家族や親族、ごく近い間柄であったとしても、『臨終を看取る』という機会が極端に少なくなってしまった日本。
『死』というものが、日常生活の中から消し去られてしまったかのような感すらある。
人類は、『死』を恐れ、『死』を避けたいという思いをずっと持ち続けてきたことだろう。
そのような『死』というものを、私たちの生活の中から取り除き、固く蓋をして、あたかも自身の生活とは全く関係のない存在であるかのように隠してしまったとしたらどうであろうか。
そのようなことをしたとしても、『死』への恐怖は無くならない。
無くなるどころか、ある日、突然、『死』というものと対面させられる破目になるということを覚悟しておかねばなるまい。
それがもし、親しい間柄の人の『死』であれば、受け入れがたいその現実に、ただただ嘆き悲しみ、泣き崩れるしかないだろう。
それがもし、自身の『死』であれば、死にたくはないと半狂乱になり、正気ではいられなくなるだろう。
都市化が著しく、経済発展が著しいタイでも、日本と同様、『死』に直接触れる機会が少なくなっているのだという。
それでも、タイは日本と比べると“人の死”と接する機会は遥かに多いと言える。
タイでは、ごく日常的に人の『死』というものに出会うことができるのだ。
例えば、葬儀や火葬がある。
タイでは、少し郊外へ行けば、全くの他人であっても、火葬の現場に立ち会うことができる。
自宅での看取りも多い。
『死』というものが、ごく当たり前に生活の中の風景としてあるのである。
とはいえ、タイにおける自宅での看取りについて、その数字的な統計がわからないため明確なことはいえない。私としては、是非とも知りたいところである。
日本の統計ついては、以前に調べたことがある。
日本人の死亡場所の80%以上が病院(ないしは施設)という統計が出されている。
昭和40年代までは、自宅で最期を迎える人が大部分を占めていたのであるが、昭和45年~昭和50年頃には、病院で最期を迎える人のほうが多くなった。
それ以降、その割合は増え続けて平成21年には、日本人の80%以上の人が病院で最期を迎えている。
つまり、現代では、大半の日本人が病院で最期を迎えることになるということをこの統計が示している。
病院で産まれて、病院で死ぬ。
これが現代の日本における生活様式なのだ。
家族や親しい人達に囲まれながら最期を迎えるというのは、非常に困難であるというのが現状であり、『畳の上で死ぬ』ということも、もはや過去の話で、大半の人にとってはたとえ望んだとしても叶わない夢なのである。
私がタイで見てきたことや触れてきたこと、感じてきたことや学んできたことは、もちろん仏教であり、瞑想である。
同時に、『死』というものは、私たちの生活のなかにある何の変哲もない“風景”のごく一部であるということを学んだ。
『死』とは、朝起きて、ご飯を食べて、排泄をして、眠ることと同じである。
喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだりすることと全く変わらない、ごく当たり前のことなのだ。
誰もが何の疑問も抱かずに毎日行っている、人間としてごく自然なことのひとつであり、特別に話題として挙げるほどのことですらないものなのである。
タイでの学びを振り返ってみると、このような学びは、日本で生活をしている私たちにとって、非常に貴重なものであると感じるとともに、もしかすると、こうした学びを得るのは日本では不可能なことなのかもしれないと感じた。
もしも、本当にそうした学びが不可能だったとしたら、それは非常に恐ろしいことなのではないだろうか。
なぜならば、『死』という私たちの生活のなかにある、ごく当たり前の“一場面”が奪われていることになるからだ。
恐ろしいことあると言わなければ、それは一体何と言おうか。
私たちが、『死』というものを恐れるのであれば、もっと『死』というものを身近なものとして受け取っていかなければならないのではないだろうか。
そうでなければ、『死』というものの真実の姿を窺い知ることもできなければ、私自身の身に起こることであるとも受け取れない。
いつまでたっても、『死』というものは他人事の無機質な『死』であるままだ。
『死』とは、どうなることなのか、そして如何なるものなのかもわからないままだろう。
タイの瞑想では、繰り返し自分が『死ぬ』ことを想えということを教え諭される。
なぜ、そうまでして『死』を強調するのであろうか。
この意味するところがわかるだろうか。
おそらく、ただ実利を追求するだけの瞑想やマインドフルネスの実践者たちには、なぜ“瞑想”で『死』というものを見つめていかなければならないのかということを理解できる人はいないのではないかと思う。
私にとって、タイの地での見たもの、聞いたもの、触れたもののすべて・・・タイでの生活のすべてが学びであった。
それは、非常に意義深く、生きていくうえでの大きな糧となっていると強く確信する日々である。
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