タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2017/06/04

瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~

私の手元にあるタイの数珠。

とても思い出深い品物のひとつである。


タイにも確かに数珠は存在するのであるが、通常、比丘が数珠を持つことはない。

日常の礼拝や読経の際にも使うことはない。

在家に関しても同様で、数珠を持つことはなく、タイでは一般的に数珠を用いることはないと言ってもよい。

では、この数珠は一体何のためにあるのだろうか。

・・・それは、「瞑想の小道具」としてである。

すなわち、“瞑想の手助け”として用いられるのである。


タイ全土で広く見られるのかというと、これもまたそうではないようだ。

例えば、私が出家をしたタイの北部などでは見かけることがあるのだが、バンコクを中心としたタイの中央部などではほとんど見かけることはない。

私が出家をした北タイのお寺には、首から数珠をかけている高僧の写真や、数珠を使いながら瞑想している高僧の写真などが飾られてもいた。

数珠が使われている地域と、そうではない地域とがあるというのは、非常に興味深いところである。



玉の数は、日本と同じく108個。
数珠は、一般的には使わないものであるが北タイなどでは見かけることがある。
あくまでも「瞑想の小道具」であるため、日常的に身につけられているものというわけではない。


左側の色の濃い数珠は、私が出家する前からとても親切にお世話をしてくれた比丘からいただいたものである。

この数珠は、私も瞑想する時に何度か用いたことがある。

また、還俗後には、インドの仏跡巡拝の旅をともにしてきたものでもある。

帰国後には、この数珠で身内の仏事へ参列したことがあるのだが、やはり見慣れた日本の“数珠”ではないために、大層浮いてしまい、目立ってしまったというエピソードがある。


右側の色の薄い数珠は、タイで過ごした最期の安居期間中に、私の後輩であった比丘が大変尊敬しているというお寺へ連れて行ってもらった際に、そのお寺の住職から直々にいただいたものである。

後輩比丘が私のことを日本人だと紹介すると、そのお寺の住職は「これをあげよう」と言って、この数珠を私と後輩比丘の首へと直接かけてくれたのであった。



< 「タイのお坊さんは数珠を持たない」 (再掲載) >


お坊さんといえば数珠、数珠といえば仏教・・・このように連想されるほど、数珠は日本では馴染みの存在だ。

おそらくは、ほとんどの日本人が数珠を持っているのではないだろうか。

たとえ、信ずる宗教が仏教ではなくとも、また宗教は信じていないという人であったとしても、各家庭にひとつはあるものなのではないだろうか。

日本では、お葬式や法事の際には必ず手にするものである。

また、僧侶であれば法要などの儀式の際には、必ず手にしていなければならないもののひとつである。

仏教の儀式には必須のもの・・・それが数珠である。


ところが、タイの比丘は数珠を持たない。

在家の人々も数珠を持たない。


タイの仏教では、数珠は無く、必要としないのが基本である。

ところが、タイには数珠が全く存在しないのかと言えば、そうではなくてタイにも数珠が存在する。

バンコク周辺のタイ中央部では、おおむね数珠を見かけることはないが、チェンマイなどのタイ北部などでは、たまに数珠を目にすることができる。


タイでは、数珠は何をするためのものなのだろうか?

それは、「瞑想の小道具」である。


例えば、瞑想する時に呼吸を数えたり、「プットー」という言葉を用いて数珠を繰ったりしながら、集中の手助けとする。

数珠を繰ることで、心が散漫になり、集中しづらい時や暴れまわる心を静める手助けとするための道具なのである。


「瞑想のための小道具」

それ以上の意味はない。


数珠を使った瞑想の方法は、『アーナパーナサティ』の頁を参照。


タイへは、いつ頃、どのようにして数珠というものが伝わったのか、どの時代からこのような使われ方をされてきたのか・・・詳しい数珠の歴史のことは、勉強不足ゆえに私にはわからないが、個人的には非常に興味深いところである。

