タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2018/03/19

不浄観に関する追記・後編

≪ご注意≫
この記事は、佛教の修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄や画像の掲載もありますが、タイという風土の中で、比丘の伝統的な修行法のひとつとして認められているということ、また現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。


※前回の記事:
『不浄観に関する追記・前編』


◇ ◇ ◇


なぜ、私がタイのどこかで耳にした「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話に“ひっかかり”を感じたのか・・・。

それは、森のお寺など所謂“修行寺”によく飾られている死体の写真や仏教書専門の書店で売られている不浄観を修するための小冊子で女性“らしき”死体の写真を見たことがあるからだ。

その時、あれっ?という“ひっかかり”を感じたのだった。

もちろん、女性らしき写真とは言っても、かろうじて女性かもしれないと思う程度のものだ。

・・・あからさまに女性とわかるようなものであったのならば、それは“女性の裸体”写真と何ら変わりがない。

墓場に横たわっている女性の死体に欲情し、射精をしてしまったという修行者と同じ破目にもなりかねない。

修行に不適切だということは明白だ。



それでは、「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話の根拠は一体どこにあるのだろうか。

仏典のどこに記されていて、どこに規定されているのだろうか


私の日頃の不勉強に加えて、手元に十分な資料を揃えて参照することができなかったため日頃からお世話になっている実践面・教学面ともタイ仏教に深く通じていらっしゃる師にこのことに関して直接質問をさせていただいた。(※1)

果たして、仏教の典籍にその根拠を求めることができるものなのか、それとも単なる俗説であり、そのように言われているだけの話なのか・・・。


師から丁寧な回答をいただくことができた。

要約するとこうである。


異性の死体がまだ死体として新しい状態である場合、まだ魅惑的な外見的特徴がある場合は、修行者の修行、すなわち性的な禁欲や瞑想実践の障害となるから、死体が損壊する以前には見に行くべきではない。

ただし、私(修行者自身)にとっては、そうした外見的な要素は大切なものではないという確信ができて、覚悟ができる者にとっては瞑想実践の障害とはならない。


という内容の記述が『清浄道論』(※2)にあるということであった。


つまり、異性の死体がまだ新しいうちは、やはり不浄観の対象とするべきではない。

ただし、異性の死体であったとしても、自身の性欲が決して刺激されることはないという自信とその確信があるのであれば修行の妨げとなるものではない、ということだ。


さらに、師の回答には、


このような修行法は、若年の比丘や沙弥の反応が直接的なものとなってしまうため、一般的には見せるべきではないと解釈されているとともに、こうした修行法の意味をよく知らない比丘へも女性の身体を不浄観の対象とするべきではないという解釈が一般に流通しているものと思われる。

また不浄観とは、性的煩悩に対する修行法として設定されているものであるが、この修行法を実践すれば性的煩悩を消し去ることができるのかといえばそうではなく、それ程簡単なものでも、またそれ程単純なものでもない。

修行者の段階によって、その理解に大きな差が現れるもので、それは他の修行法であったとしても同じことである。


という補足が加えられていた。

(※師の回答は、全面的に私の言葉で編集を加えています。)


「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話と、いただいた回答とを照らし合わせて整理をしてみると、「死体が損壊する以前には見に行くべきではない」ということであるから、やはり異性のものとわかる死体でもって実践することは不適切であるということだ。

しかし、逆に言うならば「損壊していれば可」ということだろう。

外見的な要素は大切なものではないという確信ができて、覚悟ができる者」にとっては、たとえまだ新しい異性の死体で実践したとしても問題はないということではあるが、そこまでの境地に至っている者はごく僅かであろうから、例外事項として理解するのが自然かと思う。

結論として、「腐って性別を判別することができないものであれば、たとえ異性のものであっても構わない」と解釈することができる。

ゆえに、「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話の根拠は、おそらくこうした教説から導き出されたものなのではないかということが言えるかと思う。(※3不浄観法について)






