タイにもさまざま神様が存在するということは、以前にも触れている通りであるが、最近、バンコク在住の日本人漫画家であるたーれっく氏がX(旧Twitter)で投稿しておられる『タイの神様図鑑』が大変注目を集めている。
タイの神様がイラストとして視覚化されて描かれているのに加えて、ひとつひとつ丁寧にとてもわかりやすく説明が加えられているのだ。
さらに、タイの神様だけではなく、タイの精霊や幽霊(おばけ)にいたるまで、詳しく解説されており非常に勉強になる。
タイの精霊信仰については、さまざまなタイの研究書にその記述があるので、私も学生の頃から知っていた。
また、インド由来の神々も深く浸透しており、信仰されているということも事前の情報として知っていた。
しかし、それらがタイ現地で具体的にどのように信じられており、どのように理解されているのか、さらにはどのくらいの種類があって、どういった姿をしているのかなど、詳細なことまではさすがにどの研究書にも記載がないためわからなかった。
なかでも特に、仏教とどういった関係にあるのかということは、私の個人的な関心事であったが、やはりその記載はどの書籍にもないので詳しくはわからなかった。
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たーれっく氏著 『タイの神様図鑑』より (※掲載の許可をいただいています。) |
さて、私は、タイで3年間生活してきたわけであるが、タイの神様について全くといっていいほど触れることがなかった。
そのため、私の興味や関心も次第に薄れていき、いつしか忘れ去ってしまっていた。
そんな私の興味と関心を再び掘り起こしてくれたのが、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』であったのだ。
私は、タイでの生活のほとんどを寺院や僧院で過ごしており、その大半を出家者として生活を送った。
・・・先ほど『タイの寺院で神様や精霊についての話題には、ほとんど触れることがなかった』と記した。
それは、結論から言えば、仏教となんら関係がないから触れることがないのだ。
神々の存在は、上座仏教の教理・教学としても、あるいは実践面すなわち瞑想実践としても、何ら関係がないのである。
特に、上座仏教の伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践する生活が中心である森の僧院では、そもそもが仏教とは関係のないものとして意図して避ける傾向がある。
ゆえに、私とほとんど接触することがなかったのだろう。
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たーれっく氏撮影 タイの寺院のターオウェーッスワン像 日本では、『毘沙門天』である。
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さて、たーれっく氏の『タイの神様図鑑』シリーズは、大変な反響を呼んでおり、たくさんの仏教関係の人たちの間で話題になっている。
そのコメントでは、『タイの上座仏教でも信仰されていたのか!』という声や『タイにもインドの神様がいっぱい!』などといった声が散見された。
ここで特筆すべきことがあるので記しておきたい。
神様に対する信仰は、在家者の信仰であるという点だ。
・・・『タイの寺院で神様や精霊についての話題には、ほとんど触れることがなかった』
これは、それもそのはずで、どういうことかと言えば、タイの神様は“出家者にとって信仰の対象ではない”ということを意味している。
言い換えるとすれば、出家者が信仰すべき対象、あるいは拠り所とすべき対象ではないということだ。
出家者が神様に礼拝することはしない。
そもそも、礼拝することを許されていない。
出家者が手を合わせて敬意を込めて挨拶するのは、ブッダと目上の出家者に対してのみである(関連記事:『タイの神様とお坊さん』)。
そこは、日本の僧侶と大きく異なる点だろう。
ブッダ(釈尊、お釈迦様)によって説かれた教えを実践すること、すなわち自らがブッダが歩んだ道を歩んでいくことで悟りへと向かっていこうとするのが上座仏教である。
瞑想に励み、仏教の学問に励む。
自己の修行のために日々精進し、邁進するのが出家者としての生き方だ。
そこに神様が入り込む余地はない。
神様といえども仏教の世界観から言えば、我々人間よりは境涯が上の存在なのかもしれないが、迷える衆生であることに変わりはないからだ。
とはいえ、一般社会の人々と生活を共にしている街や村の寺院では、一般社会の信仰が寺院の中へも入り込んでいることが少なくない。
