タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2026/08/09

お金から離れた世界とお金を求める世界・・・その間で見つけた私の答え


タイでの出家生活と日本へ帰国してからの在家生活との間には、想像以上の大きなギャップに戸惑い、そして苦しんだ。


いや、想像以上どころではない。


想像すらしていない、想定外だ。



どのようなギャップなのかといえば『お金』である。



タイの森林僧院での出家生活では、戒律に従って出家者はお金を持つことはおろか、触れることさえ禁じられている。


これは、町や村のお寺よりも厳しく守られ、徹底されている。


ところが、還俗後の日本の社会では、お金がなければ1日たりとも生活が成り立たない世界だ。


とにかく今日という日を生きるために、たとえ1円であったとしてもお金を稼がなくてはならない。


お金がなければ、生活ができないのだ。


外出もできないし、テレビも見れない。


食べ物もなければ、水も飲むことができない。


お金がなければ、今日一日生きることができない世界だ。



太古の昔、人間は狩猟や採集をしながら直接食を得て生活をしてきた。


そうした直接食を得る生活から、お金でもって食を得る生活へと置き換わっただけなのだから、お金を得て生活を営むことがそのまま命を繋ぐことを意味することになるのだろう。


お金でもって命を繋がないとすれば、自給自足の生活をしなさいということになるのだろうが、それは現代社会では現実的ではない(実践している人はいるが・・・)。



働いてお金を得て、今日という日の命を繋ぐのである。



そのようなことはごく当たり前のことであるが、経済活動を一切しない、常にお金を所持せず、いつもお金に触れないように注意を払う生活から、突然お金に“貪欲”にならねばならぬ世界に放り込まれたのだからそのショックは大きい。


還俗した今は、もはやお金は、遠ざけるべき存在ではなく、たとえ1円でも自分のものにしていかないといけない存在だ。


お金を稼ぐことができないとなると、ただそれだけで人格も、人間性も、すべてが否定され、まるで社会にいてはいけない存在であるかのようになってしまう。


少なくとも、私はそのような感覚にさせられた。


ただただ愕然とした・・・いや、ただただ愕然とするしかなかったのだ。











しつこいようであるが、お金に触れたら怒られてしまう世界から“還俗”を境に一転して、お金を“貪欲に”稼がないと怒られる全くの真逆の世界へと放り込まれるのだから、そのショックたるや尋常ではない。


私も出家前は日本で普通に働き、普通に社会生活を送っていた。


私に限らず、誰もが還俗すれば元の社会生活へと戻っていく。


生活のためにお金が必要なことなど、あえてここで説明しなくてもわかり切っている。


また再び元いた世界へと戻るだけなのだから、そう大した問題ではない。


・・・そのように思っていた。


ところが、まさかこれほどまでに『お金』が私に大きなショックをもたらすとは想像さえしていなかったのだ。



出家生活では、なぜお金を所有することや触れることを禁じているのか?


