『慈悲の瞑想』をご存知だろうか。
日本で上座仏教に関心をお持ちの方であれば、何度も耳にされたことがあるだろうし、実践もされたことがあるのではないだろうか。
実は、タイでは、日本で一般的に行われているような形での『慈悲の瞑想』というものはない。
実践しないのだ。
驚かれただろうか。
『慈悲の瞑想』がどのような瞑想なのかという説明は、ここでは割愛させていただくとして、私は、タイではやらない日本の『慈悲の瞑想』というものに少々違和感を感じたことがある。
一般的に『慈悲の瞑想』は、「共感力が高まる」、「受容する力が高まる」、「良好な人間関係が築きやすくなる」、「セルフコンパッションを育てる」などといった“効果”があるとされている瞑想だ。
また、そうした“効果”を得たいがために『慈悲の瞑想』を実践する方は、非常に多いものと思われる。
それは、インターネットを検索すれば一目瞭然だろう。
もちろん、間違いではないだろうし、悪いことではない。
慈悲の心はとても大切であるし、心に重荷を抱えている人にとって救いとなるのであれば、大いに結構なことである。
効果が得られることであるのなら、大変良いことであるとは思うのだが、ただし、それが仏教の実践なのかと問われれば、それは『否』だ。
瞑想実践の結果として、共感力が高まったり、受容する力が高まるということは十分に考えられることであるし、もちろんそうであって構わないが、それ自体が瞑想の“目的”なのではない。
さらに、「セルフコンパッション」とは、「自分への思いやり」「どんな状況においてもありのままの自分を受け入れる」などといったことを意味するもののようであるが、そもそも仏教にそのような考えはなく、仏教ではない。
要するに、いつの間にか、『慈悲の瞑想』の目的が違ったものへとすり替わってしまっているのである。
私が感じた違和感は、このあたりにあるのかもしれない。
例えば、ウィキペディアには、下記のように『慈悲の瞑想』が説明されている。
『上座部仏教における、サマタ瞑想に入る際の40種類ある瞑想対象(四十業処)の中に、「慈・悲・喜・捨」の四無量心あるいは四梵住と呼ばれるものがあるが、それを簡便化したのが現代において広く行なわれている慈悲の瞑想である。』
(『慈悲の瞑想』Wikipediaより)
Wikipediaの説明にある通り、『慈悲の瞑想』とは、上座仏教における瞑想実践のひとつとして伝えられているもののひとつであるという理解でおおよそ間違いではないだろう。
しかし、この説明の「それを簡便化したのが現代において広く行なわれている慈悲の瞑想である」という部分が少々問題であるように思う。
タイでは、日本で行われているような形での『慈悲の瞑想』は実践されてはいないけれども、全くないというわけではない。
それでは、現代のタイでは、どのようなかたちで“所謂”『慈悲の“瞑想”』が実践されているのであろうか?
タイでは、日本のように『慈悲の“瞑想”』として単独で実践されることはない。
日本のような形では実践しないと言った方が適切だろうか。
厳密に言えば、『慈悲の“瞑想”』ではなく、タイ語では『慈悲を広げる』であったり、『慈悲を展開する』と表現されている。
そして、その実践として、日々、寺院や僧院などの勤行のなかで慈悲の文言(偈文)が読誦されるのだ。
すなわち、日本人が想起するような“瞑想”ではないわけである。
寺院によっては、慈悲の文言の読誦ではなく、『慈経(メッタスッタ)』を読誦することもあり、その文言や読誦形式は、寺院や僧院によって異なっていることもある。
しかし、必ずと言っていいほど、慈悲の文言は読誦されている。
もし、タイの寺院で朝課や夕課など、勤行に参加する機会があれば、是非とも注意をして聞いていただきたい。
すでに触れた通り、一般的に現在の日本で実践されている『慈悲の瞑想』のような形ではないが、慈悲の文言の読誦によって、心に注意を配り、願いを示し、慈悲の心を広げて、慈悲を展開していくという実践が行われる。
この理解がタイにおける慈悲の実践の基本であり、慈悲の心を養い、他者への親切心を養っていくための仏教の実践行の基礎となるのである。
ちなみに、瞑想指導のひとつとしては、私の個人的な経験になるが、怒りの感情などがどうしようもなくなった時に、「慈悲の心を育てなさい」「慈悲の心を広げなさい」という指導を受けたことがある。
だが、よく振り返ってみれば、それは「『慈悲の“瞑想”』を実践しなさい」という指導ではなく、あくまでも、慈悲を広げて、慈悲の心を育てていきなさいという指導だ。
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『初等教育1年(小学1年生)「仏教」』の教科書 |
さて、以前にもタイでは、小学校で『瞑想』が実践されているのだという話題を挙げたことがあるのだが、それは、「学校」において仏教の授業が行われているため、きちんと学んでいるからである。
例えば、タイの小学1年の教科書に記されている慈悲の実践について、その一部分を引用してみたいと思う。大変わかりやすく説明されている。
※以下、引用
心を管理することとは、心を明るくすることです。清潔で、静けさをもたらし、清浄にする方法です。これは、智慧をもたらします。
