タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/06/09

瞑想中の心身現象 ~瞑想への姿勢~


経典の中には、常識的にはあり得ないような現象がいくつも記述されている。


私は、このような現象など全くあり得るはずがないと思っていた。


創作した話、想像の話や空想上の話などが経典の中へと盛り込まれただけなのではないかと思っていた。



しかし、タイでの出家生活の中で、深く瞑想を実践してみて、そうした見方は変ってきた。


仏教の経典は、基本的には、全てが体験に基づいて記されたものだと考えるようになった。


そして、全てが確認された事柄が記されているものだと考えるようになった。


わば、「悟り」に至るまでの“地図”や“ガイドブック”のようなものであろうか。


もちろん、なかには創作や想像なども含まれているのかもしれないが、少なくとも全てがでっちあげのものではないと思っている。



仏教の経典は、仏教の戒律生活を通した空間、つまり出家生活を通してでないと読めない部分もたくさんある・・・そのようなことも感じるようになった。


あるいは、瞑想実践を通してでないと読めない部分が確実にあるのではないかと。


いずれにせよ、戒律も実践もない大学の図書館で読んでいただけでは全く理解が及ばなかったことだ。










瞑想を実践していく過程では、実に様々な心身現象に出会うことがある。


もちろん、出会わないこともある。


しかし、出会わないことをも含めて、その現象への意味付けは行ってはならず、特に深い意味を追い求めるべきではない。


また、その心身現象が何を意味するのかということについても、瞑想を修するうえでは、特に問題にすることではない。


もし、どうしても気になるというのであれば、すぐに瞑想指導者のもとへ報告し、相談をしたうえで、指示や指導を仰ぐべきである。



脳波が云々、脳における何々の分泌が云々・・・などといった科学的な分析もあることだろうと思う。


しかし、そのような分析は、ひとまず瞑想を修するうえでは、これもまた問題にすることではない。



例えば、光が見えたのであれば、単に「光を見た」という「事実」の認識にとどめる。


自身が体験したこと自体は、紛れもない事実ではあるが、それ以上の意味を求めてはいけない。


なぜならば、自身が出会った「事実」(体験や経験)に対して、“私”の価値観やなんらかの価値観(あるいは意味)を加えてしまうことによって、偏った見方となり、悩みや苦しみを生み、増大させてしまうからである。



瞑想にどのようなことを求めるのかは人によってそれぞれ異なるだろう。


しかし、自己の心の状態をも含めて、世間のありのままの姿を観ていくことのできる姿勢を養い、「苦」というものの本当の姿を知ることによって、苦しみを越えていこうとするのが仏教であり、仏教における瞑想のありかたである。


瞑想の中で出会う様々な事象に対して、自分勝手な判断や勝手な解釈は禁物だ。


解釈を“勝手に”加えてしまうことは、非常に危険なことであるということをまずは理解しておく必要があるだろう。



・・・とは言え、ついつい、何かしらの成果や変化を求めてしまいがちなのが私達凡夫の姿だ。


だが、どんなに妄想しようとも、どんなに苦しみの感情を感じようとも、身体に起こるそれら全ての動きや思考に気づき、観察・洞察をしていかなければならない。


ただただ淡々と、ただただ黙々と瞑想していかなければならないのだ。


これは、一面ではとても辛くて、とても地道な作業ではあるが、その体系だった理論、とても明解な筋道、かつ理路整然とした修道過程がタイの瞑想の大きな魅力であり、仏教の瞑想の面白いところでもあると私は思う。



(『瞑想中の心身現象 ~瞑想への姿勢~』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
瞑想において、今ここをありのままに観察するのって、簡単そうで結構難しいと実感してます。
強い決意を持って瞑想に臨まないと、すぐに妄想に飲まれてしまいますし。
それに、リトリート中は、たまに超常現象のような体験もするのですが、そういう現象を体験すると、そ
の体験に執着してしまうのですよね。お腹の動きなどを観察しているよりも、変わった体験の方が刺激的
だからでしょうね。そういう現象に欲を生じてしまい、そこから抜け出すのにちょっと時間が必要だった
りします。
いずれにしても、何が生じても自らの心身を粛々と観察し続けようという強い決意を持って、それでいて
完全にリラックスして瞑想しないといけないのですね。
難しいですが、Never Give Upで続けていくしかなさそうです。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

世間では、“いまここ”や“ありのまま”・・・いわゆるマインドフルネスが流行っているようですが、おっしゃる通り、世間で言われているほど簡単なものではありませんよね。実際に実践してみれば、すぐにわかることではありますが。

瞑想の過程で出会うさまざまな現象や刺激的な超常現象、インパクトのある現象などのほか、自分自身の「怠け心」や勝手な解釈を加えてしまうといったことに対しても、十分に注意が必要ですね。

私も、当時、師事していた指導者から、インパクトのある現象が全くないことについて、「あなたは、そのような体験を求めてタイまで来たわけではないはずです。」と戒められたことを覚えています。今でも、この言葉を何度も思い出しては確認しています。

常に強い決意と強い意志を持って、いつも確認しつつ、続けていくことが大切ですね。

コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。