それは、単刀直入に言えば瞑想や修行に関係がないからだ。


出家者が財産を所有するへの執着を育てないためであり、修行すなわち瞑想に専念するためだ。


お金はさまざまなトラブルの元凶となるもののひとつである。


お金は、さまざまな不安や心配を生む。


世間には、お金に端を発したトラブルで溢れているではないか。



しかし、一方で仏教は『お金は悪いもの』であるとは説いていない。


在家生活にあっては、正しい方法で財産を得て、自分や家族を養い、他者を助け、出家者やサンガに布施を行うことが勧められている。


お金や財産は、人生を支える重要な手段のひとつなのである。



つまり、出家者と在家者とでは、お金とのつき合い方が異なるのである。


出家したのであれば、金銭から離れて、仏教の学びと瞑想に専念する。


在家者であれば、お金は生活を支える手段のひとつとして、正しくつき合っていくことがすすめられているのだ。


どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが問われるのである。











還俗したタイ人からも、還俗した日本人や西洋人からも、『お金』の問題でギャップを感じたという話はあまり聞いたことがない。


このようなギャップに苦しめられたのは、私だけなのだろうか・・・


いや、そのようなはずはないと思う。


ブッダの時代から現在まで還俗した人はたくさんいる。


私のような者よりもはるかに真摯に執着と向き合った修行者や、実際に執着から離れていた修行者で、何らかの理由で還俗することになった修行者はたくさんいたはずだ。


きっと、私と同じように上手く整理することができず、ギャップを感じ、苦しみを感じた者もいたのではないかと思う。


彼らは、どのようにこのギャップを越えていったのであろうか・・・



私は、中途半端な気持ちでタイまで行って出家したのではない。


一歩でもブッダに近づきたい、ほんの少しでも悟りに近づきたい・・・


そのような思いでもって、ただ一人タイへと渡ったのである。



目の前に展開されている経典の世界さながらの景色に深い感動を覚えた。


森のお寺での生活にほれ込み、出家生活の素晴らしさに胸を打たれた。



真剣に実践しようとすればするほど、真剣にお金への執着から離れようとすればするほど、出家生活と還俗後の生活とのギャップの溝を深めてしまう結果になろうとは・・・。



還俗したからといって、学びや修行が終わるわけではない。


学びは、生涯ずっと続いている。



お金そのものに善悪はない。


善悪を生じさせているのは、その人の心だ。



出家生活では“執着から離れる”ことを実践する。


在家生活では“執着することなく正しく用いる”ことを実践するのである。


それが修行であり、学びなのである。



出家生活と在家生活は真逆で正反対であるのではなく、実は本当に問われていることは『お金』そのものではなく、自身の“心”なのではないかと思う。


『お金』への執着にとらわれて、“苦しみ”や“ギャップ”を作り出しているのも自身の“心”だ。


どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが重要であり問題なのである。






(『お金から離れた世界とお金を求める世界・・・その間で見つけた私の答え』)





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2026/07/29

なぜタイの人々は森林僧院の僧侶を特別に敬うのか?


非常に興味深い記事を読んだ。


スウェーデン出身の森林派比丘による記事である。


どこに興味をひかれたのかといえば、タイの森林僧院で出家生活を送った私にも思い当たることがあり、『それは確かに“ある”』と感じた点だ。



『タイ人は、瞑想をしている森林派の僧侶や尼僧には超自然的な力があると信じている。』・・・記事のなかにこのような記述がある。



近年、瞑想が広まり、在家の者であってもお寺へ行けば比較的気軽に瞑想を実践することができるようになった。


各瞑想法の創始者の伝記などから窺い知る範囲では、おそらく100年ほど前は、今ほど瞑想は一般的ではなかったものと思われる。


森林僧院の数も今ほど多くはなく、瞑想を実践する者の数自体が今よりもはるかに少なかったのではないかと思う。


かつて瞑想は、真摯に仏教の実践を志す者の中でも、さらに厳しい環境に身を置いて道を究めようとする者が修するものであった。


それこそが森林派の僧侶であった。


世俗から隔絶された世界で生活をしている修行者たちに“超自然的な力”を認めるようになるのは自然な流れであろう。


実際に数々の霊験譚が伝承されていることからも、本当に超自然的な力を持った比丘もたくさんいたのかもしれない。


名だたる著名な修行系の僧侶や瞑想系の僧侶は、必ずと言っていいほど『お守り』のモチーフになっていることからも“超自然的な力”が認められていることがわかる。










さて、私は出家生活の大半を森林僧院で瞑想修行に励んできたが、確かに森林僧院で出家をしたと言うと、急に態度が変わったり、より丁寧に接遇されたりすることがあり、とにかく森林僧院の比丘は一目置かれるのは確かである。


森林僧院の比丘は、壊色(えじき:袈裟の色として定められた鮮やかさを避けた地味な色のこと)、つまり濃い茶色の衣を纏っていることが多いため、だいたいはそうだと一目でわかる。


