戒律を保った生活を送る。
瞑想を実践する。
これが、テーラワーダ仏教の修行であり、出家生活である。
しかし、出家生活自体が禁欲的なものであるのだから「苦行」だと言ってしまえばそれまでではあるが、タイの出家生活そのものは誰にでも実践できるものであり、私は苦行であるとは思わない。
日本の僧院生活の方がはるかに厳しい生活であると思う。
タイで最も厳しいと言われている僧院であったとしても、厳しいとされるのは戒律の運用具合の点である。
戒律の運用が厳しくなれば、必然的に規則として気をつけなければならないことが増えたり、生活上においてできないことなどが増えることになる。
俗な表現ではあるが、より窮屈な生活となり、縛りが多くなるわけだ。
よって、「細かい」と感じることになるのかもしれない。
その“厳しさ”とは、日本で想像されるような“厳しさ”とはまた意味合いが異なるのだ。
そんなタイでの修行生活ではあるが、今までの記事の中でも紹介をさせていただいている通り、いたって自由で、非常におおらかであるため、誰にでも取り組みやすい。
その反面で、非常におおらかであるがゆえに、取り組むも、取り組まないも、まさに自分次第によるといったところが大きい。
一方で、「苦行」とも思える、やや極端な修行方法もごくごく少数ながら実践されている。
私は、そんなやや極端な修行方法も実践する機会があった。
それは、「断食」と「できる限り眠らない」修行というものである。
果たして・・・これらは「苦行」なのだろうか。
さらには、“瞑想”とは「苦行」なのだろうか。
瞑想すること自体が苦痛であると感じる人であれば、瞑想とは紛れもなく苦行なのかもしれない。
日常生活の中で習慣としていないようなことを敢えて行うわけであるから、やはり苦痛を伴うのはごく自然なことであろう。
単純に自分にとって苦痛であるのならば、それは苦行だと言えなくもない。
瞑想実践も、すんなりと入って行くことができる人もいれば、大層苦痛を伴いながらの実践となる人もいる。
私などは後者のタイプだ。
恥ずかしながら、時に瞑想が苦行だと感ずる。
さらに情けないことに、どれだけ頑張っても、ある程度は瞑想することに「慣れる」ことはできても、瞑想自体が“喜び”であり、“楽しみ”になるまでには未だ至っていない。
私には、いわゆる瞑想のセンスがなかったわけだ。
同様に出家生活は実に穏やかだと感じる人もいる。
しかし、一方で、出家生活は実に苦痛だと感じる人もいることだろう。
人間には、さまざまな“欲”がある。
金銭欲、購買欲、支配欲、権力欲、出世欲、名誉欲、物欲、食欲、睡眠欲、性欲・・・
それらを挙げるときりがないわけであるが、どのような“欲”が最も強いのかということは、人それぞれであり、感じ方も人それぞれで、苦痛と感じる点もまた人それぞれに異なるということである。
苦手とすることや弱点とするところは、人それぞれに異なるのであって、何をもって苦行だと感じるかは、人によって異なると言うことができると思う。
このように考えてみると、何が「修行」で、何が「苦行」なのかということは、それぞれの感じ方次第なのではないかと思う。
何が「修行」で、何が「苦行」なのだろうか?
私が思うに、仏教的に意味のない「修行」であるのならば、それは単なる「苦行」になるのではないかと思うのだが如何なものだろうか。
怠け心を克服することは、そうそう容易なものではない。
真剣であればあるほど、非常に悩ましいものだ。
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タイでやや極端な修行方法を実践してみて感じたこと・・・苦しく、苦痛であったのは紛れもない事実であるが、それは、想像されるような「苦行」ではないように感じた。
修行しても、修行しても、前進できない・・・
修行しても、修行しても、心が穏やかになるどころが、荒々しく、濁流と化していく、そして飲み込まれていく・・・
そんなどうしようもない感情を抱えながら悶える。
極端な修行方法を実践すれば・・・
もしかすると、何かが得られるのかもしれない・・・
もしかすると、現状を打破できるのかもしれない・・・
そして、もしかすると、少しでも悟りに近づけるのではないかという淡い期待感・・・
このようなごく人間的な葛藤の感情を抱いたのであった。
・・・テーラワーダ仏教では、そのような時であったとしても、徹頭徹尾、徹底して自己の心を観察していかなければならないということは、重々承知してはいるのだが・・・
瞑想を実践しておられる方であれば、どなたも感じられたことがあるのではなかろうかと思う。
少し極端な実践方法が有する、いわゆる「ストイックさ」というものに惹かれる感覚。
壁にぶつかった時の、何かをしようにもなす術がないというジレンマ。
そうした時に感ずる悶え苦しむ感情。
私の場合、どうしてもおさまりのつかない感情、つまり激しい煩悩と、それらを観察しようにも観察しきれないという板挟みの苦しい状況下の中から湧き上がってくる「やらずにはおられない」という強い思いがあったのだ。
