タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2023/01/09

男性器を包丁で切断した比丘


『タイの出家生活で一番辛かったことは何ですか?』


このようによく質問を受けることがある。


タイという異国の地での出家生活とは、一体如何なるものかということに興味があるのだろうか。



私は、この問いに対して、ただ『感情とどう付き合っていくのかが最も辛かったことです。』とだけ答えることにしている。


なぜなら、その質問に対して大真面目に答えたところで、私が苦労してきたことは、誰にも理解されることはないだろうと感じているからだ。



特に日本人には。



何が一番の『苦痛』であるのかは人によって違うだろう。


それぞれ興味や関心が違うし、好みも趣向も違うからだ。


すなわち、人にって執着の対象が違うのだから、『苦痛』に感じることがらも違ってくるというわけである。


それほど執着を持たない対象であれば『苦痛』に感じることはないだろうし、執着を持つ対象になればなるほど『苦痛』は大きなものとなる。



『苦痛』とは、感覚であって、感じ方なのだ。



私にとっての一番の苦痛は、やはり『性欲』だ。


もしも、『性欲』に関する苦痛が解消されていたとしたら、私はタイへ帰って再出家をしていたかもしれない。


あるいは、還俗せずにそのままタイで出家生活を続けていたかもしれない。


今、このようにして在家生活を送っているのも、やはり『性欲』というものがあるからであって、強い執着があるからという理由も大きい。



タイの比丘が守るべき227の戒の第一条は、(異性・同性ともに)性的な交わりを禁じる条項だ。


出家者(沙彌と比丘)である限り、自慰行為をも含めた一切の性的な行為は行うことができない。


これを守り通すことができないのであれば、還俗するしかない。



この点が日本人には理解できないところである。


比丘をやりたければ、やったらいいではないかと思うかもしれないが、そうではない。


『性欲』を抑え切ることができなければ、比丘をやりたくても、やってはいけないのである。



それは、『性欲』というものを通して人間の真実の姿を観ていくための“きっかけ”とし、精神的な高みへと昇華させていくのが瞑想であり、出家生活であるからだ。


自ら進んで『性欲』に耽っていたのでは、在家生活となんら変わるところがないのである。



その“道”を理解できる日本人はどれだけいるだろうか。











本来は、日本の仏教においても出家者に性行為は認められるべきものではないと理解をしている(女犯の歴史についても、ひと通りは存知しているということをあらかじめ付記しておく。)。


宗祖仏教であるとか、宗派仏教であるといわれる日本の仏教にあっては、釈尊とまでは言わないまでも、せめて各宗派の祖師方が生きた道を歩むべきなのではないだろうか。


どの祖師方・高僧方に性行為を行い、家庭生活を営んだ出家者がいただろうか。


百歩譲って、もしも、それらが認められるとするならば、浄土真宗だけなのではないかと思う。


なぜならば、親鸞自身がそうした生き方に信念を持ち、救われるのだという確信を貫いた人だからだ。



日本の僧侶なら結婚も性行為も認められているのだから、何も問題はないという向きもあるかもしれないが、私の中では、その点だけはどうも釈然としない。


各宗派、それなりの説明がなされているようではあるが、やはりどこか腑に落ちない。


祖師方に直接訊ねさせていただきたいものである。



まさか“隠すは上人、せぬは仏”であったわけではあるまい・・・



だからこそ、私は、日本において『僧侶』となることができなかった。


私の中の何かが止めるのだ。



それゆえに、『タイの出家生活で一番辛かったことは何ですか?』というその質問に対して、大真面目に答えたところで、茶化されて終わりではないか。


私が苦労してきたことなど、誰にも理解されることはない。


誰も『性欲』の問題に対して真剣に向き合おうとしていないし、『性欲』というものに対して、はじめから開き直っているからである。


むしろ“我慢”をしている方が“馬鹿”だと言わんばかりだ。



最初から“無理”を前提にするのではない。


自己の懺悔(さんげ)というか、そうした自己を恥じる姿があってもよいのではないだろうかと思う。




さて、先日、インターネットで下記のような記事を目にした。


普段は、インターネットの記事をもとにブログの記事を書くことはしないのだが、私の実体験と重なるところがあり、また日本では決して見かけることのない非常に生々しい記事であったため、これは大変貴重だと思った。


