タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2014/02/16

タイの結婚式

森の寺では、瞑想や修行に専念するため、結婚式や葬儀などは受けていないことが多い。
一方で、町の寺では、結婚式や葬儀などが行われる。

森の寺と町の寺・・・その役割はしっかりと分担されている。

どちらがよい、どちらが悪いというわけではない。
どちらも重要だ。


さて、私がある下町の寺に止住していた時のこと。
(関連記事:『ある下町の寺にて』

いつものように朝の托鉢を終え、食事のあとかたずけをしていると、

「今日のお昼はごちそうだよ。」
「おいしいものがたくさん食べれるぞ!」

と、先輩比丘が私に言った。

「今日は、結婚式があるんだ。」

と先輩比丘。

世間の娯楽とは縁遠い出家生活の中で、唯一の楽しみとも言えるのが、在家信者からお布施されるこうした“特別な日”の“特別な食べ物”だ。

この先輩比丘、田舎から町へ出て、仏教大学で学ぶためにこの寺へ下宿をしている若き学生比丘だ。

非常に純朴で、正直、まっすぐな性格の彼。
そして、どこか田舎の雰囲気を残している彼。
とても気さくで人なつっこい性格をしており、いつも私に世話をやき、気遣ってくれる彼。

そんな穏やかな性格の彼だが、毎日人知れず、自室で夜遅くまで勉強をしている。
実は、人一倍努力家な一面もある。
時々、家族に手紙も書いているのだという。

楽しみなのも当然だろう。

朝から、私に話しかけてくる言葉のひとつひとつが浮き立っている。
よほど今日のごちそうが楽しみな様子だ。


そうこうしているうちに、境内が少しずつ賑やかになってくる。
慌ただしく人が動く。

親戚の人だろうか、招待された人達であろうか。
明らかに普段着ではない清楚な服装で、さまざまな料理を運び、準備をしている姿が見える。

おそらく、今日の結婚式でお布施をするための料理なのであろう。


比丘は、午前中にしか食事ができないため、通常、お布施は午前中に行われる。

こうしたタイの多くの仏教行事は、「お布施」をすることが中心である。
なかでも食べ物をお布施することが多いため、その多くは午前中に行われる。

「おい、始まるから行くぞ!」

先輩比丘から声がかかった。

本堂の中では、住職以下、出家年齢順に座る。
一番端っこに座った日本人の私。
その隣は、先輩比丘。

若き新郎と新婦は、その服装から彼らだとすぐにわかった。

新郎と新婦に対して、白い服を着た在家の司婚者によって結婚の儀式が執り行われる。

儀式が終わると、新郎と新婦が比丘にお布施をする。

朝、運んでいるのを見たあの料理だ。

お布施が終わると、比丘達から祝福のお経が読まれ、終了となる。


すべての喜びがもたらされ、
すべての神々に護られ、
すべての仏の威力、すべての法の威力、すべての僧伽の威力によって
つねに大いなる安らぎの中に在りますように
(参考文献:『誦唱経本 WatPhrabhudabat-tamoa』2005年)


全てが終了した後、住職が一言。
「一番端っこの彼は日本人だよ。JAPANだ!」
と、冗談っぽく笑いながら新郎と新婦に言葉をかけた。

それを聞いた新郎と新婦は、ちょっとびっくりしたような表情をしたあと、ニコリとほほ笑んで私のほうを見たのを覚えている。

新婚のあの2人は私を見てどう思ったのだろうか。

あたたかな家庭を築いていることを願っている。
そして、家族とともに大いなる安らぎの中で生活していることを願っている。


比丘は、直接結婚式には関わらない。
関わってはいけないのだ。

結婚式を執り行っているのは、在家者である。
つまり、司婚者は比丘ではない。

比丘達は、ただ座って一連の所作を見ているだけだ。

戒律には、

『何れの比丘といえども、女に男の想いを、あるいは男に女の想いを告げて、男女の仲立ち行うならば、夫婦関係であれ、愛人関係であれ、それがたとえ一時の男女関係であっても、それらはなしてはならない。』
(参考文献:『パーティモッカ 二二七戒経』2011年 より引用・一部編集) 

とあり、男女交際を含む人の結婚の仲介をしてはならないとされている。
つまり、司婚者となることは、仲介をしているとみなされるのだ。

「新郎新婦以下、親類縁者は比丘に対してお布施をする。
比丘はそれを受け取る。」

比丘が関係する儀式の流れを簡略に示すとこうだ。

どんなに世間が変わろうとも、決して時代や風潮に迎合してはならないものがある。
そうした形はしっかりと守られる。


比丘が結婚式に関わるのではなく、僧伽(サンガ)に対してお布施をする。
そして、お布施をした者は、比丘から祝福を受ける。

一日は、朝、托鉢に歩く比丘へお布施をすることから始まる。
新郎と新婦の生活もまた、比丘へお布施をすることから始まる。

善行を積むことからはじまり、徳を重ねることからはじまる。

タイの人々は、常にそうした徳を積む行いを心がけている。


善行とは“善ききっかけ”と解釈してもいいのかもしれない。
悪しききっかけには近づかない。
善ききっかけを重ね、人生を善き方向へと導くことが大切だと思う。

善ききっかけは、善き結果を生む。
善き結果はまた、善ききっかけとなり、さらに善き結果へとつながってゆく。


僧伽(サンガ)は福田である。


【福田(ふくでん)】
佛や僧に供養をすれば、福徳を生ずることを田地が穀物を生ずることをたとえていう。
または、三宝(佛・法・僧)を指す。

(宇井伯壽『佛教辞典』より・一部編集)



(『タイの結婚式』)

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