大部分の人達にとっては、自身の体を含めた人間の体というものを、目に見えるごくごく表面でしかとらえていない。

まさか、道行く人々を見て、誰が髑髏が闊歩していると思おうか。


「あぁ、不浄なるものが歩いている。」

「彼らもやがては、腐りゆくもの達である。」

「あぁ、骨と皮と肉片からできている者達よ。」

「私もまた、不浄なるもので、骨と皮と肉片からできている。そして、崩れゆく存在なのだ。」


などとは思わないだろう。

それが普通だ。


人間とは美しく、綺麗なものであるという思い込みを習慣的に持っており、また強固な固定観念と先入観を持っている。

そのため、たとえそれが人間の本当の姿であったとしても、到底受け入れることができず、知識としては理解していたとしても、本当の意味では理解しておらず、手放したくないのである。

それ程までに根深いものを少しばかりの修行で越えようということに無理があろう。



インターネットで「不浄観」という語を検索してみると、意外にもさまざまな記事がアップされていることに少し驚きを感じた。

ブログ上でこうした記事を書くにあたって、より正確なことがらを伝えるべきであると感じたため、ここにまとめた次第である。


いくつかの記事では、不浄観を実践すれば「無常」や「無我」といったことを体得することができるかもしれないというような記述も見られた。

しかし、これは、日本ではおおよそ考えられない修行法に対する一種の「期待感」にしか過ぎないのはないかと感じた。

・・・少なくとも、私にはそのように読めたのだ。

それは、かつて私が抱いた感覚と似ているのかもしれない。

それだけに、そうではないということをここではっきりと申し上げておきたいと思う。


死体を見たからと言って何も変わらない。


もし、変わるとしたら、日々の生活の中で自己の心を育てていくところにあると思う。

身近な生活の中で無常を観察していくことだと思う。

本気で取り組む気があるのならば、どこであっても無常を観察していくことはできるだろう。


これさえやれば全てが解決する、これさえやれば「無常」「苦」「無我」を悟ることができるといったようなものはない。

仏教においては、因果の道理を無視した“一足飛び”なるものはあり得ない。

もし仮に、あったとするならば、それはそのように“見える”というだけだ。

必ずそこに至るだけの「過程」があるのであり、必ず何らかの積み重ねがあるはずである。


私は、取り組む意味と意義を理解し、いかに臨むべきかが重要であると思うとともに、やはり毎日毎日、自身の段階に見合ったことがらをこつこつと積み重ねていくことこそが大切だと思う。



脚注:

※1
この記事は、私の恩師の一人である落合隆師(プラ・タカシ・マハープンニョー師)からご教示いただいた回答を基にして作成致しました。

落合師からの回答を基にしながら私の表現で編集することについて、落合師より許可を得たうえで記事を編集しています。

回答はよりわかりやすくするために、私が全面的に編集を加えています。その解釈や表現などをはじめ、この記事に関する一切の責任は私にあります。

また、本来であれば、根拠となる箇所(原典)を私自身が確認したうえで記事とすべきところなのですが、すぐに確認することが困難であるため、典籍名、巻数、頁数はそのまま引用させていただいています。

解釈の誤り等、お気づきの点がございましたらご指摘ください。


※2
『南伝』62巻・『清浄道論』1-356頁

落合師は、併せてタイ語版の『清浄道論』を参照されており、タイ語版ではタイの解釈を含めた翻訳がなされているようである。


※3
不浄観法は、定(心の定まり)から、観(事実を観る、真実を知る)へと向かう行法として優れた特質を持つものであり、仏教の初期の時代から実践されてきているもので、パーリ経典の長部、中部、小部のそれぞれに不浄観が登場するが、修行法として明確な解説が加わるのは、『解脱道論』(ウパティッサ・1C~2C)と『清浄道論』(ブッダゴーサ・5C)からのようである、と落合師は指摘している。


