が合うのかということや、何を選択していくべきかということなどは、人それぞれ、各個人が判断することである。

それゆえ、その「判断」こそが非常に大切なものとなる。


この極端な修行方法も、私がタイで出会ったエピソードのひとつとして参考にしていただければと思うに至った次第である。


自分がいいと思った方法を実際にやってみて、自分自身で判断することができるという点がタイのお寺のいいところだ。

頭の中で考えることも大切ではあるが、何事も、実際に取り組んでみるという姿勢が大切であると思う。



タイのある森のお寺に止住していた時、アチャン(瞑想指導者である長老)から、


「“断食”というものがあるけれども、あなたもやってみますか?」


と言われた。

・・・聞けば、アチャンも過去に実践したことがあるとのこと。


アチャンが私に対して、直々にそのように言われるからには「やってみます。」以外の返事はない。

もちろん、一瞬の迷いと戸惑いの気持ちはあった。

私が感じた“一瞬の迷いと戸惑いの気持ち”とは、「私にもできるだろうか・・・」というような不安な気持ちではなく、「苦しいことはやりたくない!」という感情だった。

誰が考えても苦痛であろうことに敢えて取り組みたくはないだろう。


当然だ。


しかし、やらずにはおられなかった。

「やらずにはおられなかった」・・・この感情の意味するところは、前回の記事の通りだ。

ゆえに、私は二つ返事で「断食」に取り組んでみることにしたのであった。


アチャンは、断食をすることの意義として、


〇敢えて苦しい感覚を観ることで、感情の無常を観る力を高める。

〇努力を継続する力や強い忍耐力を高める。


ことだと教えてくださった。


森のお寺では、一日一食の生活だ。

その一食を断つわけである。





~挿絵1:ラホール博物館で購入した絵葉書~
苦行とは、私にとっては求道への、
そして修行への篤い篤い思いの
発露に他ならなかった。





当時の簡単なメモが残っている。

そのメモを基に当時を振り返りながら、断食の過程を追ってみたいと思う。

手元にある当時のメモには、一言二言程度の言葉しか残っていない。

それゆえに正確ではない部分もあるかとは思うが、何卒その点はご容赦願いたい。


断食1日目。

どうにか一日を終える。


断食2日目。

空腹ながらも、いつも通りの日課を終える。


断食4日目。

お腹が減る・・・
食べたい・・・

空腹感が凄まじい。

水を飲んだところで、お腹が若干重たくなる程度で、空腹感は全く満たされない。

歩くと体がふわふわする。

・・・この“ふわふわする”という感覚。
例えると、トランポリンの上を歩いているような感覚だったことを記憶している。

血の気が引いていく感覚を覚える。

立ち上がると立ちくらみがする。

体が怠い・・・、体が重い・・・。

瞑想どころではなくなってしまう。


断食5日目。

まともに何もできなくなってしまう。

あまりに体が怠くて、動くことがままならない。

体がフラフラする。

朝の托鉢へ出ることができなくなってしまう。

この時ばかりは、特別な行だからと、朝の托鉢を休むことを許していただいた。

以降、苦しく、辛く、起きていられなくなる。

・・・坐ることすらできなくなってしまう。

何もすることができず、大半を横になって過ごすようになる。
横になって過ごすことも特別に許可していただいた。

期間中、何度か少しの距離を歩かなければならない用事があった。

それ程たいした距離ではないにも関わらず、体がきつくてきつくて足取りが重い。

疲れというか、怠さというか、体の重みが激しく、尋常ではなかったことをはっきりと記憶している。

もう・・・今にもそのまま倒れてしまいそうであった。

ただただ耐えるだけとなる。

このような状態が数日間、ひたすら続く・・・


・・・本来であれば、この感覚こそを観察し、サティしていかなければならないのだが・・・


もはや、指導されたこの実践の意義や目的を思い出し、実践する余裕すらない。

これを書いていて、どうしてできなかったのかと少々悔しい思いが込み上げてくるのだが、当時としては、全くそれどころではなかったのだ。


断食13日目。

起き上がったり、立ち上がったりすると、めまいがして、胸が苦しくなる。

もう、いよいよ限界だと思うようになる。

ただただ耐える・・・ただただ時間が過ぎ去り、ただただ日にちが過ぎ去るのを待つだけとなってしまう。


断食15日目。

今日が最終日だという気持ちから、若干楽になる。


断食明けの翌朝。

いきなり食べ物を食べるのは良くないとのことで、お湯で溶いたハチミツを飲む。

この時のことは、はっきりと覚えている。

身体全体に浸みわたる・・・毛細血管の隅々にまで、ゆっくりと養分が浸みこんでいく、身体全体へと広がっていく、身体の温度がふわーっと上がっていく・・・そんな“感覚”だった。


