タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2026/07/19

先生のひとこと・・・『出家と在家、何が違うというのですか?』


先生の言葉というのは、時に逆説的な表現であったり、比喩的な表現でもって伝えられることがあったりするものである。


しかし、それは、固く結ばれた信頼関係の上に成り立つものであり、その言葉をどう受け取り、どう噛みしめていくかが重要である。


何度も何度もよくよく吟味していく中で自身の血肉となっていくものだ。



言葉を噛みしめるごとにお育てを賜っているのであり、成長させていただいているのである。



私が出家する時から大変お世話になった先生がいる。


その先生から言われたある言葉が私の心に“ぐさり”とつき刺さった。



『出家も在家も同じでしょう?

一体、何が違うというのですか?』



ひとことぽつりとこのように言われたのだ。



タイでは、出家と在家は全く違う。


はっきりとした違いがある。



服装も違えば、居住する場所も違う。


在家とは生活そのものに明確な差があるのだ。



しかし、私は、先生のこのひとことに対して、何ひとつ返答することができなかった。










『出家』と『在家』の違い・・・


それは、一体、どこにあるのだろうか?




“受戒”の有無だろうか?


戒律の受持だろうか?


僧衣の有無だろうか?


髪の毛の有無だろうか?




私は、出家するためにタイまで行った。


ところが、タイに入国してすぐに出家の計画が白紙になってしまった。


出家するはずだったお寺まで来たというのに・・・それなのに出家することができなかった・・・


この時の気持ちは、悔しいであるとか、無念であるとか、そういった言葉で言い表せるものではない。



そんな私が最後に行きついたお寺であり、そんな私を快く受け入れてくれたのが、チェンマイの山奥にある何もない小さな森のお寺と、のちに師となる私の先生であった。



タイの森のお寺では、在家であっても止住することができ、出家に準じた形で瞑想修行を実践することができる。


それゆえ、瞑想を学び、実践し、深めるというのであれば、なにも出家をして比丘となる必要はない。



その点でいえば、出家も在家も同じ・・・先生がおっしゃる通りなのかもしれない。











チェンマイの山奥にある何もない小さな森のお寺と先生は、右も左もわからないタイの地で、思わぬアクシデントに見舞われてしまった私にとって、救いの手を差し伸べてくれた恩人である。


今の私の学びがあるのは、まさにこのお寺と先生のお陰そのもので、どれだけ感謝してもし切れない。



そのお寺で私は、お世話してくれた先生とともに過ごした。


瞑想指導をはじめ、プライベートなことを含めてさまざまなことを話した。


今、振り返ってみると、実に貴重な時間であったし、本当に贅沢な時間であった。



そうした先生との一場面であった。



自身の仏縁のなさ、運の悪さ、なぜ私だけがこんなにも邪魔ばかりされないといけないのだろうか・・・自分が思い描いていた通りに出家が叶わなかったことについて、つい先生に愚痴と言うか、現状を嘆いた言葉をこぼしてしまったのだ。


そんな私に対して先生は、とても静かでおだやかな口調でこのようにおっしゃった。



『瞑想もできる。仏教も勉強できる。

僧侶と同じ環境下で生活することもできる。


出家も在家も同じではありませんか?

一体、何が違うというのですか・・・?』



私は、何も言えなかった・・・。



タイでは、出家者と在家者は明確な違いがある。


服装も違えば、生活も違う。


何もかもが違う。



しかし、お寺では、出家も在家も、瞑想できる。


それぞれの立場で、自分に合った学びができるし、徳を積むことができる。


求めに応じて、森のお寺という恵まれた環境で生活することだってできる。



そう考えれば、先生がおっしゃるように出家も在家も同じで、わざわざ出家する必要などないではないかというのも理解ができる。


それ以上に何を望むというのだろうか・・・?











・・・とはいえ、私は、出家するためにタイへ来たのだ。


先生の言葉と私の思いとが真っ向から激しくぶつかり合った。



出家をしたから心が清まるのではない。


出家をしたから瞑想が深まるのでもない。


出家をしたところで“私”という人格がガラリと変わるわけでもなければ、出家をしたというだけで悟りへと近づけるわけでもない。


そんなことくらいわかり切っている。



先生のこのひとこは、私の心に“ぐさり”と深くつき刺さったのであった。



その後、晴れて比丘となることができた。


さらにその後、還俗し、日本へ帰国し、現在に至っている。



もうざっと20年も昔のことになるのであるが、改めて先生からいただいたこの言葉を吟味してみようと思った。



自分の思い通りにならない現状を嘆いてばかりいてはいけない。


『出家も在家も同じでしょう?

