日本の仏伝とタイの仏伝を比較してみると、非常に面白い。
タイの仏伝には、日本ではあまり知られていない場面や、馴染みのない場面がいくつか描かれているのだ。
ここでは、その代表的なものを2つ紹介したいと思う。
仏伝を詳しく調べてみると、その背景や歴史など、なかなか奥深いものがあり、到底言い尽くせるものではない。
日本は大乗仏教(北伝仏教)であるし、タイは上座仏教(南伝仏教/テーラワーダ仏教)だ。
受け継がれてきた経典やその教えが異なるし、さらには地域の信仰や文化も異なるため、仏伝の描かれ方にも違いが生まれたのであろう。
タイでは、寺院の壁画に釈尊(ここでは釈尊という表記で統一する)の生涯を描いた“仏伝”や、釈尊の前世の物語である“ジャータカ”が描かれることがある。
経典という“文字”とともに、壁画という“絵”を通して仏教の“教え”が人々の心へと受け継がれてきたのである。
そうして描かれた釈尊の生涯のなかで、同じ場面を描いたものでも、日本のものとは異なる場面がある。
それが、『降魔成道(ごうまじょうどう)』の場面である。
悟りへと至るその瞬間の出来事は、日本の仏伝においてもそうであるように、タイでもとても身近で、広く親しまれている印象的な場面のひとつだ。
タイでも日本でも、釈尊の生涯のなかでも最も重要な場面のひとつであることに変わりはないが、日本のものとは少し“描かれ方”が違うのだ。
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| 降魔成道(ごうまじょうどう) イラスト:たーれっく氏 |
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| 降魔成道図の解説 イラスト:たーれっく氏 (※掲載の許可をいただいています。) |
悟りを開こうとする釈尊の前に、魔王・マーラが現れ、悟りを妨げようとする。
マーラが釈尊に『お前に悟りを証明するものはあるか?』と迫ると、釈尊は右手を大地に触れた・・・すると、大地の女神・メートラニー(プラ・メー・トラニー)が現れた。
メートラニーは、釈尊が過去世から積み重ねてきた功徳の証人として、自らの髪の毛を絞ると、そこから水が流れ出て、さらに大きな洪水となり、マーラとその軍勢たちを押し流して撃退した。
そして、ついに釈尊は、マーラたちの誘惑と妨害を退け悟りを開いた・・・という場面を描いたものである。
マーラの軍勢が釈尊の悟りを邪魔しようとする場面は日本も同様であるが、大地の女神であるメートラニーが現れるというところがとても印象的だ。
日本ではあまり知られていない、ドラマティックかつインパクトのある逸話だろう。
ちなみに、私は全く意識をしていなかったのであるが、たーれっく氏によれば『お堂に入ってくる“魔”を祓うという意味で、お堂の出入り口上部によく描かれる』そうである。
タイの寺院を参拝される機会があれば、ぜひとも注意してご覧いただければと思う。
もうひとつ紹介したい。
『三道宝階降下(さんどうほうかいこうげ)』の場面である。
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| 三道宝階降下(さんどうほうかいこうげ) イラスト:たーれっく氏 |
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| 三道宝階降下図の解説 イラスト:たーれっく氏 (※掲載の許可をいただいています。) |
釈尊が悟られてから7日後、母であるマーヤー夫人はこの世を去ってしまう。
この世を去った後、マーヤー夫人は三十三天(忉利天)に生まれたとされ、釈尊は雨安居の3ヵ月間、忉利天へと昇ってマーヤー夫人に説法した。
亡き母への3ヵ月間の説法を終えた釈尊が忉利天から地上の世界へと戻る際に、三本の宝の階段(向かって右側:金、向かって左側:銀、中央:さまざまな宝石)を通って降り立った・・・という場面を描いたものである。
この時に釈尊が降り立ったとされる場所として伝承されているのがインドの『サンカシャ』である。
この場面は、日本人にとってはあまり馴染みのない場面かもしれないが、タイの仏伝ではよく描かれる広く知られた場面のひとつだ。
馴染みのない場面だけに、非常に記憶に残る場面なのではないだろうか。
一体、どういう場面なのだろうかと考え込んでしまうところであるが、その逸話の意味や描かれている人物の意味を知っていれば、また味わいも深いものとなろう。
タイの仏伝のなかで、日本ではあまり馴染みのない場面を2つ紹介した。
どちらもタイでは、誰もが知る釈尊の生涯の一場面だ。
同じ仏伝でも伝承が違っていたり、日本へ伝わってはいても、仏伝としては採りあげられることが少なかった逸話など、掘り下げて吟味してみるとさまざまな背景があり、非常に深いことがわかる。
南伝と北伝とでは、仏教が伝わった地域や伝承の違いがあったりするため、また仏伝の伝承そのものが異なっていたりするため、そこに描かれる場面にも必然的に違いが見られるのだろう。
しかし、いずれにしても、仏伝は単なる釈尊の生涯を知るための『物語』であるのではない。
そこに描かれた釈尊の生き方や実践を通して、私たちはどのように生きるのかを学ぶための生きた教えでもあるのだ。
そして、必ずその逸話やエピソードが象徴していたり、教えていることがらがあるはずであり、それらを汲み取って自身の生きる道へと反映させていかなければならない。
遥か遠い昔の物語として終わるものではなく、私たちが今日という一日を、今この瞬間をどのように生きるのか・・・?という問いと実践へとつなげていかないといけない。
それでこそ、はじめて仏伝の意味があるのだと思う。
【イラストのご協力】
■たーれっく氏
タイ・バンコク在住の漫画家。
タイのお寺の情報を中心に発信されている。
訪問されたお寺関係は、なんと約2600カ所!
タイ関係の電子書籍を多数出版されている。
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(『タイの仏伝を訪ねる ~同じ釈尊なのになぜ違うのか?~』)
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