瞑想に興味を持たれた方であれば、少なからず疑問に思ったことがある方も多いのではなかろうか。
「どの瞑想法を選ぶべきだろうか?」と。
この話題に関しては、以前のブログの記事のなかでも紹介させていただいるが、実は、この疑問、私もタイで複数の瞑想法と出会った際に感じたことであり、タイで機会がある毎にさまざまな方に尋ねた質問だ。
どの方もおおむね、
「全てがヴィパッサナーであるのだから、どの瞑想法を選ぼうとあなた次第ですよ。」
「あなたがもっともいいと思った方法を続ければよい。」
という答えであった。
実に単純明快である。
タイ人のとらえ方としては、どの瞑想法もヴィパッサナーであるとされているため、どれを選んでも正解だというわけだ。
また、悟りに至るには、“必ずこの方法でなければならない”と決められているわけではないので、教学的な観点からも至極真っ当な答えであるといえる。
ところで、私がタイで出家を志した最大の目的は、悟り・・・までもは難しいかもしれないが、自己の心の安穏を得るということだった。
そして、よりブッダの時代に近い仏教を(できれば“ブッダの時代の仏教”を)この体で学び、実践し、理解し、身につけるということであった。
瞑想もさることながら、仏教の出家者としての生活を通じて、真の仏教を身に付けたかったのだ。
しかしながら、ブッダの時代の仏教“そのもの”は、すでに知ることができない。
タイの上座仏教であろうと、日本に伝わった大乗仏教と同じく2500年の歴史を重ねてきているわけである。
その中では、多かれ少なかれ、さまざまな変遷や変容もあったことであろう。
現存する仏教の中で、よりブッダの時代に近い形を残す仏教であるということは言えても、ブッダの時代の仏教そのものであるとは決して言うことはできないと思う。
あくまでも、知ることができるとすれば、“より”ブッダ時代に近い仏教ということになろう。
それでも、もちろん私にとっては非常に大きな価値がある。
私が大切だと思ったのは、よりブッダに近づくこと、より原点に近づくこと。
そうすることで、より仏教の本質というものを理解したいし、理解できると考えたからだ。
瞑想法についても同様で、ブッダの修した瞑想法“そのもの”は、すでに知ることができない。
ブッダは、いかにしてブッダになったのかという道筋を知ることはできても、ブッダが修したであろう瞑想の具体的かつ詳細な技法までもは知ることはできない。
以前の記事の中において「タイのほとんどの瞑想法は創始者がはっきりとしている」と紹介させていただいたことがある。
インターネット上のさまざまな記事のなかには一部に「テーラワーダ仏教の瞑想法は、近代になって考案された瞑想法だ」という意見も見られるようであるが、私はそれは少し違うと思う。
あるいは、「復興されたものだ」という意見もあるようであるが、決して瞑想実践が断絶していたわけではないので、この表現もやや適切ではないように思う。
瞑想は、私の見聞した範囲では、現在ほど一般によく知られた存在ではなかったが、連綿と受け継がれてきていたものであったと理解している。
また、「独自に創作されたもの」というわけではなく、あくまでも経典や教義、教学に忠実に基づいて整えられたもので、しかも誰にでも瞑想実践が可能なようにわかりやすく整えられたものであると理解している。
ゆえに、上座仏教の教義を逸脱するものでは決してないと私は考えている。
※ただし、一部の瞑想法では、上座仏教の教義に反するものではないかという指摘を受けているものもあるということを付記しておく。
現在、タイで実践されている主な瞑想法を見てみることにする。
○縮み膨らみの瞑想法(タイで通称・ユプノー)、すなわちマハーシ式の瞑想法は、ミャンマーのマハーシ長老がその創始者である。
○ワット・パー・スカトーの瞑想法(チャルーンサティ)は、ルアンポー・ティアン師がその創始者である。
日本で著名なプラ・ユキ師の瞑想法である。
(ルアンポー・ティアン師→ルアンポー・カムキアン師→プラ・ユキ・ナラテボー師という師弟関係である。)
特にマハーシ式の瞑想法は、日本では上座仏教の瞑想法として広く知られており、タイにおいても最も広く実践されている瞑想法となっている。
一方で、アーナパーナサティや呼吸系のプットーなどの瞑想法は、はっきりとした創始者はいない。
アーチャン・チャー師やプッタタート師がアーナパーナサティを採用、推奨しているが、伝統的な瞑想方法に即して実践をすすめているもので、アーチャン・チャー師やプッタタート師が創始した瞑想法というわけではない。
ちなみにアーナパーナサティもマハーシ式とともに、タイでは広く実践されている瞑想法となっている。
ある人に質問をしたことがある。
「現在、タイで実践されている瞑想法のほとんどは創始者がわかっています。
それでは、それ以前のタイでは、一体どのような瞑想法が実践されていたのでしょうか?」
と。
この私の問いに対して、
「昔のタイでは、アーナパーナサティやプットーのような呼吸系の瞑想法を中心とした瞑想が細々と実践されていて、専門的すぎて、混沌としたような、漠然としたような瞑想法が実践されていたのではないかと思う。」
という見解を示してくれた。
またある方は、
「仏教の論書には、さまざまな瞑想方法が示されていて、その中の何を修したとしても間違いではない。
瞑想は、おそらくごく一部の山林での修行者やごく少数の熱心な比丘達によって連綿と実践されてきたもので、一般の比丘をはじめ、在家の人達には到底実践しがたいものだったのではないだろうか。
それをマハーシ長老はじめ、さまざまな長老達が、誰にでも実践しやすいように整えて、わかりやすく教えてくれたものが、今、私達が実践している瞑想法なのでしょうね。」
という見解を示してくれた。
私もこの見解には非常に納得するところである。
さて、ブッダはどのような瞑想法を実践したのであろうか。
今となっては明確なことはわからないとしか言えないと思う。
もし、ご専門の方やお詳しい方がいらっしゃったら、是非ともご教示願いたいと思う。
現在、伝わっている瞑想法は、ブッダが実践した方法そのものではないのかもしれない。
もしかすると、他に悟りに至るためのさらに合理的な方法があるのかもしれない。
しかしながら、凡夫の私にとっては、そのような疑問は置いておいて、長老方が経典や教義、教学に忠実に基づいてわかりやすく示してくれた瞑想方法に専念するほうが最も合理的な道なのだろうと思う。
どの瞑想法も「悟り」というものを真摯に目指した結果、苦心の末に整えられてきた瞑想法である。
今、こうして瞑想が盛んになり、再び仏教が活気を帯び、より多くの人々の人生がより豊かで、より穏やかなるものとなる道がはっきりと示されるということは、非常に喜ばしいことである。
タイで実践されている瞑想・・・ブッダが伝えたかったことは何だったのかを吟味し、ブッダの悟り、そしてブッダの道というものを大切にしている真摯な姿を感じた。
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(『タイで実践されている瞑想法』)
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