タイには、数珠を使った瞑想方法が存在するということは、以前にも記事としてまとめている(関連記事を参照)。
数珠というのは、元来は、真言の数をかぞえるための道具であり、いわゆるカウンターの役割を果たすものだ。
しかし、上座仏教における数珠を使った瞑想では、数をとることはしない。
タイでは、具体的に数珠を使ってどのように瞑想していくのかと言えば、心を集中させていくための“きっかけ”として数珠を使うのである。
ゆえに私は、以前の記事では数珠のことを『瞑想の小道具』であると表現している。
タイの数珠も玉の数は、一応は108つあるが、『数える』ということに大きな意味があるわけではないし、108という数字にも瞑想上の意味はない。
『瞑想の小道具』という役割から言えば、108でなくてもよいわけである。
とは言え、やはり玉の数を108としてしているのだから、何らかの意味やルーツがあるものと思われるが、残念ながらそこまで調べることができなかった。
数珠を使った瞑想方法には、非常にたくさんのバリエーションがある。
その一例を挙げると、数珠を繰りながら、呼吸の回数を数えていくという方法がある。
これは、すでに触れた通り、回数そのものに意味はなく、数字へと注意を向ける。
あるいは、かぞえるという行為そのものに瞑想上の意味はないが、“かぞえる”という“行為”へと注意を向けながら集中させていくという方法だ。
また、プットー、プットー・・・と唱えながら数珠を繰っていく『プットー瞑想』と組み合わせた方法がある。
プットーと唱えるだけで十分だろうと思う人もいるかもしれないが、心が騒々しい時や散漫になっている時などに特に効果を発揮する。
あえて“数珠を繰る”という動作を加えることで、より注意を向けやすくして、強く思考や感情から離して集中させていくことができる。
これらの瞑想方法は、静かに坐して実践しても構わないし、歩いて実践する、いわゆる歩行瞑想のような形で実践してもよい。
実際に坐す瞑想と歩く瞑想とを組み合わせて実践されることが多い。
その他、工夫次第で、数珠はさまざまな使い方が可能である。
呼吸や『プットー』という言葉に“数珠を繰る”という動作を加えることで、思考や感情から離れ、意識を集中させていきやすくするというのが数珠を使った瞑想方法の大きな利点であると言える。
ここまでは、心を集中させていくサマタとしての瞑想という意味合いが濃いものとなるが、数珠を繰りながら指先の感覚そのものを観察をしていくという方向性であれば、ヴィパッサナーの瞑想としての意味合いが濃い使い方となる。
数珠を繰っている感覚に『気づき』を向けて、ひとつひとつ細かく丁寧に観察していくことで、数珠の玉と指先とが触れているその感触や感覚の変化を観ていくのである。
すなわち、『指の瞑想』と全く同じ要領、同じ意味合いであり、どのような時であっても、どのような場所であっても、『気づき』を育てながら、『気づき』をよく維持していくための手段のひとつとしての使い方だ。
先ほども触れた通り、数珠を使った瞑想では、玉の数そのものには瞑想上の意味は持たないため、他のものであっても十分に代用が可能である。
たとえば、身近にあるブレスレットを使えば、大変手軽に数珠を使った瞑想の実践ができる。
近年、身につけている人も多くみられ、より身近な存在で、親しみのある物品のひとつではないだろうか。
よく“手持ち無沙汰”から、手にしたものを“いじる”あの行為をほんの少しだけ工夫すれば、立派な瞑想の実践となる。
それだけではなく、さらに多方面へと応用していくことが可能だ。
手に持つことができるものであれば、目の前にあるものはどのようなものであっても瞑想していくことができるだろう。
“手持ち無沙汰”で暇を持て余すこともなくなる。
ペンで実践することもできるし、スマートフォンをタップするその瞬間に『気づき』、瞑想していくことも可能だ。
本人のやる気次第で、どれだけでも広げていくことができるのである。
このように数珠を使った瞑想は、いつでも、どこでも、如何なる時であろうとも『気づき』を育て、よく保つことを磨いていくための手段のひとつなのである。
心の状態は、いつも同じとは限らないし、ましていつもおだやかであるとは限らない。
むしろ、いつも荒波であり、いつも濁流であり、大いに乱れていることの方がはるかに多い。
現在では、ある特定の瞑想方法のみを専修していくことが主流となっているが、おそらく元来はそうではなかったのであろう。
実際に、その時々・・・その場、その状況、その環境に応じて、数珠を用いた瞑想方法を含めて、いろいろな方法を組み合わせながら、心を落ち着けていき、『気づき』を保ちながらその力を高めていくことが、森の僧院などでは推奨され実践されている。
こうした実践方法は、現在のタイでは、ごく一部の修行寺や森の僧院でしか実践されていない少数派の瞑想方法ではあるが、上座仏教における数珠の歴史の問題はともかく、近代に入ってから創始された体系だった瞑想法が隆盛する以前は、このような細々とした非常に地道な瞑想法が脈々と受け継がれ、実践されてきたのではないだろうかと推測している。
数珠を使った瞑想法は、あくまでも瞑想の入り口としてのものであるので、心がよくと調い、『気づき』の力がしっかりと育てられてきたら、さらに高度な瞑想へと進んでいくというのがその筋道となるのだろう。
これは、私の経験を踏まえた所感にはなるが、実社会のなかを生きる私たちにとっては、なかなか静かな環境を得ることが難しいばかりでなく、『気づき』の力を高めていくことさえも難しい。
私は、実生活のなかでは、その時の心の状況に応じて対応していくこうしたやり方も、十分に意義があるものと感じているし、むしろ適しているのはないかとさえ感じている。
ある特定の瞑想方法のみを専修していく方法ももちろん良いと思う。
それぞれに合った瞑想方法を実践し、それぞれに応じた継続方法を選んでいけばよいのである。
【註】
※マハーシ式の瞑想方法を採用している瞑想センターや僧院などでは、数珠を用いること自体を禁じているところもある。
※近代以降に創始された瞑想方法では、数珠を使うことはない。よって、そうした瞑想方法を採用する瞑想センターや僧院でも、数珠を用いることを禁じていることが多い。
※バンコクを中心とするタイ中央部では、数珠の使用はほとんど見られない。タイ北部(チェンマイ地方)やタイ東北部(イサーン地方)などで見られるにとどまる。
【関連記事】
・『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』
(2023年05月19日掲載)
・『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』
(2017年06月04日掲載)
(2012年07月03日掲載)
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