タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)







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2019/11/19

全てはつながっている



私が迷いそうになった時。



どうすればよいのかがわからなくなってしまった時。




そのような時には、師の言葉を思い出し、深く吟味するようにしている。



私の記憶に深く残っている師の言葉のひとつに




「業というのは、“だるま落とし”のような都合にはいかないものなのだよ。」




という言葉ある。



「業(ごう)」とは、わかりやすく言えば、全ての「行為」や「行動」のことで、仏教の根幹をなす教えのひとつである。


そのひとつひとつの行為・行動が及ぼす影響や繋がりは、決して単純で、短絡的なものではない。


今ある現実は、さまざまなことが複雑に絡み合った結果としてある。


すべての物事には“原因”となるものがあり、さらに“条件”が加わって、何かしらの“結果”を生む。


さらにまたその“結果”が即“原因”となり、“縁”が加わり、“きっかけ”となって、次の“結果”を生んでいくのだ。


そのなかのひとつを都合よく抜き取ることはできない。


それが、「“だるま落とし”のような都合にはいかないものなのだよ」という言葉のなかに込められているのだと私は受け取っている。











ものごとは、“因・縁・果”なのだと口では簡単に説明することはできたとしても、その過程や成り立ちは、実に複雑で、到底言葉などでは表現することも説明することも、思いはかることさえもできるものではない。


何か特定のある行為だけを改めたからと言って、特定のある過去が清算されるということはない。


過去が消えることはないのである。


あるとすれば、「これから」を改めていくことだけだ。




「だるま落とし」のように、ある一部分の清算したい箇所だけを“スコーン”と無くしてしまうことを望んでいるのであろうけれども、それほど単純な話ではないし、そもそもそのようなことができるはずなどない。


今、この瞬間の行為・行動もまた未来に影響を与えていくことになる。


また、逆に今に至るまでには、瞬間瞬間でさまざまな条件の影響を受けてきているはずである。



今のこの行為・行動がどのような影響を与え、どのような結果となるのかなど、実は、誰にもわからないことであるし、誰にも「確実な」ことなど言えないものなのである。




私たちが「原因」であると思っていることがらは、あくまでも“おもな”きっかけのひとつであって、目に見えているごく一部分にしか過ぎない。


凡夫にとっては、まさに不可思議の世界であるといっても過言ではない。


だからこそ、日々の行為・行動に注意深くなって、善ききっかけとできるような行動に努めて、これが最善だと思われる行動の選択に努めていかなければならないのだ。




今日という一日がどのようなことへと繋がり、どのような結果を生んでいくのか。


そのようなことは凡夫にはわからない。


しかし、ひとつだけ確実にわかることがある。



今、この瞬間、“最善”を尽くして生きていけば、必ず“最善”の結果へと繫がるということだ。




最善を尽くせば、最善の結果となる。


今日の最善は、明日の最善。



そして、人生そのものの最善である。



私は、そのように信じている。




これは、仏法への確信であり、信頼だ。




師の言葉は、とても深く、とても味わい深く、とても大切な教えである。



そのように今更ながらに師の言葉を日々噛みしめている。




全てはつながっているのだ。



(『全てはつながっている』)










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2019/11/09

全ては縁です



私は、タイで出家し、瞑想修行の生活を3年間送ってきた。



結果的に3年となったのだが、その間には実にさまざまな困難と出会った。



あり得ない事態に陥ったこともあった。



そのような私に対して、お世話になった師は、こう仰った。






「出家をするには、苦労が多いほどいいのですよ。

誰でもお坊さんになることができますけれども、誰でもお坊さんになれるわけではないのですよ。」





誰でもお坊さんになることができるけれども、誰でもお坊さんになれるわけではない・・・それは、一体どういうことなのだろうか?



