瞑想を日々継続していくということも、またなかなか難しい。
自身の行為・行動を知るとは、一体どういうことなのだろうか。
「食べている」のであれば「食べていると知る」、「見ている」のであれば「見ていると知る」などとはよく耳にするが、一体どういうことなのだろう。
もちろん、どんな人であっても自分の行為・行動に対して、それなりには知っているのかもしれない。
しかし、そのような、なんとなく「知っている」というようなことを意味して言っているのではなく、しっかりと意識するということが大切なのだろう。
私は、五戒を守ろうとすることで、自分の行動を意識して、自分の姿を知ることができるということを実感している。
最も身近に自身の行為・行動を知ることのできる方法なのではないだろうか。
五戒とは、ご存知の通り、
1、命を奪うことから離れること(不殺生)
2、与えられていない物を盗ることから離れること(不偸盗)
3、愛欲による間違った行いから離れること(不邪淫)
4、嘘をつくことから離れること(不妄語)
5、酒類を飲むことから離れること(不飲酒)
である。
実際にやってみるとわかることであるが、守ることはそう容易なことではない。
最も基本的な戒ではあるけれども、最も難しく厳しい戒でもある。
完璧に守るにこしたことはないが、誤解を恐れずに書くと、たとえ守りきれなくとも構わないと私は思う。
「守ろうとする姿勢を持つ」こと、そして「五戒を意識する」ことだけでもいいと思う。
仏教徒ならば、ここは「守るべきだ」と言わなければならないのだろうが、ここではあえてこのように表現するにとどめておきたい。
なぜならば、恥ずかしながら、この私も守りきることができていないからだ。
自分にできないことを他人にすすめることなどできないからだ。
守りきることはできないけれども、「守ろうとする姿勢を持つ」ことと、「五戒を意識する」ことで、私は、自身の生活に変化をもたらし、心の成長(穏やかな心)につながっていると実感している。
それは、ごくごく小さなことだけれども。
だからこそ、ここにこうして記している。
私は、一度、仏教など生活上の問題になんら解決を与えない意味のないものとして、捨て去ろうとしていたということは、以前に記事で書いている通りである。
よって、長らく五戒など意識することすらなく、日々の生活を送って来た。
しかし、今、ようやくその意味と、その大切さに気がつくことができた・・・と、私はそのように感じている。
私がタイ語を学んだチェンマイ市内の寺院
タイには、『ワン・プラ』と呼ばれる日があり、 この日はお寺へと足を運んでお布施をしたり、 比丘へお布施したりする。 また、この日は、 特に厳しく戒律が守られる日でもある。 全てのタイ人が意識しているというわけではないが、 やはりタイ人にとって五戒は身近な存在だ。
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それでは、五戒を意識することと、自己を知ることとは、どのように関係しているのだろうか。
まずは、一度、守ってみようと努めていただきたい。
そうすれば、すぐに“自分の姿”が見えてくるのではないだろうかと思う。
今、虫を殺そうとしているな・・・。
これは、私に与えられているものなのだろうか・・・。
これは、間違った関係なのではないだろうか・・・。
嘘をつこうとしているな・・・。
嘘をついてしまったな・・・。
酒を飲もうとしているな・・・。
といった具合に、一つ一つの行動に注意深くならざるを得なくなる。
すると、今、自分は何をしているのか、今、自分は何をしようとしているのか、ということが少しずつ見えてくるのではないかと思う。
このように、日常生活の中において頻繁にあることがらや、常日頃、なにげなく行っている自分の行為に対して“意識的”になるように心がけていくのである。
すなわち、五戒を通して自分の行為に注意深くなり、観察していくことにつながっていくのである。
ただ五戒を意識するだけであっても、自分の行為・行動が見えてくるようになり、観察と、気づきにつながってくるものであると私は実感している。
タイでの出家生活では、出家生活の全てが「瞑想」につながるものであり、全てが心の成長につながっているのだという話を師からよく聞かされた。
五戒も同様で、自己の観察、サティ、そして瞑想につながるものなのだと教えていただいたことがある。
