ともすれば、「自己」ではなく、「自己の感情」を生きてはいないか。
人間とは、感情というものに左右されやすいものである。
「今を生きる」ことは学生時代の仏教の講義の中においても聞くことができたように記憶している。
しかし、「自己を生きる」などとはあまり耳にしたことがない。
そう、「自己を生きる」とは、私が瞑想から感じたものである。
瞑想では、徹底して自己と向き合う。
浮かんでは消えていく、数限りない感情や妄想・・・
それらとひたすら向き合う。
慣れないうちは感情や妄想に容易に飲み込まれてしまう。
徐々に慣れてくると、感情や妄想に対して少しずつ客観的に接することができるようになってくる。
ただ単に映画を見ているかのように。
自己の姿を見つめていこうとすることによって、自分が勝手にそう見ていただけなのではないか・・・ということに気づかされてくる。
実は自己が「ものごとを見る」ことから、この世界を見ることが始まるのだということがわかる。
他でもない、世界を見ているのはこの自分自身だからだ。
つまり、自己のものごとの見方や考え方が、世界をどのように見るのかということにほかならないでのある。
他人が自分の人生を生きるわけではない。
他人が自分の人生を生きるわけではない。
他人が自分の人生を決めるわけでもない。
他人が自分の人生の中に入れるわけでもない。
自分は自分。
自分は自分。
他人は他人。
他人もそれぞれが自分なのである。
他人もそれぞれが自分なのである。
自分はこの自分しかいない。
突き詰めてみると、自分の人生は自分にしか生きれないわけであるし、自分の人生は自分にしか変えることはできない。
自己の感情もまた自分にしかコントロールができないし、この世界の見方を変えるのもまた自分にしかできないのだ。
次から次へと自己の感情や妄想が襲ってくる。
まるで、濁流に飲み込まれるかのように・・・。
様々な感情は必ず浮かんでくるものである。
突き詰めてみると、自分の人生は自分にしか生きれないわけであるし、自分の人生は自分にしか変えることはできない。
自己の感情もまた自分にしかコントロールができないし、この世界の見方を変えるのもまた自分にしかできないのだ。
次から次へと自己の感情や妄想が襲ってくる。
まるで、濁流に飲み込まれるかのように・・・。
様々な感情は必ず浮かんでくるものである。
人間なのだから。
しかし、それらの感情や妄想をつかんでしまってはいけない。
また、それらの感情や妄想を膨らませてしまってもいけない。
すべて手放す。
つかんでしまいそうになったら手放す。
感情や妄想をつかんでしまった結果が喜怒哀楽の感情を生む。
感情や妄想を膨らませてしまった結果が嫉みや恨みとなる。
自分が最も向き合わなければならない存在は自分自身である。
物事を冷静に判断し、見抜く力を身につけなければならない。
怒りや恨みの心でもって見た世界は、怒りや恨みの世界でしかない。
自分が最も向き合わなければならない存在は自分自身である。
物事を冷静に判断し、見抜く力を身につけなければならない。
怒りや恨みの心でもって見た世界は、怒りや恨みの世界でしかない。
自己の心が穏やかになれば、自己が見る世界も穏やかなものとなる。
私がこの世界を見るのである。
私がこの世界を見るのである。
私自身がこの世界を生きるのである。
心は、この世界を穏やかなる存在に見ることもできるが、矛盾と怒りに満ちた恐ろしい世界に見ることだってできるのである。
「生きとし生けるものたちが幸せでありますように」
瞑想の最後によく行う慈悲の瞑想である。
心は、この世界を穏やかなる存在に見ることもできるが、矛盾と怒りに満ちた恐ろしい世界に見ることだってできるのである。
「生きとし生けるものたちが幸せでありますように」
瞑想の最後によく行う慈悲の瞑想である。
これは、自己の中に穏やかなる心を育てることによって、自分から他者へ広げてゆくことなのだと思う。
まずは、自己の心が穏やかでなければ、穏やかな目でもって世界を見ることなどできないのである。
まずは、自己の心が穏やかでなければ、穏やかな目でもって世界を見ることなどできないのである。
また、他人に対しても穏やかに接することができない。
自己を生きる。
自己を生きる。
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