衣以外にも、持ち物からもわかる。


托鉢の鉢と屋外で寝泊まりするための“傘”と“蚊帳”を携えていることが多いため、やはりだいたいは一目でわかる。



森林僧院での生活は、他の記事でも紹介している通り、町の寺院の比丘とは異なり、瞑想専修の生活を送る。


また、森林僧院では仏教寺院としての儀式は最低限度に絞られているし、比丘同士の会話、信者や参拝者との会話等も一切ないか必要最低限である


許されているのは、瞑想指導者との面談時の会話だけ。


森の中で孤独にただひたすら瞑想の実践に励む生活なのだ。












記事には“隠者”という表現が使われているが、私はなるほどなと思った。


そのような生活の毎日であるから、確かに“隠者”と言えば“隠者”だろう。



このようなより厳しい修行を志す比丘のなかでも、『トゥドン』と呼ばれる日本でいうところの“頭蛇行(山林行脚修行)”を行う比丘がおり、特にその比丘のことを『プラ・トゥドン』呼ぶ。


この記事の著者は、森林僧院で出家・修行し、さらに志して頭蛇行に出た比丘の一人なのだろう。



私も後々気がつくことになるのだが、人里離れた森林僧院で瞑想修行を積み重ねている者は、人々から大変真摯な仏教実践者として尊敬を集めるのはちろんなのだが、それとはまた別な角度から、超自然的な力を持つ者、いわゆる呪術的な力を持つ者として特別視される一面がある。


少し意外に思う人がいるかもしれないが、熱心な上座仏教国のひとつとして知られるタイであるが、純粋な仏教信仰、すなわち論理的な仏教教理の理解に基づいた信仰だけがタイ仏教の信仰ではない。


世俗的な願望であったり、人間的な願望などから、比丘を敬ったり、お布施や供養を施すということがある。


意外に感じるどころか、こちらのほうが多数を占めているかもしれない。


しかし、これは、決して否定的にとらえるべきものではなく、こうした素朴な人々の篤い思いのひとつひとつにタイの仏教サンガは支らえているのである。



世俗的なことや呪術的なことはけしからんといった批判があるかもしれないが、“きっかけ”としてそういった心があっても良いのではないかと私は思う。


最初から本質を見極めることができればいうことはないし、遠回りすることなく最短の道で真の仏道を歩むことができれば、これまたいうことはないだろう。


しかし、そうもいかないのが私たち人間ではないか。


まかれた種が芽生えて真実に目覚めていく・・・そういった過程があってもいいのではないかと思う。











ここで述べたことはあくまでもひとつの一般論であって、目の前の人がどのような気持ちで比丘と接しているのかなど、その人の心の内を“透視”するか、その本人に直接確認でもしない限り、到底知ることなどできない。


純粋な仏教への尊崇からなのか、所謂ご利益を期待しての尊崇なのかは、その本人次第であり、人それぞれだろう。



還俗して日本で生活している今でも、出会ったタイ人にこういったお寺で出家をしていたと話すと、妙に驚かれたり、より丁寧に接遇されたりすることがある。


還俗をして在家へと戻ったとしても、やはり森林僧院で修行してきた者は一目置かれるようだ。


それは、もしかしたらこうした気持ちがどこかにあるからかもしれない。



もしも、私に何らかの『力』を期待されているのだとしたら大変申し訳ないのだが、煩悩まみれの私には超自然的な力もなければ、呪術的な力もない。


霊能力もなければ、超能力もない。


数えきれないほどの煩悩にまみれたどうしようもなく愚かな私がいるだけだ。



そんな私にできるのは、『あなたが幸せでありますように』と願うことしかできない。


私の目の前にいる人に対して、精一杯の笑顔でもって接するのみである。




参考文献:


スウェーデン出身でタイで僧侶となったビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんは、巡礼中にタイの人々から「奇妙な質問」を受けることがよくあった。その質問は、すべてが「数に関する質問」だった。一体なぜなのか。


ビョルンさんの著書『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)より。



私が間違っているかもしれない



『「敬う気持ち」と「お金ほしい」が入り交じっている…仏教国タイで人々が僧侶に投げかける「奇妙な質問」の真相』


ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド:スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶


『プレジデントオンライン』2025/07/18 9:00 掲載 より


『「敬う気持ち」と「お金ほしい」が入り交じっている…仏教国タイで人々が僧侶に投げかける「奇妙な質問」の真相 「僧侶になって何年?」「何人きょうだい?」』 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


URL:

https://president.jp/articles/-/97936




(『なぜタイの人々は森林僧院の僧侶を特別に敬うのか?』)






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2026/07/19

先生のひとこと・・・『出家と在家、何が違うというのですか?』


先生の言葉というのは、時に逆説的な表現であったり、比喩的な表現でもって伝えられることがあったりするものである。


しかし、それは、固く結ばれた信頼関係の上に成り立っているのであり、その言葉をどう受け取り、どう噛みしめていくかが重要である。


何度も何度もよくよく吟味していくなかで自身の血肉となっていくものだ。



言葉を噛みしめるごとにお育てを賜っているのであり、成長させていただいているのである。



私が出家する時から大変お世話になった先生がいる。


その先生から言われたある言葉が私の心に“ぐさり”とつき刺さった。



『出家も在家も同じでしょう?

一体、何が違うというのですか?』



ひとことぽつりとこのように言われたのだ。



タイでは、出家と在家は全く違う。


はっきりとした違いがある。



服装も違えば、居住する場所も違う。


在家とは生活そのものに決して小さくはない、明確な差があるのだ。



しかし、私は、先生のこのひとことに対して、何ひとつ返答することができなかった。










『出家』と『在家』の違い・・・


それは、一体、どこにあるのだろうか?




“受戒”の有無だろうか?


戒律の受持だろうか?


僧衣の有無だろうか?


髪の毛の有無だろうか?




私は、出家するためにタイまで行った。


ところが、タイに入国してすぐに出家の予定が白紙になってしまった。


出家するはずだったお寺まで来ているというのに・・・それなのに出家することができなかった・・・


この時の気持ちは、悔しいであるとか、無念であるとか、そういった言葉で言い表せるものではない。



そんな私が最後に行きついたお寺であり、そんな私を快く受け入れてくれたのが、チェンマイの山奥にある何もない小さな森のお寺と、のちに師となる私の先生であった。



タイの森のお寺では、在家であっても止住することができ、出家に準じた形で瞑想修行を実践することができる。


それゆえ、瞑想を学び、実践し、深めるというのであれば、なにも出家をして比丘となる必要はない。



その点でいえば、出家も在家も同じである・・・先生がおっしゃる通りなのかもしれない。











チェンマイの山奥にある何もない小さな森のお寺と先生は、右も左もわからないタイの地で、思わぬアクシデントに見舞われてしまった私にとって、救いの手を差し伸べてくれた大恩人である。


今の私の学びがあるのは、まさにこのお寺と先生のお陰そのもので、どれだけ感謝をしてもし切れるものではない。



そのお寺で私は、お世話してくれた先生とともに過ごした。


瞑想指導をはじめ、プライベートなことを含めてさまざまなことを話した。


今、振り返ってみると、実に貴重な時間であったし、本当に贅沢な時間であった。



そうした先生との一場面であった。



自身の仏縁のなさ、運の悪さ、なぜ私だけがこんなにも邪魔ばかりされながら、“茨の道”を歩かないといけないのだろうか・・・自分が思い描いていた通りに出家が叶わなかったことについて、つい先生に愚痴と言うか、現状を嘆いた言葉をこぼしてしまったのだ。


そんな私に対して先生は、とても静かでおだやかな口調でこのようにおっしゃった。



『瞑想もできる。仏教も勉強できる。

僧侶と同じ環境下で生活することもできる。


出家も在家も同じではありませんか?

一体、何が違うというのですか・・・?』



私は、何も言えなかった・・・。



タイでは、出家者と在家者は明確な違いがある。


服装も違えば、生活も違う。


何もかもが違う。



しかし、お寺では、出家も在家も、瞑想できる。


それぞれの立場で、自分に合った学びができるし、徳を積むことができる。


求めに応じて、森のお寺という恵まれた環境で生活することだってできる。



そう考えれば、先生がおっしゃるように出家も在家も同じで、わざわざ出家する必要などないではないかというのも理解ができる。


私は、それ以上に何を望むというのだろうか・・・?











