タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2026/09/09

仏足石が私に語り掛けてくれるもの


私が出家したチェンマイの山奥にある小さな森のお寺は、仏塔に仏足石を祀る“仏足石の寺院”である。


バンコク周辺やタイ中央部では、あまり見かけるのことのない仏足石であるが、北タイでは仏足石に対する信仰が強く、仏足石を礼拝対象とする寺院やブッダの足跡のように見える石や岩のくぼみを礼拝対象とするお堂がよく見られる。


非常に細かな作りの仏足石もあれば、一見すると、どのように見たらブッダの足の形に見えるのだろう・・・?と、なんとも罰当たりなことを考えてしまわざるを得ないような仏足石までさまざまだ。


どちらかといえば細かな作りの仏足石よりも、後者のように足の形には見えないような自然の石や岩にできた“くぼみ”をブッダの足跡として礼拝対象になっていることの方が多いように思う。


これがブッダの足跡であると言われれば、確かに“足の形に見える”といった具合だ。


しかしかがら、自然界にできた足跡のように見える“くぼみ”をブッダの象徴として、あるいはブッダそのものとして大切に信仰されてきたものである。


これは、まぎれもなくブッダの足跡なのである。


事実、ブッダが実際にここへ来た時の足跡であるという言い伝えを持つものが少なくない。


だからこそ、ブッダがここへ来たことの“証”として大切にされているのだ。



なぜ北タイにこうした信仰が根づいているのかを探究したくなるところであるが、テーマがなかなか深いのでここでは触れないことにしたい(どなたかお詳しい方がいらっしゃれば、ぜひともご教示いただければと思う)。


ともあれ、私が出家した山奥の小さなお寺もまた、北タイのこうしたブッダへの篤い信仰を受け継でいでいるお寺のひとつだということである。



僧院の境内である広い山の中には、近隣ではよく知られているらしい自然石の小さな仏足石がある。


その仏足石では、地元のカレン族による大きなお祭りが執り行われる。


そう、私が出家した小さなお寺は、仏足石のお寺であるとともに、カレン族に支えられているお寺でもあるのだ


美しい民族衣装を着た地元のカレン族の人たちが銅鑼を打ち鳴らしながら、山中にある仏足石まで練り歩く大変賑やかなお祭りだ。



ここで特筆すべきは、僧院内の出家者や修行者たちは、お祭りには一切関わらないし、一切関係がないという点だ。


僧院として関わることがあったとしても、お布施を受け取る際に祝福する程度である。


その他諸々、あくまでもお祭りをやっているのは、村の在家の人たちであって、僧院や出家者には関係がないというスタンスだ。



賑やかな境内を横目に、私の指導の先生にどのようにお祭りの日を過ごしたらよいかを尋ねたところ、『いつもの通りに過ごしていればよい』『見学に行きたければ行っても良いが、瞑想の邪魔にならないようにしなさい』ということであった。