このような機会はないと思い、拙ブログの記事として取り上げることにした。



無断転載禁止のため、URLを掲載しておくことにする。


それほど長い記事ではないので、まずは、ご覧いただきたいと思う。



記事には画像も掲載されているので、さらに生々しい。


このような生々しい画像を掲載しているところが、いかにも海外発信の記事らしくて良い。



おそらく、掲載には期限があるかと思うので、お早めにご覧いただくことをおすすめしたい。




【『知的好奇心の扉 トカナ』より】


『僧侶が自らの男性器を包丁で切断! 血まみれのまま「穏やかな微笑み」を浮かべ…』




【『デイリースター』より】※閲覧注意※


『セックスに飢えた仏教の僧侶は、ナイフでペニスを切り落とそうとしながら「微笑む」』

https://www.dailystar.co.uk/news/world-news/sex-starved-buddhist-monk-smiles-28861577?int_source=nba



記事の内容は、上段の記事と同じであるが、下段の記事では、画像に修正が加えられていない写真をそのまま閲覧することができる。


ただし、非常に生々しいので閲覧には注意されたい。


ちなみに、余談になるのだが、このくらいの写真は、私がタイにいた当時は、ごくごく当たり前にカラーで新聞に掲載されていた。


タイの新聞に慣れないうちは、毎回大いに驚かされたものだが、そのうちに慣れてくるものだ。


それほど抵抗感を覚えなくなる。


日本では、全くもって考えられない、あり得ない写真である。




詳しくは、上記のリンク先の記事をご覧いただきたいのであるが、一言で記事の概要をまとめて簡略に説明するならば、『比丘が自身の男性器を切断しようとした』という記事だ。


ただし、その動機については、『ただ手が動いて、切り始めた』と書かれているだけで、明確な動機はわからないとしている。


本当の理由は本人にしかわからないのだから、彼の動機その他については言及しない。



私が、ここで言いたいことは、『男性器を切断する』という行為についてである。



実は、何を隠そう、私も同じことを考えたことがあるのだ。


ただ記事の比丘と違うのは、行為に及んだか及ばなかったのかの一点でしかない。



記事を読む限りでは、その比丘は、相当感覚が麻痺していたように感じられる。


痛みを全く感じていないという点で、感覚が麻痺していたとしか思えない。


相当『性欲』に対して向き合ってきた結果なのか。


いずれにしても、彼のことは彼本人にしかわからないから、何も言いようがない。



そのような意味では、私のほうがまだ“正気”だったのかもしれない。



男性器を切断すれば、『性欲』の苦しみから解放されるに違いないということを考えはしたものの、もしも、男性器を切断すれば、当然のことながら筆舌に尽くしがたい痛みを味わうことになるだろうし、永遠に男性としての快楽も得られないことになる。


