タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

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2016/09/05

タイのある高僧の死に思う(再掲載)

サイトの移転により、リンクできない状況となっておりましたが、再度、新たにリンクの許可をいただくことができましたので、記事を再掲載いたします。

今回、リンクをお願いさせていただきましたルアンポーの死と葬儀について紹介している浦崎雅代様のブログ記事にあります通り、ルアンポーの晩年から死に至るまでの過程、そして葬儀には、仏教が教える大切な姿勢が伝えられており、さらに私はどのようにして生きるべきなのかということを誰にでもわかる、非常にダイレクトな形で伝えている姿がある・・・私は、そのように感じました。

浦崎雅代様のブログ記事には、葬儀前後の様子の一端が紹介されており、その情景がひしひしと伝わってきます。
大変大きな学びとなるものですので、併せてご一読いただけましたら、より理解しやすいかと思います。


記事内にあるリンク先のYouTubeは、ルアンポーの葬儀風景がタイ国内で放送された時のものです。

対談形式の場面が多くなっていますが、タイ語のため、やや不自由に感じる部分があることかと思います。

しかし、タイの人々の姿や表情、タイのお寺の風景などから感じ取っていただけるものがあるのではないかと思いますし、タイの仏教の風景やタイの人々の姿をほんの少し垣間見ていただくことができるかと思います。

何かを感じ取っていただくことができれば幸いです。


※2014年12月1日掲載の『タイのある高僧の死に思う』に一部編集、加筆・修正を加え、リンク先を貼り換えて再掲載したものです。

リンクの許可と記事の引用を許可してくださいました浦崎雅代様に深く感謝申し上げます。



==タイのある高僧の死に思う(再掲載)==


『 みなさん ルアンポーは 死んでいきます 』

これは、タイのある高僧が息を引き取る数分前に書き残した最期の筆跡であるという。

そのタイのある高僧とは、ルアンポー・カムキエン師のことである。
かのプラユキ師(本名:坂本秀幸師/プラ・ヒデユキ・ナラテボー師)の直接の師匠にあたる方で、タイにおいて広く尊敬され、慕われている高僧だ。

関連記事⇒『ワット・パー・スカトーの瞑想法』

私は、ルアンポー・カムキエン師の死をインターネット上のあるブログを通じて知ったのであった。

冒頭の言葉とルアンポーの葬儀の様子を紹介したそのブログは、非常に私の印象に残った。
特に冒頭の言葉は、私の心に大変響くものであった。

今回は、そのブログの著者の方より許可を得て、記事からの引用を交えて書かせていただいた。

写真等の掲載もあり、タイの人々の様子がとてもよく伝わってくる記事である。
より身近に、そしてより具体的にご理解いただけるかと思うので、是非とも参照・引用元のブログも併せてご覧いただきたいと思う。

参照・引用: 浦崎雅代様 『タイの空(Faa)に見守られて』・「ルアンポー最後の瞬間~自ら死に水を取る~」


(以下、引用)

「ルアンポーは、朝5時に息を引き取られた。

その前、自ら起きて、トイレに行かれ用をたしたあと顔と手をしっかりと洗って寝床に戻られた。
その後、紙とペンをお弟子さんに促して、受け取り、

『 みなさん ルアンポーは 死んでいきます 』

と書き、目を閉じ、その数分後、静かに息を引き取られた。

~(略)~

<以下は、ルアンポーの弟子がテレビのインタビューに対して話したもの。>

ルアンポーは、すでに死に逝く心の準備はかなり前から整っていました。
なので、実際に亡くなる前にルアンポーがされたことは、身体の準備でした。

トイレに行き、大便をして、顔と手を洗う。
しっかりと身体を清めて、身体を休められる。

普通だったら、死の間際を、どのような心で静かに逝くかを考えるだろうと思うのですが、ルアンポーはもう心は整っていたので、その時が来たのを知ったルアンポーが逆に整えたのは、身体だったのです。」

(引用おわり)


遺言により火葬する炉の扉は開かれ、ルアンポーの遺体が焼かれていく様子も見ることができるようにされたという。

いかにも森の寺の瞑想指導者らしい姿であると私は感じた。

おそらくは、自らも修してきたであろう不浄観。

できうる限りの人々にありのままの姿を伝えようとしたに違いない。



※註1
(浦崎雅代様 『タイの空(Faa)に見守られて』・「ルアンポー最後の瞬間~自ら死に水を取る~」より引用させていただきました。)

※註2
ルアンポー・・・ルアンポーとは、高僧に対する敬称。


関連記事:

