そして、また、そうした生活を実際に可能なものとしてくれている環境こそが出家という空間だ。
実は、性欲の根深さについては、タイへ渡る以前から聞かされていたことであった。
・・・まだ私がタイのことについて調べていた頃、タイで出家し、さらにスリランカで修行をされた経験を持つある日本人の方から聞いた体験談だ。
その方が、若かりし頃にタイで修行をしておられた時のこと。
もう、何十年も前のお話なのだろう。
本物の人骨で不浄観を修しておられた時のお話を聞かせていただいたことがあった。
「髑髏がね、ゆっくりと私の方を見つめてきて、“こちらへいらっしゃい・・・”と、とても綺麗な女性が艶めかしく微笑みかけてくるんだよ。
その瞬間にね、ハッ、と我に返ったんだよ。
これほどまでに性欲が強いなんて、私自身も驚いたね。」
このお話は、とても強く私の印象に残った。
タイへ渡った時代が違うためであろうか、私は、本物の髑髏で不浄観を修する機会には恵まれなかったし、そのようなことができるということも聞くことはなかった。
しかし、死体の写真でであれば、容易に修することができるので、私は、仏教書として頒布されていた死体の写真や本などをクティ(居室)に置いて不浄観を修したのであった。
これは、以前にも記事にしていることなのだが、タイでは、死体の写真が仏教専門の書店などで修行のための仏教書として頒布されている。
また、特にタイの森のお寺などで多く見られることなのだが、お寺の中に死体の写真が飾られていることがある。
これらはみな、人間の本来の姿、人間のありのままの姿を常に忘れないようにして、思い出させるためのものだ。
自身の身体をよくよく観察し、何度も何度も吟味をして、身体への執着や愛着から離れるようにするのである。
これも不浄観のひとつだ。
~ タイで購入した仏伝の一場面を描いた絵葉書より ~ |
その後・・・タイで私も、お話をうかがったその日本人の方と似たような体験をすることとなった。
私の場合は、実際の死体(髑髏)を目の前にしていたわけではないし、髑髏が美しい女性となって微笑みかけてくると言ったようなリアルな体験ではなかったが、その方が言っておられたことをはっきりと理解することができた出来事であった。
それまでは、薄気味の悪い髑髏が美しい女性になって微笑みかけてくる・・・そのようなはずなどないだろう、髑髏が美しい女性に見えるものなら是非とも見てみたいものだと、心のどこかで思っていたのであった。
私は、クティの中で死体の写真を眺めながら、
「・・・この写真の死体は、生きていたならば、どんなに美しい女性なのだろう・・・。
嗚呼・・・。
たとえ、死体でもいい。
死体でもいいから抱いてみたいものだ・・・。」
迂闊にも、そのように考えた瞬間が何度もあった。
男とも、女とも判別がつかないような死体の写真を見ながらである。
実際に腐りかけた死体を目の前にして、そのようなことなど思えるはずがないのにである。
自身の身体も、目の前の写真と同じく、ひとたび縁が尽きれば、横たわり、腐り果て、男とも女とも判別がつかないようになり、朽ち果てていく存在だ。
・・・そのように自分の身体を吟味し、観察をして、瞑想をしなければならないのにである。
私の目に入っている人間の姿は、まさに妄想だ。
会社の同僚も、つい先ほどすれ違ったあの人も、そしてすぐ目の前にいるその人も・・・。
全ての美男も、全ての美女も、実は全てが髑髏であり、骸骨を見ているに過ぎないのだ。
ところが、私の修し方が不十分、かつ不徹底であったことから、このように死体の写真を目の前にしながらも、美しい女性を想像してしまうという、なんとも愚かな結果となってしまったのだ。
・・・嗚呼!
何と!・・・何と情けないことなのだろうか!!
私がタイで親しく教えを受けた長老が語ってくれた言葉をよく思い出すことがある。
ある時、私がその長老にこぼした言葉があった。
私:
「性欲がとてもつらいのです。
男性器など無くなってしまえばいい、そのように思うことがあります。」
長老:
「たとえ、男性器を削ぎ落してしまったとしても、解決できる問題ではないのですよ。
表面的なことばかりを解決しようとしても意味がないのです。
もっともっと根本的なところを観ていかなければならないのですよ。
私もね、長らく苦しめられましたよ。
今でさえも、時々現れることがありますよ。」
と、長老は実に穏やかな表情と柔らかな口調で仰った。
“今でさえも、時々現れることがありますよ。”
・・・嗚呼、長老のような存在のお方が、ほんの少しだけ人間的な回答をされたことに安堵したのであった。
長老のように瞑想修行を積んでこられたお方であっても、そのような瞬間がおありなのかと、実に勝手ながら、私の苦しみを理解していただけたかのように感じたのであった。
同時に、この長老からの言葉は、私も全くその通りであると感じたのであった。
たとえ男性器を取り去ったとしても、たとえ女性のいない環境に身を置いたとしても、たとえ敢えて自分の身体を苦しめてみたとしても、「性」への欲が完全に無くなるわけではない。
まさに「根本的なところ」を観ていかなければ解決しない問題なのだ。
性欲であろうと、愛欲であろうと、そして他の感情も同じく、全くの自分勝手な「妄想」によるものに過ぎない。
それは、他の事象と同じく、執着するべきものではない。
おそらく、長老と私とでは、湧き上がって来る感情の大きさが異なるのであろうが、感情が湧き上がって来るという点については、長老も私も同じであるといえる。
では、一体、長老と私との違いはどこにあるのだろうか・・・。
感情が制御できるのかできないのか、サティができるのかできないのか、その違いなのであろうか・・・。
・・・これは、帰国してからのことである。
ある機会に、あるご高齢の男性へ私から質問をさせていただいたことがあった。
「大変失礼なのですが、性欲というものはありますか?」
と。
すると、その男性は、
「恥ずかしながら、やっぱりこの歳になってもありますねぇ。」
と、お答えくださった。
私は、この答えに、やっぱりか・・・という、ある意味での納得にも似た感情を抱くと同時に、愕然としたのであった。
たとえ、歳を重ねたとしても性欲というものは消えないものなのか!
逆に言えば、私も、その年齢まで性欲とつき合っていかなければならないということだ。
これは、おそらく人間として生まれた限りにおいては、解決を図らない限り、永遠の課題となってしまうものなのだろうと思う。
< つづく ・ 『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』 >
(『出家生活で辛かったこと3 ~情けない私とその先にあるもの~』)
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「大変失礼なのですが、性欲というものはありますか?」
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私は、この答えに、やっぱりか・・・という、ある意味での納得にも似た感情を抱くと同時に、愕然としたのであった。
たとえ、歳を重ねたとしても性欲というものは消えないものなのか!
逆に言えば、私も、その年齢まで性欲とつき合っていかなければならないということだ。
これは、おそらく人間として生まれた限りにおいては、解決を図らない限り、永遠の課題となってしまうものなのだろうと思う。
長老が言う「根本的なところ」とは、一体どういうところのことなのだろうか。
そして、それは、私にも解決が可能なもので、実践が可能なことなのだろうか・・・。
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