タイでの出家生活と日本へ帰国してからの在家生活との間には、想像以上の大きなギャップに戸惑い、そして苦しんだ。
いや、想像以上どころではない。
想像すらしていない、想定外だ。
どのようなギャップなのかといえば『お金』である。
タイの森林僧院での出家生活では、戒律に従って出家者はお金を持つことはおろか、触れることさえ固く禁じられている。
町や村のお寺よりも厳しく守られ、徹底されている。
ところが、還俗後の日本の社会では、お金がなければ1日たりとも生活が成り立たない世界だ。
とにかく今日という日を生きるために、たとえ1円であったとしても、お金を稼がなくてはならない。
お金がなければ、生活ができないのだ。
外出もできないし、テレビも見れない。
食べ物もなければ、水も飲むことができない。
お金がなければ、今日一日、生きることができない世界なのだ。
太古の昔、人間は狩猟や採集をしながら直接食を得て命を繋いできた。
そうした直接食を得る生活から、お金でもって食を得て命を繋ぐへと置き換わっただけなのだから、お金を得ることはそのまま命を繋ぐことを意味することになる。
お金でもって命を繋がないとすれば、自給自足の生活をするということになるのだろうが、それは現代社会では現実的ではないだろう(実践している人はいるかもしれないが・・・)。
すなわちお金を得て、今日という日の命を繋ぐのである。
そのようなことはごく当たり前のことであるが、経済活動を一切しない、常にお金を所持せず、いつもお金に触れないように注意を払う森林僧院での生活から、突然お金に“貪欲”にならねばならぬ世界に放り込まれたのだからその落差は非常に大きい。
還俗した今は、もはやお金は、遠ざけるべき存在ではなく、たとえ1円でも自分のものにしていかないといけない存在だ。
お金を稼ぐことができなければ、ただそれだけで人格も、人間性も、すべてが否定され、まるで社会にいてはいけない存在であるかのように扱われてしまう世界。
少なくとも、私はそのような感覚にさせられた。
ただただ愕然とした・・・いや、ただただ愕然とするしかなかったのだ。
しつこいようであるが、お金に触れたら怒られてしまう世界から“還俗”を境に一転して、お金を“貪欲に”稼がないと怒られるという、全くの真逆の世界へと放り込まれたのだから、そのショックたるや尋常ではない。
とはいえ、私も出家前は日本で普通に働き、普通に社会生活を送っていた。
また再び元いた世界へと戻るだけなのだから、そう大した問題ではない。
・・・そのように思っていた。
ところが、まさかこれほどまでに『お金』が私に大きなショックをもたらすとは想像さえしていなかったのだ。
出家生活では、なぜお金を所有することや触れることを禁じているのか?
それは、単刀直入に言えば、瞑想や修行に関係がないからだ。
出家者が財産を所有することの執着を育てないためであり、瞑想に専念するためだ。
お金は、さまざまな不安や心配を生みだし、さまざまな問題やトラブルの元凶となるもののひとつだからである。
世間には、お金にまつわるトラブルで溢れかえっているではないか。
しかし、一方で仏教は『お金は悪いもの』であるとは説いていない。
在家生活にあっては、正しい方法で財産を得て、自分や家族を養い、他者を助け、出家者やサンガに布施を行うことが勧められている。
お金や財産は、人生を支える重要な手段のひとつだからである。
出家者と在家者とでは、お金とのつき合い方が異なるのである。
出家者であれば、お金から離れて、仏教の学びと瞑想に専念する。
在家者であれば、お金は生活を支える手段のひとつとして、正しくつき合っていくことに努める。
つまり、どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが問われるのである。
還俗したタイ人からも、還俗した日本人や西洋人からも、『お金』の問題でギャップを感じたという話はあまり聞いたことがない。
このようなギャップに苦しめられたのは、私だけなのだろうか・・・
いや、そのようなはずはないと思うのだが。
私に限らず、還俗すれば誰もが元の社会生活へと戻っていく。
ブッダの時代から現在に至るまで還俗した人はたくさんいる。
私よりもはるかに真摯に執着と向き合った修行者や、より心の境涯を磨きあげた修行者はいたはずで、何らかの理由で還俗することになった修行者はたくさんいたはずだ。
きっと、私と同じようにギャップを感じ、上手く心を整理することができず苦しみを感じることになった者もいたのではないかと思う。
彼らは、どのようにこのギャップを越えてたのであろうか・・・
私は、中途半端な気持ちでタイまで行って出家したのではない。
一歩でもブッダに近づきたい、ほんの少しでも悟りに近づきたい・・・
そのような思いでもって、ただ一人タイへと渡ったのである。
目の前に展開されている経典の世界さながらの景色に深い感動を覚えた。
森のお寺での生活にほれ込み、出家生活の素晴らしさに胸を打たれた。
真剣に実践しようとすればするほど、真剣にお金への執着から離れようとすればするほど、出家生活と還俗後の生活との溝を深めてしまい、ギャップに苦しめられる結果になろうとは・・・。
還俗前提で修行をしているわけではないのだから仕方がないのだが。
還俗したからといって、学びや修行が終わるわけではない。
学びは、生涯ずっと続いていく。
お金そのものに善悪はない。
善悪を生じさせているのは、その人の心である。
出家生活では“執着から離れる”ことを実践する。
在家生活では“執着することなく正しく用いる”ことを実践するのである。
それがそれぞれの立場での修行であり、学びなのである。
出家生活と在家生活は、真逆で正反対であるのではない。
実は、本当に問われていることは『お金』そのものなのではなく、自身の“心”なのではないかと思う。
『お金』への執着にとらわれて、“苦しみ”や“ギャップ”を作り出しているのも自身の“心”だ。
私自身の“心”が大切なのである。
どのような心でお金を得て、どのような心でお金を使うのかが重要なのであり問題なのである。
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