タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/06/29

それは、正しい手立てですか?


少々厳しいことを書かないといけないことになるかもしれない。


私も、厳しいことなど書きたくはないのだが、これは、瞑想に携わっている者の一人として、どうしても書かなければならない・・・私は、そのように感じている。



◆善き“きっかけ”となるのなら・・・◆



同時に、私自身への自戒の念を込めて敢えて書かせていただきたいと思う。


まず、単刀直入に言う。


現在、世間で行われている瞑想の大半は“まやかし”だ。


“まやかし”だというと、やや言葉が悪いようであるが、平たくいえば、瞑想の本質からは、大きく外れたものだと言わざるを得えない。


つまり、よく語られている効果・効能を強調するような実利的な瞑想は、瞑想を実践していくその過程において得られる、いわば“おまけ”の部分にしか過ぎないのだということをよく覚えておかねばならない。


言い換えるならば、世間で実践されている『瞑想』のほとんどは、“おまけ”の部分ばかりを追い求めているものだということである。


批判をしたいのか?と思われたことであろう。


そうではない。


むしろ、私は、それはそれで全く構わないと思っている。


しかし、条件がある。


“おまけ”がその人を善き方向へと向かわせる正しい手立てとなるのであれば、それは大いに結構だということである。



◆機が熟せば必ず花が咲く◆



仏教の経典のなかにも適切な手立てを示したうえで、修行者を正しい方向へと向かわせたという説話が示されている。


ゆえに、その人にとって最善の手立てを示し、実利を得るということは全く悪いことではない。


非常に残念に思うのは、“おまけ”が『おまけ』のままで終わってしまうことだろう。


それでは、あまりにももったいない。


しかし、もったいない話ではあるのだが、これもまた、それはそれで構わないと思っている。


その人にとっての悩みや苦しみが取り除かれるのであれば、それは大いに結構なことだからである。



なぜならば、その人自身が持っている資質の問題もあるであろうし、人にはそれぞれの時機というものもある。


所謂“おまけ”を求めて瞑想を実践しようとする者。


あるいは、瞑想や仏法の流れの中へと何の障害もなく入って行くことが出来る者。


人それぞれであると思う。


全員が全員、全く同じで、一律だというわけではないからだ。



仏法という大きな流れとして見るならば、それもまた決して悪いことではないと思うのである。


いつか機が熟し、善き方向へと向かって行く時が必ず来ることであろう。


善き“きっかけ”を積み重ねていくことは善きことである。











◆一人で歩んで行けるようになること◆



少し批判的な厳しいことがらを書かせていただいたかもしれないが、実は、私が普段語っていることがらも、瞑想の本質的な側面から言うならば、“おまけ”の部分の話ばかりである。


しかし、私は、それでも構わないと思っている。



少し考えてもらいたい。



痛みで苦しんでいる者に対して、あなたは何をするだろうか?


痛みを取り除こうとしないだろうだろうか?


痛みや苦しみの最中にある人に対して、人生の本質とは?瞑想の本質とは?などと語ったところで無意味だ。


まずは、痛みを取り除き、心身ともに元気になることが何よりも先決であるはずではないだろうか。


それでこそ、はじめて瞑想の学びという土俵に立てるというものだろう。



それが私の立ち位置であり、私の役目であると思っている。



今、目の前にある問題や課題に対し、真摯に向き合い、解決していくということだ。


そして、それらの課題の解決を通じ、コンディションを調えて力強く歩んでいくことができるようになっていくことこそが大切であると私は考えている。



◆揺るぎないおだやかさとは何か?◆



現在、実践されている瞑想のほとんどが“おまけ”の部分ばかりを追いかけているものだと言った。


断じてそこを批判したいわけではない。


それはそれでいいのだ。



瞑想の真の目的を知っていただきたいのである。



瞑想の真の目的をよく理解をしていなければ、いつまでたっても一時しのぎを繰り返していくことになるだろう。


それでは、進歩することはないし、人間としての真の力は培われていかないだろう。


瞑想とは何なのかをよく理解をしたうえで、当人が目指しているものなり、願っている実利なりを追求していけばよいのである。


積極的に欲望を掻き立てろと言っているのではない。


『あなた』という人間は、あるいは『私』という人間は、どのような存在であるのかということをよく知ったうえで、自己の願望と付き合っていくべきであるということをお伝えしたいのである。