一体、何が違うというのですか?』


常に本質を見極めていくことに努め、ただひたすら心を磨いていくことに努めていかなければならない。


先生は、こう私に言いたかったのかもしれないと思う。



先生の真意はわからないが・・・



あなたなら『出家も在家も同じでしょう?一体、何が違うというのですか?』という問いかけに対して、どのように答えるでしょうか・・・?






(『先生のひとこと・・・『出家と在家、何が違うというのですか?』』)





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2026/03/09

瞑想だけが仏教の実践なのではない

 

近年、瞑想が非常に盛んである。


そして、テーラワーダ仏教(南伝仏教)への関心が高まりつつある。


大変喜ばしい限りだと思う。



ところが、同時に、瞑想“だけ”が仏教の実践であり、瞑想しない者は仏教に生きる者ではないとする人たちを時々見かけるようになった。


とても熱心なのは良いことではあるが、それは間違いである。



瞑想の実践だけが仏教であるわけではない。


三帰依と五戒で初めて仏教徒となるわけであるが、五戒を守ることが瞑想よりも大切だ。


なぜなら、五戒を守ってこそ瞑想を実践していく環境が整えられるからである。


さらにいえば、五戒を守ろうと努めていくことは、それそのものが瞑想へと通じていくものだからである。



【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』



五戒を守る以外にも仏教の実践はたくさんある。


『悪い行いをしない』『善い行いをする』という実践も立派な仏教の実践だ。


少なくともタイでは、そのように理解されている。



例えば、タイでは、困っている人を助けたり、手伝ったりする。


席を譲ったり、車やバイクに乗せてあげたりすることもある。


それらは、すべて善行だ。


ごく身近にあるほんの小さな“善い行い”も、立派な仏教の実践のひとつであり、功徳を積むことができる善い行為であるとされている。



ところが、(特に日本においては)五戒を守ることや善い行いをしたり、悪い行いをしないということも仏教の実践のひとつであるということが忘れられているようだ。


もしかしたら、そうした地道な実践は、実践として物足りないのかもしれない(本来は、実践として物足りない実践などないのであるが・・・)。


確かに、瞑想こそが(瞑想だけが)仏教の実践であると思い込むのは、何か実践したい、何か行動したいという、溢れる熱意の発露に他ならないのだと思う。


しかし、一方で、それはただの思い上がりの慢心に堕してしまうものなのではないだろうか。



仏教の実践は、瞑想だけではない。


日々の生活の中で、善いことを行い、悪いことは為さないという、ごく基本的かつごく身近な実践も立派な仏教の実践のひとつなのであって、それは私たちの身の回りにたくさんあるのである。











善いことを行い、悪いことは行わない。


出来る限り悪いと思われることから離れて、できる限り避けるようにする。



こうして日々、心の境涯を磨いていくのである。


同時に五戒を守り、日々の生活を調えていく。


それでこそはじめて、瞑想に取り組む“土台”ができあがっていくのである。



私は、五戒の順守も完璧ではないし、満足に瞑想も深められない煩悩まみれの身である。


すぐに嘘をつき、これくらいはいいだろうといって盗みをはたらいてしまうこの身ではあるが、いつも五戒を思い、生活の中で自分にできることを実践していくように心がけるようにしている。


誰かの役に立てることや喜んでもらえるような機会があれば、積極的に近づいていき、積極的に行っていこうと心掛けている。


また、少しでも人の心の安らぎにつながるような行いを為していこうと、いつも心掛けている



まずは、身近な行いからである。



悪い行いはしない。


善い行いをする。



そこからだ。



そして、五戒を守ること、守ろうと努めること。


そこからだろう。



そこを抜きにして瞑想云々と言うのは本末転倒ではないか。


怠惰で不摂生な生活をしているにも関わらず、健康になりたいと言っているようなものだ。



とはいえ、私も煩悩まみれの凡夫である。


身近なことでさえ満足に実践できない私だが、私にできる実践を行っていくしかない。


私には、些細な実践しかできない。


しかし、それが私にとっての仏教実践だと思っている。



【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』




(『瞑想だけが仏教の実践なのではない』)






