タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)



2020/07/29

瞑想修行は一人


瞑想修行は、基本的には一人である。


他人が入り込む余地はない。


少々厳しく聞こえるかもしれないが、やるもやらないも、自分次第だからだ。


当たり前のことである。



どのように進めていくのか?


どう課題と向き合っていくのか?



・・・全てが自分自身に委ねられている。



他人は、せいぜいアドバイスや提案ができる程度の存在だ。


それが師からの指導であっても同様だろう。


その指導を受け入れて、実践するのは自分自身だからである。





『Forest Sangha Calender 2017・2560』より





タイの出家生活は、もちろん集団生活であるのだが、瞑想修行となれば、いうまでもなく一人だ。



特に森のお寺にあっては、朝夕の勤行の時間、托鉢と朝食の時間以外は、完全に一人となってしまう。



町のお寺であれば、比丘ばかりの寮ような建物の一室が居室として与えられる。


場合によっては、相部屋だったりもする。


いつも誰かが近くにいるし、決して一人となることはない。



ところが、森のお寺は違う。


広い境内である森の中のあちらこちらに点在している小屋が居室として与えられる。


隣の小屋は見えないほど離れている。


本堂まで歩いて数十分かかるほど離れている場合すらある。



このような環境のため、朝食が終わって、一旦、自由時間となると、その後は、他人と一切関わることがない。



森のお寺の比丘たちは、瞑想修行をするために、あえてこのような環境を自ら選んでいるわけである。


その覚悟ができている人たちばかりの集まりだ。



静かな環境の中で、瞑想修行を全て一人で進めていかなければならない。


瞑想修行は、孤独との戦いだと言っても過言ではない。



時間管理、体調管理、全てが自己管理のうえ、全てが自己責任である。



まさに、「自主」・「自立」・「自律」の世界だ。




しかし、森のお寺での生活は、全てが一人だとは言っても、やはり「サンガ」の一員であり、「お寺」の一員である。


そこには、先生や先輩比丘、同じ修行仲間たちの存在がある。



一人であるのだが、一人ではない。



それぞれの場で瞑想修行を実践しているのだけれども、みんな同じ志を持った仲間の集団なのだ。



だから安心して修行が継続できるのであると思う。



私は、それほど強靭な精神力の持ち主ではない。



だからこそ、整った環境が必要なのである。


その環境のおかげで瞑想を継続できるという側面があるのでないかと思う。



人間は誰でも嫌なことや苦痛なこと、面倒なことはやりたくないものである。


基本的には、怠け者だ。


少なくとも、私はそうである。



いかに環境が重要なものなのか、いかに仲間の存在が大きなものなのかということを痛感するところである。



言うまでもないことであるのだが、ぜひ環境の大切さを知っていただきたいと思う。



できる努力はやるべきである。


できないのであれば、できることを実践するべきである。



私のこのような森のお寺での体験から、今ある生活環境においても、自分が身を置いている環境を整えていく努力を怠ってはならないと痛感するところだ。



(『瞑想修行は一人』)








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2020/07/19

瞑想は安全か?



瞑想は、危険なのではないか?


瞑想は、本当に安全なのだろうか?