タイの森のお寺で瞑想を学んだ者の一人として、また仏弟子の一人として修行させていただいた者の一人として、願望や欲望に飲み込まれないようにしていただきたいということをお伝えしたいのである。



実利や願望が問題なのではない。


実利や願望に飲み込まれてしまうことが問題なのだ。



実利や願望は、生きていくうえでは、時に力を与えてくれるものであるし、また時に必要なことも多々あることだろう。


言い換えるならば、生活のうえでは必要なものであり、必須のものでもあるだろう。


瞑想の真の目的を知らないということは、これすなわち、人間の真実の姿を知らないことに等しいことだと言えるものだといっても過言ではない。


知らないからこそ、気が付いたら彷徨う破目に陥ってしまうのだ。


彷徨っていること自体に気が付ければまだ幸運だろう。


“まやかし”の瞑想を続けていたのでは、彷徨っていることにさえ気が付くことはできないと、ここではっきりと断言しておきたい。



瞑想とは、何ぞやということを知っていればこそ、どれだけ彷徨うことになろうとも、心配や不安に惑わされることはないだろうし、揺らぐことなく、力強く歩んでいくことができる。


元来、己が有している力でもって、人生の軌道を必ず修正していくことができるものなのだ。


人間の真実の姿を知り、心配や不安などの妄想に惑わされないからこそ、揺るぎない安らかさとおだやかさが展開されてくるのである。






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2022/06/19

タイで主流の瞑想法は何か?

かなり古い資料になるのだが、タイ滞在時に私が参照していたタイ国内にある瞑想センターを紹介した英語のガイドブックがある(以前も話題に挙げている)。


英語のガイドブックということからもわかる通り、瞑想の実践・修学を志す外国人に向けて著わされたものだ。


このガイドブックには、タイの名だたる僧院や森林僧院、瞑想センターなど、大小さまざまな外国人が滞在可能な僧院の概要がわかりやすく記されている。


小冊子ながらタイの事情について明るくない外国人に対して、非常によく配慮された、かつ大変親切なガイドブックだと感心させられる一冊である。


各僧院ごとの記載項目に若干の差はあるのだが、記述されている項目は、ざっと下記の通りである。



・寺院名

・寺院名の意味

・寺院名のアルファベット綴り/タイ語綴り

・住所の英語綴り/タイ語綴り

・現地までの行き方の概略

・電話番号

・瞑想方法とその概略

・指導者について

・指導方法について

・言葉について

・僧院の概略

・僧院の規模(比丘、沙彌、滞在者の人数等)

・宿泊・滞在について

・食べ物について

・その他の案内・特記事項等



インターネットが発達した現在では、検索すれば全てインターネット上で得られる情報ばかりであるのかもしれないが、今、読み返してみても、これは大変便利で、非常に重宝する。


私が当時、注目していたのは『瞑想法』であった。


僧院の門を叩いたとしても、瞑想法が違っていてはいけない。


あらかじめ日本で下調べをしてきた情報と、タイ現地で入手した情報と、さらにこのような情報とを重ね合わせてよく検討した。


タイでは、どのような瞑想法が存在して、どのような瞑想法が主流となって実践されているのか、私が修学を目的としていた瞑想以外に学んでおくべきものはあるかどうか等々・・・このようなことがらが私の関心事であった。



先程と重複するが、現在であれば、インターネットの検索ひとつで済んでしまうようなことであるのかもしれないが、とても懐かしく思う。



さて、今回、このガイドブックに掲載されている各僧院で採用されている瞑想法は、一体、どの瞑想法が多く採用され、実践されているのかの実数を出してみようと試みた。


些か個人的関心事に過ぎないことではあるが、とても興味深かったので調べてみることにした。


このガイドブックの情報だけでもって、タイ全体の統計とするのは、全くの早計で、不正確な統計ではあるが、それでもその傾向の度合いくらいは知ることができるのではないかと思う。


