タイでのこと、私を快く出家させてくれた住職のこと、仏舎利をくれた先輩比丘のこと・・・まるで昨日の出来事だったかのように思い出された。
そして、偉大なる師、ブッダのことを思った。
ブッダの徳を思い、ブッダの徳を讃えた。
・・・実に、かの世尊は、
煩悩から遠く離れている方であり、
正しく自ら一切を覚った方であり、
すぐれた智慧と実践が完全な方であり、
覚りに到達し得た幸福な方であり、
この世界を明瞭に知る方であり、
最上の、最高の、そして全ての人間を制御するのに巧みな方であり、
神や人間を教え導いてくださる方であり、
自ら覚り、他を覚らせる方であり、
幸福と繁栄を有するすぐれた智慧を持つ者、覚者である。
バンコクの仏具屋で購入したタイ様式の仏塔を模した容器。 仏具屋には、この他にもさまざまな大きさの容器が売られていた。 「中に入れるものは、ちゃんと持っているのかい?」と、笑顔で私を接客してくれたことを覚えている。 |
タイでは非常に篤く仏舎利というものが信仰されており、実にさまざまな種類の仏舎利が伝えられている。
“仏舎利だけの「写真集」”が出版されているほどだ。
日本では、ブッダ(釈尊)の舎利(骨)のみであるが、タイでは、ブッダの舎利の他に、弟子である阿羅漢の舎利、または高僧の舎利などが伝えられている。
舎利とは、本来は“骨”のことであるが、実際に伝えられているものの多くは、一見すると美しい砂粒のようなもので、火葬した遺骨が特殊な状態で残ったものであるとされている。
タイで目にする数多くの仏塔には全てこうした仏舎利が納められている。
タイの人々は、この仏舎利を「お守り」のひとつとして持つことも多い。
それほどまでに広く仏舎利が大切にされ、信仰されているのである。
日本人ならば、「ただの砂粒だろ」と信じようともしないのかもしれないが。
山奥の小さな森の寺で最後の安居を共に過ごした先輩比丘から4種類の仏舎利を分けていただいた。
その中の2種類は、ブッダの舎利。
半透明で薄いきれいな桜色をしている仏舎利と、半透明で乳白色の仏舎利である。
もう1種類は、マハーカッチャーヤナの舎利。
漢訳でいう摩訶迦旃延(まかかせんねん)の舎利である。
日本では、釈尊の十大弟子の1人として知られている、かの摩訶迦旃延尊者のことだ。
いくつかの経典の中に登場する釈尊在世時代に実在したとされる有名な弟子の1人である。
そして、最後のもう1種類は、私の出家したタイ北部のチェンマイ地方で篤く尊敬されているクルーバー・ウォンという高僧に関する舎利である。
先輩比丘からは、半透明で薄いきれいな桜色をしている仏舎利について、
「特に、これ(半透明で薄いきれいな桜色をしている仏舎利)は、とてもご利益があるものだから大切にするんだぞ。
だから、これだけは人にあげちゃダメだぞ。」
と、特に桜色の仏舎利について説明してくれた。
「舎利の色が透明に近いものほど、修行をよく修めた純粋な人のものなんだ。
境地が高い人でないと、きれいな舎利は出ないんだ。」
と、さらに舎利について教えてくれた。
こうした舎利は、修行を積んで阿羅漢となった比丘や非常に徳の高い比丘の体内からしか出ないとされている。
透明かどうかはともかく、仏舎利が出るだけでもすごいことだ。
・・・先輩比丘の言葉を疑ったわけではないが、なんとなく他の人にも聞いて確かめてみたいと思った私は、寺の住職のところへ行き、仏舎利についての質問をしてみたのであった。
「仏舎利をいただきました。
これは、本物なのでしょうか?」
と、私が質問すると、住職は、
「もちろん本物だとも。」
と、なんのためらいもなくさらりと答えた。
さらに住職は、
「本物の仏舎利は、水の中に入れると浮かぶんだ。
沈まないんだ。
それと、仏舎利は、一生懸命に修行や瞑想に励むと数が増えて、怠惰な生活を送っていると数が減ってしまうんだ。
もし、この話が嘘だと思うのなら、今から仏舎利の数を数えてみて、後日、また数えてみるといい。
