≪ご注意≫
この記事は、佛教の修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄や画像の掲載もありますが、タイという風土の中で、比丘の伝統的な修行法のひとつとして認められているということ、また現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。
◇ ◇ ◇
「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」
もちろんそうだろうと思った。
なぜならば、傷などがなくて、しかも死んで間もない新しい死体であれば生きている姿そのものだからだ。
さらには、若くて、美しい女性のものであればどうであろうか。
(女性の方は、立場を逆にしてお考えいただきたい。)
おそらく観察どころではなくなってしまうということは容易に想像ができるだろう。
仏典の中には、不浄観に関する記述も多く見られる。
・・・ある比丘が墓場に横たわっている女性の死体に欲情し、射精をしてしまったというような話も記述されている。
私は、そうした記述は決して架空のものではなく、実際にあったであろう出来事なのではないかと思っている。
それは自身の経験からも言えることで、実際にできるかどうかは別問題であるとしても、お寺の壁に飾られている死体の写真を眺めた時、あるいは、自室にそれ用にと用意した死体の写真を観ながら瞑想をしていた時・・・たとえ死体であってもいいから抱いてみたい・・・そう感じたことすらあるからだ。
さらには、この死体は、生前にはどんなに美しくて、どんなに麗しい女性だったのだろうかと勝手な妄想を巡らせてしまったこともある。
すなわち、決して美しくはない死体が写された写真でさえも、そのように思わせる程まで“性欲”というものが抑圧されているということなのだ。
だからこそ「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話を耳にした時、それはそうだろうと大いに納得をしたのだった。
出家生活では、極度に「性欲」が抑圧されている・・・これは、出家者達の多くに当てはまることがらなのではないかと私は思っている。
“抑圧する”という表現は適切ではないのかもしれないが、道半ばの段階においてはやはり“抑圧”という表現が適切なのではないかと思うのだ。
出家というある意味、特異な空間のなかで修道生活を送るうえで、根深くて根強い「性欲」というものとどのように付き合っていけばよいものか。
それは、心を高度に集中させることによって、あるいは性欲というものを観察(事実を観る、真実を知る)していくことによって越えていかなければならない。
日々、こうした観察と洞察を重ねながら、心の修練を積み重ねていってこそ「性欲」というものの正体を見抜くことができるのではないか。
ところが、そのようなことは数日で完成できるほど容易なものではない。
もしかすると、一生かけても越えることができないものなのかもしれない。
それ程大きくて、根深いものなのである。
ところで、「死体の観察は、“同性”の死体で行なわなければならない。」という話は、どこに規定されていて、何を根拠としていることがらなのだろう・・・。
私は、ふと、気になり始めた。
< つづく >
次の記事:
『不浄観に関する追記・後編』
(『不浄観に関する追記・前編』)
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