『死を直視する ~不浄観~』

『死体の写真と煩悩』



死を目前にして、普通の人間であれば一体どうなってしまうのだろうかと、恐怖に怯えるか、死にたくないと悶え苦しむか・・・であろう。

これほどまでにあっさりと、自然に死を迎える。

「それでは、行ってくるわな!」

と、ちょっとそこまで出かけてくるかのように、なんの変哲もない日常の一場面のようだ。

こうした最期は、常にサティ、つまり客観的な「気づき」がなされているからこそであろう。

また、何事にも動じない冷静な自己が確立されていた証でもあるのではないだろうか。


誰もが必ず経験すること。

誰もが経験したことのないこと。

しかし、唯一「確実」に訪れること。


それが「死」だ。


死というものも“本来”ならば、私の生活の一部、私の人生の一部のはずだ。






日本人の死亡場所の80%以上が病院(ないしは施設)という統計が出されているという。

昭和40年代までは、自宅で最期を迎える人が大部分を占めていたそうであるが、昭和45年~昭和50年頃には病院で最期を迎える人のほうが多くなったということだ。

以降、その割合は増え続け、平成21年には日本人の80%以上の人が病院で最期を迎えているのだそうだ。

つまり、現代では、大半の日本人が病院で最期を迎えることになるということがこの統計から読み取れる。

病院で産まれて、病院で死ぬ。

これが現代日本の生活様式のようだ。

「畳の上で死ぬ」ということは、もはや過去の話となってしまった。

家族や親しい人達とともに最期を迎えるということも、非常に困難であるというのが現状なのかもしれない。


振り返ってみれば、死の瞬間に立ち会うということはまずない。

立ち会った経験のある人もごくごく少数なのではないだろうか。


もはや、生活空間の中に「死」というものはなくなってしまったと言っても過言ではない。

死をリアルにイメージしにくいのも自然なことなのかもしれない。


“死”というものが、“生”というものとどこか引き離されてしまったような感すらある。

あなたは、どのようにお感じだろうか。


私の生まれ育った田舎のある古老からは、タイのこの高僧の最期に近い話も聞いたことがある。


「だれだれさんの死にざまは実にすばらしかった。」

「徳がある人の死に方はやっぱり違う。」


自分の死期を知り、じっと座して旅立ったという話も聞いたことがある。

そんな話のひとつやふたつをおじいさんやおばあさん達から聞いたことはないだろうか。

私の生まれ育った田舎にもそうした穏やかな「死」というものが実際にあったわけだ。


そう、日本にも、ほんの少し前にはこうした死が実際に、しかも身近にあったのである。

ところが、気づけばそのような死は遠い昔話になってしまった。


死は自然なことである。

日常であり、人生の一部である。

私自身のこととして捉えなければならない。

ところが、捉えることができない。

だから苦しむのだ・・・。


この(引用元の)ブログ記事を読んだ瞬間、


「嗚呼!!

これこそが仏教の生き方だ!!」


と私は思った。


様々な書物からは、過去の日本にもそうした最期が実際にあったらしいことはうっすらと認識していた。

・・・語り伝えられてきた話として。


近所の古老の話から穏やかな死に方もあるのだとぼんやりと理解していた。

・・・単なる昔話として。


どれもこれも自分とは全く異次元の話として聞いていたに過ぎなかった。


そして、今。

そうした人生を実際に生きた素晴らしい人がいるということを知った。


覚悟できているつもりであっても、全くできていない。

死ぬその瞬間・・・自己の“本性”が忽然と現れてくるのだと私は思っている。

今までの生き方が露わになる瞬間が「死」なのではないかと。

私は一体どうなのだろうか・・・。


今の日本では、生活様式の変化もあってか、穏やかに死ぬこともなかなか難しいのかもしれない。

生活の中から仏教的な価値観が忘却されてしまっていることも追い打ちをかけているのかもしれない。

しかし、そうした現代の生活様式が悪いというわけではない。

死に場所が病院であろうと、家であろうと、どこであろうと、大切なのは自己の心や体の動きを知り、気づき、常に冷静で穏やかな自己であることができるように努めることである。

そうすれば、より善き最期を、そしてより善き人生とすることができるのではないだろうか。


ルアンポーの死を知らせてくれたこの記事は、私に様々なことを語りかけてくれたように思う。


私もこうした死にざま、そして生きざまでありたい・・・そう強く感じた。



※参照・引用: 浦崎雅代様 『タイの空(Faa)に見守られて』・「ルアンポー最後の瞬間~自ら死に水を取る~」

リンクの許可と記事の引用を許可してくださいましたことに深く感謝申し上げます。

※2014年12月1日掲載の『タイのある高僧の死に思う』に一部編集、加筆・修正を加え、リンク先を貼り換えて再掲載したものです。



(『タイのある高僧の死に思う(再掲載)』)





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