なにとぞ、その点をご考慮のうえでお読みいただきたい。











以下は、各瞑想法とその瞑想法を採用している僧院の数である。



◆掲載僧院数:23



【瞑想法】:その瞑想法を採用している僧院の数


・マハーシ式瞑想:7

・アーナパーナサティ:4

・プットー瞑想:4

・サンマー・アラハン:2

・手を動かす瞑想:1

・決まった瞑想法はない:4

・その他のヴィパッサナー:1



※アーナパーナサティとプットー瞑想は、比較的近い瞑想法となるため、両方実践されている場合もある。そのため、ガイドブックの記述も明確ではなく、分類することができないため、記述から近い方へと含めた。もっとも、分類が必要なものでもないし、分類すべきものでもないことを念のため付記しておく。


※また、アーナパーナサティやプットー瞑想を主な瞑想法とするが、その他の瞑想も実践されているという記述も散見される。ゆえに、上記の分類は必ずしも境界線が明確であるわけではないことも併せて付記しておく。



余談であるが、日本での理解よりも、このガイドブックの記述の方が正しい理解を伝えている。


日本では、完全に別々の瞑想法のように理解されていたり、この瞑想はヴィパッサナー、この瞑想はサマタ・・・のように理解される傾向が強いようであるが、ガイドブックの説明では、「四念処に基ずくヴィパッサナー」などと説明されており、ヴィパッサナーの修習を行うためという瞑想の目的そのものを説明するものとしても適切だ。


また、瞑想法を説明した項目には、「アーナパーナサティを基礎とするヴィパッサナー」であるとか「プットー瞑想に基づいたヴィパッサナー」などといった表記もみられる。


日本の一般的なヴィパッサナーの瞑想に対する理解よりも、こちらの理解のほうがより正しいと言える。


瞑想は、全てヴィパッサナーへと到るためのものである。


アーナパーナサティというヴィパッサナーへの道であるし、通称・プットー瞑想というヴィパッサナーへの道である。


すなわち、ヴィパッサナーの修習には、さまざまな方法があるということだ。



よくぞここまで、各僧院の詳細な情報を集めて、わかりやすくまとめあげたものだと感心するのは私だけであろうか。











過去にも何度が採り上げているのだが、タイではサマタとヴィパッサナーについて、それほど厳密に言われることはないし、どちらかというとヴィパッサナーに重点が置かれているのが特長である。


伝え聞くところによるとミャンマーでは、サマタを徹底して修行するところから始まる僧院というか、瞑想法の流派があると聞くが、タイではそういったところはない。


必要に応じてサマタとヴィパッサナーを並行して修することはあるし、また瞑想法の特徴としてただそれだけを修するということはあったとしても、その他の瞑想における技法的なことを実践してはいけないということは決してない。


サマタだ、ヴィパッサナーだと、厳密に区別しようとするのは、日本の傾向であるように感じる。


意図してかどうかはわからないが、瞑想を仏教の実践とせず、良い部分だけを“切り売り”された瞑想が広まっていることにも起因することなのかもしれない。



特にタイの森林僧院では、日本人が思うほど凝り固まった指導はなされていないし、もっと大らかで実践的な指導がなされている。


感情は常に一定ではないし、事象は常に移り変わっていく。


臨機応変に対応できてこそであろうし、どのような事態と遭遇しようとも、ありのままを観察して受け取ってこそであろう。


どのような瞑想法を用いようとも、経典や論書に矛盾がするところがなく、正しく観察し、洞察していくと、『無常』『苦』『無我』という結論に辿り着くものであれば、それは仏教の瞑想なのである。


