タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/01/30

修行か?それとも苦行か?~断食をする~

私が実践したことのあるやや極端な修行方法・・・断食をする。

ここで言う「断食」とは、完全に飲食を断ってしまうというようなものではなく、真水だけは摂ってもよいというものだ(ちなみに、真水の摂取は、戒律上も問題はない。)。

実践期間は、個人で自由に決めてもよいとのことで、私の場合は、アチャン(瞑想指導者である長老)との相談によって、15日間実践することにした。


・・・結論から言うと、規則正しく生活をしながら、こつこつと瞑想を実践していくという、ごく普通のやり方のほうが私には合っているという結論に達した。

極端な修行方法など取らなくとも、ごくごく普通に瞑想を実践し、継続していくことのほうが大切であると私は感じているため、このやや極端な修行方法に関する話題は、あまり他人に話したことがない。

しかし、どのような実践方法が合うのかということや、何を選択していくべきかということなどは、人それぞれ、各個人が判断することである。

それゆえ、その「判断」こそが非常に大切なものとなる。


この極端な修行方法も、私がタイで出会ったエピソードのひとつとして参考にしていただければと思うに至った次第である。


自分がいいと思った方法を実際にやってみて、自分自身で判断することができるという点がタイのお寺のいいところだ。

頭の中で考えることも大切ではあるが、何事も、実際に取り組んでみるという姿勢が大切であると思う。



タイのある森のお寺に止住していた時、アチャン(瞑想指導者である長老)から、


「“断食”というものがあるけれども、あなたもやってみますか?」


と言われた。

・・・聞けば、アチャンも過去に実践したことがあるとのこと。


アチャンが私に対して、直々にそのように言われるからには「やってみます。」以外の返事はない。

もちろん、一瞬の迷いと戸惑いの気持ちはあった。

私が感じた“一瞬の迷いと戸惑いの気持ち”とは、「私にもできるだろうか・・・」というような不安な気持ちではなく、「苦しいことはやりたくない!」という感情だった。

誰が考えても苦痛であろうことに敢えて取り組みたくはないだろう。


当然だ。


しかし、やらずにはおられなかった。

「やらずにはおられなかった」・・・この感情の意味するところは、前回の記事の通りだ。

ゆえに、私は二つ返事で「断食」に取り組んでみることにしたのであった。


アチャンは、断食をすることの意義として、


〇敢えて苦しい感覚を観ることで、感情の無常を観る力を高める。

〇努力を継続する力や強い忍耐力を高める。


ことだと教えてくださった。


森のお寺では、一日一食の生活だ。

その一食を断つわけである。





~挿絵1:ラホール博物館で購入した絵葉書~
苦行とは、私にとっては求道への、
そして修行への篤い篤い思いの
発露に他ならなかった。





当時の簡単なメモが残っている。

そのメモを基に当時を振り返りながら、断食の過程を追ってみたいと思う。

手元にある当時のメモには、一言二言程度の言葉しか残っていない。

それゆえに正確ではない部分もあるかとは思うが、何卒その点はご容赦願いたい。


断食1日目。

どうにか一日を終える。


断食2日目。

空腹ながらも、いつも通りの日課を終える。


断食4日目。

お腹が減る・・・
食べたい・・・

空腹感が凄まじい。

水を飲んだところで、お腹が若干重たくなる程度で、空腹感は全く満たされない。

歩くと体がふわふわする。

・・・この“ふわふわする”という感覚。
例えると、トランポリンの上を歩いているような感覚だったことを記憶している。

血の気が引いていく感覚を覚える。

立ち上がると立ちくらみがする。

体が怠い・・・、体が重い・・・。

瞑想どころではなくなってしまう。


断食5日目。

まともに何もできなくなってしまう。

あまりに体が怠くて、動くことがままならない。

体がフラフラする。

朝の托鉢へ出ることができなくなってしまう。

この時ばかりは、特別な行だからと、朝の托鉢を休むことを許していただいた。

以降、苦しく、辛く、起きていられなくなる。

・・・坐ることすらできなくなってしまう。

何もすることができず、大半を横になって過ごすようになる。
横になって過ごすことも特別に許可していただいた。

期間中、何度か少しの距離を歩かなければならない用事があった。

それ程たいした距離ではないにも関わらず、体がきつくてきつくて足取りが重い。

疲れというか、怠さというか、体の重みが激しく、尋常ではなかったことをはっきりと記憶している。

もう・・・今にもそのまま倒れてしまいそうであった。

ただただ耐えるだけとなる。

このような状態が数日間、ひたすら続く・・・


・・・本来であれば、この感覚こそを観察し、サティしていかなければならないのだが・・・


もはや、指導されたこの実践の意義や目的を思い出し、実践する余裕すらない。

これを書いていて、どうしてできなかったのかと少々悔しい思いが込み上げてくるのだが、当時としては、全くそれどころではなかったのだ。


断食13日目。

起き上がったり、立ち上がったりすると、めまいがして、胸が苦しくなる。

もう、いよいよ限界だと思うようになる。

ただただ耐える・・・ただただ時間が過ぎ去り、ただただ日にちが過ぎ去るのを待つだけとなってしまう。


断食15日目。

今日が最終日だという気持ちから、若干楽になる。


断食明けの翌朝。

いきなり食べ物を食べるのは良くないとのことで、お湯で溶いたハチミツを飲む。

この時のことは、はっきりと覚えている。

身体全体に浸みわたる・・・毛細血管の隅々にまで、ゆっくりと養分が浸みこんでいく、身体全体へと広がっていく、身体の温度がふわーっと上がっていく・・・そんな“感覚”だった。