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2026/02/19

瞑想の前に五戒を守ること


瞑想よりもまず五戒である。


五戒があってはじめて瞑想を実践する土台と環境が整うからだ。


少々厳しいのかもしれないが、五戒を外した瞑想は仏教の瞑想ではないと言っても過言ではない。


五戒というものを意識していくことで、行動や言動、心の持ち方へと注意を向けていくことになり、必然的に自己の観察へと繋がるからである。


それではじめて理性と落ち着きが保たれ、瞑想実践の土台と環境が揃うのである。



もっとも、その五戒を守ることは簡単なようで簡単ではない。


容易に守り切れるものではないが、それでも守ろうと努力していくところにその意義があるのではないか。


だからこそ、タイではさまざま仏教の行事のなかで五戒を受ける儀式があるのである。



このブログを書き始めた頃は、瞑想といっても誰にも興味を持たれないマイナーな存在であったが、近年は瞑想が大変なブームとなっている。


瞑想が市民権を得たという意味では、大変喜ばしいことだと思うのだが、一方で日本で実践されている瞑想には五戒がない。


さらに、日本で五戒について語ると、必ずといっていいほど反発をされるし、時には激しく反論されることさえある。


タイではごく当たり前のこととして受け入れられているのだが、日本ではそれだけ五戒が定着していない何よりの証である。











五戒とは、生活全般における努力徳目である。


それは、ある一時だけ守っていればよいというものではなく、生活の全てにおいて守られていないといけないものである。


何度も繰り返し実践することによって、善き流れが形作られていき、人生が形成されていくのである。


だから、瞑想よりもまず五戒なのである。



“実利的”効果を求める瞑想を否定するものではない。


瞑想によって“実利的効果”が得られることは、確かなことである。


すでに、さまざまな方面において研究され、検証されている通りだ。


個人や公共の暮らしを豊かにし、生きがいある人生へと繋がるものであるのなら、それは大いに意味のあるものである。


実利を追求する瞑想だからといって、否定する理由などないだろう。


より良い成果や効率のアップを目指し、期待通りの結果を出すためのひとつの手段としての瞑想だ。


しかし、それは仏教の瞑想ではない。











なぜ瞑想を実践するのか。


それは、一言でいえば、人生をより善く生きるためだと言えるのではないだろうか。



より善き人生は、より善き日々の積み重ねだ。


悪いことを避けて、善いことを行っていく。



より善き日々を積み重ねていくには、より善き判断とより善き行動が必要だ。


そのためには、五戒を軽視してはいけないし、五戒を守っていくことが必須なのである。



完璧に守り通そうと力むのではなく、まずは心がけるところから始めてみてはいかがだろうか。



瞑想よりもまず五戒である。




【五戒関連記事】

(※その他、ブログ内に関連記事が多数あり。)


『『五戒』は、私の姿を見せてくれるもの』


『五戒を通して自己を知る』




(『瞑想の前に五戒を守ること』)






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2026/02/09

私が惚れ込んだ森の寺の魅力とは?