『お祭りの邪魔にならないように見学する』のではなく、『瞑想の邪魔にならないようにお祭りを見学する』か・・・なるほどと思った。


だから私は、このお祭りをほとんど見ていない。


何のためのお祭りで、境内でどんなことをやっていて、いつ始まっていつ終わったのかなど、お祭りについてほとんど知らない。


ここに書いていることは、ほんの一目だけ目にした時の様子と、嫌でも聞こえてくる賑やかな音と、僧院内の人から伝え聞いたことだ。


今思えば、少しもったいないことをしたと思わなくもないが、私は仏教と瞑想を学ぶためにタイで出家をしたのだから、これで良かったのだ。



・・・お祭りが終わった後、地元のカレン族出身の先輩比丘に呼ばれた。


『ちょっと俺について来い!』


そのように言われて、山中にある仏足石のところまで連れて行かれた。


今日は、ここにたくさんの人たちが集っていたのだろう・・・人が歩いた跡がはっきりと残っている。


先輩比丘が自然石にできた“くぼみ”を指して『これが仏足石だ(ブッダの足跡だ)』と教えてくれた。


さらにブッダの足跡とされる“くぼみ”にたまっている雨水が非常に霊験あらたかな水なのだそうで、飲むと良いのだと教えてくれた。


『へぇー』と受け流したが、『とてもご利益がある水だからお前も飲め』とすすめられた。


泥水ではないものの、落ち葉や砂、細かな塵が混じっているのが見える。


いくら神聖なるブッダの足跡にたまった水だとはいっても、山中の自然石にたまっている“生水”だ。


霊験あらたかな水であったとしても、さすがにそれには抵抗があった・・・


躊躇していると、『衣で漉して飲めば問題ないから』と言って、半ば強引に私の衣をひっぱって手のひらの上で水を濾しながら汲んでくれた。


さすがはカレン族出身の先輩比丘、非常にワイルドだ。


ここまでされてはもう逃げられない・・・仏足石の“ご霊水”のご利益を信じつつ、腹をくくって大切なひと口の水をいただいた。


腹を壊しはしないか不安ではあったが、こうまでして私に水を飲ませてくれた先輩比丘の気持ちが嬉しかった。



忘れられない仏足石の、そして先輩比丘との思い出深いエピソードだ。



思えば、私は仏足石とは深い縁があるようである。


実は、学生時代に大変お世話になったお寺にも仏足石があった。


だから、私にとって仏足石は、とても身近で、とても親しみを感じる存在だ。


日本では、仏足石をブッダそのものとして礼拝するというよりも、足腰の健康を求めて信仰されることが多いのではないだろうか。


あるいは、仏像が作られる以前はブッダの象徴として礼拝対象とされていたという歴史的なことを踏まえながら“釈尊”を偲ぶという位置づけではないだろうか。


タイの仏足石のように、ブッダが『実際にここへ来た』そして『この足跡はそのことの証である』といった言い伝えを持つものではないし、自然石にできた足跡に見える“くぼみ”を仏足とすることも少ないのではないかと思う。



同じ仏足石でも、日本とタイとでは、そのとらえ方が若干異なるのかもしれない。











そんな仏足石であるが、私の手元にこうした一連の記憶を思い起させてくれる大切なものがある。


一般的なものよりも少し大きなブッダの足をかたどったプラクルアン(タイのお守り)だ。



これは、私が出家したお寺のお堂の棚に置かれていたものである。


日々の読経をはじめ、朝食、瞑想・・・全てこのお堂のなかで行う。


毎日出入りする建物だけに、毎回この仏足石が目に入るようになった。


いつも目にするうちに仏足石に縁のある私が、偶然にも仏足石を祀る僧院で出家し、今日このように修行に励むことができたその記念として、ブッダの足跡である仏足石を身近に置きながら瞑想に励みたい・・・そのように思うようになったのだ。


そして、その思いは、日に日に強くなっていったのだ。


修行の観点から言うならば、大変お恥ずかしいことであるが・・・そういったものを『煩悩』というのだが。


ある日、思い切って僧院長である住職にダメ元で『これを私にくださいませんか』とお願いをしてみたところ、なんとふたつ返事で快く私の願いを聞き入れてくださった。


さらに、その場で祝福とそのお守りの裏側に僧院長の署名まで入れて私に授与してくださったのだ。


当時、私はサーマネーン(沙彌)だったので、私の名は“沙彌イトウ”となっている。



『授与する

サーマネーン・イトウ

仏法に栄えあれ

住職の名前

日付』




帰国後は、ずっと大切にしまい込んでいた。


しかし、最近、ふと思い立って、その仏足のお守りを私の机の上へと持ってきた。


そして、いつも見える場所、いつも手が届く場所、いつも手を合わせることができる場所へと置いて、日々の励みとしている。



ここにブッダが立っておられるのだ。


ブッダの足跡がある僧院で瞑想に励んだ。


歩みを止めてはならない。


仏法に栄えあれ!



私は、完成された人間ではない。



悲しむこともあれば、落ち込むこともある。


腹を立てることもあれば、怒りをあらわにすることもある。


恐怖にかられることもあれば、虚しさに襲われることもある。


人を羨むこともあれば、人を恨むこともある。


困ったことに出くわすこともあれば、私の力ではどうにもならないことに出くわすこともある。



そのような時にどう対応するのか?


毎日の生活のなかで学びをどう活かすのか?



