タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2018/01/14

不浄観についての後日談・その壱

≪ご注意≫
この記事は、佛教の修行に関することを紹介させていただいています。
少々過激と思われる事柄や画像の掲載もありますが、タイという風土の中で、比丘の伝統的な修行法のひとつとして認められているということ、また現在でも真摯に実践されているということを紹介させていただいているものです。
佛教を深くご理解のうえでお読みいただくようお願いいたします。
なお、日本において推奨するというものではありません。
これらの点を前提として、自己責任のもとでお読みください。






私がタイから帰国したのちにも、タイとスリランカで出家をして修行をされたご経験を持つある方から、瞑想体験や不浄観の体験のさらに深いお話をおうかがいさせていただく機会を得た。

お話をうかがったそのある方とは、度々拙ブログにおいて書かせていただいている、私がタイへ渡る前に唯一私を応援してくださった方で、親しく教えを授けてくださった師(※1)のことである。


私もその師と同じくタイで出家し、森の中で瞑想に励み、さらに不浄観を修した体験を振り返りながら、改めて聞かせていただく師の瞑想体験のお話は、非常に私の心に響くものであった。

そして、師の言葉を何度も何度も反芻し、何度も何度も吟味した。


私と不浄観との出会い・・・はっきりと3つの出来事を覚えている。

初めて「不浄観」という存在を知ったのは大学時代であった。

人間の死体が腐りゆく様を観ながら瞑想するという修行や、腐りかけた死体や人骨が無造作に横たわっているような墓場で瞑想するといった修行があったらしいことを大学の図書館で知った時。

ふたつ目は、タイのテーラワーダ仏教を特集したある書籍(※2)に、棺に納められた白骨化した人骨を観ながら瞑想するという修行が実践されている森の寺が採り上げられていた記事を読んだ時と、ある森の寺のクティの前に犬の死体を吊り下げて、徐々に腐りゆく様子を眺めながら瞑想を重ねてゆくといった修行が紹介されていた書籍を読んだ時。

そして、もうひとつが不浄観を実際に修したことがあるというその師と出会った時で、師の修行時代のことをあたかもその場にいるかの如く、私へ詳しく語ってくださった時の3つの出来事である


その師は、実際の人間の死体や本物の人骨を目の前にして瞑想に励んだ時のことを・・・すなわち“生の”体験談を私に聞かせてくださったのだ。

非常に衝撃を受けた。

今でも本当にこうした修行が存在し、実際に続けられているということに驚いた。

さらに
、おおよそ通常の感覚では考えられないような修行法を実際に修することができるということにも驚いたのであった。

日本では全く考えられない修行法であり、常識から外れたまさに“狂気”とも言えるような修行法なのだからその驚きは尋常ではない。


嗚呼!

今でもそんな修行法がほんとうにあったのだ!

ただ文献の中でだけしか存在しない、ただ遠い過去の話の中でだけしか存在しない修行法ではなかったのだ!!

これは生きている修行法だったのだ!!



『テーラワーダ仏教の出家作法』110頁より



全てのものは無常であり、誰もが例外なく死を迎えなければならない。

この厳然たる事実を知り、執着を断ち切る。


私も、不浄を観ずる修行を実践すれば、あらゆる執着を断ち切って、悟りというものに近づくことができるかもしれないと思った。

燃え盛る炎の如き性欲も、きれいさっぱりと無くすことができるかもしれないと思った。

そして、もしかすると・・・もしかすると、私のような煩悩の塊のような者であっても、悟りを開いて静寂なる境地へと至ることができるのかもしれない・・・私はそのように感じたのであった。


大学の図書館の奥深くにひっそりとあった仏教書の中で初めて知ったこの修行法。

それは、日本では決して表に出ることのない修行法であり、まさに狂気とも言える修行法だろう。

しかし、仏教の歴史の中において極めて古い時代から修されてきた伝統的な修行法であり、かつ死体の様子を観察しながら執着を断つという極めて直接的な方法論の修行法に、私は淡い期待感を抱いたのであった。


師は、タイで出家をして修行を積んだ後、さらにスリランカへと渡って修行を続けたのだと私に話してくださった。

そして、スリランカの地で不浄観を修する機会を得たのだという。


それは、ある病院の解剖現場であったそうだ。

その際に師は、男性よりも若い女性が解剖される様を見学したいと、敢えて希望したそうである。

すると・・・病院の方から「いいですよ。」と、許可が出されたという。


そこから師が不浄観を修していった過程が極めて深く、私は思わず言葉を失った。

ここまで実践してこそ「不浄観を修した」と言えるのではないか。


・・・師は、私にとても穏やかな口調で、静かにその時のことを語ってくださった。



(つづく)



次の記事:
『不浄観についての後日談・その弐』



※1
私がタイへ渡る前にも、師からは不浄観についてのお話を聴かせていただいている。

その時のことは、過去の記事『出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~』などにおいて少し触れているので、ご興味のある方はそちらもご参照いただきたいと思う。

※2
ⅰ、「テーラワーダ仏教を特集したある書籍云々」とは、『ブッダ大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』(ブッダ 大いなる旅路〈2〉篤き信仰の風景 南伝仏教 (NHKスペシャル)
)で20頁~22頁にその記載がある。

ⅱ、「犬の死体をクティの前に吊り下げて云々」の記事が紹介されていた書籍とは、具体的にどの書籍であったかということを残念ながら失念してしまったために詳細は覚えていないが、人間の死体に代わるものとして犬の死体が腐りゆく様を観察するといった内容が記載されていたと記憶している。

※3
不浄観は厳密には細かく規定されている。ここでは、死体を直接注視して観察すること全般をわかりやすく「不浄観」と表現している。なお、「観察できる死体を得るのが難しい場合は、自己の身体を頭髪や体毛など32の部分に分けて観察させる方法が示されている」とある(『テーラワーダ仏教の出家作法』100頁より引用)。



※参考文献

〇『ブッダ大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』 1998年 日本放送出版協会


〇『テーラワーダ仏教の出家作法 タイサンガの受具足戒・比丘マニュアル』 2014年 中山書房仏書林

100頁~111頁に不浄観に関して詳しく解説されている。



(『不浄観についての後日談・その壱』)





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