極端な実践方法・・・それは、修行への篤い篤い思いの発露に他ならないのではないかと私は思う。
今、目の前にあることを大切にして、真摯に取り組んでいくのみ。
たとえ極端とも思える修行であったとしても、そこからの学びは実践者にとっては、とても大切なものとなるはずだ。
出家とは、修行とは、瞑想とは、実に孤独なもので、どこへも逃げることができないものなのだ。
徹底して自己と向き合っていかなければならない。
どれほど葛藤しようとも、どれほど苦しくとも、ただ観ていくしかないのである。
私が実践したこの「苦行」とも思える少し極端な修行とは、私にとっては、求道への、そして修行への篤い篤い思いの発露に他ならないものであった。
少なくとも、苦行としてイメージされるような苦行ではないと私は感じたのであった。
《 つづく ・ 『修行か?それとも苦行か?~断食をする~』 》
(『修行か?それとも苦行か?』)
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2 件のコメント:
ブログ拝見しました。
テーラワーダ仏教の修行生活って、「自己責任型」「自己管理型」の色彩が日本の修行生活よりも強いのではないかと思っています。周囲から喧しく言われることは少ないけれど、その分、しっかりと自己管理する必要があるように思います。
どう修行を進めるかについて、個人の裁量幅が大きい感じではないでしょうか。
その分、しっかり自己管理しないと、(これは極端ですが)どん底で低迷しかねない危険もあるかもしれません。
壁にぶつかったときやマンネリ化したとき、ミャンマーの瞑想センターで言われたのは、
「瞑想がうまくいっているときでも、うまくいかないときでも、とにかく、今・ここでの状態をきちんと観察しろ」ということです。
うまくいかずに落ち込んだら、その落ち込みをきちんと観察しろと。
瞑想は、うまくいっている時だけにやるのではないということです。
座禅中に眠くなったら、部屋で休むのではなく、コックリ、コックリと眠りながらでも座って観察を続けた方が(といってもほとんど観察できないのですけど)、早く眠気から脱出できるようなことも聞きました。
たとえ眠くなっても、その眠気を観察して瞑想を続ける方がいいらしいです。無論、眠くなったら、歩行瞑想に切り換えるという手もありますが。
何が修行で何が苦行かというのは、線引きが難しいですね。
滝行や断食をやるのは自由でしょうが、それによってダンマの智慧に近づけなければ、苦行になるのでしょうね。
取り留めの無いことを書いてしまいました。
パーラミー様
ブログをお読みいただきましてありがとうございます。
そして、コメントをいただきましてありがとうございます。
私も、テーラワーダ仏教とはまさに「自己責任型」「自己管理型」だと思います。自身のなかで目的意識をしっかりと持って、みずから進み、みずから疑問をぶつけていかなければなりません。誰も助けてはくれませんし、「修行」が用意されているわけでも、「答え」が用意されているわけでもありません。
他者から強制されずに、自分のペースで進められるという点では非常に入りやすいとは思いますが、一方で自己責任・自己管理が苦手な人にとってはやりづらいのかもしれませんね。
コメントの中にあります「眠気」の例は、私も痛感しました。自室に戻って休憩したり、眠ってしまっては“終わり”です。そのままだらだらとしてしまいます。瞑想センターなどでは、瞑想する場所や時間は定められていましたが、私が長く過ごした森のお寺では、そういった時間割は一切ありませんでしたので、全て“自分次第”でした。ですから、「この時間からこの時間までは、必ずここへ来て、必ず瞑想をする」と決めていました。どんな時も、とにかくここへ来る、といった具合にです。自分に厳しいというわけではなくて、部屋に戻ってしまっては“総崩れ”になってしまうからなんですよね。
ある瞑想センターにコメントと全く同じ方がいたのを思い出しました。随分と派手にコックリ、コックリとやっていたので、私が指導の長老に「あの方、居眠っていますよ。」と言ったところ、「彼は、サティをしているのだから、放っておきなさい。あなたが気にすることではありません。」と言われたことがあります。当時の私としては、注意すらしないのかと思いましたし、そもそも「あれでサティ???」と不思議に思ったものです。・・・でも、そういうことなのですよね。
恥ずかしながら、ごくごく最近になって、生活そのものが観察なのだなあと思うようになりました。どんな状態にあろうとも、今、ここでの状態をきちんと観察していくことは、出家であっても、在家であっても同じです。ダンマは、とても身近な存在ですが、同時にとても奥が深くて、学べば学ぶほどにその深さを実感するような気がいたします。
貴重なお話をありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
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