・・・とはいえ、私は、出家するためにタイへ来たのだ。


先生の言葉と私の思いとが真っ向から激しくぶつかり合った。



出家をしたから心が清浄になるのではない。


出家をしたから瞑想が深まるのでもない。


出家をしたところで“私”という人格がガラリと変わるわけでもなければ、出家をしたというだけで悟りへと近づけるわけでもない。



そんなことくらいわかり切っている。



先生のこのひとこは、私の心に“ぐさり”と深く深くつき刺さったのであった。



その後、晴れて比丘となることができた。


さらにその後、還俗し、日本へ帰国することとなり、現在に至っている。



もうざっと20年も昔のことになるのであるが、改めて先生からいただいたこの言葉を吟味してみようと思った。



自分の思い通りにならない現状を嘆いてばかりいてはいけない。



『出家も在家も同じでしょう?

一体、何が違うというのですか?』



常に本質を見極めていくことに努め、ただひたすら心を磨いていくことに努めていかなければならない。


先生は、こう私に言いたかったのかもしれないと思う。



先生の真意はわからないが・・・



あなたなら『出家も在家も同じでしょう?一体、何が違うというのですか?』という問いかけに対して、どのように答えるだろうか・・・?






(『先生のひとこと・・・『出家と在家、何が違うというのですか?』』)





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2026/03/09

瞑想だけが仏教の実践なのではない

 

近年、瞑想が非常に盛んである。


そして、テーラワーダ仏教(南伝仏教)への関心が高まりつつある。


大変喜ばしい限りだと思う。



ところが、同時に、瞑想“だけ”が仏教の実践であり、瞑想しない者は仏教に生きる者ではないとする人たちを時々見かけるようになった。


とても熱心なのは良いことではあるが、それは間違いである。



瞑想の実践だけが仏教であるわけではない。


三帰依と五戒で初めて仏教徒となるわけであるが、五戒を守ることが瞑想よりも大切だ。


なぜなら、五戒を守ってこそ瞑想を実践していく環境が整えられるからである。


さらにいえば、五戒を守ろうと努めていくことは、それそのものが瞑想へと通じていくものだからである。



【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』



五戒を守る以外にも仏教の実践はたくさんある。


『悪い行いをしない』『善い行いをする』という実践も立派な仏教の実践だ。


少なくともタイでは、そのように理解されている。



例えば、タイでは、困っている人を助けたり、手伝ったりする。


席を譲ったり、車やバイクに乗せてあげたりすることもある。


それらは、すべて善行だ。


ごく身近にあるほんの小さな“善い行い”も、立派な仏教の実践のひとつであり、功徳を積むことができる善い行為であるとされている。



ところが、(特に日本においては)五戒を守ることや善い行いをしたり、悪い行いをしないということも仏教の実践のひとつであるということが忘れられているようだ。


もしかしたら、そうした地道な実践は、実践として物足りないのかもしれない(本来は、実践として物足りない実践などないのであるが・・・)。


確かに、瞑想こそが(瞑想だけが)仏教の実践であると思い込むのは、何か実践したい、何か行動したいという、溢れる熱意の発露に他ならないのだと思う。


しかし、一方で、それはただの思い上がりの慢心に堕してしまうものなのではないだろうか。



仏教の実践は、瞑想だけではない。


日々の生活の中で、善いことを行い、悪いことは為さないという、ごく基本的かつごく身近な実践も立派な仏教の実践のひとつなのであって、それは私たちの身の回りにたくさんあるのである。











善いことを行い、悪いことは行わない。


出来る限り悪いと思われることから離れて、できる限り避けるようにする。



こうして日々、心の境涯を磨いていくのである。


同時に五戒を守り、日々の生活を調えていく。


それでこそはじめて、瞑想に取り組む“土台”ができあがっていくのである。



私は、五戒の順守も完璧ではないし、満足に瞑想も深められない煩悩まみれの身である。


すぐに嘘をつき、これくらいはいいだろうといって盗みをはたらいてしまうこの身ではあるが、いつも五戒を思い、生活の中で自分にできることを実践していくように心がけるようにしている。