この時の感覚は、はっきりと記憶しており、忘れることができない。


その後、朝食としてジュースや流動食、お粥のようなものなどを少しづつ摂っていき、少しづつ量を増やしていき、元の食事形態、元の食事量へと戻していった。


具体的に体重が何㎏だったのかは覚えていないが、かなり痩せたことだけは確かだ。

まるで、かの苦行像のようだった。





~挿絵2:ラホール博物館で購入した絵葉書~
リアルに表現された鋭く篤い眼差し(挿絵1)は、
私の心を強く打つものがあった。

しかし、私は、
ブッダのようにはなれなかった・・・
ただただ脱力するしかなかった。





恥ずかしながら、終わってみれば、ただの我慢大会のようでしかなかった。

くどいようではあるが、本来であれば、この苦しい感覚や様々な妄想こそを観察し、サティしていかなければならないのであるが、情けないことに、逆に妄想だらけの日々となってしまった。


あの時、もっとたらふく食べておけばよかった・・・あの時、もっと思う存分に味わっておけばよかった・・・過去の出来事に対して、無意味に妄想してしまうのであった。

断食中に限って、好みの食べ物がお布施されてくる・・・むろん、そのようなことがあるはずはなく、偶然にあったとしても、単に自身の「思い」がそのように妄想させているに過ぎない。


苦しい状況下にあるにも関わらず、感情は容赦なく激しく暴れ出し、止め処なく吹き出してくる。

自身を追い詰めれば、余計なことを考える余裕など無くなってしまうに違いないと思いきや、そんなにも短絡的であろうはずはなく、欲が減るようなことは決してない。

さまざまな妄想に駆られるのは、普通に生活をしている時と何ひとつ変わらないのであった。


私は、アチャンが指導される通りに実践することはできなかった・・・。


テーラワーダ仏教では、「食物」とは、ただこの身を支えて、飢えなどによる苦痛を無くし、ひたすらに仏道修行を歩むために食するものであると、常に観察し、常に忘れず、常に心に保ち、常に思い出すようにと教えている。

それ以上の意味はない。

味わうことでもなければ、楽しむことでもない。

こうした食物に対する見方は、日本人にとっては少々冷酷に感じるのかもしれない。


食物は、人間を含む動物にとっては、言うまでもなくとても大切なものである。

しかし、食べ過ぎは、修行の妨げとなり、眠気や怠けをもたらすものとなる。

さらに、食物に執着したり、楽しみを求めたりすると、苦しみを生むこととなる。



《 つづく ・  『修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~』 》



(『修行か?それとも苦行か?~断食をする~』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
15日間の断食とは、なかなか経験出来ないすごい体験だったようですね。断食は、自身の心の煩悩の有り様を自覚できそうですし、また、苦の感受を経験する良い修行になり得るのだなと思いました。ミャンマーでも、苦の感受は自覚しやすく、集中しやすいので、ある意味大切にされます。

食事については、ミャンマーでも同様に、瞑想中は「味わって食べるな」と戒められます。
サティしながら食事すると、食物が口中にあっても、常に味覚を感じ続けているわけではないことに気づかされます。噛む動きや、食物が頬に触れている感覚なども意識され、味覚は食べ物を咀嚼しているときに、時々感じる程度になります。とても味わうという感じではなくなります。
逆に言えば、味わって食べたければ、妄想を働かせて食べたほうがいいとも言えるかもしれません。

ミャンマーでは、食べ物に対する執着を起こさないために、ご飯、おかずだけでなく、デザート、フルーツなどすべてを混ぜて「猫飯」にして食べる方もいらっしゃいます。実際、鉢で食事すると、ご飯やおかずが鉢の中心に集まってくるので、おのずと猫飯状態になってしまいます。
2500年前の托鉢では、おかずやデザート類などを別々にビニール袋に入れて貰えるわけではなく、一つの鉢に、ご飯、おかず、フルーツ、お菓子など何でも放り込まれ、それを持ち帰り、そのまま手掴みで食べていたので、それに倣うという意味合いもあるようです。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

タイにおいても、苦の感受や煩悩のあり様を自覚することは、とても大切にされ、時には強調されることもあります。断食とは、おそらくそうした苦の感受や煩悩のあり様をよりわかりやすく自覚していくための方法のひとつなのでしょうね。

しかし、私のこの記事の時には、日を追うごとに余裕はなくなり、ただただ耐えるだけで精一杯という状況になってしまいました。のちに、記事として書いていくつもりなのですが、いつもの瞑想で、そしていつもの生活でサティしていくことこそが大切なのだと痛感しました。なにも、サティとは修行の時や瞑想の時だけのものではないからです。まして、そこまで極端なことに走る必要性もなかったのだと感じました。

味覚とは、妄想を働かせながらの一面もあるのかもしれませんね。ある和食の料理人さんが言ってみえました。「味ももちろん大切だが、重要なのは見た目だ。料理は、目で食するものだ。」と。これは、この方の見解なのでしょうけれども、この方のお話からは、まさに料理とは、妄想で食べているんだなと思いました。
タイでも、特に森の修行寺などでは、敢えて鉢の中の食物をかき混ぜて食べている方を見かけることがありました。きっと、サティの力が高まってこれば、敢えて混ぜて食べることも必要ではなくなり、どんな時であっても味わうことなく、味覚や感覚を観察しながら食することができるようになるのでしょうね。

さまざまに彩られた食物に溢れ、あらゆる方法で購買意欲をかき立てられ、あらゆる方法で食欲と味覚を満足させようとしている現代社会。一般常識で言えば、悪いことではないのでしょうけれども、少々複雑な気持ちにさせられてしまいますね。

貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。