さらに言うならば、その中において、自分にとって最もよく実践していくことができるものを自分が実践する瞑想法として採用すればよいという理解である。



その判断を適切にくだしていくには、瞑想の目的は何なのかをよく理解し、そもそも仏教とは何なのかをよく理解していないといけない。


少なくとも一定期間は、適切な指導者のもとで瞑想を学ぶことが前提であり、まずは自身で実践していくことができるだけの実践的基礎知識を身につけることが大前提の話ではあるが。



さて、これは、私の感覚的なものであるが、タイにおいてもマハーシ式の瞑想法が主流であると認識している。


ただ、それを裏付ける数字的なデータを出すことができない。


あくまでも、私がタイで触れて来た“感覚的”なものから導き出した私の結論である。



今回、ガイドブックから導き出した統計では、圧倒的な数字ではないにしても、概ね私の認識と一致する数字となっていた。


自身の予測に沿ったもので、ひとまず納得している次第である。



私がタイで出家し、瞑想を学んだ時から約20年が過ぎた。


タイも随分と変わっていることと思うが、瞑想に関して当時とどれだけ変わっているかということが、非常に興味深いところである。




(『タイで主流の瞑想法は何か?』)






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2022/06/09

タイ人が大好きな日本のアニメ『一休さん』


人気アニメ『一休さん』をご存知だろうか?


『一休さん』は、私が滞在していた当時のタイでは、国民的大人気アニメであった。


『一休さん』を知らないタイ人はいない。



もっとも、大抵の日本のアニメは、すでにタイに入っており、どれも尋常ではない人気ぶりだった。


『ドラえもん』などは、不動の地位を確立しているといっても良い存在であったし、『コナン(日本語名:『名探偵コナン』)』や『ポケモン』なども大人気であった。


他には、日本ではサッカーよりも野球の方が人気だが、タイでは野球よりもサッカーの方が比較にならないほど圧倒的に人気がある。


それゆえ、『つばさ(日本語名:『キャプテン翼』)』も国民的大人気アニメとなっていた。



・・・これは、およそ20年ほど前の話であるので、現在はどうなのかはわからない。



さて、日本のアニメは、概ねどれも人気を博しているのだが、タイ人に人気の数ある日本のアニメのなかでも、多くの日本人が驚くのが『一休さん』だ。


『一休さん』の人気ぶりは、『ドラえもん』や『ポケモン』などに全く引けを取らない。



日本では、どちらかといえば、子ども向けのアニメであるうえ、すでに放送終了となっている番組だ。


そんなアニメがどうしてタイで人気を博すのか不思議に思う日本人もいるのではなかろうか。



タイでは、現在でも(2022年6月現在)非常に根強い人気があるという話を聞いている。


なぜ、ここまでロングセラーなのであろうか。






長距離バスの側面に描かれた『一休さん』

バスに描かれるほど現在でも人気がある。

つい先日、友人が写真を送ってくれた。

(※使用の許可を得ております。)






それは、単刀直入に、仏教的な道徳観を背景にしているアニメだからである。


また、少年の出家生活を描いているアニメであるというところが(現代のタイにおいても、少年時代に僧院で出家生活を送ることがごく普通にある)、実際のタイの慣習に通ずる部分が多くあるからで、タイ人にとって容易に感情移入することができ、タイ社会へ大いに受け入れられた要因であると思われる。


いわゆる「とんち」がタイ人にも理解できたのかどうかが少々興味のあるところではあるのだが、それはともかく、タイ人にも理解することができて、しかもタイの仏教的価値観とも共通するところが大いにあるというわけだ。



ここで特筆すべきは、『一休さん』だけが他のアニメとは違い、すば抜けて人気があり、それが長期間に及んでいるという点である。


私が感ずるところでは、タイでは、目上の人や先生・師匠への敬意、または仏教への敬意が見られるものに対する尊敬の念が非常に強く、そうした姿勢が見られるアニメだというところが大きい。


