タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)



2021/04/19

私の人生を変えた、たった一人の理解者


この時期になると思い出す。


私がお世話になった先生のご命日が近づいてきた。


ここ数年は、先生のご自宅までおうかがいさせていただき、直接、先生の奥様にご挨拶をさせていただいている。



今回は、配信している『こころの探究のはじまり』第35話より、先生のお話を転載させていただこうと思う。



( 『こころの探究のはじまり』登録はこちら










私がタイで出家をしたいと考えるようになってから、必死になってタイのことを調べた。


ところが、今のようにインターネットで、何でも検索できる時代ではなかった。



何をどう探して、何をどう調べればいいのか・・・


全くわからなかった。


きっかけもつかめなければ、糸口さえもつかめなかった。



しかし・・・。


しかし・・・、である。



何かしら動いていれば、ふとしたある時に、何かを思い出したり、何かの拍子に何かが閃いたりすることがあるものだ。


これは、全く不思議としか言いようがない。



おそらく、そうした方向に“眼”が向くからなのであろう。



ある時、私が高校生の頃にお世話になったとある先生が、



「スリランカで修行をしてきた人がいてね、
その人が結構、面白い人なんだよね。」




(※「面白い」というのは、話に重みがあるという意味で、人生に厚みがあるという意味あいで“面白い”と表現されていた。)



といったような話をなさっていたことを思い出したのだ。



思い立ったが吉日だ。



すぐにその先生に連絡をとって、スリランカで修行をしてきたという方を紹介してもらった。


そして、すぐさまスリランカで修行をして来たという方のもとを訪ねたのであった。



驚いた!!



なんと、私と同じ疑問を抱いて、私と同じ志を持って、海外へ出たとのこと。


私とまるっきり同じではないか!



この時、私は23歳だった。



スリランカで修行をされたのは、その方が若かりし頃のことであるから、もう今からかれこれ3、40年ほど前の話となる。


さらに、スリランカで修行をする前には、タイで修行をしていたというお話であった。



すぐにその方のお話の中へと引き込まれていった。


同時に、



この人こそが私が求めていた人だ!


やっと出会えたんだ!


出会いたい人に出会えた!



瞬間的にそのように感じた。



私の心を思いきり打つような、そんな感覚を覚えた。



本当に嬉しかった。


この時の感覚は、言葉では言い表せませない。



私がタイで出家をしたいということを伝えても、賛成してくれたり、応援してくれる人は誰一人としていなかった。


私の“思い”に共感してくれたり、その“意味”を理解してくれる人が誰もいなかったのだ。



そもそも話すら聞いてくれない。


そのようななかで、私の「思い」と「志」を理解してくれた、たった一人の理解者だった。



「納得のいくまでやりなさい。」



温かく微笑みながら、そのように言ってくださった。


きっと、その方の若かりし頃の姿と、私の姿とを重ね合わせていたのかもしれない。


その後も、何度も訪ねて、何度もお話をうかがった。



そして、私を教え導いてくださった大切な「先生」の一人となった。



なかなか期待しているような“出会い”など少ないのかもしれない。


それでも、求め続けていれば、何らかの“出会い”はあるものだと思う。



私にとって、この時の出会いは、人生の中で忘れることのできない大切な出会いとなったのであった。



まだまだ私は、未熟者だ。


たくさん学ぶべきことがある。


もっともっと先生から学ばせていただきたかった・・・。



私は、先生に恥じることのない生き方をしているだろうか?



この時期になると、いつもに増して、自身に深く問いかけるのである。



(『私の人生を変えた、たった一人の理解者』)








ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご登録ください⇓⇓⇓






仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。




Facebook : Ito Masakazu





2021/04/09

嘘をついていいはずがない

 

4月といえば、エイプリルフールだろうか。


しかし、たとえ、エイプリルフールだと言っても、嘘をついていいはずがない。



ところが、日本においても、この日ばかりは嘘をついてもいいということで定着してしまっている。


それどこか、いかなる嘘もついていいはずがないだろうと主張すれば、人を喜ばせる嘘なのだから、それくらいは構わないではないかとか、場を和ませることが目的なのだからむしろ推奨できるものではないか、などといった声が多数聞かれる始末だ。



嘘は嘘である。



場が和むとも限らない。


相手が喜ぶとも限らない。



そうしたことが問題なのではない。



ほんの一瞬であったとしても、心の動きが不安な方向へと陥ってしまったり、怒りの方向へと陥ってしまったりすることもある。



仏教は、心の動き、すなわち心の方向性を重視する。


そうした心の動きの全ては、自身の行為・行動として相続されていくもの(引き継がれていくもの)だ。


やはり、いかなる嘘であったとしてもいいはずがない。



「嘘は、泥棒のはじまり」



このようによく言い聞かせられて育ってきたものであるが、こうした言葉も今は昔のこととなってしまったようだ。


日本は、いつから嘘を善しとするような社会となってしまったのだろうか?