森の寺・・・近年は“森林僧院”と呼ばれることが多い。


わかりやすく言えば、森の中にある瞑想修行のための寺である。



森の寺の存在は、書籍の情報よりタイへ渡る前から知っていた。


実際に、タイの森の寺へと赴き、出家し、生活し、さらに深く惚れ込んだ。



このブログでは、一貫して森の寺に惚れ込んだ私の篤い思いをありのままに綴っている。



では、一体、何がそこまで私を惚れ込ませたのであろうか。


それは、一言で表現するならば『追体験』なのだと思う。



何の追体験か・・・


それは、釈尊の生き方とその生活だ。


すなわち、釈尊その人の生涯の追体験であり、また釈尊が生きた時代の出家生活と瞑想生活の追体験である。


もちろん、釈尊が生きた時代の生活など誰も知るはずのないことである。


あくまでも想像しながら勝手に思い描いているだけの世界だ。


瞑想の生活にしても、私のような能力無き凡夫が高い境地に至ることは甚だ難しく、追体験などといった言葉を使うのもおこがましいほどである。


しかし、それでもただ森の寺のなかに身を置いているだけで、ダンマが身にしみてくるかのような心境になるのである。


その時の気持ちというか、その時の喜びというか、深い安らぎとおだやかな爽快感は、言葉に表現することができない。



そして、もうひとつ。


私が学生時代に読んだ経典の世界をありありと思い起こさせるものであったからである。


まるで、古い経典の世界にいるかのような錯覚に陥ってしまうほどだ。


それは、夢でも、幻でもない。


現実の世界として、実際に私の目の前に展開されているのだから、感動しないはずがない。


衝撃を受けたと言っても過言ではなく、大変深く感銘を受けたのであった。


今でも鮮明に私の記憶に残っている。


私の心に大きく響いた、森の寺に深く惚れ込んだ最大の理由だ。



これは、おそらく日本では体験することのできないものなのではないだろうかと思う。











日本は、仏教東漸の最果ての地だ。


仏教がインドで起こり、東方へ、西域、中国を経て日本へと伝わるまでには、実に壮大な道のりを経ている。


釈尊が言わんとしたそのエッセンスは伝わっているとしても、やはり、ここは仏教東漸の最果ての地である。


釈尊が生きたインドの地とは、時代も、気候も、生活も、習慣も、何もかもが違う。


さらに、大乗とテーラワーダという違いも大きいのかもしれない。


人間・ブッダ、すなわち私たちと同じこの大地に人間として生まれ、生きた釈尊の足跡を追体験したいと思ったとしても、それは日本ではなかなか難しいということは、いた仕方のないことだろう。


それでも、どうしても、諦めがつかない。


たとえ、ほんの少しであっても釈尊を追いかけたかったというのが、私をタイの森の寺まで突き動かせた大きな動力であった。











タイの森の寺は素晴らしい。


私のようななんの能力もない凡夫であっても、釈尊の声を聞かせてくれるのだ。


ただ静かに坐し、音を感じ、風を感じるだけで、深い安らぎとおだやかさへと誘ってくれるのだ。



近年は、インターネットが発達し、あらゆる情報がすぐ手元で得られるようになった。


リアルタイムで繋がることも可能になった。


タイや森の寺、テーラワーダ仏教に関する情報も格段に得やすくなった。



もし、その機会があるのであれば、ぜひともタイの森の寺へと足を運んでいただきたいと思う。


できれば、より辺鄙な山奥にある鄙びた僧院がいいのではないかと思う。



たとえ、深い仏教の学問や瞑想の経験がなかったとしても、必ずや森の寺での経験は人生の何にも代えがたい、かけがえのない宝物になるだろう。




(『私が惚れ込んだ森の寺の魅力とは?』)






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2025/09/09

私がピンク色のガネーシャ像を知らなかった理由


タイと言えば、ピンク色のガネーシャの像で有名なワット・サマーン・ラッタナーラームという寺院が有名だ。


多くの日本人にとって、何らかの形で、一度は目にしたことがあるであろうタイの風景なのではないだろうか。


ところが、私がこの神像のことを知ったのは、ついこの間のことである。


そう、日本へ帰国した後のことだ。


タイに滞在していた時には、全く聞いたことも無ければ、見たことも無かった。



それにしても、なぜ、このような超有名寺院のことを知らなかったのだろうか・・・?






たーれっく氏撮影

ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院の
ピンク色のガネーシャ像
(※掲載の許可をいただいています。)






タイ全土にその名が知れ渡っていて、ご利益も甚大な神様ともなれば、神様とは触れることがない森の僧院と言えども、やはり嫌でもその“噂”は耳に入ってくるものだ。


そこは、いくら出家とはいえ、タイ社会の中にある“出家の社会”なのだから、有名なものや流行のもの、おおよその世間の出来事などは、やはり『情報』としてたくさん入ってくる。


社会から隔絶されている空間ではあるけれども、完全に隔絶されているわけでもないわけだ。



特に私の場合は、『外国人』であるがゆえに、珍しい場所や観光地(多くの場合は寺院)などへは、“お布施として”連れて行ってもらえることも多々あった。


(※僧侶に対してそうした観光的な要素を含むものをお布施される場合があり、そうしたことも“徳”のある行為のひとつとされる。)



話を元に戻すと、一応は一般の社会から隔絶された僧院で生活をしていたとしても、タイ国内にある有名なご利益寺院や有名な神様などについて、何らかの形でその“噂”を知ることができる。


しかし、全く知らなかったのというのは、なぜなのだろうか・・・?


