出家への道は、まずはこの“所定の文言の暗記”から始まる。
本を見ることは許されない。
カンニングペーパーはもちろん、こっそりと耳打ちしてもらうなどということも当然許されない。
出家をする者全員が通る道だ。
それは、外国人であっても例外ではない。
一人で出家の儀式を受ける場合には、当然、ひたすら一人でそれらの言葉を覚えることになる。
集団で出家する場合には、数日前から寺に籠り、出家に向けての集団指導を受けつつ覚えることになる。
儀式で暗唱しなければならない言葉を覚えるため、出家予定者全員で何度も何度も同じフレーズを繰りかえしながら覚える。
パンサー前には、各地の寺で集団出家が行われるため、こうした景色がみられる。
ちなみに、タイではお経を読む際には経本を見ない。
全て暗唱し、お経を読む。
長く出家をしている者であれば、主要なお経はみな暗記している。
新米比丘をはじめ、小・中学生くらいの年頃のサーマネーン達も必死で経文の暗記にはげむ。
お経を覚えるためには、ちょっとしたコツがあるのだそうだ。
まずは、お経の頭出しである一番始めのフレーズを覚える。
覚えたら一番始めのすでに覚えたフレーズと、その次の新しいフレーズとを続けて覚える。
覚えたフレーズとまだ覚えていない新しいフレーズとを続けて暗唱していくことがコツなのだと教わった。
さらに覚えたら、すでに覚えた一番始めのフレーズとその次のフレーズと、その次のまだ覚えていない新しいフレーズとを続けて覚える・・・
こうした作業を繰り返し、少しずつ伸ばしていくことによって、ついには長いお経を覚えるのだという。
テストの際には誰もが多かれ少なかれこうした「暗記」を経験したのではないだろうか。
もうひとつお経を覚えるコツがあるのだと教わった。
日本では、じっと机に向かい、ひたすら本とにらめっこをしつつ必死で覚えようとするのではないだろうか。
タイでは少し違う。
ひたすら歩きながら、本を読みつつ覚えるのだ。
それはまるで「二宮金治郎」の姿を連想する。
お経を小声で呟きながら、寺の境内やお堂の中を行きつ戻りつ、ひたすら歩きながら覚えているその姿はやや奇妙にも思うが、そのようにして覚えると頭の中に入りやすいのだという。
どうして歩きながら覚えるのかと問うと、彼らは、歩行瞑想をしながら覚えているのだと答える。
歩行瞑想という集中している状態に入って覚えるから頭に入るのだそうだ。
日本人にはなじみが薄いが、タイには歩行瞑想というものがある。
その“歩行瞑想”をしながら暗記するというのはなんとも面白い。
また、歩きながら暗記にはげむその景色も少し面白く感じる。
それにしても経本を見ることなく、長いお経を全て暗記してしまうというのは驚異的だ。
しかも、ひとつふたつのお経ではない。長いお経が何種類もある。
法要や儀式の際に経本を見ながらお経を読むことはない。
ただ手を合わせ、経を読み上げる。
それが作法なのだ。
その昔、経典は全て暗記するものであったという。
そして、すべて口伝で伝えられたというが、それが本当に可能なことなのかもしれないと、ほんの少しだけ肌で感じたような気がした。
タイでは「頭がいい」というのは、「記憶力が優れている」ことを言うのだそうだ。
つまり、勉強ができるというのは、暗記ができることを指す。
一般の学校においてもタイでは暗記をすることが多いのだという。
さて、出家への第一の関門こそがこの『暗記』だ。
出家の儀式では、タイ人も必死に覚えていた。
ところが、やはりタイ人のほうが暗記は得意のようだ。
パーリ語で書かれた所定の文言とは、ひらたく言えば、私は出家をしたいという意思を伝え、私に戒律を授けてくれる師僧となっていただきたいことをお願いし、晴れてサンガの一員として認められるまでの師僧と出家者との一連のやりとりの言葉である。
少し軽い表現ではあるが、台本の“台詞”を覚えることを想起していただければわかりやすいかと思う。
その師僧と出家者とのやりとりのうち、出家者が言わなければならない言葉を覚えるわけである。
全てパーリ語で唱えられるので、タイ人であっても一言一句全てを完全に理解しているわけではない。
パーリ語は、タイ人にとっても難しい言葉なのである。
しかし、そのぼんやりとした意味はおおむね理解をしているという。
その一連のやりとりの中に、いくつかの問いかけあり、そのひとつひとつに出家者が答えるという場面がある。
その問いかけの中に、このような問答がある。
問:「あなたは自由の身ですか。」
問:「あなたは父母から出家の許可を得ていますか。」
この問いに対して、パーリ語で
「アーマ パンテー(はい、尊師よ。)」
と答えることになっている。
ここでは一応日本語で表記したが、実際には全てパーリ語で言葉が交わされているので、全く気にとめることはないが、
問:「あなたは自由の身ですか。」
答:「はい、自由の身です。尊師よ。」
問:「あなたは父母から出家の許可を得ていますか。」
答:「はい、父母の許可を得ています。尊師よ。」
という問答をパーリ語で交わしているのである。
他にも、病気でないか、衣鉢を整えているか、などを問われる。
上記の問答は、出家を志す者に“心”“身”ともに出家することを確認するものだ。
別の表現をすれば、心・身ともに自由の身でなければ出家はできないということだ。
本来であれば、身の回りを整理しきれていない者は出家をするべきではない。
出家の儀式では、一連の文言を覚えて、滞りなく唱えることができれば出家は許可される。
それは単なる形式的な「儀式」でしかないのかもしれない。
しかし、その中に込められている意味があるはずである。
さて、私は本当の意味で自由の身であっただろうか。
本当の意味で、父母の許可を得て出家をしたのだろうか。
特に父母の許可については、出家後に発行される『出家証』に父母の名前が記載されるほどだ。
私の場合も、父母の名前を聞かれ、形だけではあるが記入された。
病気の父のことを整理しきれずにいたということは、心身ともに自由の身であるとは言い難いのではないか。
なかばごり押しの感すらあったタイへの旅立ちは、本当の意味で父母の許可を得たことになるとは言い難いのではないか。
私は、この問答の一節が深く心に残っている。
比丘となる者全員が覚える出家儀式の問答。
いつの時代にこの形式が確立したのか、その詳細は研究者ではないのでわからない。
しかし、このような形で問答がなされてきているということは、はるか昔より問題を抱えたまま出家をした者がいたのだろう。
父母の許可を得ずして出家をした者がいたのだろう。
さまざまなトラブル事例があったことだろう。
もちろん事情はそれぞれだろうが、もしかすると私と同じ境遇だった者もいたのかもしれない。
出家の儀式のこの問答の意味がよく理解できる。
(『出家儀式の問答』)
1 件のコメント:
質問なしでメール送信させて頂きました。色々有難うございました。
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