仏教には、五戒というものがあり、「嘘をつかない」という努力徳目がある。


特にタイのお寺では、こうした戒が在家よりも、より厳しく守られているのだ。



私が瞑想を学び、実践に励んできた森の修行寺では、町のお寺よりもさらに厳しく指導されるため、相当細かなところまで注意を受けることがある。



「嘘」ということについて言えば、“冗談”でさえも『嘘』をついたこととして見なされる。


冗談が嘘だなんて、それこそが嘘だろう?と思われるかもしれないが、確かに冗談も嘘の類の言葉であろう。


あるいは、 

戯れに発した言葉やユーモアとしての言葉なども同様で、嘘の類の言葉として厳禁されている。



余談になるのだが、相手を疑うような言葉、すなわち「本当に?」であるとか、「それは、本当ですか?」などといったような言葉も、相手の比丘に対して、大変失礼な表現となるので、決して言ってはいけない言葉だと指導を受けたことがある。


注意を受けてみれば、確かにそうだ。


原則として、お寺の生活では『嘘』はないわけなのだから。



とはいえ、いくらお寺の中だと言っても、どうしても事実と異なることや、嘘となってしまうようなことがらを言わざるを得ない時もあるというのが人間社会だ。



そうした時は、極力嘘とならないように、発する言葉に注意するというのはもちろんのこと、言葉の表現や言い回しを変えたりして工夫を凝らす。


あるいは、そのような会話をしないことに努めたり、時には、黙秘するといった避け方もある。



このようにして、嘘を避けるよう常に努力が払われるのだ。



日本人からすれば、いささか違和感があるのかもしれないが、冷静に考えてみれば至極当然なことばかりだ。



やはり、冗談やジョークといったものは、そもそもが『嘘』の一種であると言える。


事実でも、真実でもない。


ゆえに、そういった類の言葉は、『嘘』そのものだ。



言葉は、非常に大切なものである。


言葉は、自身の行為・行動のひとつでもある。


自身を形成していく重要な要素のひとつとなるものだ。



「嘘をつかない」



これは、とても簡単なことに感じるかもしれないが、嘘をつかないということを実践してみると意外に難しいことがわかる。


どうしても自分を守ったり、人には言えないことや他者に言ってはトラブルになってしまうようなことなど、ついつい事実とは異なることを口にしてしまったりするものだ。



しかし、是非とも、はじめから嘘をつかないことは無理なことであると決めつけないで欲しい。



嘘をつかないようにしようとする態度、姿勢、その心がけこそが大切なのである。


自身の言葉が、嘘とならないように心がけていくことで、自身の言葉へと注意が向けられ、心が磨かれていく。


そして、自分自身の姿が少しずつ見えてくるのである。


すると、生活そのものが少しずつ変わり始めて来る。


それは、やがて、人生そのものの変化へとつながるのである。



これこそが、人格を磨き、より善き人生とするための行いなのではなかろうか。



自分自身に注意を向けていく。


この姿勢こそは、まさに『瞑想』そのものでもある。


全ては、瞑想につながるものであり、全ては、サティにつながっている。



近年の日本の風潮では、嘘はつくもの、嘘はついて当たり前のもの、嘘はつかないとやっていけないものだと見なされているようである。


すなわち、組織や社会などにとって、やむを得ず必要とされていることであり、所謂“必要悪”としてその存在が認められているということが非常に残念だ。


もはや、だれも嘘は「悪」だとは考えていないと言っては言い過ぎだろうか?