仏教や瞑想は、お寺の中だけのものではない。


本の中にだけあるものでもないし、到底理解できないような難解な学問であるわけでもない。


私の毎日の暮らしの中にこそあるものであり、私とともにあるものである。



『いま』『ここ』という言葉をよく耳にするようになって久しいが、『いま』『ここ』をどう生きるのか・・・?


そして、今日という日をどう生きるのか・・・?



そうしたことをこの仏足石は、私に語り掛けてくれているのだ。






【関連記事】

仏足石について書かれた大変興味深い記事です。
ぜひご一読ください。


・アジアのお坊さん番外編
『アジアの
仏足石』






(『仏足石が私に語り掛けてくれるもの』)






▼メルマガご購読のご案内▼







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。

踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・

そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。

日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。

何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。

登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓














タイ佛教修学記の話題に限定した無料メールマガジンです。
不定期で配信しています。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓

メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ





2026/08/29

お釈迦さまを知らない日本人が増えている!?


タイでお釈迦さまを知らない人はいない。



なぜならば、小学校で仏教の授業があり、基礎的な仏教教理や実践、仏教に基づいた道徳教育や生き方の教育がなされているからだ。



そうしたなかでお釈迦さまの生涯について学んでいくわけである。



もっとも、仏教が生活のなかに溶け込んでいるタイでは、学校で学ばなくとも、ごく自然に知っていくことになるだろうし、いわゆる家庭教育の中で身につけていくことがらでもある。



さて、日本ではお釈迦さまや仏教について学ぶ機会があるであろうか?



保育園や幼稚園を含めた仏教系の学校でない限り、歴史の教科書か高校倫理の教科書くらいでしか触れられていないのではないだろうか。



しかも、学ぶと言っても“釈迦”という人物の存在を知るだけであった、その生涯や思想、生き方や実践までを学ぶわけではない。



お釈迦さまその人の存在すら知らない日本人が増えているというが、そうなってしまうのも無理はない、当然の帰結である。



果たして、日本は仏教国であるといえるのだろうか・・・




たとえば、タイの小学校で学ばれている『慈悲の瞑想』の内容を紹介してみたい。










2022年08月19日掲載の『タイにおける慈悲の瞑想』より一部引用。

https://tekutekubukkyou.blogspot.com/2022/08/blog-post_19.html



※引用・ここから





心を管理することとは、心を明るくすることです。清潔で、静けさをもたらし、清浄にする方法です。これは、智慧をもたらします。



智慧を開発することとは、知ることを発達させることです。知ることを使って、問題を解決するのだと理解することです。そのことによって、幸せに過ごすことができるのです。



【心を管理することと智慧を発達させること】



1、お経をあげること



お経をあげることは、三宝に敬意を示すことです。訓練することで、心が明るくなります。お経の訓練は、まず初めに心を落ち着けることを手助けします。サティ(気づき)を生じさせる瞑想の基礎になります。



2、慈悲を広げること



慈悲を広げることは、他の人が善くあるようにと他の人のことを思いながら、心に注意を配り、願いを示すことです。これは、慈悲心のある人になることを手助けします。慈悲の言葉を唱え、他の人に親切を与えることは法(仏教)の実践です。



①正座をし、両手を合わせて、心を静めます。



これは集中です。



②三宝に礼拝することを3回繰り返します。



③三宝に礼拝する言葉(偈文)お唱えし、慈悲を広げる言葉を念じながらお唱えします。



(略:三宝に礼拝する言葉)




