戒は、日本人にとって非常に馴染みが薄いもののひとつだ。
仏教徒や仏教学者であっても、戒を守りながら生活をしているかといえば、そうした者はごく希少だろう。
上座仏教(テーラワーダ仏教)は、別名『戒律仏教』などと呼ばれることもあるが、いまだに禁止事項ばかりの窮屈で形式的なことばかりの仏教であると理解されることがあるが、それは大きな誤解である。
私は、タイで瞑想の師から、戒とは単に禁止事項であるのではなく、戒そのものが瞑想となっていくのだと指導を受けるととに親しく教え諭された。
戒を保っていこうと心掛けていくことで、自身の行為・行動をよく知り、観察していくことになるのだと。
ところが、日本では戒を“完璧に守る”ことのみに関心が向けられる傾向が非常に強く、完璧に守れない戒は意味がないと理解されることが多いため、全く話が噛み合わない。
日本で戒の話をすると必ずと言ってよいほど反発されるのだが、それはこうした日本の戒に対する理解を反映しているのではないだろうか。
絶対に守り切れない戒など意味があるのか?
完璧に守り切れないのだから、はじめから守らなくても、なんら問題などないではないか?
必ずこのように反発されるのである。
・・・今でこそ、このように言っている私であるが、瞑想の師から教えを受けるまでは、戒がそのまま瞑想の実践になるとは全く思いもしなかった。
戒を守れば生活が調うということは、個人的にはすでに体験として経験していることであるし、誰にでも容易に理解できる範囲ではないかと思う。
そもそも生活を調えなければ瞑想のための環境というか条件が揃わないので、瞑想実践者にとって戒の意義は比較的容易に理解できるものであると思うが、戒がそのまま瞑想であり気づきの実践だというのだから驚くほかない。
しかし、それは納得以外の何者でもない、まさにその通りだと深く腹落ちしたのであった。
戒にこれほどまで深い意義と瞑想との密接な繋がりを身をもって学び、実践できたことは、ひとえに師の教えと指導のおかげであると感じている。
それにしても、実に戒はうまくできていると思う。
完璧に守れない戒に意味はない、完璧に守れない戒は守らなくてもよい・・・そのような考え方は大きな誤りだ。
戒を完全に守ることができなかったとしても、たとえほんの少しでも戒を破ってしまう回数を減らそうと努力をするべきであるし、破戒の度合いを少しでも軽くしていこうと努力をすべきである。
またそうした努力は誰にでもできる実践だ。
完璧に守り切ることができなかったとしても、そうした決して大きくはないかもしれない努力や心掛け、意識づけを行っていくからこそ、心の境涯が着実に磨かれていくのではないか。
また、持戒のあり方もさまざまな実践の形があり、在家者であっても実践可能な形がある。
例えば、タイの修行寺や瞑想センターなどでよく見られる形式であるが、日数を決めて堅固に守るようにしたり、その日だけ堅固に守る(例えば、ワン・プラの日だけ堅固に守るという形はタイでは一般的によく実践されている)といった形であっても、立派な持戒の実践になるのである。
戒とは、単に禁止事項であるのではない。
戒そのものが瞑想の実践なのであり、日々の生活のあり方そのものなのである。
実生活全般に通底しているべきものであり、日々の営みのなかを貫いている生活規範なのである。
戒を守ろうと心掛けていくことで、自身の行為や話す言葉、心の動きに注意するようになるだろう。
自身の行為に注意するようになるということは、自身の状況や状態へと関心を向けて、気づいてよく知っていくこと、観察・洞察していくことへとつながっていくのである。
なぜ『持戒』が大切で、なぜ『持戒』が悟りへと向かわせていく“力”になっていくのかといえば、こうした善き習慣づけとなるものだからだ。
それだけでなく、いつも心と身体の動きへと注意を向かわせる実践となるものであるからだ。
同時に、常に欲望や怒りの感情といったものへと心を向かわせないための実践であるからだ。
戒は、単なる禁止事項であるのではない。
法の実践そのものであり、瞑想の実践そのものである。
いま一度、師からの教えをよくよく噛みしめ、深く味わいたいと思う。
(『戒は単なる禁止事項ではない』)
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