タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/02/05

修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~

タイの修行寺などでは、よく夜を徹して瞑想を実践するということがある。

それは、ある特定の日に行われることが多い。

例えば、ワンプラの日や瞑想の集まり、お寺での研修会の最終日といった日である。

出家の者も在家の者も、とても熱心に、しかも徹夜で瞑想を実践しているその姿には、強く心がゆさぶられるものがある。

ところが、なかには、「私は、徹夜瞑想が苦手だからいいのよ。」と言って、端っこのほうで堂々と眠っている参加者もいる。

このおおらかさ・・・なんともタイらしくて、とても微笑ましい風景だと私は思う。


ある日・・・森のお寺のアチャン(瞑想指導者である長老)に、瞑想に関するさまざまなことを相談していた話の流れから、

「あなた、眠らない修行というものをやってみてはどうですか?」

と提案をされた。

私に対して直々にそのように言われるからには、やはり「やってみます。」以外の返事はない。

もちろん、断食をした時の記事に記した通り、この時も同じくやらずにはおられなかったのだ。


ここで言う「眠らない修行」とは、「できる限り目覚めている時間を増やす」というもので、完全に睡眠時間を無くすというものではない。

また、ひたすら坐って瞑想(坐禅)をしていなければならないというものでもなく、眠ってしまうと思えば、いつでも歩く瞑想に切り替えてもよい。

とにかく目覚めていることに努め、目覚めていること自体をしっかりと自覚することに努める、というものである。

一日の睡眠時間は、指導者と相談をして一定の時間に決める。

私の場合は、相談しながら最終的に一日2時間だけ睡眠を摂ることとし、それ以外は決して眠らないということに決まった。


余談ではあるが、必要最低限の睡眠時間以外は、怠け心の現れであり、煩悩であるとされる。

必要以上の睡眠は、食べ過ぎるのと同じであるというわけである。

しかし、どこまでが必要最低限の睡眠時間なのかという判断が非常に難しい。

アチャンが言うには、一日に数十分から数時間程度眠れば、それで十分なのだとか・・・。


(アチャンは、一日20分の睡眠で十分なのだと仰ったと記憶しているのだが、さすがにそれは私には不可能であった。
20分どころか、30分であっても、1時間であっても私には不可能だった。
「目覚めている」ということを念頭に、少しずつ睡眠時間を増やしつつ、最終的に一日2時間だけ睡眠を摂るというところに落ち着いたのであった。
しかしながら、この“一日2時間だけ睡眠を摂る”というのでさえも、私にとっては相当過酷なものであった・・・。)


これは、つい最近になって耳にした話であるが、ごくごく短時間の睡眠で過ごすという健康法があるのだそうだ。
実際に実践している人もいるらしい。

まさに、この時、タイで私が聞いた話と同じで興味を持った。

一日に通常では考えられないようなごくごく短時間の睡眠で過ごすという生活は、おそらく不可能なことではないのだろう。


さて、アチャンは、この眠らない修行の意義として、

〇目覚めていることをしっかりと自覚する。
〇目覚めている時間が大切であり、重要であるので、目覚めている時間を増やす。

を挙げ、その効果として、

〇サティの力が高まる。
〇精進・努力の力が高まる。
〇忍耐する力が高まる。
〇「苦しい」感覚を観る。
〇感情に無常を観る。

ことだと教えてくださった。

眠気とは、心が沈むことであり、煩悩であるのだから、しっかりと目覚めている時間をほんの少しでも増やすようにせよというものである。


私は、睡魔には特に弱い性質のようで、大変苦しめられた。
おそらく、他の人よりも弱いのではないだろうかと思うほどである。

私にとって瞑想とは、まさにこの睡魔との闘いであると言っても過言ではないと思っている。


さらに、アチャンから眠気が襲って来た時の対処方法についてもたくさん教えていただいた。


〇ブッダのことを考える。(=ブッダの徳を思う。)
〇ダンマのことを考える。(=ダンマの徳を思う。善き方向へ頭を働かせる。)
〇目を開けて光を見る。
〇光を想像する。
〇耳をつねる。
〇目をこする。
〇姿勢を正す。
〇軽く体を動かす。
〇お経を読む。
〇歩行瞑想に変えてみる。
〇気分転換を行う。(=掃除、洗濯、水浴びなど)

坐って瞑想をしていて、どうしても眠たくなるようであれば、歩く瞑想に切り変えたり、それでも眠たくなるようであれば、坐って瞑想をしないということも指導していただいた。

