タイでは、お経というのは「暗記」をするもので、経本は見ないというのが基本である。
それゆえに、タイの比丘たちは、どんなに長いお経であったとしても、経本を見ながらお経を唱えることはしない。
ちなみに、タイで「頭がいい」というのは、「記憶力が優れている」ことを指して言うのだそうだ。
仏教経典は、古い時代には、一言一句違わずに暗唱することでもって伝持されてきたという歴史がある。
それを踏まえて考えてみると、「頭がいい」=「記憶力が優れている」というのも、あながち間違ってはいないと思う。
さて、私は、時々、タイで過ごした日々のことや瞑想修行に励んだ日々のことを思い出しながら、タイのお経の本を1頁、また1頁とめくりながら、ぼんやりと眺めてみることがある。
時には、小声でタイのお経を唱えることもある。
それゆえに、タイの比丘たちは、どんなに長いお経であったとしても、経本を見ながらお経を唱えることはしない。
必死になって覚えたお経、自然に頭の中へと入ってきたお経、結局は覚えられなかったお経など、さまざまなことが蘇ってくる。
![]() |
『モンピティ―』 |
タイの比丘や沙弥たちは、出家をしたその瞬間から一人前の“お坊さん”としての立ち居振る舞いをしなければならない。
当然のことながら、みな“一人前”として見なされるため、きちんとした所作を求められるのだ。
儀式の際も同様で、そこに新米もベテランもない。
私は、出家中、『モンピティー』という、毎日の勤行をはじめ、仏教儀式で使うあらゆるお経が収録されている経本を持ち歩いていた。
『モンピティー』とは、日本風に言えば、「日常勤行集」や「仏教儀式集」のような本である。
これは、非常に優れもので、この一冊があればタイのどこのお寺へ行っても、どんな儀式であっても対応可能だ。
しかし、僧院内での朝夕の勤行については、パーリ語とそのタイ語訳とを交互に読んでいく形式を採用しているお寺がある。
その形式のものは、この本には収録されていない。
その形式のものは、この本には収録されていない。
そのため、もう一冊、別の「日常勤行集」を携帯していた。
ちなみに、勤行の形式は、お寺や地域によって若干の違いがあり、読むお経も各寺院によって差異がある。
例えば、私が長く滞在していたチェンマイ地方などでは、独特の形式を採用しているお寺も多い。
多く場合は、各寺院ごとに勤行集が発行されているので、それに従えばおおむね間違いはない。
私がタイに渡ってまだ間もない頃。
タイのお寺も、日本のお寺と同様に、毎日朝夕の勤行がある。
調子よく読まれるお経についていけない。
僧院内で親しくなったタイ人比丘にお願いをして、一文字・一文字、一音・一音、実際に発音してもらい、できる限り忠実にカタカナに落として、タイ語の経本へと書き写していった。
経本を見てもいいのは、僧院内での朝夕の勤行くらいであり、お布施の儀式や信者さんの家で行う儀式などでは経本を見てはいけない。
そもそも、お経とは覚えるものであるのだから、儀式の際に経本を見ながら唱えていたのでは、かなり恥ずかしい思いをすることになる。
私は、タイでは外国人なので経本を見ていたとしても、おそらく許されるであろう。
ここはタイだ。
ところが、全く頭に入ってこないのだ。
その一方で、その沙弥はスラスラと覚えていく。
その一方で、その沙弥はスラスラと覚えていく。
とても懐かしい。
(『タイのお経の本』)
☆メルマガのご案内
毎月24日に配信しています。
ブログとあわせてご覧いただければ幸いです。
過去の記事を再掲載しながら、ブログでは紹介していない話題をはじめ、さらに踏み込んだ話題やプライベートな話題、その他さまざまな情報などをあわせてご紹介しています。
仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。
☆Facebook
情報交換や情報共有等、様々な方面で活用していきたいと考えています。
友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。
Facebook : Ito Masakazu
0 件のコメント:
コメントを投稿