《慈悲を広げる》



『サッペー・サッター』



生きとし生けるものは、生・老・病(痛み)・死に苦しんでいる友人たちです。




『アウェーラー・ホートゥ』


幸せでありますように。互いに敵意を持ち合いませんように。



『アッパヤー・パッチャー・ホートゥ』



幸せでありますように。互いに復讐しあったり、危害を加え合いませんように。



『アニカ―・ホートゥ』



幸せでありますように。身体と心に苦しみがありませんように。



『スキー・アッターナン・パリハラントゥ』



身体と心が幸せでありますように。不幸が尽き、苦しみを乗り越えられますように。



慈悲を広げていく実践が終わった時、同時に、心の中で「サートゥ」とお唱えして、手を合わせます。





※引用・終わり





いかがだろうか。



大人にとっても非常に深い学びになる大変素晴らしい内容である。




私が生まれ育った地域には、まだ仏教に触れる機会が残っていた。



各家庭には仏壇があり、仏事があった。



親戚をはじめ、隣近所の人たちが大人から子どもまで集まって一緒にお経を読んだ。



定期的に地区内にあるお寺に集まり、大人も子どももお釈迦さまの生涯の紙芝居を見た。



『花まつり』もあり、お釈迦さまのご誕生を祝い、甘茶をいただいた。




当時は、当然のことながらお釈迦さまについて学ぶとか、仏教について知るとかは、全く思っていなかった。



しかし、そうした中からお釈迦さまのことを知り、仏教に親しんでいった。




ところが、現在はどうであろうか・・・




そうした機会は時代の流れとともに全て消えていってしまった。



そう遠くはない将来、
おそらくお釈迦さまのことも、仏教のことも、何も知らない人ばかりになっていくのだろう。




時代の流れには逆らえない・・・



だが、できることを考え、できることを実践し、行動していかなければならない。




私は、これからも必要だと感じたことは、発信をしていく。



それが、インターネット社会の中に私が投じることができる、ほんのささやかなる一石であると思っている。





【お知らせ】



かねてよりお釈迦さまの生涯を、誰にでも親しみやすい形で学びながら、同時に『今を生きる私自身への問い』として受け取っていただけるような場を設けたいと考えていました。



今回、開催するオンライン勉強会では、“絵本のお坊さん”として親しまれている浄土真宗本願寺派布教使・福間玄猷先生を講師にお迎えして、お話し名画シリーズ『平山郁夫のお釈迦さまの生涯』を用いながら、美しい仏教画とともに、お釈迦さまのご誕生から涅槃までの歩みをたどっていきます。


お子さまとご一緒での参加も大歓迎です。



どうぞお気軽にお越しください。



■オンライン勉強会
『絵本で学ぶお釈迦さまの生涯』
 ↓ ↓ ↓
お申し込みはこちら






詳細・お申込みはこちら






・福間玄猷(ふくまげんゆう)先生 Facebook
 https://www.facebook.com/gfukuma


【福間玄猷(ふくまげんゆう)先生
  プロフィール】

浄土真宗本願寺派 布教使・源光寺住職。

「絵本のお坊さん」として、仏教の教えを現代社会に優しく手渡す活動を広く展開。 「絵本」を通じた仏教の布教や「いのちの対話」を軸に、世代や場所を越えて人々の心に寄り添う講演や布教活動を全国で行っている。






【関連記事】



『タイにおける慈悲の瞑想
~日本の慈悲の瞑想への違和感~
2022年08月19日掲載

https://tekutekubukkyou.blogspot.com/2022/08/blog-post_19.html






(『お釈迦さまを知らない日本人が増えている!?』)





▼メルマガご購読のご案内▼







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。

踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・

そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。

日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。

何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。

登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓














タイ佛教修学記の話題に限定した無料メールマガジンです。
不定期で配信しています。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓

メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ





2026/08/19

オンライン勉強会のお誘い ~ 絵本で学ぶお釈迦さまの生涯~

 
私たちは、お釈迦さまについて、どれほどのことを知っているだろうか。



お釈迦さまは、何に悩み、何を求め、どのように苦しみと向き合い、その歩みを進めていかれたのだろうか。



また、その生涯や教えは、現代を生きる私たちに何を語りかけているのだろうか。




■オンライン勉強会
『絵本で学ぶお釈迦さまの生涯』
 ↓ ↓ ↓
お申し込みはこちら





お釈迦さまの生涯は、単なる昔の物語ではない。




過去の人物の伝記というだけでもない。



そこには、私たちが日々の暮らしの中で抱える悩みや苦しみとどのように向き合い、今日という一日をどう生きていくのかを考えるための、大切な言葉と智慧がたくさん込められている。




