瞑想よりもまず五戒である。
五戒があってはじめて瞑想を実践する土台と環境が整うからだ。
少々厳しいのかもしれないが、五戒を外した瞑想は仏教の瞑想ではないと言っても過言ではない。
五戒というものを意識していくことで、行動や言動、心の持ち方へと注意を向けていくことになり、必然的に自己の観察へと繋がるからである。
それではじめて理性と落ち着きが保たれ、瞑想実践の土台と環境が揃うのである。
もっとも、その五戒を守ることは簡単なようで簡単ではない。
容易に守り切れるものではないが、それでも守ろうと努力していくところにその意義があるのではないか。
だからこそ、タイではさまざま仏教の行事のなかで五戒を受ける儀式があるのである。
このブログを書き始めた頃は、瞑想といっても誰にも興味を持たれないマイナーな存在であったが、近年は瞑想が大変なブームとなっている。
瞑想が市民権を得たという意味では、大変喜ばしいことだと思うのだが、一方で日本で実践されている瞑想には五戒がない。
さらに、日本で五戒について語ると、必ずといっていいほど反発をされるし、時には激しく反論されることさえある。
タイではごく当たり前のこととして受け入れられているのだが、日本ではそれだけ五戒が定着していない何よりの証である。
五戒とは、生活全般における努力徳目である。
それは、ある一時だけ守っていればよいというものではなく、生活の全てにおいて守られていないといけないものである。
何度も繰り返し実践することによって、善き流れが形作られていき、人生が形成されていくのである。
だから、瞑想よりもまず五戒なのである。
“実利的”効果を求める瞑想を否定するものではない。
瞑想によって“実利的効果”が得られることは、確かなことである。
すでに、さまざまな方面において研究され、検証されている通りだ。
個人や公共の暮らしを豊かにし、生きがいある人生へと繋がるものであるのなら、それは大いに意味のあるものである。
実利を追求する瞑想だからといって、否定する理由などないだろう。
より良い成果や効率のアップを目指し、期待通りの結果を出すためのひとつの手段としての瞑想だ。
しかし、それは仏教の瞑想ではない。
なぜ瞑想を実践するのか。
それは、一言でいえば、人生をより善く生きるためだと言えるのではないだろうか。
より善き人生は、より善き日々の積み重ねだ。
悪いことを避けて、善いことを行っていく。
より善き日々を積み重ねていくには、より善き判断とより善き行動が必要だ。
そのためには、五戒を軽視してはいけないし、五戒を守っていくことが必須なのである。
完璧に守り通そうと力むのではなく、まずは心がけるところから始めてみてはいかがだろうか。
瞑想よりもまず五戒である。
【五戒関連記事】
(※その他、ブログ内に関連記事が多数あり。)
(『瞑想の前に五戒を守ること』)
▼メルマガご購読のご案内▼
そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。
日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。
登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



0 件のコメント:
コメントを投稿