特に仏教に対する敬意は、潜在的・無意識的に別格扱いとなり、無条件に信頼と親近感を抱く。


逆に言うならば、目上の人に対する敬意や仏教への敬意を欠くものに対しては、潜在的・無意識的に認められず、拒否されることになるということである。



いくら未成年の少年であったとしても、ひとたび出家をすれば、家庭を離れてお寺で生活を送らなければならない。


アニメの中で描かれているように、母を想う気持ちなどはタイ人の共感を呼んだに違いない。



ところが、ただ一点だけ、アニメ『一休さん』のなかで、タイ人が怪訝そうに眺める場面がある。


それは、「さよちゃん」の存在だ。



淡い恋心を描いているであろうと思われるのだが、タイでは、ひとたび出家をしたら、女性に触れることができない。


それだけではなく、女性と2人きりで話すことはご法度であるし、ましてや「恋心」などもってのほかである。



この点だけは、日本の仏教と、タイの仏教との大きな相違点であり、日本人には想像が及ばない点であるのかもしれない。



タイには、ニックネームで呼び合うという習慣がある。


日本人であるというだけで、『一休さん』と呼ばれることもある。


それだけ、このアニメがタイ社会に浸透しているということの証だろう。



現に、私の出家生活は、サーマネーン(沙彌/少年僧・見習い僧)から始まっている。


一休さんも、言ってみれば、少年僧であるからサーマネーンだ。


ゆえに、私は、タイ人から親しみを込めて「一休さん」と呼ばれたことがあるし、自己紹介の際には、「私のニックネームは、“一休さん”です。」と言えば、周囲のタイ人たちは大いに笑ってくれて、とても場が和むのであった。



アニメ『一休さん』がロングセラーである秘密は、出家生活を描いている点と仏教的道徳観を描いている点、そして仏教や目上の人に対する敬意を示す姿が描かれている点にあると言えるのではないだろうか。



この点は、現代の日本人は、再度、見直すべきなのではないかと思う。


古き良き日本人の姿は、一体、どこへ行ってしまったのであろうか?




(『 タイ人が大好きな日本のアニメ『一休さん』』)






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2022/05/29

サンガという『瞑想』環境


お金について考えるなど、卑しいことであり、醜いことであり、恥ずかしいことであると感じていた。


おそらく真摯なる方々は、少なからず、このように感じられたことがあるのではないだろうか。


しかし、正直に言うならば、瞑想にしろ、仏教の学問にしろ、お金がかかる。


このこともまた、真摯なる実践者の方々は、少なからず感じられたことがあるのではなかろうか。


瞑想を実践していくには、基礎となる仏教の学問もしっかりと身につけておかなければならない。


より高度な学問を修めようとしたり、より瞑想を深めようとするならば、やはり十分な“資金”が必要となる。



学びを深め、瞑想を実践していくことは、経済的には、直接生産を生み出すものではない。


即座に生産を生み出さないものに対して、大量の時間と労力を費やすという行為は、やはり安定した環境と生活そのものに余裕がないと難しい。


それなりの整った環境が必要だということで、自己が生きるための『資金』という意味まで含むと私はとらえている。



生活に余裕があるということは、すなわち精神的余裕があるということであり、あらゆる「余裕」を生み出す基盤となるものである。


精神的にも、物理的にも、条件を整えたうえでなければ、瞑想に専念することは到底できるものではない。


逆説的な表現をするならば、瞑想に専念できる時というのは、自己の生活のことを考えなくてもよい時だとも言える。



すなわち、衣・食・住に関する心配を全くしなくてもいいからこそ、全精神すなわち生活の全てを瞑想ないしは仏教の学問へと注ぎ込み、必死になって追求していくことができるのだ。

 