それを思うと、とてもではないが行為に及ぶことなどできない。


ただでさえ、私にとっての『性欲』とは苦しみそのものであるのに、そうしたジレンマも加わってさらに苦しくなるのである。



もっとも、このように考えていた時点で、やはり私のほうが“正気”だ。











『性欲』さえなければ、どれだけ楽になるだろうかと何度思ったことか。


そのような思いから、男性器を切断すれば、『性欲』は無くなるだろうと考えるのはごく自然なことである。



こうした『性欲』に関する悩みを私の師に吐露したことがあった。


師は、私に以下のように諭してくださった。




『性欲というものは、表面的に消し去ろうとしても意味がない。


たとえ、男性器を取り去ったとしても、それはごく表面的なことであって、全く意味がないことなのだよ。


そんなことをしても『性欲』は消え去らない。


性欲というものの本質を見抜かなければ、全く意味がないのですよ。


性欲というものの本質を見抜いてこそ、性欲から離れることができるものなのだよ。


仏典の中にもそのようなお話がありましたね。』




そうである。全く師のおっしゃる通りである。


男性器を切断したところで、『性欲』は消え去りなどしないのだ。



『性欲』=『男性器』というのは、一見すると至極真っ当にも思えるのだが、実は、非常に短絡的な図式で、『性欲』の本質を全く見抜いていない、単なる妄想なのである。



現に、男性器を取り去った人の話では、男性器を取り去った後も『性欲』ははっきりと“ある”と明言している。


男性器を取り去ったとしても、『性欲』は消え去らないことの証であり、私の師の言葉が正しいことを証明する言葉だ。



男性器を包丁で切断した比丘の真意はわからない。


しかし、男性器を切断するという行為を考えたことのある私には、どこか他人事には思えなかった。


私も頭が狂ってしまいそうになるほどまで苦しい思いを経験している。


『性欲』にとりつかれ、頭がおかしくなってしまうほど追い詰められるのだ。


『瞑想』で云々のレベルではない。


私の中でこれでもかというほど煮えたぎっているのだ。


それは、地獄の真っ赤に染まった池がグツグツと煮えたぎっているかのような状態だ。


それほどまでに、『性欲』というものは根強く、強大なものなのである。



この苦しみが誰に理解できようか・・・











人の行為や行動は、『性欲』に支配されていると言っても過言ではないと私は思っている。


さまざまな方面における人間としての活動の原動力ともなっている側面が『性欲』にはあるのではないだろうか。



『性欲』のない人はいない。


一見真っ当なことを行っているように思えるようなことでも、実は、『性欲』に支配されている行動であることも多い。


問題にされないからわからないだけなのだ。



日本では、『性欲』は肯定されている。


双方の合意さえあれば、何でもありなのが日本であり、それは仏教の世界にもおよんでいる。


その現実をこれでもかというほど見せつけられ、愕然とさせられてきたのが学生時代であった。



日本の仏教では、『性欲』の問題に対して誰も真剣に向き合おうとしていないし、『性欲』というものに対して、初めから開き直っている。


もはや、出家とは何なのかの意義が消え去り、『性欲』と向き合うことの意味への理解が微塵もない。


『性欲』というものの“本質”を見ようとしない者に対して、私が大真面目に答える必要などない。



この記事をご覧になられて、ご不快になられた方がいらっしゃったとしたら、なにとぞ大らかな目で見ていただきたいと思う。


これは、自身の苦い体験から綴った『性欲』の敗北者たる私の戯言(ざれごと)だと受け取っていただきたい。


おそらく多くの日本人にとっては、衝撃的とも受け取れる『僧侶が自らの男性器を包丁で切断!』というタイトルの記事を読んで、かつて私がタイで悩まされたことと重なったのだ。


その時の思いを踏まえて、綴っておこうと思い立った次第である。



悟りを得る因縁を欠いた者がいるとすれば、この私のことであると思う。



私は、『性欲』に敗北したのである。


私は、『性欲』に敗北した情けないただの挫折者なのである。






【ブログ内関連記事】


『瞑想修行中の苦悩 ~性欲~』


『瞑想修行中の苦悩 ~煩悩の国へ帰るということ~』


『出家生活で辛かったこと1 ~性欲と瞑想中の眠気~』


『【前編】出家生活で辛かったこと4 ~根本的なところを観よ!~』




【参考文献】


・『知的好奇心の扉 トカナ』 (2023.01.05 20:00 配信)

僧侶が自らの男性器を包丁で切断! 血まみれのまま「穏やかな微笑み」を浮かべ…


・『デイリースター』(2023年1月3日 配信)

セックスに飢えた仏教の僧侶は、ナイフでペニスを切り落とそうとしながら「微笑む」






(『男性器を包丁で切断した比丘』)






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