有名な『毒矢の喩え』を仏教の講義の中で何度となく耳にしたのは学生時代のことであった。
「仏教とは、過去のことでも未来のことでもなく、『この今、なすべきことが何かということこそが大切なのだ』と言うことを教えているのです。」と教わった。
学生であった当時の私は、そうなんだと教授の言ったことをそのまま受け取ったのを覚えている。
しかし、その仏教の教えは、私の心を震わせ、伝わるものがあっただろうか。
私達は、常に何かを考えている。
深く眠りに就いている時間を除いては、おそらく何も考えていないという時間はないはずである。
人は常になにかしらのことを想い、考えているはずだ。
このことを瞑想して初めて自覚し、体感した。
瞑想を修すれば、すぐに見せつけられる。
過去のことを思い出していたり、まだ見ぬ未来のことに思いを巡らせていたりする自分を。
過去に囚われることによって、あるいは執着することによって苦しみを生む。
未来を妄想し、空想することによって一喜一憂する。
そして、悩みごとの多くは、単に勝手な妄想を膨らませていた結果であることに気づかされる。
瞑想とは、今を生きることのトレーニングであるとも言えるのではないだろうか。
瞑想では、すでに過ぎ去ってしまった過去に囚われることなく、いまだ訪れていない未来のことに喜んだり、悲しんだり、恐れたりすることなく、今、この瞬間瞬間に注意を払うように教える。
私達の思考の大部分は、勝手な妄想であり、所詮は自分の考えの中でしかないことを知らなければならない。
そのことを身につけるために瞑想を修するのである。
今の自分、今この瞬間の行為に気づけるように習慣づけるのである。
タイの多くの瞑想法における要点はここにあると私は思う。
果たして、今を生きているだろうか・・・
気づけば、過去のことを思い出していたり、まだ見ぬ未来のことに思いを巡らせていたりする。
そして、自分自身で勝手に妄想を膨らませ、勝手に悩みを作り出し、勝手に大きくしているのではないか。
しかし、今の自分、今この瞬間の行為に気づけるように習慣づけるのは容易なことではない。
この難しさもまた瞑想に取り組んで痛感させられたことのひとつだ。
ほんの少しだけでもいい。
ほんの瞬間でもいい。
自己の作り出せる妄想から離れ、今の自分を観察することができれば、少しは苦しみの正体を知ることができるのではなかろうか。
その気づきは微々たるものかもしれないが。
その瞬間の積み重ねこそ、冷静な自己につながるのではないか。
ブッダの教説の基本、つまり仏教の基本的姿勢とは、今、この瞬間を生きることだ。
大学の講義で聞いた『この今、なすべきことが何かということこそが大切なのだ』ということは確かだと思う。
だが、この今なすべきことが何かということを正しく判断できる自分であらねばならない。
今の私の姿勢がもっとも重要で、常に冷静さを保つことが肝要である。
善きことを考え、善き選択をする。
今あるこの状況を認識したうえで、次の一歩をどう踏み出すのかを教えている。
つまり、次の一歩の踏み出し方、より善き出発の方法を説いているのではないだろうか。
瞬間瞬間の私が未来へとつながっていく。
⇒『仏教の基本的姿勢2・自己を生きる』
(『仏教の基本的姿勢1・今を生きる』)
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