誰かの役に立てることや喜んでもらえるような機会があれば、積極的に近づいていき、積極的に行っていこうと心掛けている。


また、少しでも人の心の安らぎにつながるような行いを為していこうと、いつも心掛けている



まずは、身近な行いからである。



悪い行いはしない。


善い行いをする。



そこからだ。



そして、五戒を守ること、守ろうと努めること。


そこからだろう。



そこを抜きにして瞑想云々と言うのは本末転倒ではないか。


怠惰で不摂生な生活をしているにも関わらず、健康になりたいと言っているようなものだ。



とはいえ、私も煩悩まみれの凡夫である。


身近なことでさえ満足に実践できない私だが、私にできる実践を行っていくしかない。


私には、些細な実践しかできない。


しかし、それが私にとっての仏教実践だと思っている。



【関連記事】:『瞑想の前に五戒を守ること』




(『瞑想だけが仏教の実践なのではない』)






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2026/02/19

瞑想の前に五戒を守ること


瞑想よりもまず五戒である。


五戒があってはじめて瞑想を実践する土台と環境が整うからだ。


少々厳しいのかもしれないが、五戒を外した瞑想は仏教の瞑想ではないと言っても過言ではない。


五戒というものを意識していくことで、行動や言動、心の持ち方へと注意を向けていくことになり、必然的に自己の観察へと繋がるからである。


それではじめて理性と落ち着きが保たれ、瞑想実践の土台と環境が揃うのである。



もっとも、その五戒を守ることは簡単なようで簡単ではない。


容易に守り切れるものではないが、それでも守ろうと努力していくところにその意義があるのではないか。


だからこそ、タイではさまざま仏教の行事のなかで五戒を受ける儀式があるのである。



このブログを書き始めた頃は、瞑想といっても誰にも興味を持たれないマイナーな存在であったが、近年は瞑想が大変なブームとなっている。


瞑想が市民権を得たという意味では、大変喜ばしいことだと思うのだが、一方で日本で実践されている瞑想には五戒がない。


さらに、日本で五戒について語ると、必ずといっていいほど反発をされるし、時には激しく反論されることさえある。


タイではごく当たり前のこととして受け入れられているのだが、日本ではそれだけ五戒が定着していない何よりの証である。











五戒とは、生活全般における努力徳目である。


それは、ある一時だけ守っていればよいというものではなく、生活の全てにおいて守られていないといけないものである。


何度も繰り返し実践することによって、善き流れが形作られていき、人生が形成されていくのである。


だから、瞑想よりもまず五戒なのである。



“実利的”効果を求める瞑想を否定するものではない。


瞑想によって“実利的効果”が得られることは、確かなことである。


すでに、さまざまな方面において研究され、検証されている通りだ。


個人や公共の暮らしを豊かにし、生きがいある人生へと繋がるものであるのなら、それは大いに意味のあるものである。


実利を追求する瞑想だからといって、否定する理由などないだろう。


より良い成果や効率のアップを目指し、期待通りの結果を出すためのひとつの手段としての瞑想だ。


しかし、それは仏教の瞑想ではない。











なぜ瞑想を実践するのか。


それは、一言でいえば、人生をより善く生きるためだと言えるのではないだろうか。



より善き人生は、より善き日々の積み重ねだ。


悪いことを避けて、善いことを行っていく。



より善き日々を積み重ねていくには、より善き判断とより善き行動が必要だ。


そのためには、五戒を軽視してはいけないし、五戒を守っていくことが必須なのである。



完璧に守り通そうと力むのではなく、まずは心がけるところから始めてみてはいかがだろうか。



瞑想よりもまず五戒である。




【五戒関連記事】

(※その他、ブログ内に関連記事が多数あり。)


『『五戒』は、私の姿を見せてくれるもの』


『五戒を通して自己を知る』




(『瞑想の前に五戒を守ること』)






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