しかし、近年、「お釈迦さまのことをよく知らない」という声を耳にすることが少なくない。



それどころか、お釈迦さまという人物の存在そのものを知らない人が少なくないというのが実情である。




日本の文化や暮らしの根底には、仏教の精神が息づいている。



その源には、お釈迦さまの教えがある。



けれども、子どもから大人に至るまで、お釈迦さまその人について学んだり、触れたりする機会は、意外なほど少ないのではないだろうか。



いや、皆無だといっても過言ではない。



かねてよりお釈迦さまの生涯を、誰にでも親しみやすい形で学びながら、同時に『今を生きる私自身への問い』として受け取っていただけるような場を設けたいと考えていた。




今回、開催するオンライン勉強会では、“絵本のお坊さん”として親しまれている浄土真宗本願寺派布教使・福間玄猷先生を講師にお迎えして、
お話し名画シリーズ『平山郁夫のお釈迦さまの生涯』を用いながら、美しい仏教画とともに、お釈迦さまのご誕生から涅槃までの歩みをたどる。



絵本を通してお釈迦さまの人生に触れることは、ただ遠い昔の出来事を知ることにとどまらず、自らの生き方を静かに見つめ直す時間になることと確信している。



仏教や瞑想に親しみのある方はもちろん、「ほとんど知らない」という方にも、楽しみながら学んでいただける勉強会でもある。



絵本と仏教画を通して学ぶため、お子さまとご一緒の参加も大歓迎。



どうぞ気軽にご参加いただきたい。






画像をクリックしてください





【開催日時】


2026年9月9日(水)
20:00~21:30




【開催場所】


オンライン開催(Zoom)

※お申し込み後、
ご登録のメールアドレスへURLをお送りします。



【参加費について】



この勉強会は、
ダーナ(布施)の精神に基づいて
参加費はいただきません。



ダーナ(布施)とは、
『与えること、わかち合うこと』です。



この勉強会で学んだことや、
ここで得た喜びや安らぎを、

今度は身近な誰かへと
わかち合っていただけたらと
思います。



お手伝いや手助け、
誰かへの親切や笑顔、

相手に喜びや安らぎを届けること、
信頼する場への寄付や支援など、
その形は問いません。



大切なのは、

『自分にできることを、
できる形で実践する』

ことです。



そうしたひとりひとりの行いが、
また誰かの喜びや安らぎへとつながり、
その“輪”が少しずつ広がっていきます。



この勉強会を通じて
ご縁のあった皆さまがそうした
『与え、わかち合う“輪”』の一員に
なってくださることを願っています。



なお、
この勉強会への
ご支援も承ります。



ご講師へのお礼と
タイの森林僧院へ
お布施させていただきます。



ご支援いただける場合は、
主催者・伊藤まで直接ご連絡ください。 




【キャンセル・お問い合わせ】



急なご事情により
参加できなくなった場合は、
ご連絡をお願いいたします。



ご質問やお問い合わせも、
下記までお気軽にどうぞ。




Mail:
buddhanoomiashi@gmail.com




【お申し込み】

■オンライン勉強会
『絵本で学ぶお釈迦さまの生涯』
 ↓ ↓ ↓
お申し込みはこちら






・福間玄猷(ふくまげんゆう)先生 Facebook
 https://www.facebook.com/gfukuma


【福間玄猷(ふくまげんゆう)先生
  プロフィール】

浄土真宗本願寺派 布教使・源光寺住職。

「絵本のお坊さん」として、仏教の教えを現代社会に優しく手渡す活動を広く展開。 「絵本」を通じた仏教の布教や「いのちの対話」を軸に、世代や場所を越えて人々の心に寄り添う講演や布教活動を全国で行っている。






(『オンライン勉強会のお誘い ~ 絵本で学ぶお釈迦さまの生涯~』)






▼メルマガご購読のご案内▼







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。

踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・

そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。

日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。

何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。

登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓














タイ佛教修学記の話題に限定した無料メールマガジンです。
不定期で配信しています。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓

メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ





2026/08/09

お金から離れた世界とお金を求める世界・・・その間で見つけた私の答え


タイでの出家生活と日本へ帰国してからの在家生活との間には、想像以上の大きなギャップに戸惑い、そして苦しんだ。


いや、想像以上どころではない。


想像すらしていない、想定外だ。



どのようなギャップなのかといえば『お金』である。



タイの森林僧院での出家生活では、戒律に従って出家者はお金を持つことはおろか、触れることさえ固く禁じられている。


町や村のお寺よりも厳しく守られ、徹底されている。



ところが、還俗後の日本の社会では、お金がなければ1日たりとも生活が成り立たない世界だ。


とにかく今日という日を生きるために、たとえ1円であったとしても、お金を稼がなくてはならない。


お金がなければ、生活ができないのだ。


外出もできないし、テレビも見れない。


食べ物もなければ、水も飲むことができない。


お金がなければ、今日一日、生きることができない世界なのだ。



太古の昔、人間は狩猟や採集をしながら直接食を得て命を繋いできた。


そうした直接食を得る生活から、お金でもって食を得て命を繋ぐへと置き換わっただけなのだから、お金を得ることはそのまま命を繋ぐことを意味することになる。


お金でもって命を繋がないとすれば、自給自足の生活をするということになるのだろうが、それは現代社会では現実的ではないだろう(実践している人はいるかもしれないが・・・)。



すなわちお金を得て、今日という日の命を繋ぐのである。



そのようなことはごく当たり前のことであるが、経済活動を一切しない、常にお金を所持せず、いつもお金に触れないように注意を払う森林僧院での生活から、突然お金に“貪欲”にならねばならぬ世界に放り込まれたのだからその落差は非常に大きい。


還俗した今は、もはやお金は、遠ざけるべき存在ではなく、たとえ1円でも自分のものにしていかないといけない存在だ。


お金を稼ぐことができなければ、ただそれだけで人格も、人間性も、すべてが否定され、まるで社会にいてはいけない存在であるかのように扱われてしまう世界。


少なくとも、私はそのような感覚にさせられた。


ただただ愕然とした・・・いや、ただただ愕然とするしかなかったのだ。











しつこいようであるが、お金に触れたら怒られてしまう世界から“還俗”を境に一転して、お金を“貪欲に”稼がないと怒られる世界という、全くの真逆の世界へと放り込まれたのだから、そのショックたるや尋常ではない。


とはいえ、私も出家前は日本で普通に働き、普通に社会生活を送っていた。


また再び元いた世界へと戻るだけなのだから、そう大した問題ではない。


・・・そのように思っていた。


ところが、まさかこれほどまでに『お金』が私に大きなショックをもたらすとは想像さえしていなかったのだ。



出家生活では、なぜお金を所有することや触れることを禁じているのか?


それは、単刀直入に言えば、瞑想や修行に関係がないからだ。


出家者が財産を所有することの執着を育てないためであり、瞑想に専念するためだ。


お金は、さまざまな不安や心配を生みだし、さまざまな問題やトラブルの元凶となるもののひとつだからである。



世間には、お金にまつわるトラブルで溢れかえっているではないか。



しかし、一方で仏教は『お金は悪いもの』であるとは説いていない。


在家生活にあっては、正しい方法で財産を得て、自分や家族を養い、他者を助け、出家者やサンガに布施を行うことが勧められている。


お金や財産は、人生を支える重要な手段のひとつだからである。



出家者と在家者とでは、お金とのつき合い方が異なるのである。


出家者であれば、お金から離れて、仏教の学びと瞑想に専念する。


在家者であれば、お金は生活を支える手段のひとつとして、正しくつき合っていくことに努める。


つまり、どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが問われるのである。











還俗したタイ人からも、還俗した日本人や西洋人からも、『お金』の問題でギャップを感じたという話はあまり聞いたことがない。


このようなギャップに苦しめられたのは、私だけなのだろうか・・・


いや、そのようなはずはないと思うのだが。


私に限らず、還俗すれば誰もが元の社会生活へと戻っていく。


ブッダの時代から現在に至るまで還俗した人はたくさんいる。


私よりもはるかに真摯に執着と向き合った修行者や、より心の境涯を磨きあげた修行者はいたはずで、何らかの理由で還俗することになった修行者はたくさんいたはずだ。


きっと、私と同じようにギャップを感じ、上手く心を整理することができず苦しみを感じることになった者もいたのではないかと思う。



彼らは、どのようにこのギャップを越えてたのであろうか・・・



私は、中途半端な気持ちでタイまで行って出家したのではない。


一歩でもブッダに近づきたい、ほんの少しでも悟りに近づきたい・・・


そのような思いでもって、ただ一人タイへと渡ったのである。



目の前に展開されている経典の世界さながらの景色に深い感動を覚えた。


森のお寺での生活にほれ込み、出家生活の素晴らしさに胸を打たれた。



真剣に実践しようとすればするほど、真剣にお金への執着から離れようとすればするほど、出家生活と還俗後の生活との溝を深めてしまい、ギャップに苦しめられる結果になろうとは・・・。