もし、お詳しい方がいらっしゃれば、是非ともご教示願いたいと思う。


単なる瞑想の小道具。

あってもなくてもよいもの。


数珠とは、単なる瞑想のための小道具だというところや、数珠というものにそれ以上の意味を追わないところも、いかにも上座仏教の国らしい、そしていかにもタイらしいと感じた。



※2012年7月3日掲載
(過去の記事に多少の加筆・訂正・修正・編集を加えています。)



私が実際に見聞した詳しい数珠の使い方については、『アーナパーナサティ』の記事の通りであるが、その瞑想法の見解については、さまざまなご意見があるかと思う。

また、私の勉強不足や理解不足等から来る間違いもあるかもしれない。

その点を踏まえてお読みいただければと思うとともに、見解の間違い等があれば、是非ともご指摘いただくことができればと思う。


さて、私が数珠を用いた瞑想法として、タイで教わったものは、呼吸に注目した方法であった。

そのため、私は、数珠を用いた瞑想方法をいわゆる「プットー」の瞑想法とともに“呼吸に注目する瞑想方法”(「アーナパーナサティ」)の枠組みの中に含めて考えている。(※1)

日本では、「プットーの瞑想法」はあまり知られておらず、馴染みが薄いため、どのような方法なのかが理解しずらいのではないかと思う。

例えば、『増補版 手放す生き方』には、プットーの瞑想法についてわかりやすく記述された箇所がいくつかある。


『「ブッドー(仏)」という言葉を使ったサマタ瞑想を教わり・・・』(※2)


とあるように、「プットー」の瞑想法は、言葉によって心を集中させていくという瞑想法である。

また、


『息を吸う時に「プッ」、吐くときに「トー」と心の中で唱えながら、呼吸を続けていくというものである。深く習熟することによって、禅定状態に入ることを可能とする瞑想方法といえる。』(※3)


ともあるように、「プットー」の瞑想法は、日本で言うところの数息観(呼吸の出入りを数える瞑想方法)に近い瞑想法でもあり、特定の瞑想の対象を「呼吸」に設定し、心を集中させていく方法でもある。

私が実際に教わった数珠の使い方では、「プッ」「トー」と心の中で唱える“プットーの瞑想法”に、数珠を繰っていくことを加えた方法である。

また、単に数珠を繰りながら「プットー」「プットー」「プットー」・・・と、言葉の数を数えながら瞑想するという方法もある。

あるいは、呼吸に注目しながら言葉を唱えたり、数珠を繰っていくのではなく、数珠を繰りながら数珠の玉に指先が“触れている”という「感覚」そのものに注目するという方向で瞑想しても構わない。

その方向で瞑想するのであれば、それは感覚を観察する瞑想となる。


しかしながら、数珠を使った「プットー」の瞑想法には、上記の通り、さまざまな手法があったりするため、一概に説明できるものではないが、ここで紹介している私がタイで教わった方法がより代表的なものなのではないかと思う。


ちなみに、膨らみ縮みの瞑想法(マハーシ式の瞑想法)を教える僧院などでは、「数珠は必要ない」と指導されるため、数珠を使うことは全くない。

私の経験では、体系立った瞑想課程を有する瞑想法を教える僧院では、数珠は必要としないことが通例である。


このようにタイでは、数珠は心の集中のために使用する、単なる「瞑想の小道具」であるが、特に使用方法が定められているわけではなく、ある特定の使用方法しかないというわけでもない。

瞑想においてさまざまな工夫が可能で、いろいろな使い方がなされている。

もちろん、使う必要がなければ、全く使わなくても構わない。


数珠とは、“瞑想の手助け”としての小道具であると認識されてはいるものの、必須のものであるとは考えられていない。

場合によっては、使う必要はないとされることもある。


そこがまたとてもおおらかだ。



註:

※1 プットーとは、ブッダ(仏陀・仏)のことである。
「プットー」の瞑想法を、「プットー」と唱えながら、心の中にブッダを想い、ブッダを敬い、ブッダの徳を想う「仏随念」とする実践法もあるようである。
しかし、私が教わった方法によれば、記事にある通りの実践で、ブッダの徳を想うことについて実践するものではなく、仏随念であるとの説明はなかった。
そのため、私は“呼吸に注目する瞑想方法”の一形態として考えている。
もしかすると、仏随念として実践されることもあるのかもしれない。

※2 アーチャン・チャー 『増補版 手放す生き方』 2016年 サンガ文庫 333頁
これは、言葉によって心を集中させていくというサマタ瞑想の側面を説明しているものであると理解している。

※3 アーチャン・チャー 『増補版 手放す生き方』 2016年 サンガ文庫 354頁
余談であるが、タイでは、最終的にあらゆる物事やあらゆる現象をありのままに観察すること(ヴィパッサナー)を可能にする瞑想法であれば、大きな枠組みにおいてヴィパッサナーの瞑想であると捉えられており、どの瞑想法であっても、一応はヴィパッサナーであるとされている。
同じく『増補版 手放す生き方』(164頁)には、
「マントラのような、何か特定の瞑想の対象に執着してはいけません。そうではなく、それを使う目的を理解することです。もし、あなたが「ブッドー(仏)」というマントラを使うことによって心を集中させることに成功したのなら、いずれはそのマントラをも手放さなくてはなりません。」
とあり、あくまでも「プットー」という言葉を用いるのは、瞑想の導入段階、あるいは心を集中させるまでの段階であるという事が説明されている。



参考文献:

アーチャン・チャー 『増補版 手放す生き方』 2016年 サンガ文庫





(『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』)






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6 件のコメント:

パーラミー さんのコメント...

ブログ拝見しました。
数珠は、「瞑想の小道具」というのはミャンマーでもほぼ同様でしょう。
パゴダの境内などで、数珠を繰りながら瞑想している方がままおられます。
ヴィパッサナー瞑想では数珠を使うことはありません。
瞑想といっていいのかわかりませんが、お経を唱えながら、数珠を繰りながらゆっくり歩いていたり、数珠を繰りながら座禅しています。数を数えるための「カウンター」として利用してる感じです。
私も、ミャンマーのお坊様から頂いた数珠がいくつかあるのですが、ために、慈悲瞑想を唱えるときに、唱える回数を数えるために使ったりします。
本当に数珠は「道具」であり、特に何か神聖なものとして扱われているわけではない感じです。

私事ですが、明日から半年弱、ミャンマーで瞑想してきます。
ネットとは無縁の生活となりますので、帰国後またブログ拝見させていただきたいと思います。
では、お元気でご活躍くださいませ。


Ito Masakazu さんのコメント...

パーラミー様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

ミャンマーでも数珠は瞑想のための小道具なのですね。私が知らないだけなのかもしれませんが、タイではお経を唱えながら数珠を繰って歩いたりするということはありません。また、数を数えるための「カウンター」として使用するということもないようです。ただし、「プットー」と唱えながら歩いたり、「プットー」の回数を数えたりすることはあります。

学生時代のゼミの研修旅行でミャンマーへ行ったことがあるのですが、ミャンマーの方が数珠がたくさん使われている印象があります。タイへ行く前は、タイもミャンマーと同じく数珠を使う機会がたくさんあるものと思っていたのですが、行ってみるとそうではありませんでした。
特定の瞑想法を指導する瞑想センターなどでは、数珠を使うことはありません。あくまでも印象としてですが、数珠を使うのは、地方の山間部の小さな森林僧院や人里離れた森の中のお寺などに多いように思います。目立たない場所で脈々と受け継がれているといった印象を持っています。

おそらく、数珠を使った手法は、タイの瞑想の系譜の中でも最も古い部類になるのではないかと私は考えています。

ミャンマーでの瞑想、陰ながら応援しております。どうぞお気をつけて行って来てくださいませ。また、是非ともミャンマーでのお話をお聞かせいただくことができましたら、嬉しく思います。

とても興味深いお話をありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

Unknown さんのコメント...