また、五戒は、自分に忍び寄ってくる危険なものから身を守ってくれる「鎧」のようなものなのだとも教えていただいた(関連記事:『煩悩の国の歩き方』)こともある・・・この時のことを懐かしく思い出す。
日常生活の中で、サティを保っていくことはなかなか困難である。
しかし、「無理」だからといって捨て去ってしまうのは、あまりに愚かで、もったいないことだと思う。
最も簡単に取り組める、最も身近に取り入れられる、いつでも・どこでも・誰にでも可能な小さな実践・・・それが、五戒なのではないだろうか。
「五戒」を単なる禁止事項としてとらえるのではなく、自身の生活習慣を整えて、自己を整えるものとしてとらえてみてはいかがだろう。
また、穏やかなる未来へとつながるものとしてとらえてみてはいかがだろう。
あるいは、サティの力を育てていくものとしてとらえてみてはどうだろうか。
何事に対しても、「意識的」に日々を過ごすことができれば、ひとつひとつの行為・行動とは、私自身の「選択」なのだということに気がつく。
そして、こういう行動を「選択する」のだと意識していくことで、善い方向へと向かえばそれでいいし、仮にうまくいかなかったとしても、次回から注意することができるし、同じような選択の場面に遭遇した場合に活かしていくこともできるのではないだろうか。
人生とは、まさに選択の連続に他ならない。
そのことが理解できるだけでも大きな進歩だと思うのだ。
五戒は、とても小さくて、とても身近なことから自分の姿を教えてくれるものである。
それは、私の悪しき癖や、悪しき生活習慣を正し、瞬間瞬間への気づきを与えてくれるものであるといえるのではないだろうか。
これは、とても意義深いことなのではないかと思うのだ。
(『五戒を通して自己を知る』)
◎【タイ佛教修学記公式メールマガジン】
といった具合に、一つ一つの行動に注意深くならざるを得なくなる。
すると、今、自分は何をしているのか、今、自分は何をしようとしているのか、ということが少しずつ見えてくるのではないかと思う。
このように、日常生活の中において頻繁にあることがらや、常日頃、なにげなく行っている自分の行為に対して“意識的”になるように心がけていくのである。
すなわち、五戒を通して自分の行為に注意深くなり、観察していくことにつながっていくのである。
ただ五戒を意識するだけであっても、自分の行為・行動が見えてくるようになり、観察と、気づきにつながってくるものであると私は実感している。
タイでの出家生活では、出家生活の全てが「瞑想」につながるものであり、全てが心の成長につながっているのだという話を師からよく聞かされた。
五戒も同様で、自己の観察、サティ、そして瞑想につながるものなのだと教えていただいたことがある。
また、五戒は、自分に忍び寄ってくる危険なものから身を守ってくれる「鎧」のようなものなのだとも教えていただいた(関連記事:『煩悩の国の歩き方』)こともある・・・この時のことを懐かしく思い出す。
日常生活の中で、サティを保っていくことはなかなか困難である。
しかし、「無理」だからといって捨て去ってしまうのは、あまりに愚かで、もったいないことだと思う。
最も簡単に取り組める、最も身近に取り入れられる、いつでも・どこでも・誰にでも可能な小さな実践・・・それが、五戒なのではないだろうか。
「五戒」を単なる禁止事項としてとらえるのではなく、自身の生活習慣を整えて、自己を整えるものとしてとらえてみてはいかがだろう。
また、穏やかなる未来へとつながるものとしてとらえてみてはいかがだろう。
あるいは、サティの力を育てていくものとしてとらえてみてはどうだろうか。
何事に対しても、「意識的」に日々を過ごすことができれば、ひとつひとつの行為・行動とは、私自身の「選択」なのだということに気がつく。
そして、こういう行動を「選択する」のだと意識していくことで、善い方向へと向かえばそれでいいし、仮にうまくいかなかったとしても、次回から注意することができるし、同じような選択の場面に遭遇した場合に活かしていくこともできるのではないだろうか。
人生とは、まさに選択の連続に他ならない。
そのことが理解できるだけでも大きな進歩だと思うのだ。
五戒は、とても小さくて、とても身近なことから自分の姿を教えてくれるものである。
それは、私の悪しき癖や、悪しき生活習慣を正し、瞬間瞬間への気づきを与えてくれるものであるといえるのではないだろうか。
これは、とても意義深いことなのではないかと思うのだ。
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