※4
参考文献:


〇『ブッダ大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』 1998年 日本放送出版協会

〇『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』 2014年 中山書房仏書林

この書籍の前半部分では出家に関する作法やその意味と流れについて解説されており、後半部分において不浄観法について触れられている。
出家をする際は、出家者に対して初歩的な修行法として、人を対象として見た時にただ単に「髪」「毛」「爪」「歯」「皮膚」としてだけ見ることで、心の散乱を防ぎ、勝手な意味付けから離れて心の安定をはかることが示される。
これは、出家生活の中で他者のことに考えを巡らせてしまい、心の中に新たな問題を生じさせて、乱れさせないようにするために教示されるもので、一連の出家作法の中において触れられる。全ての出家者が出家時に教示される大切なことがらであると言える。

『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』の100頁~112頁に詳しく解説されている。

私がタイで実践した修行の中で最も記憶に残っているもののひとつである不浄観の実践も、結局のところ、私にとっては“元の木阿弥”であったように、まだその段階にはない者がこうした修行法を実践したところで、全く無意味なものに終始してしまう可能性もある。深くその意義を理解しておくことは必須であると私は思う。



(『不浄観に関する追記・後編』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
不浄観の話、興味深く読ませていただきました。
道往く人を皆、髑髏が歩いていると観相する方法は、確か、アチャンチャーの書籍にも出ていたように記憶しています。やはり、そういう修行法もあるのですね。
修行は、不浄観であれ、何であれ、一足飛びに進展していくことは稀なのでしょう。仮にそう見えても、それはこれまでの波羅蜜の賜物でもあるのでしょうし。
アチャンチャーは「期待するな 何者かになろうとするな」と言ってますね。
修行中は、期待することなく、粛々とし修していくしかないのだと思います。
しかし、修行に何かを期待するなと言っても、そもそも修行を始める動機というのは、現状変更というか、何かを期待してのことでしょうし。
簡単そうで、期待するなというのは難しいことでもあるとは思います。
瞑想していて、本当に何も妄想しなくなったとき、期待しない状態が自ずと現れるような気がします。
期待と修行って、悩ましい問題のような気もします。

あと、
ヤンゴンのマハーシ瞑想センターで修行していた日本人比丘に言われたことですが、たとえ満足いかない瞑想であっても、まじめに瞑想していれば、それは自らのカルマに善行為として蓄積されていて、その善行為はいつか(来世かもしれませんが)必ず結果をもたらすのだと。
不浄観実践をやって、元の木阿弥と感じたとしても、その実践はカルマとして蓄積していて、何れ善い結果をもたらすかもですよ。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

「期待するな、何者かになろうとするな」・・・とても深い言葉だと思います。本当に深いですね。ところが、どうしても期待をしてしまうというのもまた事実・・・ジレンマといいますか、背反するといいますか、これは本当に悩ましい問題です。なんとも言い表すことのできない非常に複雑な感覚だと思います。

いくら不浄観が直接的な修行法だからと言って、すぐさま心の波が静まって穏やかになったり、道行く人々を髑髏と見たり、自分自身もまたかの死体と同じであるのだなどと見ることはなかなか出来ないものですが、それが本当の姿なのだと日々繰り返し繰り返し観察していくことが、少しずつ自身の身体への執着から離れていくための実践となるのでしょうね。遥かなる道であると思います・・・とはいえ、“生きる”ことの根本にも関わるような煩悩の中でも特に根強く根深い煩悩であるのですから、遥かなる道であっても当然なのかもしれませんね。

自身の為した業(カルマ)が消えることはありません。瞑想修行、善行為・・・それら全ての行為は、いつか“果”として現れ、善い結果としてもたらされる。そこを信じて瞑想に取り組んでいくしかありません。ここを100%信じ切ることができないということもまた煩悩の仕業なのでしょうね。

とても深い言葉をいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。