誰でもなれるけれども、誰でもなれないなんて、全く意味がわからないではないか。












私は、日本で全て話をまとめてからタイへと渡った。



バンコク近郊の街の一角にあるお寺で出家をする予定であった。



ところが、その話が全くの白紙になってしまったのだ。



どうして決まっていた話が突然無くなってしまうのだろうか?



私にもわからない。

何かしらの行き違いなのか、何かしらのトラブルなのか。


想像するしか術はない。


とにかく予定していた私の出家はなくなってしまったのだ。


すでにタイまで来ているにもかかわらず。




ここはタイ。



右も左もわからない。



見知らぬ土地でただ一人放り出されてしまった。



師の言葉は、そんな私の思い通りには行かない状況を嘆いていた時に投げかけられたものだ。


他の日本人は、観光で来た者でさえも簡単に出家している。


どうしてこれ程まで真剣な思いを抱いてタイにまで来た私が出家できないのか。


どうして私に限って、邪魔ばかりが入って、行くところ行くところ、道を阻まれなければならないのか。


どうしてこんなに苦労ばかりで、全ての話が消えていくのか。


私は、そのように師に嘆いたのだ。


今でも、思い出しただけで涙が出てくるほどの出来事である。



このような状況にあって、




「出家をするには、苦労が多いほどいいのですよ。

誰でもお坊さんになることができますけれども、誰でもお坊さんになれるわけではないのですよ。」




などと言われたとしても、どうして受け入れることができようか。


苦労が多いほどいいとは、当時の私にとっては到底受け入れられるものではない。


苦労など、少なければ少ないほどいいに決まっている。


スムーズであればあるほどいいに決まっている。


そうではないだろうか?




しかし、そこはよく吟味しなければならない。


今だからこそ言えることではあるが。



これは、「出家」に限らず、どのような仕事、どのような職業、どのような立場であったとしても、全く同じことが言えるのではないだろうか。


簡単に手にしたものは、簡単に捨て去ることができる。


しかし、苦労をして手にしたものほど、大切にし、丁寧にし、知らず知らずのうちに美しく磨きあげているものである。



今、歩んでいる道もまた同じなのではないだろうか。


自らが望んだ道であり、自らが選んだ道であり、自らが覚悟を決めた道だ。



そうであればあるほど、どのような困難であったとしても、立ち向かっていき、決して負けないはずである。



なぜならば、自らが望み、自らが選びとった道だから。


大変な苦労をしてやっとの思いで歩むことのできた道だから。





仏教的に言えば、自身にそれ相応の“縁”が整っていなければ、どれだけ強く望んだとしても、決して実を結ぶことはないということだ。

結果につながるだけの“縁”が整い、揃っていなければならない。


つまり、自らの器が、自らの環境が、行為なり、行動なりが相応に整っていなければならないのである。



仏道に、あるいは人生に「一足飛び」や順番抜かし」は絶対にあり得ない。


他の日本人は、観光で来た者でさえも簡単に出家している、などという考えは、私の思い上がりもいいところだろう。


私の慢心意外の何者でもない。


には見えないだけで、その人には相応の「縁」というものが整っていたのである。


種を蒔いて、すぐに花が咲くということはない。


種を蒔いて、芽が出て、葉っぱが茂って、蕾が現れて、やっと花が咲くという過程を経る。


その過程を身をもって学ぶことこそがすでに実践であり、すでに道なのではないかと私は思う。


それこそが仏道なのだと。



は、そうしたことを教えようとされたのであろうか。


果たして、どのようなお気持ちで私に対してこの言葉を言ったのだろうか。



それは、私にはわかならい。




しかし、これ程までに深い一言だったのだということに今更ながらに気づかされた


結果的に3年となった私の出家生活。


困難の多かった出家であったが、そこには深き学びがあり、仏教の生き方とは何かということを学ばせていただいた。


仏教の生き方とは、何も出家の中にだけあるものではない。



お寺の中にだけあるものでもない。





今ここに、私とともにあるものである。




(『全ては縁です』)





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