この時の感覚は、はっきりと記憶しており、忘れることができない。


その後、朝食としてジュースや流動食、お粥のようなものなどを少しづつ摂っていき、少しづつ量を増やしていき、元の食事形態、元の食事量へと戻していった。


具体的に体重が何㎏だったのかは覚えていないが、かなり痩せたことだけは確かだ。

まるで、かの苦行像のようだった。





~挿絵2:ラホール博物館で購入した絵葉書~
リアルに表現された鋭く篤い眼差し(挿絵1)は、
私の心を強く打つものがあった。

しかし、私は、
ブッダのようにはなれなかった・・・
ただただ脱力するしかなかった。





恥ずかしながら、終わってみれば、ただの我慢大会のようでしかなかった。

くどいようではあるが、本来であれば、この苦しい感覚や様々な妄想こそを観察し、サティしていかなければならないのであるが、情けないことに、逆に妄想だらけの日々となってしまった。


あの時、もっとたらふく食べておけばよかった・・・あの時、もっと思う存分に味わっておけばよかった・・・過去の出来事に対して、無意味に妄想してしまうのであった。

断食中に限って、好みの食べ物がお布施されてくる・・・むろん、そのようなことがあるはずはなく、偶然にあったとしても、単に自身の「思い」がそのように妄想させているに過ぎない。


苦しい状況下にあるにも関わらず、感情は容赦なく激しく暴れ出し、止め処なく吹き出してくる。

自身を追い詰めれば、余計なことを考える余裕など無くなってしまうに違いないと思いきや、そんなにも短絡的であろうはずはなく、欲が減るようなことは決してない。

さまざまな妄想に駆られるのは、普通に生活をしている時と何ひとつ変わらないのであった。


私は、アチャンが指導される通りに実践することはできなかった・・・。


テーラワーダ仏教では、「食物」とは、ただこの身を支えて、飢えなどによる苦痛を無くし、ひたすらに仏道修行を歩むために食するものであると、常に観察し、常に忘れず、常に心に保ち、常に思い出すようにと教えている。

それ以上の意味はない。

味わうことでもなければ、楽しむことでもない。

こうした食物に対する見方は、日本人にとっては少々冷酷に感じるのかもしれない。


食物は、人間を含む動物にとっては、言うまでもなくとても大切なものである。

しかし、食べ過ぎは、修行の妨げとなり、眠気や怠けをもたらすものとなる。

さらに、食物に執着したり、楽しみを求めたりすると、苦しみを生むこととなる。



《 つづく ・  『修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~』 》



(『修行か?それとも苦行か?~断食をする~』)





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2017/01/22

修行か?それとも苦行か?

テーラワーダ仏教の修行では、一般的に日本で想像されるような、冷たい水をかぶったり、滝に打たれたりといった、いわゆる“苦行”や“荒行”というものはない。


戒律を保った生活を送る。

瞑想を実践する。


これが、テーラワーダ仏教の修行であり、出家生活である。


しかし、出家生活自体が禁欲的なものであるのだから「苦行」だと言ってしまえばそれまでではあるが、タイの出家生活そのものは誰にでも実践できるものであり、私は苦行であるとは思わない。

