非常に興味深い記事を読んだ。
スウェーデン出身の森林派比丘による記事である。
どこに興味をひかれたのかといえば、タイの森林僧院で出家生活を送った私にも思い当たることがあり、『それは確かに“ある”』と感じた点だ。
『タイ人は、瞑想をしている森林派の僧侶や尼僧には超自然的な力があると信じている。』・・・記事のなかにこのような記述がある。
近年、瞑想が広まり、在家の者であってもお寺へ行けば比較的気軽に瞑想を実践することができるようになった。
各瞑想法の創始者の伝記などから窺い知る範囲では、おそらく100年ほど前は、今ほど瞑想は一般的ではなかったものと思われる。
森林僧院の数も今ほど多くはなく、瞑想を実践する者の数自体が今よりもはるかに少なかったのではないかと思う。
かつて瞑想は、真摯に仏教の実践を志す者の中でも、さらに厳しい環境に身を置いて道を究めようとする者が修するものであった。
それこそが森林派の僧侶であった。
世俗から隔絶された世界で生活をしている修行者たちに“超自然的な力”を認めるようになるのは自然な流れであろう。
実際に数々の霊験譚が伝承されていることからも、本当に超自然的な力を持った比丘もたくさんいたのかもしれない。
名だたる著名な修行系の僧侶や瞑想系の僧侶は、必ずと言っていいほど『お守り』のモチーフになっていることからも“超自然的な力”が認められていることがわかる。
さて、私は出家生活の大半を森林僧院で瞑想修行に励んできたが、確かに森林僧院で出家をしたと言うと、急に態度が変わったり、より丁寧に接遇されたりすることがあり、とにかく森林僧院の比丘は一目置かれるのは確かである。
森林僧院の比丘は、壊色(えじき:袈裟の色として定められた鮮やかさを避けた地味な色のこと)、つまり濃い茶色の衣を纏っていることが多いため、だいたいはそうだと一目でわかる。
衣以外にも、持ち物からもわかる。
托鉢の鉢と屋外で寝泊まりするための“傘”と“蚊帳”を携えていることが多いため、やはりだいたいは一目でわかる。
森林僧院での生活は、他の記事でも紹介している通り、町の寺院の比丘とは異なり、瞑想専修の生活を送る。
また、森林僧院では仏教寺院としての儀式は最低限度に絞られているし、比丘同士の会話、信者や参拝者との会話等も一切ないか必要最低限である。
許されているのは、瞑想指導者との面談時の会話だけ。
森の中で孤独にただひたすら瞑想の実践に励む生活なのだ。
記事には“隠者”という表現が使われているが、私はなるほどなと思った。
そのような生活の毎日であるから、確かに“隠者”と言えば“隠者”だろう。
このようなより厳しい修行を志す比丘のなかでも、『トゥドン』と呼ばれる日本でいうところの“頭蛇行(山林行脚修行)”を行う比丘がおり、特にその比丘のことを『プラ・トゥドン』呼ぶ。
この記事の著者は、森林僧院で出家・修行し、さらに志して頭蛇行に出た比丘の一人なのだろう。
私も後々気がつくことになるのだが、人里離れた森林僧院で瞑想修行を積み重ねている者は、人々から大変真摯な仏教実践者として尊敬を集めるのはちろんなのだが、それとはまた別な角度から、超自然的な力を持つ者、いわゆる呪術的な力を持つ者として特別視される一面がある。
少し意外に思う人がいるかもしれないが、熱心な上座仏教国のひとつとして知られるタイであるが、純粋な仏教信仰、すなわち論理的な仏教教理の理解に基づいた信仰だけがタイ仏教の信仰ではない。
世俗的な願望であったり、人間的な願望などから、比丘を敬ったり、お布施や供養を施すということがある。
意外に感じるどころか、こちらのほうが多数を占めているかもしれない。
しかし、これは、決して否定的にとらえるべきものではなく、こうした素朴な人々の篤い思いのひとつひとつにタイの仏教サンガは支らえているのである。
世俗的なことや呪術的なことはけしからんといった批判があるかもしれないが、“きっかけ”としてそういった心があっても良いのではないかと私は思う。
最初から本質を見極めることができればいうことはないし、遠回りすることなく最短の道で真の仏道を歩むことができれば、これまたいうことはないだろう。
しかし、そうもいかないのが私たち人間ではないか。
まかれた種が芽生えて真実に目覚めていく・・・そういった過程があってもいいのではないかと思う。
ここで述べたことはあくまでもひとつの一般論であって、目の前の人がどのような気持ちで比丘と接しているのかなど、その人の心の内を“透視”するか、その本人に直接確認でもしない限り、到底知ることなどできない。
純粋な仏教への尊崇からなのか、所謂ご利益を期待しての尊崇なのかは、その本人次第であり、人それぞれだろう。
還俗して日本で生活している今でも、出会ったタイ人にこういったお寺で出家をしていたと話すと、妙に驚かれたり、より丁寧に接遇されたりすることがある。
還俗をして在家へと戻ったとしても、やはり森林僧院で修行してきた者は一目置かれるようだ。
それは、もしかしたらこうした気持ちがどこかにあるからかもしれない。
もしも、私に何らかの『力』を期待されているのだとしたら大変申し訳ないのだが、煩悩まみれの私には超自然的な力もなければ、呪術的な力もない。
霊能力もなければ、超能力もない。
数えきれないほどの煩悩にまみれたどうしようもなく愚かな私がいるだけだ。
そんな私にできるのは、『あなたが幸せでありますように』と願うことしかできない。
私の目の前にいる人に対して、精一杯の笑顔でもって接するのみである。
参考文献:
スウェーデン出身でタイで僧侶となったビョルン・ナッティコ・リンデブラッドさんは、巡礼中にタイの人々から「奇妙な質問」を受けることがよくあった。その質問は、すべてが「数に関する質問」だった。一体なぜなのか。
ビョルンさんの著書『私が間違っているかもしれない』(サンマーク出版)より。
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『「敬う気持ち」と「お金ほしい」が入り交じっている…仏教国タイで人々が僧侶に投げかける「奇妙な質問」の真相』
ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド:スウェーデンの講演家、瞑想教師、元僧侶
『プレジデントオンライン』2025/07/18 9:00 掲載 より
URL:
https://president.jp/articles/-/97936
(『なぜタイの人々は森林僧院の僧侶を特別に敬うのか?』)
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