しばしば議論されるところである。



結論から言えば、ごく普通に瞑想を実践している範囲であれば、心が壊れてしまうような事態にはならない。


また、信頼できる指導者のもとで実践するのであれば、なお安全である。



とはいえ、近年は、書籍や動画などから独学で瞑想を学び、実践する者も多いのではないかと思う。


ひとつだけ注意点をお伝えするとすれば、効果を得ようと考え過ぎないことだ。


何かをつかもう、何かを得ようと、何かになろうと強く考え過ぎないことである。



どのようなことであっても“過ぎる”のはよくない。



特に瞑想では、考え過ぎたり、つかみ過ぎたりすることは、強い執着となり、こだわりを生むことになる。


さらには、大きな苦しみとなり、深い悩みとなって、重い心の負担となることがある。



これでは、本末転倒も甚だしい。



気持ちを軽くして、楽にして瞑想に取り組んでいくと良いだろう。










私が聞いている、瞑想で心のバランスを壊した事例がある。


それは、「お籠り修行」のような少々特殊な瞑想修行を実践した場合だ。



実際にあった話であるのだが、長時間、しかも長期間、誰とも話さずに、ただひたすら瞑想を実践した在家の方がいたそうだ。


普段から瞑想指導者の指導に従って、瞑想を実践してきた、決して初心者ではない慣れた実践者であったそうである。


しかし、それでも、心のバランスを崩してしまったらしい。


すぐさま、瞑想の実践(お籠り修行)を止めさせたと聞いている。



その在家の瞑想実践者の指導を行っていた指導者の方から直接うかがった話によれば、本人からの強い希望によるものだったという。


「素人がそのような極端な修行は実践しない方がよい」と話しておられた。


普段から瞑想実践に励んでいる者であっても、“素人”だとは、少々厳しく感じられる。


おそらくは、本人の納得の問題だったのだろう。



指導者の側から言えば、あえて“やらせた”のではなかっただろうか。


あるいは、もしかすると、実践者の側に何かを得ようするとても強い気持ちがあったのではなかろうかと思う。



いずれにしても、私の憶測の域を出るものではないのだが。



私は2週間、誰とも一切話さずに、瞑想の実践に入ったことがある。


それ程長い期間ではないと思っているのだが、私についていえば、このくらいの期間であれば、特にどうということは感じなかった。


しかし、その時は、「出家者」として2週間のお籠り修行を実践した。


森のお寺での出家生活は、それ自体がクローズな空間であり、在家での生活(町のお寺)とは全く異なる空間だ。


ある意味においては、生活そのものが“瞑想”に近い生活であるともいえる。


そのため、何の問題もなかったのだと思う。



おそらく、現在のような在家の生活で、ごく普通に社会生活を営みながら、突然、お籠り修行のような環境に入ってしまうと、心のバランスを崩してしまうだろう。


そのような意味では、私は、すでに“素人”だ。



もっとも、このような特殊な修行は、必ず指導者の指示・指導の下で実践することを重ねて注意しておきたい。



何事も同じことであるが、瞑想とは、日々の小さな実践の積み上げである。


まずは、日々の生活の中で、実践できることを実践するべきだろう。



私のなかにも、特殊な修行や、厳しい修行への憧れはある。


それらを実践すれば、何かが得られる、何かになれる・・・そのような間違った思いがあるのである。



しかし、大切なのは、特殊な修行や、厳しい修行を行うことではない。


自己の満足感や達成感を満たすことでもない。



何よりもまずは、日常生活での実践であり、ごく身近なところで瞑想を積み重ねていくことである。



これは、タイで出家生活を送りながら瞑想を実践し、日本で在家者として社会生活を送りながら、現実の悩みや苦しみにぶつかってきた中から導き出した答えである。



今、生きている、この場所、この瞬間。


基本は、自身の日常のなかにある。



もしも、より厳しい修行やより高い境地を志す気持ちがあるのであれば、まずは日々の生活の中での実践を怠らないことだ。


次の段階は、必ずその実践の延長線上にある。


必ずというよりも、自然にその道は見えてくるものである。



普段の生活の中で実践しない人や実践できない人は、たとえ瞑想の環境が整ったとしても、絶対に実践できないであろうし、絶対に実践することはない。



身近にある小さなことを実践しつつ、確実に積み上げていく。


これをできない者が、次の段階へと進もうとするから心のバランスが崩れてしまうのだ。



瞑想は、無理せず、自然な形で取り組んでいくことをおすすめしたい。


そして、長く自身のパートナーとしていくべきである。


何かを求めることなく、ライフワークとして取り組んでいくべきであると思う。



※深い呼吸を行うことや、呼吸を調えるといった、ごく簡易な方法も“瞑想”に含めて考えています。精神的に不安定な場合は、このようなごく簡易な瞑想法から始められることをおすすめ致します。