還俗前提で修行をしているわけではないのだから仕方がないのだが。



還俗したからといって、学びや修行が終わるわけではない。


学びは、生涯ずっと続いていく。



お金そのものに善悪はない。


善悪を生じさせているのは、その人の心である。



出家生活では“執着から離れる”ことを実践する。


在家生活では“執着することなく正しく用いる”ことを実践するのである。



それがそれぞれの立場での修行であり、学びなのである。



出家生活と在家生活は、真逆で正反対であるのではない。


実は、本当に問われていることは『お金』そのものなのではなく、自身の“心”なのではないかと思う。


『お金』への執着にとらわれて、“苦しみ”や“ギャップ”を作り出しているのも自身の“心”だ。


私自身の“心”が大切なのである。


どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが重要なのであり問題なのである。






(『お金から離れた世界とお金を求める世界・・・その間で見つけた私の答え』)





▼メルマガご購読のご案内▼







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。

踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・

そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。

日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。

何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。

登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓














タイ佛教修学記の話題に限定した無料メールマガジンです。
不定期で配信しています。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓

メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ





2026/07/29

なぜタイの人々は森林僧院の僧侶を特別に敬うのか?


非常に興味深い記事を読んだ。


スウェーデン出身の森林派比丘による記事である。


どこに興味をひかれたのかといえば、タイの森林僧院で出家生活を送った私にも思い当たることがあり、『それは確かに“ある”』と感じた点だ。



『タイ人は、瞑想をしている森林派の僧侶や尼僧には超自然的な力があると信じている。』・・・記事のなかにこのような記述がある。



近年、瞑想が広まり、在家の者であってもお寺へ行けば比較的気軽に瞑想を実践することができるようになった。


各瞑想法の創始者の伝記などから窺い知る範囲では、おそらく100年ほど前は、今ほど瞑想は一般的ではなかったものと思われる。


森林僧院の数も今ほど多くはなく、瞑想を実践する者の数自体が今よりもはるかに少なかったのではないかと思う。


かつて瞑想は、真摯に仏教の実践を志す者の中でも、さらに厳しい環境に身を置いて道を究めようとする者が修するものであった。


それこそが森林派の僧侶であった。


世俗から隔絶された世界で生活をしている修行者たちに“超自然的な力”を認めるようになるのは自然な流れであろう。


実際に数々の霊験譚が伝承されていることからも、本当に超自然的な力を持った比丘もたくさんいたのかもしれない。


名だたる著名な修行系の僧侶や瞑想系の僧侶は、必ずと言っていいほど『お守り』のモチーフになっていることからも“超自然的な力”が認められていることがわかる。










さて、私は出家生活の大半を森林僧院で瞑想修行に励んできたが、確かに森林僧院で出家をしたと言うと、急に態度が変わったり、より丁寧に接遇されたりすることがあり、とにかく森林僧院の比丘は一目置かれるのは確かである。


森林僧院の比丘は、壊色(えじき:袈裟の色として定められた鮮やかさを避けた地味な色のこと)、つまり濃い茶色の衣を纏っていることが多いため、だいたいはそうだと一目でわかる。


衣以外にも、持ち物からもわかる。


托鉢の鉢と屋外で寝泊まりするための“傘”と“蚊帳”を携えていることが多いため、やはりだいたいは一目でわかる。



森林僧院での生活は、他の記事でも紹介している通り、町の寺院の比丘とは異なり、瞑想専修の生活を送る。


また、森林僧院では仏教寺院としての儀式は最低限度に絞られているし、比丘同士の会話、信者や参拝者との会話等も一切ないか必要最低限である


許されているのは、瞑想指導者との面談時の会話だけ。


森の中で孤独にただひたすら瞑想の実践に励む生活なのだ。












記事には“隠者”という表現が使われているが、私はなるほどなと思った。


そのような生活の毎日であるから、確かに“隠者”と言えば“隠者”だろう。



このようなより厳しい修行を志す比丘のなかでも、『トゥドン』と呼ばれる日本でいうところの“頭蛇行(山林行脚修行)”を行う比丘がおり、特にその比丘のことを『プラ・トゥドン』呼ぶ。