智慧を開発することとは、知ることを発達させることです。知ることを使って、問題を解決するのだと理解することです。そのことによって、幸せに過ごすことができるのです。
【心を管理することと智慧を発達させること】
1、お経をあげること
お経をあげることは、三宝に敬意を示すことです。訓練することで、心が明るくなります。お経の訓練は、まず初めに心を落ち着けることを手助けします。サティ(気づき)を生じさせる瞑想の基礎になります。
2、慈悲を広げること
慈悲を広げることは、他の人が善くあるようにと他の人のことを思いながら、心に注意を配り、願いを示すことです。これは、慈悲心のある人になることを手助けします。慈悲の言葉を唱え、他の人に親切を与えることは法(仏教)の実践です。
①正座をし、両手を合わせて、心を静めます。
これは集中です。
②三宝に礼拝することを3回繰り返します。
③三宝に礼拝する言葉(偈文)お唱えし、慈悲を広げる言葉を念じながらお唱えします。
(略:三宝に礼拝する言葉)
《慈悲を広げる》
『サッペー・サッター』
生きとし生けるものは、生・老・病(痛み)・死に苦しんでいる友人たちです。
『アウェーラー・ホートゥ』
幸せでありますように。互いに敵意を持ち合いませんように。
『アッパヤー・パッチャー・ホートゥ』
幸せでありますように。互いに復讐しあったり、危害を加え合いませんように。
『アニカ―・ホートゥ』
幸せでありますように。身体と心に苦しみがありませんように。
『スキー・アッターナン・パリハラントゥ』
身体と心が幸せでありますように。不幸が尽き、苦しみを乗り越えられますように。
慈悲を広げていく実践が終わった時、同時に、心の中で「サートゥ」とお唱えして、手を合わせます。
※引用、終わり
(タイ国・『初等教育1年(小学1年)「仏教」』・教科書より)
※パーリ語の読みは、教科書に記載されている通りのタイ語読みとした。
※慈悲の文言(偈文)は、寺院によって若干の差異があり一定していない。ここでは、教科書の記載通りに引用した。
小学1年の教科書とあって、大変平易な文章によって仏教における慈悲の実践行について解説されており、非常にわかりやすいと思う。
これが、“所謂”『慈悲の“瞑想”』の本来の形であり、本来の意味である。
最後に触れておきたいことがある。
『慈悲の瞑想』とは、あくまでも、自分が楽な状態になるためであったり、自分の願望成就を願うのために行うものではないということだ。
ここで少し振り返って、考えていただきたいことがある。
『幸せでありますように』という言葉の『幸せ』とは、一体、どういった状態を指すのであろうか?
『幸せでありますように』という言葉の『幸せである』とは、一体、どういった状態になることを願っているのだろうか?
仏教において『幸せ』とは、心の静けさや心の落ち着き、安らかさやおだやかさを『幸せ』であると捉えているのに対して、多くの日本人が考える『幸せ』とは、自己の願望の成就であったり、さまざまな自己の欲望が満たされることであると捉えてはいないだろうか。
所謂『慈悲の瞑想』の実践の際に、『幸せでありますように』と自己の願望成就を願ってはいないだろうか。
もしも、『幸せ』の“定義”が自己の願望成就であるならば、日本人が実践している『慈悲の瞑想』は、仏教における「慈悲」とは大きくかけ離れたものとなってしまう。
『幸せ』とは、心のおだやかさである。
心のおだやかさという『幸せ』が成就された結果、個々の願望が成就されるということはあるだろう。
ところが、日本人の『慈悲の瞑想』では、全くの真逆ではないか。
仏教における『幸せ』とは、心の静けさや落ち着きであり、心の安らかさやおだやかさである。
仏教が教える『幸せ』と、日本人が理解している『幸せ』とは、どうやら大きく異なっているようであるし、深い溝があるように感じる。
タイの小学1年の教科書は、大変わかりやすく解説されている。
引用の文章は、なんと小学1年の教科書だ。
やはり、さすがは仏教国・タイであると感服させられるばかりだ。
日本人もタイの小学1年の仏教の教科書で、仏教を学んでみてはいかがであろうか。
きっと、腑に落ちることがたくさんあるに違いないし、理解できなかったことが理解できるに違いない。
まさに今の日本人にこそ必要なことばかりが書かれている。
仏教における『幸せ』とは、どういったことを指すのか、慈悲の心を広げていくとは、どういったことであるのか・・・これらのことが正しく実践されていてこそ『慈悲の瞑想』だ。
誤った仏教の理解となってしまわないためにも、よく理解を深めておくべきであると思う。
《参考文献》
※『初等教育1年(小学1年生)「仏教」』(掲載画像のタイ国・教科書)
※教科書の写真と教科書の日本語訳は、タイに在住されているばいたらようさん(貝多羅葉さん)よりご助言、ご協力いただきました。
タイのテーラワーダ仏教の法話や瞑想会を中心にたくさんの貴重なお話を綴っておられます。ご興味のある方は、ぜひご覧ください。
この場を借りて、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
(『タイにおける慈悲の瞑想 ~日本の慈悲の瞑想への違和感~』)
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