「欲」というものの「根本的なところ」を見抜いてこそ、本当の解決策が見えてくる。
己の心に生じてくる様々な状態を瞬時にとらえて、ただただ観察していくこと。
すなわち、即座に「サティ」をすること。
私は、今のところ、これ以上に有効な手立てを知らない。
感情や感覚を「観察する」こと、そして客観的に自己を観ていくことこそがその解決策なのではないかというところに至ったのだ。
生きている限り、何らかの感情が起きて来る。
感情、すなわち欲というものは、消えることはないということであるが、少なくとも、聖者の域に入るか、相当の境地に達しない限り、到底、望めるものではない。
しかし、消すことができない“欲”という“感情”を、ただ客観的に観察していくということであれば可能である。
言い換えるならば、感情の赴くままに行動して、感情の濁流に巻き込まれて、さらには感情の泥沼の中へと嵌り込んでいく選択をするのか、それとも感情を客観的に観察していくことに努めて、冷静さを保ち、穏やかさを保って生きていく選択をするのかの違いであるかと言えよう。
・・・結局のところ、長老は、私に対して「根本的なところを観ていかなければならない」ということは、はっきりと仰ったのだけれども、明確にこうしなさいとか、こういう方法を実践しなさい、といったような具体的な方策までは教えてはくださらなかった。
この会話を交わした後も、長老とは何度も話す機会があり、たくさんのことを話した。
他愛もない話題から、ダンマの話題まで。
その中で、不浄観に関する話題を幾度か交わしたことを記憶している。
長老が仰った「根本的なところを観ていかなければならない」とは、「性欲も単に己の妄想にしか過ぎないものである」ということを教えているのだと、私は理解している。
いや、それしか考えられない。
長老と交わしたたくさんの会話を吟味していくと、やはりこの答えしか私には導き出すことができない。
根本的なところを観るとは、己が見ている妄想を、単なる“妄想である”と早く見抜きなさいということだ。
日本へ帰国してから、あるテレビ番組を目にする機会があった。
そこでは、男性器を取り去り、性転換をして女性となった元男性が「性欲は、全く無くなっていないです。女性になった今も、性欲は旺盛です。」と、はっきりとお話しされていらしたのだった。
私は、この時・・・ああ、あの時、長老が言っていた言葉は、やっぱり正しいことだったんだ・・・たとえ、男性器を取り去ったとしても、性欲そのものは無くならないんだ。
あの時の私の考えは、安易だったんだな・・・そのように思った。
「表面的なことばかりを解決しようとしても意味がないのです。
もっともっと根本的なところを観ていかなければならないのですよ。」
という、あの時、長老が仰ったあの言葉を思い出したのだった。
たとえ、男性器を取り去ったとしても、性欲というものが無くなることはなく、男であったとしても、女であったとしても、そこが「性欲」というものの本質なのではない。
・・・根本的なところを観ることができなければ、何ひとつ変わるところはないのだ。
どんなに苦しくても、どんなに耐え難いものであったとしても、出家生活を続けていくというのであれば、“性欲”は乗り越えなければならない問題である。
これが、私が“厳しくない出家生活”ではあるが、一生続けるとなると、やはり“厳しい”と感じる理由だ。
それは、すぐに習慣にできるものではなく、すぐに身につけることができるものでもない、多分に内面的な問題であるからである。
それだけに、もっとも難しく、もっとも厳しいことであると言っても過言ではないように思う。
ある有名な森のお寺に止住していた時のこと。
その森のお寺は、非常に尊敬を集める森のお寺で、毎日、多くの人達が遠方から参拝や瞑想のためにやって来る。
時には、日本で言うところの“社員研修”のように、会社や学校から団体で参拝に来ることもある。
これは・・・必然的に女性が目に入る機会や、(直接触れるという意味ではなく)女性と接触してしまう機会が増えるということを意味している。
原則として、森のお寺では、出家者と在家者とが交わることは決してないのではあるが、本堂や瞑想するためのお堂をはじめ、どうしてもその場を同じくしなければならない場合が出てくるというわけだ。
静かな森のお寺での日々。
森の中での瞑想、勤行、托鉢・・・そんな穏やかな日々。
心に受ける刺激が少ない空間であるだけに、在家生活の中では、なんでもない出来事であったとしても非常に大きな刺激となり得てしまうのであった。
それだけに、目に入った麗しい女性の姿は、非常に眩しく、強烈に焼き付いてしまい、さらには、何度も何度も浮かび上がり、ぐるりぐるりと頭の中を駆け巡るのであった。
収まらぬ空想、止まらぬ想像、そして膨れあがっていく妄想・・・。
一層の事、女性がいない世界へ行きたい!・・・何度そのように思ったことだろうか。
嗚呼・・・。
嗚呼・・・辛い・・・。
私は遂に、その森のお寺を出る決断をしたのであった。
有名で、非常に人気のある森のお寺であったが故に、私にとっては逆に辛い環境となってしまったようである。
なんとも皮肉なことだと思う。
タイでは、明確に出家と在家、男性と女性の空間が分けられる。
特に、比丘や沙弥の出家者については徹底されている。
近年では、タイへの渡航者が増加し、関心が高まってきたこともあってか、「タイの比丘は、女性に触れることができない。」という事が広く知られてきている。
一般に広く知られるに従って、さまざまな見解が聞かれるようになってきてもいるようだ。
その一部に、差別的だとの見方があるようである。
しかし、私は、これは決して差別であるとは思わない。
性欲というものに悩まされた私の立場から言うならば、とても修行者思いな環境であり、非常に修行者の立場というものに立脚した環境であると思う。
仏教というものを、そして出家者という存在を大切にしているからこその姿勢だと思うのだ。
さらに言えば、修行者と言うのは、比丘のことだけを指すのではない。
瞑想を実践する者や悟りへの道を志す者、すなわち仏教を己の生きる道とする者・・・男性にとっても、女性にとっても、双方にとって正しく道を歩めるよう配慮された環境こそがお寺であり、仏教の生き方なのではないだろうかと思うのである。
< つづく ・ 『【後編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』 >
(『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』)
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2017/08/29
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