タイにはいくつかの瞑想法がある。
たくさんの瞑想法と出会えば、どの瞑想法がよいのか?というという疑問に到達する。
当然だ。
仏教の瞑想で重要なのは、体と心の状態をただありのままに「観る」こと、そして「気づき」の力を高めていくことである。
もっとも、どの瞑想法においてもこの「気づき」に重点を置くものではあるが、その入口として様々な方法がある。
各瞑想法の違いは、この入口の違いと言える。
大まかに表現すると、体のどの部分に意識を集中して「気づき」の力を高めていくのかの違いで、瞑想が深い段階にまで進めば同一の境地に行き着くものと思われる。
そうは言っても、各人各様、得意不得意、向き不向きもあることかと思う。
どの瞑想法を選ぶか・・・その違いは決して小さなものであるとはいえない。
それは、実際にタイで実践されているいくつかの瞑想法を自身で実践してみて感じたことだ。
ただし、サンマー・アラハンの瞑想法のみは、少し異なるようだ。
体と心の状態をただありのままに「観る」ということや、「気づき」の力を高めるといったことはあまり触れない。
さらに、瞑想の各段階ごとにはっきりとした意味づけがなされており、教学的な体系だったものが構築されており、深いものがあるようである。
私は、まずタイでいう「縮み・膨らみ」の瞑想法から入った。
「縮み・膨らみ」の瞑想法とは、いわゆる日本で上座仏教の瞑想法として広く紹介されている「ヴィパッサナー瞑想法」のことである。
この瞑想法については、当時日本で出版されていた書籍を読み、開催されていた瞑想会などへも複数参加して、ある程度の概要を日本で習得してきたからだ。
ところが、タイでは、日本で習得してきた瞑想法以外にまざまな瞑想法があり、すべての瞑想法が「ヴィパッサナー」だということになっている。
それもそのはず、ヴィパッサナーとは「観」の意味であり、ものごとを客観的にみる智慧のことであり、それが実践されていれば「ヴィパッサナー瞑想法」であるからだ。
体と心の状態をただありのままに「観る」こと、そして「気づき」の力を高めるていくための瞑想ならば全て「ヴィパッサナー瞑想法」だというわけなのだ。
しかし、この点は仏教の瞑想では非常に重要なことで、ここを押さえておかなければ、仏教から逸脱してしまうおそれがある。
日本で紹介されている「ヴィパッサナー瞑想法」のみがヴィパッサナー瞑想法なのではない。
数ある瞑想法の中、私はどの瞑想法によるべきか。
その時々に出会った人や先生・指導者からは、
「あなた次第だ。」
「自分にとって一番心が落ち着く方法を選べばよい。」
という答えが返ってきた。
私は、長らく「縮み・膨らみ」の瞑想法をとっていた。
しかし、最終的にはアーナパーナサティに依ることにした。
最も長く師事した師匠がアーナパーナサティを推奨していたのと、私が最終的に止住することになった寺が「自然であること」をその主義としていたこともあったためである。
また、アーナパーナサティは、私にとって一番心が落ち着くものでもあったからだ。
もうひとつ、仏教の原始の瞑想法の姿に最も近いと感じたからだ。
おそらく、釈尊時代には、現在タイで実践されている瞑想法は存在しなかったであろう。
なぜなら、現在タイに伝わっている主な瞑想法は、古いものでもおおよそこの100年の間に改良・確立されたもので、実際に、各瞑想法にははっきりとした創始者がいる。
しかも、現指導者の先代か、先々代の時代の話である。
しかし、どの瞑想法も、いかに最も効率的に仏教の智慧を体得できるかを追求してきた結果の方法であり、真実の追求のたまものであろう。
それはそれで非常に意義深いものであり、実際に多くの人に修されている理由でもある。
どのような瞑想法を採るか・・・。
それぞれに合った瞑想法を採ればよい。
(『タイでの瞑想修行1~瞑想法の選択~』)
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