〇坐らない。
〇ひたすら歩く。
〇ひたすら立つ。
〇ひたすら同じペースで歩き続ける。
〇眠くなってきたら、歩行のスピードを変えてみる。

・・・などなど、ごく基本的なサマタ瞑想や散漫な心を集中させるための手法、おそらくアチャンも実践してきたであろう手法まで、実にさまざまな方法を教えていただいた。


ブッダは果たしてどうだったのだろうかと、ひたすらにブッダのことを思う。
しかし、私にはブッダのように優れた瞑想の力はない・・・。


眠らない修行は、初日から辛い。

不意に襲ってくる眠気。
何度も襲ってくる眠気。

この時、眠気に流されてしまうのではなく、眠気そのものをサティしていかなければならない。
そのためには、1分でも1秒でも、ほんの少しでも覚醒している時間を増やすのである。

ところが・・・眠気は、何をしても去らない。

アチャンに教えていただいたことや自分でアレンジを加えたものなど、さまざまなことを試してみた。

軽い眠気であれば去っていくこともあった。

気分転換として、水浴びをしたり、掃除をしたり、ストレッチを行う、身体をゆっくりと動かす・・・などなど。

しかし、強い眠気は一筋縄ではいかない。

何をやっても、目が覚めるのはほんの一時のことでしかなかった。

再び坐って瞑想に入ると、すぐに眠気に襲われてしまう始末だ。


これだけたくさんの目覚めるための手法を教えていただいたにも関わらず、どれも私にとって効果的なものはなかった。


何をやっても眠い。
何をやっても眠ってしまうのだ。


最終的には、「坐らない」というところに行き着いた。

坐ればすぐに、瞬間的に眠ってしまうからだ。

瞬間的に眠りに入る・・・果たして、想像していただけるであろうか。

ゆえに、ただひたすら歩く瞑想だけを実践するというかたちに至ったのである。

一日2時間の睡眠時間も、寝過ぎてしまわないように、椅子に座って眠ったり、柱にもたれてかかって眠るようにした。


・・・眠気というのは、日ごとに積もってくるようで、歩きながらであっても居眠ってしまうようになった。

歩行瞑想をしながら、何度も足を踏み外してしまったり、何度もこけそうになったりした。
本当にこけてしまったりもした。

朝の托鉢中には、何度も、私の前を歩く先輩比丘にぶつかりそうになった。
歩いている道を外れそうにもなった。


“睡魔”は、場所を問わず、どこであっても容赦なく私に襲い掛かって来るのであった。


遂には、眠気一色になってしまった。

・・・もう、何をしても眠い。

どんなことをしても眠気が去らない。


眠らない修行の目的・・・


「常に覚醒していること(目覚めていること)で、「気づき」を保ち、サティの力を身につけるために行う」


最初にそのように教わったはずであるが、ただただ眠いばかりで、気づきどころではないし、瞑想どころではない。

坐ればすぐに眠ってしまう。

歩いていても、こっくりこっくりと居眠ってしまう。

ひたすら眠気に耐え、ひたすらふらふらになりながらも歩くばかりであった。

歩きながら居眠ってしまう・・・これもまた、果たして、想像していただけるであろうか。


ついには、歩行瞑想をしながら、瞬間的に眠ってしまい、倒れて血を流してしまった。

歩きながら眠りの中に入ってしまったようなのだ。

歩行瞑想をしていると、突然、「バシンッ!」という強い衝撃を感じたのであった。

壁か看板にでもぶつかってしまったのかと思ったが・・・

・・・違った。

地面に倒れていたのだ。

しかも、血まで流しているではないか!

ほんの先程まで、眠いとは思いつつも、意識しながら歩いていたはずだった。

“はず”だった。

歩いていたにも関わらず、居眠ってしまったことにすら気づかなかったのだ。

ほんの一瞬の出来事だった。


・・・この時は、「睡魔に負けた!」と思ったことを鮮明に覚えている。

この悔しさ、脱力感、絶望感・・・言葉では表現することのできない複雑な気持ち。

今でも忘れることができない。


「嗚呼・・・私は、ついに睡魔には勝てなかったのだ・・・。」


ひたすら歩行瞑想を続ける。


できるだけ眠らない修行をどのくらいの期間実践したのかということは、はっきりと記録していないのでわからない。

相当辛かったことだけを記憶している。


断食と同様、すでに瞑想どころではなくなってしまっていた。

やはり、結局は、終わってみれば、ただの我慢大会のようでしかなかったように思う。


もっともっと自分に厳しく、もっともっと徹底して「目覚めていることをしっかりと自覚する」ことに取り組んでいれば、さらに進展していたのかもしれない・・・と、思わなくもない。