日本の僧院生活の方がはるかに厳しい生活であると思う。

タイで最も厳しいと言われている僧院であったとしても、厳しいとされるのは戒律の運用具合が緩やかであるのか厳格であるのかの点である。

戒律の運用が厳しくなれば、必然的に規則として気をつけなければならないことが増えたり、生活上においてできないことなどが増えることになる。

俗な表現ではあるが、より窮屈な生活となり、縛りが多くなるわけだ。

よって、「細かい」と感じ、「苦行」だと感じることになるのかもしれない。

その“厳しさ”とは、日本で想像されるような“厳しさ”とはまた意味合いが異なるのだ。


そんなタイでの修行生活ではあるが、今までの記事の中でも紹介をさせていただいている通り、いたって自由で、非常におおらかであるため、誰にでも取り組みやすいものだ。

その反面で、非常におおらかであるがゆえに、取り組むも、取り組まないも、まさに自分次第といったところが大きい。


一方で、「苦行」とも思える、やや極端な修行方法もごくごく少数ながら実践されている。

私は、そんなやや極端な修行方法も実践する機会があった。


それは、「断食」と「できる限り眠らない」修行というものである。


果たして・・・これらは「苦行」なのだろうか。

さらには、“瞑想”とは「苦行」なのだろうか。


瞑想すること自体が苦痛であると感じる人であれば、瞑想とは紛れもなく苦行なのかもしれない。

日常生活の中で習慣としていないようなことを敢えて行うわけであるから、やはり苦痛を伴うのはごく自然なことであろう。

単純に自分にとって苦痛であるのならば、それは苦行だと言えなくもない。


瞑想実践も、すんなりと入って行くことができる人もいれば、大層苦痛を伴いながらの実践となる人もいる。


私などは後者のタイプだ。

恥ずかしながら、時に瞑想が苦行だと感ずる。

さらに情けないことに、どれだけ頑張っても、ある程度は瞑想することに「慣れる」ことはできても、瞑想自体が“喜び”であり、“楽しみ”になるまでには未だ至っていない。


私には、いわゆる瞑想のセンスがなかったわけだ。


同様に出家生活は実に穏やかだと感じる人もいる。

しかし、一方で、出家生活は実に苦痛だと感じる人もいるだろう。


人間には、さまざまな“欲”がある。

金銭欲、購買欲、支配欲、権力欲、出世欲、名誉欲、物欲、食欲、睡眠欲、性欲・・・

それらを挙げるときりがないわけであるが、どのような“欲”が最も強いのかということは、人それぞれであり、感じ方も人それぞれで、苦痛と感じる点もまた人それぞれに異なるということである。

苦手とすることや弱点とするところは、人それぞれに異なるのであって、何をもって苦行だと感じるかは、人によって異なるとしか言いようがないであろう。


このように考えてみると、何が「修行」で、何が「苦行」なのかということは、それぞれの感じ方次第なのではないかと思う。


何が「修行」で、何が「苦行」なのだろうか?

私が思うに、仏教的に意味のない「修行」であるのならば、それは単なる「苦行」になるのではないかと思うのだが如何なものだろうか。





怠け心を克服することは
そうそう容易なものではない。

真剣であればあるほど、
非常に悩ましいものだ。





タイでやや極端な修行方法を実践してみて感じたこと・・・苦しく、苦痛であったのは紛れもない事実であるが、それは、想像されるような「苦行」ではないように感じた。


修行しても、修行しても、前進できない・・・

修行しても、修行しても、心が穏やかになるどころが、荒々しく、濁流と化していく、そして飲み込まれていく・・・

そんなどうしようもない感情を抱えながら悶える。


極端な修行方法を実践すれば・・・

もしかすると、何かが得られるのかもしれない・・・

もしかすると、現状を打破できるのかもしれない・・・

そして、もしかすると、少しでも悟りに近づけるのではないかという淡い期待感・・・

このようなごく人間的な葛藤の感情を抱いたのであった。


・・・テーラワーダ仏教では、そのような時であったとしても、徹頭徹尾、徹底して自己の心を観察していかなければならないということは、重々承知してはいるのだが・・・


瞑想を実践しておられる方であれば、どなたも感じられたことがあるのではなかろうかと思う。


少し極端な実践方法が有する、いわゆる「ストイックさ」というものに惹かれる感覚。

壁にぶつかった時の、何かをしようにもなす術がないというジレンマ。

そうした時に感ずる悶え苦しむ感情。


私の場合、どうしてもおさまりのつかない感情、つまり激しい煩悩と、それらを観察しようにも観察しきれないという板挟みの苦しい状況下の中から湧き上がってくる「やらずにはおられない」という強い思いがあったのだ。


極端な実践方法・・・それは、修行への篤い篤い思いの発露に他ならないのではないかと私は思う。


今、目の前にあることを大切にして、真摯に取り組んでいくのみ。

たとえ極端とも思える修行であったとしても、そこからの学びは実践者にとっては、とても大切なものとなるはずだ。


出家とは、修行とは、瞑想とは、実に孤独なもので、どこへも逃げることができないものなのだ。

徹底して自己と向き合っていかなければならない。

どれほど葛藤しようとも、どれほど苦しくとも、ただ観ていくしかないのである。


自分の思い通りにはいかないし、すぐに手に入るものでもない。

それだからこそ「修行」なのだろう。


私が実践したこの「苦行」とも思える少し極端な修行とは、私にとっては、求道への、そして修行への篤い篤い思いの発露に他ならないものであった。

少なくとも、苦行としてイメージされるような苦行ではないと私は感じたのであった。



《 つづく ・ 『修行か?それとも苦行か?~断食をする~』 》



(『修行か?それとも苦行か?』)





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