タイ、ミャンマーで、ウィパッサナー等をしている浄土宗僧侶です。


浄土宗では、数珠は同じくカウンターです。
左手に持って、数をかぞえながら、
南無阿弥陀佛をカウントします。
瞑想という位置付けはないのですが、
プットーと同じ瞑想だなと思うようになりました。

Ito Masakazu さんのコメント...

Unknown 様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

本当ですね。「阿弥陀佛」は、「プットー」ですものね。
大乗仏教では、おおむね数珠はカウンターの役割のようです。特に密教ですと陀羅尼を唱える回数が重要となるので、やはりカウンターとして使われているそうです。これは、チベット仏教においても同様なのだそうで、チベット仏教で出家をされた方から数珠の使い方を聞かせていただいたことがあります。
詳しい数珠の歴史のことはわかりませんが、数珠とは、元来は“心を集中させる”ためのひとつの手法だったのではないかと私は考えています。サマタ瞑想的な“心を集中させる”という意味では、共通項がありそうですね。

タイにも数息観のように呼吸の数を10まで数えて1に戻るという方法がありますが、数珠を用いて回数をカウントするというのは、私の知る範囲ではありませんでした。前コメントの返信に「プットーの回数を数えたりすることはあります」と書きましたが、厳密には正しくありません。他者から見ると数えているように見えるのですが、瞑想している本人は、ただただプットーと繰り返しながら、ただただ延々と数珠を繰っているだけです。ですから、厳密には「数える」という表現は適切ではなく、“数えているように見える”ですね。その意味では、適当なブレスレットでも瞑想が可能です。・・・実際に、「ブレスレットでも瞑想はできるんですよ。」と、教えてくれた比丘もおられました。
タイでも数珠の玉の数はやはり日本と同じく108個ですが、そのように考えると、玉の数自体に意味はありません。それでは、なぜ108個なのかの意味を知りたくなるのは私だけでしょうか。個人的には、とても面白いなあと感じますし、興味が尽きません。

数珠に関するお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。

匿名 さんのコメント...

睡蓮子と申します。真言宗僧侶で、今はお寺はしていませんが、仏教については探究しています。そもそも仏陀が数珠を使用したか?が私の1番の関心事ですが、数珠が何であるかはやはり瞑想の道具が1番のように考えます。真言宗の瞑想では真言だけでなく形もイメージしていわゆるサマタ(止観)とは逆の観法により入我我入する、どちらかと言えばヒンズーバラモン教的な方法がルーツにあるように見えます。その中では真言の回数が細かく決められていて、7回。21回。108回。一万回。100万回など。数珠もその数をカウント出来るように作られています。また音はリラクゼーションもあると考え。実際には邪気を払い場所などを清める場合によく使用されます。瞑想の場所を清めたり。自分自身を清めるために数珠を擦り、清めの瞑想から護身法の瞑想(これも瞑想に入る前の清めを含んだ準備段階の瞑想です)プットーで言えば真言だけでなく、具像までイメージして、手印まで使う瞑想ですが、ヴィパッサナーな要素もあり、また触覚の要素も大きな役割があると思います。余談ですが、真言やいわゆる声明は古い時期にはゆっくり唱えられ瞑想に使用したようです。リラックスス(副交感神経)を働かせて心を落ち着かせ、サマタではよくある雑念をそういった真言や図像や手印や念珠でイメージを具体化し、雑念を抑える目的もあるのではないかと考えています。また数珠には印があり、決まった数をいちいち数えてなくても規定の回数がわかり、瞑想に集中出来ます。また私見ですが、1万回まで数えられるカウンターなので、歩数を測れば距離が分かる、人数を数える、物の数などなど、日常生活や長旅、建築などにもかなり応用できるものとして使用していたように考えます。bluenotenext1@gmail.com

Ito Masakazu さんのコメント...