※精神疾患を患っている場合(すでに主治医にかかっている場合を含む)や極度に自己と向き合うことが苦手な方の場合は、専門の瞑想指導者や担当の医師と相談しながら実践されることをおすすめ致します。



(『瞑想は安全か?』)








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2020/07/09

森のお寺の教え


タイの森のお寺では、体系的な瞑想指導というものがない。
(※森林僧院の系列にもよる。)


受け身な姿勢で臨むと、大いに戸惑ってしまうかもしれない。



瞑想には、“学校”のような指導があるものだと思い込んではいないだろうか。


一般的には、指導者がいて、指導を受ける者がいる、という形を想像するであろう。


私もそうであった。


また、今までも、そのような形で瞑想を学んできたため、森のお寺で生活を始めた当初は、大いに戸惑うものがあった。











もちろん、どこの森のお寺であっても、指導者となる方からの助言を受けることはできる。


それは、タイのどこのお寺やどこの瞑想センターであっても、おおむね同じである。



森のお寺が、他と違うのは、特に瞑想についてである。


適宜、その人物、その時の状態や状況、その時の問題や課題に応じた臨機応変な指導やアドバイスがなされるのであるが、全てが「生活そのものを瞑想としていく」という考え方に基づいた指導であるという点だ。



課題に当たったり、問題が発生したりした際には、すぐに指導者に報告し、相談するのだが、例えば、心が散漫であれば、サマタ的な瞑想法を指導されることもあるし、性欲に悩まされているということであれば、死隨念や不浄観のような死を観察するような瞑想を指導されることもある。



この点が、いわゆる瞑想センターなどでの瞑想指導と大きく異なるところで、ある特定の瞑想法のみを専修することをしないのである。



日々のひとつひとつの行為・行動に注意深くなり、よく気づいて、よく知るということを大切にしながら、サマタもヴィパッサナーも併修しつつ、生活そのものを瞑想としていくというものだ。



当然のことながら、隣の人と同じ助言やアドバイスが得られるとは限らないし、個々人によって異なる。



問題や課題に対して、あるいは日々の生活そのものに対して、創意工夫、試行錯誤しながら、向き合っていかなければならない。


ある意味では、非常に厳しい道である。


とはいえ、これは、どのような瞑想法を選ぼうとも同じで、突き詰めていけば、森のお寺に限った話ではないということに気がつくだろう。


最終的には、自分自身で試行錯誤しながら進んでいかねばならないからだ。



それが瞑想修行であり、出家生活なのだ。



具体的な瞑想指導がなかったり、さまざまな対処方法(瞑想方法)を指導されたりといったことに対して、私は、当初、非常に戸惑いを感じ、大いに疑問を感じた。


しかし、その戸惑いも、疑問も、すぐに晴れた。



生活そのものが瞑想だ。



瞬間、瞬間が、気づきでなければならない。


疑問どころか、こうした森のお寺のあり方の方が自然な生き方であり、瞑想の本質を得ているのではないだろうか。



いつしか、そのように思うようになった。



これは、森のお寺での生活に限った話ではない。


還俗後の社会生活のうえにおいても、何ら変わるところがない。



問題に対して、いかに臨機応変に対応できるかが問われる。


どれほど取り乱してしまいそうな場面においても、いかに冷静であり、いかに自己を客観的に観察していくことができるかが問われる。



このようなところも、森のお寺での生活と全く同じである。




毎日が気づきである。


瞬間、瞬間が瞑想である。



森のお寺の教えは、いつも私に語りかけ続けている。


今の私の考え方の基礎は、この教えにある。


森のお寺の教えは、今も、生きている。










参考図書:アチャン・チャー『手放す生き方』サンガ文庫



この書は、アチャン・チャー師の指導をとてもよく伝えているものであり、アチャン・チャー師とその森のお寺での生活がよくわかるものであるかと思う。


より深くタイの森のお寺とその生活、あるいは「生活そのものを瞑想としていく」という在り方の真意がよく理解できるかと思う。


ぜひ、あわせて読んでいただきたい一冊である。



(『森のお寺の教え』)








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