タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2020/03/09

タイの仏教に古の日本の姿を想う



私は、日本の仏教の大学に学んだ。


大学の図書館には、実にさまざな文献がある。



古の日本の出家者は、自らの学びを深めるために、師を求め、更なる修行の地を求めて、各地を訪ね歩いたという。


また、歴史の中には、地位や名声を厭い、深山幽谷に庵を構えて、一生を仏道に生きた者もたくさんいる。


宗派や寺院を越えて修学に励んだという話は、むしろ、当時はそれほど珍しい話ではなかったことであり、文献の中を探せば枚挙に暇がない。



「遊行僧」であるとか、「旅の僧侶」であるとかいった言葉を聞いたことはないだろうか。


少し言葉は悪いのだが、平たく言えば、“住所不定のお坊さん”だ。


ブッダ以来の出家者の在り方としては、むしろ“住所不定のお坊さん”の方が本来の姿に近いのである。


もっとも、寒い気候である日本では、なかなか難しい環境なのかもしれないが。



「旅の僧侶」などと言われると、時代劇でも見ているのかと嘲笑されそうだが、令和の時代にそうした僧侶と出会うことはまずないのだから仕方がない。










タイの仏教は、ブッダ以来の出家者の生活をよく伝えている仏教である。


日本で「出家」と言われても、どのような生活を送ることが「出家」なのかの定義がない。


だから、イメージすることさえ不可能だろう。


「出家する」=「仏教の僧侶になる」くらいの認識だ。


しかし、この理解は、厳密に言えば間違っている。



出家と言うのは、一般の社会生活たる在家生活を送るのではなく、生活自体がガラリと変わるのである。


在家生活を送っている“出家”は、本来の出家ではない。



では、どのように変わるのかが問題となるのだが、長くなるのでここでは割愛させていただくが、ブッダ以来の出家生活がタイの仏教にはしっかりと継承されている。


そうした環境もあってか、タイには数は少ないが現在でも、遊行僧であるとか、旅の僧侶が存在するし、誰にでも実践のチャンスがある。


また、志があり一定の条件を満たせば、師を求め、訪ねて、学び、自らの研鑽のために僧院や修行場を渡り歩くこともできる。


一般的ではないにしても、相当数の出家者がそれぞれの求めて応じて僧院を移る。


あるいは、誰も参拝者が来ないような山奥の庵とも言えるお寺に身を置くこともできる。


実際に、そうした山奥の庵へ連れて行ってもらったこともある。










さて、形は違えど、かつての日本にも出家の生活というものが存在した。


また、「遊行僧」という言葉が示しているように、“住所不定のお坊さん”が存在した事実も確かにある。


しかも、そう遠くない過去の日本にである。



タイであれば、現在でも、志さえあれば、あえてそうした道へ進むことも十分に可能だ。



こうした生き方を想った時、学生時代に大学の図書館で読んだ文献の中で出会った古の日本の出家者の生き方に思いが及んだ。



きっと、こうした生き方だったに違いない。


きっと、自らの生きる道を求めて、どこまでも突き進んで行かれたに違いないと。



タイという異国の地で出家生活を送ったことで、文献に書かれていた情景を想った。


古の日本と同じかどうかはわからないが、身をもって体験し、このような環境だったのではないだろうかと思った。



形式ではなく、あくまでも中身だとは言いつつも、やはり日本ではこうした生き方が選択できないというのは誠に残念だと感じる。



そのような意味では、タイの一時出家という慣習は、非常に素晴らしい。



人生の一時期を僧院で瞑想の生活を送ったり、“住所不定のお坊さん”として求道の生活を送ってもいいではないか。


いや、むしろ、私は送るべきであると思う。



帰国してはや20年が経とうとするが、今でも強くそう思う。


昨今の日本の状況をみて、ますます強く感じるところである。



(『タイの仏教に古の日本の姿を想う』)








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2 件のコメント:

りょう さんのコメント...

以前のワンプラのエントリで、匿名でコメントしたものです。
習慣化、あまりできていないのですが、いただいたコメントを見て、自分ができる最低レベルから始めようと思いました。
最近、夜寝る前にYoutubeでめそさらさんの動画を聞いています。
何か心が落ち着きます。繰り返し聞いても飽きないですね。
一時出家の制度は、ぼくも日本にあるといいなと思っています。実際の修行というのは、どんなものなのか、やってみないとわからないですものね。今後ともよろしくお願いします。

Ito Masakazu さんのコメント...

りょう様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

瞑想の習慣化は、動画でも説明しています通り、簡単なことや自然にできるレベルのことを「毎日」行うことから始めることをおススメいたします。そこから少しずつ身につき、習慣化できるようになっていきます。

なによりも、継続すること、毎日実践することの大きさを感じていただければと思います。「生活習慣病」という言葉を耳にされたことがあるかと思います。あれは、習慣化の悪い事例です。ひとつひとつのことは、非常に小さなことなのです。しかし、それが毎日毎日積み重なると大病に発展してしまうということです。「習慣化」がいかに「力」を持っているかを示す(この場合は悪い)例ですね。

瞑想修行は、一般人であっても快く受け入れていただけますので、もし、機会があれば実際にタイへ行かれるのもいいかと思います。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。