実は、それもそのはずで、ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院のピンク色のガネーシャの像は、一般的な参拝を目的として2011年に建立されたもので、ごく最近の比較的新しい建造物だからだ。



それと、もうひとつ大きな理由がある。


神様にも“流行り”があるという点だ。


バンコク在住の日本人漫画家であるたーれっく氏によれば、近年、タイではスピリチュアルブームの波が起こっており、その影響によって神様の像やその礼拝施設などがタイのあちらこちらに建立されているそうである。


私があまりタイの神様について、タイ現地の人からの情報に触れることがなかったのは、僧院での出家生活という環境的な要因があったことと、私がタイに滞在していた期間は、まだ“神様の流行”の波がやって来る前だったという事情が重なってのことなのかもしれない。






たーれっく氏著
『タイの神様図鑑』より
(※掲載の許可をいただいています。)




たーれっく氏撮影

ワット・サマーン・ラッタナーラーム寺院の
ピンク色のガネーシャ像
(※掲載の許可をいただいています。)

日本人にも非常に人気の
有名な観光スポットのひとつである。





いわゆるガネーシャは、タイ語ではプラピッカネート(พระพิฆเนศ)といい、以前からタイでも信仰されている神様の一尊ではあるが、このような大規模な礼拝施設が建立されたり、とてつもなく大きな神像や豪華絢爛な施設が建立されたりするようになったのは、ごく最近の出来事なのではないかと私は見ている。


もっとも、私が知らなかっただけで、以前からあったことなのかもしれないが、私が直接見聞きしてきた範囲においては、全く知らないし、見ることもなかった。



『神様にも“流行り”がある』というのは、大変興味深く、日本にもどこか通じるものがあるように感じており、非常に親近感を覚える。


私がタイに滞在していた期間には、そうした流行りの波がまだ来ていなかったということではないだろうか。



神様や信仰の“流行具合”を知るひとつとして、プラ(プラクルアン)というお守りがある。


このお守りの意匠(デザイン)として神々の姿が採用されることがある。


お守りの意匠として人気を博するようになると(そのご利益が定着し、さらに評判が広まってくると)、こうした神像の建立へと発展していくという流れがあるらしい。



私も、いくつかタイのお守りであるプラ(プラクルアン)を持っているのだが、神様のプラクルアンはターオウェーッスワンのお守りを一体持っているだけであり、その他はブッダの姿か高僧の姿のお守りばかりだ。



さて、タイのスピリチュアルブームとは、どのようなものなのだろうか?



一言で言ってしまえば、ご利益信仰ということになるのかもしれないが、非常に人間味あふれるエピソードを持つものが多い印象だ。


是非ともタイ現地へ足を運んで、さらに詳しく調べてみたいと思うほど、強く興味を惹かれる神様がたくさんいるし、またその信仰を表現する“形”も伝統的なものから一風変わった“形”まで実にさまざまだ。



近年、手軽に閲覧できるようなったインターネットニュースなどで、タイの神様を取材した記事をいくつか読んだことがある。


まだまだ私が知らないことがたくさんあるものだと思いながら読んでいたのであるが、言われてみれば、それがそうしたスピリチュアルブームを反映したものなのかもしれない。



私がタイまで行ったのは、仏教を学ぶためであり、仏教の実践行たる瞑想を学ぶためだ。


タイの神様のことについて学ぶためにタイへ渡ったわけではない。


しかし、そうはいっても、タイの信仰は非常に重層的で、仏教の信仰や実践と何ひとつ矛盾することなく共存している。


そのあり方は、とても興味深い。


私の興味・関心を惹かないはずがない。



私が直接知っている範囲など、ほんのごく一部分にしか過ぎない。


私も、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』で学びを深めさせていただきたいと思う。


そして、いつの日にかタイの神様に直接お会いすることができればと思う。






たーれっく氏


タイ・バンコク在住の漫画家。

タイのお寺の情報を中心に発信されている。


訪問されたお寺関係は、なんと約2600カ所!

タイ関係の電子書籍を多数出版されている。


たーれっく氏のXのアカウント。

タイの話題が満載。ぜひフォローを!


https://x.com/taarekrek

(@taarekrek



【関連記事】


『『タイの神様図鑑』が面白い!~在家の信仰と出家の信仰~

(2025年08月29日掲載




【参考記事】


タイ観光案内サイト【公式】:タイ国政府観光庁

ワット・サマーン・ラッタナーラーム

 (ピンクガネーシャの寺院)

https://www.thailandtravel.or.jp/wat-saman-rattanaram/




(『私がピンク色のガネーシャの神像を知らなかった理由』)






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