日本は、仏教国ではなかったのだろうか・・・



(『嘘をついていいはずがない』)







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご登録ください⇓⇓⇓






仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。




Facebook : Ito Masakazu



2021/03/29

最後に過ごした安居にて~還俗を前にして~


私は、父親の介護問題を置いて、タイへと渡り、出家をした。


そして、結局のところ、介護問題が直接的な理由となり、還俗を決意することとなった。



本来であれば、そうした物質的なものや人間関係的なものなどの身辺整理を含めた、心の整理をも全て済ませたうえで出家するのが筋である。


現に、それがために、出家の儀式の際には、「父母の許可を得ているか?」という問いがあるのである。



もっとも、儀式であるから、形式的に文言を覚え、間違うことなく型通りに誦唱することができれば出家は成立する。


しかし、その精神は、仏教サンガの一員となるにあたり、私のような者に対する決意の確認と、身辺整理の確認を行うための口頭試問だ。



多くのタイ人がそうするように、私も安居を過ごした後に還俗することにした。


最後に比丘として過ごした安居中に綴ったメモが今、私の手元にある。



読み返してみると、当時、苦しかった心境がよみがえって来るようで、ついつい胸が苦しくなってくる。


そこには、非常に複雑な心境、そして悲痛とも言える叫びが綴られている。






北タイの小さな森の寺での出家式
私の夢が叶った瞬間だ。





《以下は、当時のメモより》


修行の生活に楽しさが感じられなくなってきた。

なかなか進んでいかないというか、うまくいかないことへの苛立ち。



怒りが溢れてくる。

次から次へと溢れてくる。

怒り、不満、妬み・・・

気がつけばいつも心の中は不満でいっぱい。

いつも心は揺れている。



サティし切れない。

心がコントロールができない。

暴れ放題の心の濁流。

心の濁流に飲み込まれては、少し浮かんで、そしてまた飲み込まれていく・・・。



全てが怒りに変わる。

全てが憎悪と嫌悪に変わっていく・・・。

喜びも、感謝も、全てが怒りに変わる・・・。

心の中は怒りと不満の心でいっぱいになる。



還俗とは、なんのかんの言って“敗北宣言”だ。

煩悩への敗北、修行生活への敗北、そして自分自身への敗北だ。

還俗とは敗北宣言だ。



タイで出家は、最高の親孝行。

しかし、日本では、タイでの出家は最高の親不孝。



タイでの出家生活は、素晴らしい。

たとえ、食えなくなってもいいし、そのあたりで、のたれ死んだとしても全く構わない。

そのような気にさえさせてくれるものである。



還俗したくない。

しかし、一方で、欲の赴くままに過ごしたい。

とは言え、もう、感情の中で生きるのは嫌だ。

暴れる感情、反発し合う感情、荒れ狂う感情を前に私は、為す術がない。

ただただじっと“今”を過ごすのみだ・・・



不満な思い、傷つけられたことによる嫌悪感、そして屈辱感。

こみ上げてくる怒り、未来への恐れ、不安、心配・・・

思い通りにいかなかったことへの不満。

ちょっとしたきっかけ、ちょっとした言葉によって、このタイでの3年間の感情が噴き出して来る・・・

あふれる感情、抑え切れない感情の中へと飲み込まれていく・・・。



気持ちを、感情を、心を揺さぶられるのが怖い。

かき乱されるのが怖い。

これからどんな心の揺さぶりが私を襲ってくるのだろうか・・・。




ざっと、メモの中で比較的まとまりのある一文を拾ってみた。


今、読み返してみても、随分と激しく感情と“戦って”いたようだ。



あれほどまで夢にまで見たタイでの出家。


やっとの思いで出家することが叶ったのだ。


葛藤するのは当然だ。



おだやかに過ぎ去っていった瞑想の日々。


ところが、心は日に日におだやかではなくなっていった。



メモの記録を見ると「9月」とある。


還俗を決意したのち、最後の安居を過ごし、いよいよその安居も半ばを過ぎようとしていた時期の記述である。



ご存知の通り、瞑想では、こうした感情をひとつひとつサティしていく。


徹底して客観的な姿勢を貫き、観察していくことに徹する。


瞑想とは、非常に冷徹だ。



その葛藤の姿が綴られている。



私の至らなさを晒すようで大変恥ずかしいのだが、この心の葛藤から、どのようなことをお感じになるであろうか。



言ってみれば、人生など、こうした葛藤の連続ではないか。


今ならば、そのように自分に対して声をかけるのかもしれない。



(『最後に過ごした安居にて~還俗を前にして~』)







ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご登録ください⇓⇓⇓






仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。




Facebook : Ito Masakazu