お前の生活態度がわかるぞ。」
と、ニヤリと笑みを浮かべて、このように私に教えてくれた。
マハーカッチャーヤナの舎利についても、住職に本物かどうかをたずねてみてたところ、言うまでもなく『本物』だと答えた。
むしろ、「これは、背骨のあたりのものかな。」と、『骨』であることを疑っていない様子であった。
タイ人の多くは、仏舎利を疑っていない。
本物かどうかということは問題ではないのだ。
そのように自分のところへ伝えられたものであるから、そうなのである。
そのように伝え聞いているものなのだから、そうなのである。
疑うことなく、釈尊のもの、ないしは、過去に実在したであろう仏弟子のもの、阿羅漢のもの、高僧のものだと信じている。
そして、そのご利益を疑っていない。
・・・私が、ハチに刺された時にも「仏舎利に早く治るように願を掛けてみろ」と言われた。
ふと日本を想い「日本にいる家族はどうしているかなぁ・・・。」とこぼした時にも、「仏舎利にお願いしておくといいよ!」 と、先輩比丘から真顔で言われたことを覚えている。
仏舎利には、こうした非常に庶民的な信仰もあるのだ。
このように非常に篤く信仰されている仏舎利であるが、仏舎利が本当に釈尊の骨であるのかどうかということは、おそらく関係がないのであろう。
そもそも仏教では、『物』に対して執着すること自体を誡めている。
仏舎利も、「聖なるもの」ではあるが、所詮「物」は「物」である。
仏教の目指すところではない。
私は、そのなかに『仏教』を汲みとることができれば、意味があるのではないかと思っている。
あるいは、仏教へと向かわせる“きっかけ”となることこそが重要なのかもしれない。
日本とは比較にならないほど崇拝され、大切にされている仏舎利。
仏教の目指すところではないけれども、それによって釈尊と出会い、釈尊を思い、法を聴き、時には励まされ、修行に邁進することができれば、それこそがご利益だといえるのではないだろうか。
ともあれ、「とてもご利益があるものだから大切にするんだぞ。だから、これだけは人にあげちゃダメだぞ。」というほどご利益があり、大切な仏舎利を、私に分けてくれた先輩比丘の気持がうれしい。
言われた通り、その後も大切にしている。
今でも、その仏舎利を見ると住職の言葉を思い出す。
仏舎利を私に分けてくれた先輩比丘のことを思い出す。
みんなが穏やかに元気で幸せに過ごしていることを願わずにはいられない。
私が数ヵ月間過ごしたチェンマイ市内の寺院。 この仏塔の周囲を町の人々達とともにブッダの徳を讃えながらまわる。 チェンマイの名所、ドイ・ステープの仏塔と同じ形をしているんだと教えてくれた。 |
イティピソー パカワー
アラハン
サンマーサンプットー
ウィッチャーチャラナサンパンノー
スカトー
ローカウィトゥー
アヌッタロー プリサタンマサーラティ
サッターテーワマヌッサーナン
プットー
パカワーティ
この経文を唱えながら、チェディ(仏塔)を右回りに3回まわる。
「仏徳への憶念」、すなわちブッダの徳を思い、ブッダの徳を讃える経文である。
ワンプラの日に行うウィエンティエン(“灯明を持ちながら仏塔をまわる”儀式)では、ロウソクと線香に花を添えてバナナの葉っぱにくるんだものを手に持ちながら、チェディのまわりを歩き、ブッダの徳を思い、ブッダの徳を讃える。
夕刻、寺の近くに住む子ども達をはじめ、近隣の人達が寺へとやって来る。
そして、比丘達とともにチェディをまわる。
ブッダの徳を思い、ブッダの徳を讃えながらチェディの周囲をまわる人々の姿。
人々の持つ灯明が放つほのかな明かりと、ほんのりと浮かび上がるチェディの姿がとても美しい。
※2007年10月16日掲載の『タイの仏舎利』より一部を引用し、大幅に編集を加えたものです。
(『仏舎利の思い出』)
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