タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2019/05/29

瞑想生活の壁 ~自分の感情を観る~


瞑想とは、自己の感情に直面することでもあると言えるのではないか。


普段は全く意識されていないようなさまざまな感情とも出会う。


『お前はまったく何も考えていない奴だな!』


などと、よく耳にするのであるが、少し心を落ち着けて坐ってみると、何も考えていない瞬間などないということがよくわかる。


瞑想に入ったらすぐさまいろいろな感情や思考、映像や画像が浮かんでくるのだから実に厄介だ。


もっとも、それらをひたすら観察していくことこそがヴィパッサナーの瞑想である。




日常生活のなかでは、あまりにも刺激が多過ぎて、こうした感情の動きには、気づきにくいか、あるいは全く気がつかない。


意識すらされないことも実に多い。




普段は、どうと言うことのない感情が大きく膨らむこともある。


例えば・・・感謝の気持ちでいっぱいになったり、逆に怒りの感情が溢れてきたりもする。


無性にある特定の人に会いたくなったりすることもあるし、無性にある特定のことをやりたくなってきたりすることもある。










そのような時は、すぐさま呼吸に戻って心をつなぎ留める。


あるいは、こうした「妄想」や「感情」をひたすら観察して、決してそれらに巻き込まれないようにする。


どうしようもなくなってしまうような時であれば、歩く瞑想のように動きのある瞑想に切り替えたり、怒りや憎しみの感情であれば、慈悲の瞑想を実践するようにする。


自分にとって好ましい人へも、好ましくない人へも『幸せでありますように』と願う。




ところが、それでも、そうそう思い通りに瞑想が進むものではない。


“瞑想が思い通りに進まない”ということさえも観ていかなければならないのである。



私にとっては、この過程が非常につらいものであった。


自己の心とは、まさに濁流の如く、暴れまわる急な流れの如くであると実感した瞬間だ。




思考は、とめどなくあふれ出てくる。


堤防を越えようとする濁流のように。




感情は、激しく暴れまわる。


檻(おり)の中を暴れまわる動物のように。



この自己の心の姿にただただ愕然とするしかなかった。


ただただ立ち尽くすしな術がなかった。




出家生活とは、瞑想的に言えば、非常に守られた空間である。


消極的な言い方をするならば、禁止事項が多い生活だとも言えるのだが、決して消極的な意味で禁止しているというわけではない。


瞑想を実践すれば、それらの意味がよくわかるはずだ。



よくわかるのではあるが、一方で自己の感情や思考を徹底して観察していくというこの作業は、果てしなく続き、終わりがない。


それは、非常に辛く苦しいものでもある。


だからこそ、指導者の存在が必須なのだ。



さて、この壁を越えられるのか、越えられないのか。


あるいは、耐えられるのか、耐えられないのか。


そこが、出家生活、すなわち瞑想実践のうえでのひとつの大きな分かれ道なのではないかと思う。



(『瞑想生活の壁 ~自分の感情を観る~』)





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2 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
瞑想に妄想はつきものですよね。
瞑想中、妄想だらけだというと、ミャンマーのセヤドーにも「妄想が無いのは阿羅漢だけだ」「妄想に負けてはいけない」と激励させます。
ただ、妄想に飲まれないようにと決意して瞑想することは大切とされますが。
そもそも、ヴィパッサナー瞑想のファンダメンタルは「すべての上げ下げ(つまり、全ての身体の動き)に気づいていることと、すべての雑念(つまり、全ての思考)に気づいていること」だと説明されます。決して妄想するな、ではありません。

どんなに激しい妄想であっても、抜けることなく気づき続けていかねばならないのですね。これが結構厳しいのですが。
でも、阿羅漢じゃない限り、皆、妄想は出てくるので、たとえ何度も妄想に飲み込まれても、めげずに粛々と気づき続けていくということなのでしょうね。
私など、瞑想中に妄想を楽しんでしまうこともままあります。本当に止められないくらい妄想するのが楽しかったりするのですよね。まさに「渇愛」という意味が身に滲みてわかったりします。
一憶回失敗したら、一憶一回目にチャレンジするだけ。一憶一回目にも失敗したら一億二回目にチャレンジするだけ、とも言われます。
壁を越えられるかどうかという発想ではなく、たとえ何度挫折しようと、三日坊主になろうと、あきらめず、とにもかくにも一歩一歩歩んでいく姿勢で瞑想を続けていくといいのではないかと思って実践しています。無論、壁など意識せずにスイスイと瞑想が進んでいければそれに越したことはありませんが。
どうも、瞑想の素質の無い私としては、粛々と続けていくしかありません。

Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

まさに仰る通りだと思います。私は、「瞑想はただただ粛々と続けていくしかない」の一言に尽きると思っています。しかし、その姿勢に行き着くまでがひとつの“段階”であり、“壁”なのではないかと感じています。この段階をも含めて、その先もずっと諦めずに、根気よく取り組んでいかなければなりません。しかし、多くの人は、それまでに嫌になってしまうかもしれませんし、挫折をしてしまって諦めてしまうかもしれません。

たとえ、何度失敗をしたとしても「気づき続けていく」「粛々と続けていく」しかありません。そこを正しく理解されていらっしゃるパーラミー様は、善き指導者につかれて、正しく学ばれて、適切に対処してこられた「賜物」であるように感じます。

実際に、“妄想に気づく”ということ自体を「めんどくさい」、「疲れる」、「だからこんな瞑想はやりたくない。」と言っておられた方もいらっしゃいました。そもそも、そのようなタイプの方は、その先、瞑想自体を継続されることはないでしょうし、あるいは別の瞑想法へと行かれるのではないかと思います。

妄想を楽しんでしまうことは私もあります。もともと人間は、妄想を楽しむようにできているのかもしれませんね。気がつけば妄想の中・・・ということも多々あります。私も、瞑想の素質がないということを嘆いたことがありましたが、そのことにさえも気づいていき、観察し続けていかなければならない、それが瞑想なのだと私は思います。
                                             
コメントをいただきましてありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。