そのような環境が整ってこそ、大量の時間を瞑想や仏教の学問へと費やしていくことが可能となるのである。


そうした環境を実現しているのが出家の生活であり、サンガという環境なのである。











さて、仏教の根幹たる律には、3つの目的がある。



ひとつは、個人が悟りへと到達するため。


ひとつは、サンガを統率し、維持・統制していくため。


そして、もうひとつは、サンガが社会から認められるため。



出家生活は、社会から認められてこそ初めて成り立つものである。


サンガでの出家生活では、衣・食・住の心配を一切することなしに、その全てを精神的生活へと注ぎ込んだ日々を送っていくことができる。


それだからこそ、瞑想や仏教の学問に専念できるのである。



もしも、サンガが社会から認められた存在ではなくなれば、瞑想や仏教の学問に専念できる環境は整わない。


出家者は精神的生活とは別に仕事を持ち、働かなければならなくなり、瞑想や仏教の学問へと費やす時間が大いに減ってしまい、疎かとなってしまうだろう。


そればかりではない。


社会から不要な存在とされてしまえば、僧院の経済は瞬く間に成り立たなくなり、維持・運営が困難な状態へと陥ってしまうだろう。



世俗の社会を捨てた生活が出家生活であるのに、些か矛盾しているかのようにも感じられるのであるが、実は、出家生活も社会の一部であり、社会に認められたうえで成り立っている“社会”なのである。


つまり、世俗の社会に依存しているが出家生活なのであり、社会からの承認を無くしては成り立たないのが出家の“社会”なのである。











類稀なる条件の整った環境こそがサンガであり、出家の社会であり、瞑想の生活なのだ。


より深く瞑想し、より高度な仏教の学問を求めようとすれば、必然的に時間と資金が必要となる。


すなわち、環境が整わないと叶わないことだということがよくわかる。



日本において、誰からの支援も受けずに個人で仏法を求めようとするとなると、いかに時間と労力と“資金”が必要になるかという問題は、真摯なる実践者の方であれば、一度はぶつかったことのある壁なのではないかと思う。



さて、これは、出家生活、すなわち僧院生活についてであるが、在家の生活においてはどうであろうか?



在家における瞑想や仏教の学問についても、基本的には同様だろう。


瞑想にしろ、仏教の学問にしろ、お金も時間もかかるということは、真摯な実践者であれば、少なからず感じていることなのではないかということは、すでに触れて来た。


まず、瞑想できるということは、実に条件が整った時間を過ごしているのだということを自覚すべきではないかと思う。


それが、たとえ、1分でも、5分でもあったとしても。



仏教の学問についても同様で、たとえ一文字であったとしても、その教えを目にすることができ、学ぶことができるということは、実にありがたいことなのである。


どれだけ多くの条件が揃い、今、このような機会にめぐり逢っているのだろうか。


そのことに思いを巡らせれば、喜びはごく自然なことであるし、よくも得難いこの時間が得られたものだと思わずにはいらない。



時間がない、お金がないと嘆く声をよく耳にするのだが、嘆くほども希望していることであるならば、今までどれだけの努力を費やしてきたか、自己をよく振り返ってみると良いかもしれない。


全てを投げ捨てて、身を投じてきただろうか。



課題を自分事として直視するところから始まるのだと思う。


問題に気づいたのあれば、必ず問題は紐解いていくことができる。



「どうすればできるのか?」



このように前向きに問いかけてみてはどうであろうか。


問題や課題を先送りせず、正面から向き合っているだろうか。



いかに円満に折り合いをつけていくかは、その本人次第となるのであろうが、本気で考えているのであれば、最善の努力ができるはずであるし、“より”円満に折り合いをつけていくことができるはずである。


嘆く前に、ほんの少しの時間であったとしても、瞑想できる喜び、たとえ一文字であっても仏教の教えを聞くことのできる喜びを受け取っていくべきだと私は思う。


たとえほんの少しの時間であっても、奇跡的に条件が整い、恵まれた瞬間ではないか。



正直なところ、日本は、タイほど仏教を実践し、修学するには、恵まれた環境だとは言い難い。


それは、私自身も痛感しているところではあるのだが、ほんの少しの時間であっても、仏教や瞑想に触れる時間があるということは、実に幸いなことである。



今の自分にできる最大限のことを為していくからこそ、道が開かれてくるのである。


それしか道はない。



・・・日本という環境を嘆いていてもはじまらない。




(『サンガという『瞑想』環境』)






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