この記事の著者は、森林僧院で出家・修行し、さらに志して頭蛇行に出た比丘の一人なのだろう。



私も後々気がつくことになるのだが、人里離れた森林僧院で瞑想修行を積み重ねている者は、人々から大変真摯な仏教実践者として尊敬を集めるのはちろんなのだが、それとはまた別な角度から、超自然的な力を持つ者、いわゆる呪術的な力を持つ者として特別視される一面がある。


少し意外に思う人がいるかもしれないが、熱心な上座仏教国のひとつとして知られるタイであるが、純粋な仏教信仰、すなわち論理的な仏教教理の理解に基づいた信仰だけがタイ仏教の信仰ではない。


世俗的な願望であったり、人間的な願望などから、比丘を敬ったり、お布施や供養を施すということがある。


意外に感じるどころか、こちらのほうが多数を占めているかもしれない。


しかし、これは、決して否定的にとらえるべきものではなく、こうした素朴な人々の篤い思いのひとつひとつにタイの仏教サンガは支らえているのである。



世俗的なことや呪術的なことはけしからんといった批判があるかもしれないが、“きっかけ”としてそういった心があっても良いのではないかと私は思う。


最初から本質を見極めることができればいうことはないし、遠回りすることなく最短の道で真の仏道を歩むことができれば、これまたいうことはないだろう。


しかし、そうもいかないのが私たち人間ではないか。


まかれた種が芽生えて真実に目覚めていく・・・そういった過程があってもいいのではないかと思う。











ここで述べたことはあくまでもひとつの一般論であって、目の前の人がどのような気持ちで比丘と接しているのかなど、その人の心の内を“透視”するか、その本人に直接確認でもしない限り、到底知ることなどできない。


純粋な仏教への尊崇からなのか、所謂ご利益を期待しての尊崇なのかは、その本人次第であり、人それぞれだろう。



還俗して日本で生活している今でも、出会ったタイ人にこういったお寺で出家をしていたと話すと、妙に驚かれたり、より丁寧に接遇されたりすることがある。


還俗をして在家へと戻ったとしても、やはり森林僧院で修行してきた者は一目置かれるようだ。


それは、もしかしたらこうした気持ちがどこかにあるからかもしれない。



もしも、私に何らかの『力』を期待されているのだとしたら大変申し訳ないのだが、煩悩まみれの私には超自然的な力もなければ、呪術的な力もない。


霊能力もなければ、超能力もない。


数えきれないほどの煩悩にまみれたどうしようもなく愚かな私がいるだけだ。



そんな私にできるのは、『あなたが幸せでありますように』と願うことしかできない。


私の目の前にいる人に対して、精一杯の笑顔でもって接するのみである。




参考文献:


スウェーデン出身でタイで僧侶となったビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんは、巡礼中にタイの人々から「奇妙な質問」を受けることがよくあった。その質問は、すべてが「数に関する質問」だった。一体なぜなのか。


ビョルンさんの著書『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)より。



私が間違っているかもしれない



『「敬う気持ち」と「お金ほしい」が入り交じっている…仏教国タイで人々が僧侶に投げかける「奇妙な質問」の真相』


ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド:スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶


『プレジデントオンライン』2025/07/18 9:00 掲載 より


『「敬う気持ち」と「お金ほしい」が入り交じっている…仏教国タイで人々が僧侶に投げかける「奇妙な質問」の真相 「僧侶になって何年?」「何人きょうだい?」』 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


URL:

https://president.jp/articles/-/97936




(『なぜタイの人々は森林僧院の僧侶を特別に敬うのか?』)






▼メルマガご購読のご案内▼







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。

踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・

そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。

日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。

何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。

登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓














タイ佛教修学記の話題に限定した無料メールマガジンです。
不定期で配信しています。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご購読ください⇓⇓⇓

メルマガ購読・解除
タイ佛教修学記
  
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