睡蓮子様

ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。

日本では各宗派によって意味が与えられていますが、ご指摘の通り、私も数珠は瞑想の道具であるというのがその本来の姿だと考えています。ブッダが数珠を使用したかどうか・・・これは、あくまでも私見ですが、私は、ブッダは数珠を使用していなかったと考えています。根拠としては、①パーリ仏典に根拠が求められないこと。②出家の際の必須の資具ではないこと。③数珠を持たないのが比丘の基本のスタイルであること。④教義上、瞑想上、直接関係を有するものではないこと。⑤ごく一部の瞑想で使われている以外、使われていないこと。・・・などが挙げられます。

日本の仏典では、数珠の意味や功徳やを説く経典が存在しますが、タイにはそれがありません。日常の礼拝やその他儀式の際にも使うことはありません。瞑想の際も、数珠は使用しないのが基本で、ごく一部の瞑想で補助的に使用されているに過ぎず、あくまでも、数珠は、瞑想を手助けするための道具という以上の意味を与えられていません。

ただし、タイでは呪術的な方面も非常に盛んで、(比丘が)数珠を使うことがありますが(むしろ、数珠と言えば、瞑想よりもこの方面で使用されることが多いかもしれません)、こちらの方面は除外して考えています。

タイの瞑想では、数珠はいたって単純な使い方で、感覚へと気づきを向けるための“きっかけ”であったり、呼吸を数えたり注意を向けやすくするための“きっかけ”以上のものではありません(※ミャンマーに詳しい方のお話でも、同様であることを確認しています。)。タイの数珠も一応は、108個の玉がありますが、その数字に意味が与えられているわけでもなく、プットーを唱えた回数が問われることもありません。数珠の形状も、所謂弟子玉も四天もなく、シンプルそのものです。

ゆっくりと唱えられる声明がサマタ瞑想を起源とするものなのではないかというご指摘は、蓑輪顕量著『仏教瞑想論』においても指摘されています。おっしゃる通り、数珠は瞑想的意味合いが濃い多目的で便利な道具であったというのがその本来の姿なのでしょう。

ただし、『摩訶止観』や『天台小止観』などの論書にもある通り、“止観”すなわち日本へもサマタ(止)とヴィパッサナー(観)という概念自体は伝わっていたと思われますが、その定義が微妙に異なる部分も見受けられますので、イコールではないのではないか?というのが私の見解です。詳細な研究や比較検討が必要であろうかと考えます。

最後に、数珠はヒンドゥー由来のものなのではないかというご指摘についてですが、私も同感です。ブッダ在世当時から原始仏教時代の仏教には数珠はなかったのではないか。おそらくは、部派仏教時代にもまだなかったのではないか・・・しかし、それ以降の仏教の発展段階のどこかで数珠が仏教へと取り入れられたのではないか・・・と推測しています。部派仏教時代の仏教の伝統を濃く伝えているテーラワーダ仏教に数珠がないことから、おそらく、大乗仏教の時代になって取り入れられたのではないか?と考えています。ご指摘の通り、数珠の使用方法やその意味合いを考えると、ヒンドゥー起源ということが十分に考えられるのではないかと思っています。

それでは、なぜ本来は数珠がないテーラワーダ仏教であるタイに数珠があるのかということが問題になります。これについては、スリランカや東南アジア一帯は、テーラワーダ仏教が信仰される以前は密教色の濃い大乗仏教(同時にヒンドゥーも信仰されていた)が信仰されていたという歴史があります。その歴史の中でテーラワーダ仏教がヒンドゥーあるいは大乗仏教から瞑想の道具として数珠を取り入れたのではないかと考えています。

以上、私見ではありますが、私の推測するところです。

とても興味深いテーマですよね。

コメントをいただきましてありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。