もしかすると、私の修行に対する決意と取り組み方が中途半端だったからなのかもしれない・・・と、思うこともある。

どうして私にはできなかったのだろうという悔しい思いもある。

しかし、当時としては、これが私の限界だったのであり、それ以上はできなかったのだ。


嗚呼・・・やっぱり、私には瞑想の才能も能力もなかったのだ・・・と、落胆した。


私は、またもアチャンが指導される通りに実践することはできなかった。


なかには、こうした方法で、「気づき」を高め、サティの力を身につけることができる人もいるのだろう。

私に親しく指導をしてくださったアチャンのように。

アチャンは、おそらく並々ならぬ努力の人であったに違いない。



気づきを保ち、サティの力を身につける・・・

どのようにしてサティを磨き、どのようにして身につけていくのかということは、“あなた次第”というのがタイのスタイルだ。

自分から教えを求めていかない限り、誰も道を示してはくれない。
これもまた、タイのスタイルである。

・・・「今、ここに、ありのままの自己を観察する」という基本を忘れないこと。

その基本を忘れてしまった時、それは無意味な「苦行」となってしまうのではないだろうか。

必ず心得ておかなければならないことだと私は思う。



《 つづく ・ 『修行か?それとも苦行か?~私の至った結論~』 》



関連記事:

『瞑想修行中の苦悩~眠気~』

『徹夜瞑想』



(『修行か?それとも苦行か?~眠らない修行をする~』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

修行最後の一晩だけ睡眠時間ゼロというのは禅宗の蠟八接心と同じですね。
一方、睡眠時間を削る修行については初めて知りました。
ミャンマーでは、瞑想センターの睡眠時間はだいたい4~6時間と思います。私が知らないだけかもしれませんが、特に睡眠時間を削るような修行方法は聞いたことがありません。
私は座禅で眠くなることはない(瞑想始めた頃は睡魔に襲われ続けましたが)のですが、なぜか歩行瞑想中に睡魔に襲われることがままあります。
歩行中に強い睡魔に襲われ、その場に立ち止まったり、立ったまま夢を見たり、幻覚が現れたことすらあります。踏み出した足が宙を舞うようなこともあります。指導僧に報告すると、眠気は怠け心の現れだと言われます。そういえば、歩行瞑想中に睡魔に襲われる時って、歩行瞑想開始直後になんとなく予感できてしまいます。今思えば、その予感を感じたときに、その身体感覚にきちんとサティを入れていられれば、仮に睡魔に襲われても、その睡魔をきちんと観察できたのかもしれません。今度、歩行瞑想中に睡魔に襲われたら、実践してみようと思います。
私の場合、歩行瞑想では睡魔の他にも、足が異様に軽く感じたり、目を開いているのに視界が真っ暗になったりと、様々な現象に遭遇します。歩行瞑想、侮れません。
いずれにしても、瞑想は何があっても、上手くいこうがいくまいが、「Never Give Up」で実践していこうと心しています。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

この修行方法は、普通のタイのお寺や瞑想センターなどで実践されているものではありません。かなり特殊なものです。もしかすると、指導僧独自の方法なのかもしれません(そこまでは尋ねなかったので、確かなことはわかりませんけれども)。そのようなこともあって、あまり人には話したことがなかったのですね(もちろん、記事に掲載した理由もありますが)。

実は、初めは一日30分の睡眠時間からのスタートでした。記事では省略させていただいていますが、それではあまりにも耐え難く、不可能だったため、指導僧と何度も相談をしながら、最終的に2時間というところに落ち着きました。しかし、それでも相当辛かったことは記事の通りです。

私も、歩行瞑想の際に何度も幻覚を見ました。先輩比丘が私を手招きして呼んでいたり(現実には誰もいません)、目の前に椅子があって衣を掛けようとしたり(現実には椅子はありません)・・・。様々な現象に出会いましたが、事実は事実として、そうした身体の感覚をありのままに受け止めて、サティをしていくことが大切なのですよね。

とても地道な作業ですが、あきらめてしまわずに、こつこつと進む・・・それしかない。
私もそのように思います。

同じく歩行瞑想の時の体験談をありがとうございました。とても励まされる思いです。今後ともよろしくお願いいたします。