タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2015/09/20

ヴィパッサナーの瞑想で得られる効果


仏教における瞑想の目的は、いうまでもなく「悟り」である。

瞑想で得られる“効果”とは、瞑想に励む過程において得られる、あくまでも“副産物”だ。

しかし、悟りを目的とはしなくとも、まずはその“効果”を目指してみてもよいだろう。

それでも十分に意義深いものだと私は思う。


“瞑想で得られる「効果」”などという表現をすると、いささか誤解を生む表現となってしまうのかもしれない。

だが、仏教の大きな流れの上から見れば、確実な進歩であり、すでに悟りへと続く道を歩むものであると私は思っている。

ここでは、特に生活の中で感じられる部分に焦点を当てて、その効果を挙げてみたいと思う。


主にどのような効果を得られることが期待できるのであろうか。



・精神がより安定するようになる。

・より集中力が高まるようになる。

・怒りがよりおさまりやすくなる。

・不安にかられることがより少なくなる。

・より心穏やかに過ごすことができるようになる。

・何事もより冷静に考え、対処することができるようになる。



他にもたくさんあるかと思うが、日常生活において比較的容易に感じ取りやすい事象となれば、まずは上記を挙げることができるだろう。

私が実際に聞いたことのある体験談では、瞑想実践をするようになったら、「仕事がはかどるようになった」「頭痛が無くなった」「よく眠れるようになった」などといった声もある。

ヴィパッサナーに限らず、他のどの瞑想法を実践したとしても、例えば心が落ち着くなど、一定の効果は得られることだろう。

しかし、自己の心身の状態に気づき、ものごとの変化の過程を客観的に観察し、ありのままの現状を確認していくことで得られる「安らぎ」は、ヴィパッサナー瞑想によるものであり、その特長とも言えるだろう。

そして、この「安らぎ」こそ仏教が目指すところなのである。

それらの詳細な分析やプロセスなどについては、他に専門的な書籍が多く出版されているので、ここでは軽く触れておく程度に留めておきたい。



日常生活の中では、こうした効果に注目してみることも重要だろう。

前述の「仕事がはかどるようになった」などという“効果”は、実に素晴らしい効果ではあるまいか。

少なくとも悪しき方向へと向かうものではないし、むしろ仏法へと向かう機縁ともなることだろう。

以前にも記事としていることでもあるが、私が変化をなかなか感じることができなかったのは、他でもない「見ようとしなかった」からだ。



関連記事:

『気づこうとするということ』



最近、私が実際に感じているのは「怒りがおさまりやすくなる。」「より穏やかに過ごすことができる。」ということである。

ほんの少し瞑想に慣れた方であれば、比較的容易に感じとれる部分であるかと思う。

すなわち、「気づき」というものの“感覚”をなんとなくつかむことができればわかってくることなのではないかと思う。

そうは言っても、私も、怒ることはあるし、穏やかではない時ももちろんある。

怒りの心が瞬時に消え去ることが望ましいし、瞬時に穏やかなる心となることができればそれほど望ましいことはないが、それはなかなか容易ではない。

しかし、「気づく」ことでより巻き込まれにくくなるし、その度合いがより小さくなるということは確実に言えることだと思う。


ぜひ、何も意識しなかった時の自分と比較してみることをおすすめしたい。

そうすれば、ちょっとした変化が感じられることだろう。

ほんの小さな、ほんの少しの変化ではあるが、そうした部分に注目していただきたいと思うのである。

小さな進歩を観るようにしてほしい。


ついつい、飛躍的な変化ばかりを思い浮かべがちではあるが、そうした大きな変化ばかりを求めていては、ほんの小さな前進など前進ではなくなってしまうことだろう。

その小さな前進が集まって、重なって、大きな前進となるのだということを忘れてはならないということは、以前の記事でも紹介させていただいたことである。

是非とも、職場やご家庭などの実生活の場で体感してみて欲しいと思う。


瞑想の目的はあくまでも悟りである。

瞑想の目的からすれば、単なる副産物で、“効果”ばかりを求めることは、道を誤ることにもなりかねないのかもしれない。

しかし、誤解を恐れずに言うと、実生活の上では、実に大切なことばかりであり、まずはそうした実利(語弊がある表現ではあるが)を求めても間違いではないと思う。

なぜならば、それらの“効果”は、心を成長させることにほかならないからである。

怒りがおさまらず、冷静さを欠いた状態で悟りに向かうことなど到底あり得ないからである。

まずは、穏やかな心を育て、冷静に対処できる自己を育てることが必要だろう。



はるかなる道のりではあるが、こうした“瞑想の効果”を少しづつ大切に育てていけば、やがては悟りへと到達することだろう。

私は、こうした仏教的な考え方や価値観を知るだけであったとしても、十分に先に挙げたこれらの効果を期待できるのではないかと感じている。


今生において悟りまで到達できなくとも、この作業で一生を終えてもよいではないか。

少なくとも、怒り狂ったままに一生を送るよりは、少しでも冷静で穏やかなる一生を送った方がはるかに有意義なのではないだろうか。

私はそのように思う。


ほんの小さな効果や前進を味わい、喜ぶ。

理想の状態ばかりを求めていた私の反省だ。



(『ヴィパッサナーの瞑想で得られる効果』)



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