寺院によっては、『タイの神様図鑑』に紹介されている神様が寺院内や境内に祀られていることも少なくない。
日本人には馴染みがある大乗仏教の観音菩薩像が祀られていることも珍しくない。
ご存知の通り、上座仏教に観音菩薩は存在しない。
タイで観音菩薩とはどういった存在なのかをタイ人たずねたことがあるのだが、大乗仏教由来のご利益がある神様の一尊として認識されているというから、とても興味深い(関連記事:『タイの観音さま』)。
ただし、いくらご利益があるといっても、それは世俗の社会でのことだ。
比丘や沙彌といった出家者が、こうした神々を拝することはない。
あくまでも信仰の対象、尊崇の対象はブッダのみだ。
寺院内や境内に神様が祀られているとはいっても、礼拝することはもちろん、出家者がその管理や祭祀に携わることはない。
このように仏教寺院であっても、神様が祀られていたりすることが珍しくないのであるが、神様が祀られていない伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践する生活が中心である森の僧院や瞑想実践を中心とする寺院よりも、むしろそうしたあり方の寺院のほうが圧倒的に多数を占めている。
そのため、一般的な視点から眺めてみると、タイの仏教徒たちはみなインド由来の神々やタイ在来の神々を信仰しているということになるのだが、その理解が全てかといえばそうではない。
タイでは、“在家の信仰”と“出家の信仰”があると言えるだろう。
在家の仏教徒は、五戒を守ってブッダ・ダンマ・サンガの三宝を拠り所とする。
あわせて、いろいろな神様も一緒に信仰しているのである。
もちろん、信仰しなくてもよいし、個人の自由であるが。
どんな神様を信仰しようとも、誰かに何かを言われることはなく、全く問題はないのだ。
しかし、一方で出家者は、明確に在家の生活とは異なるがゆえに『出家』なのであるが、ひとたび出家したのであれば、依るべきは『三宝』のみであり、ブッダ・ダンマ・サンガを拠り所として生きる者とならねばならないのである。
同じ仏教徒であっても、その立場によって信仰のあり方(生き方の在りよう)が異なるという点は、寺院と寺院へとやってくる人たちを表面的に眺めているだけではわからないことだろう。
私がタイの神様について深く関わる機会がなかったのは、上座仏教の伝統を重んじつつ戒律を遵守して瞑想を実践して生活をする森の僧院で過ごしていたからかもしれない。
これが在家での生活で、町や村、あるいは都会で生活を送っていたのであれば、事情はまた変わっていたのかもしれないと思う。
タイの神様たちは、仏教や出家生活とは何ら関係がないとは言っても、寺院を守る存在であると信じられていたり、仏法を守る存在であると信じられていたりするというその“位置”は日本とも共通するところがあり、全く無関係かと言えばそうでもないと言えるだろう。
それぞれの尊格も、多くはタイ独自のものではなくて(タイの風土に合わせた変容があったとしても)、おおむね仏教全体のものとして共通している。
一般の在家者の神々に対する信仰は、いわゆる現世利益であり、非常に現実的で生活感あふれるご利益信仰である点も見逃せない。
こうしたところに、並々ならぬ親しみを感じるのである。
素朴な神々への信仰が土台にあって、その上に高度な教理と実践体系を持った上座仏教からタイの仏教は成り立っているということになるだろうか。
そうしたことをすべて含めて“タイの仏教”なのである。
インド由来の神々は、いつどのようにして、タイへと渡ってきたのであろうか。
タイの呪術師や祈祷師は、カンボジアへその学びを深めるために留学するらしいことからも、私の想像の範囲ではあるが、上座仏教以前に伝わった仏教である大乗仏教とともにタイへと伝来したものではないだろうかと思う。
タイがまだ大乗仏教だった時代から上座仏教への信仰へと移ったあとも、一般社会で生活する人々のあいだで脈々と現代まで継承され続けてきたのではないかと思っているのだが、果たしてどうであろうか・・・?
その興味は尽きない。
お詳しい方やご専門の方がいらしたら、ぜひともご教示願いたいと思う。
【たーれっく氏】
タイ・バンコク在住の漫画家。
タイのお寺の情報を中心に発信されている。
訪問されたお寺関係は、なんと約2600カ所!
タイ関係の電子書籍を多数出版されている。
たーれっく氏のXのアカウント。
タイの話題が満載。ぜひフォローを!
(@taarekrek)
【関連記事】
(2010年05月17日掲載)
(2020年05月09日掲載)
(2022年08月09日掲載)
(『『タイの神様図鑑』が面白い!~在家の信仰と出家の信仰~』)
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