タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2022/12/19

タイのプラクルアンのこと

 

タイに一定期間滞在経験がある方であれば、『お守り』の存在にすぐ気が付くのではないかと思う。


タイの『お守り』とは、『プラクルアン』と呼ばれるもので、ブッダや高僧、タイやインドの神々の姿などをかたどったものである。


一般には『プラ』と呼ばれている。


(※単に『プラ』と言った場合、ブッダや仏像を指す場合もあるし、僧侶を指す場合もあるし、プラクルアンを指す場合もある。)


ブッダや高僧、神々の姿をかたどったものの他には、タイに伝わる精霊やインド由来の神々、さらには性器をかたどったものや、布製の護符、特別に祈禱を施された厄除けのものなど、タイのお守りは極めて多種多様で、材質も金属製のものや粘土製のものなど非常に多彩である。


日常生活のなかに深く浸透しており、人々の生活とは切り離せない存在ともなっている。



タイの人たちは、非常にお守り好きで、例えば、バスやタクシー、友人・知人の車に乗る機会があれば、ぜひとも運転席に注目して欲しい。


必ずたくさんのお守りたちが車を守っているはずだ。


あるいは、街ですれ違うタイの人たちの胸元に注目して欲しい。


特に男性に多いのであるが、お守りをネックレス状にして首にかけている姿を見ることができるはずだ。



このようにプラクルアンは常時、肌身離さず身につけられているものであるほか、さまざまなところに飾られる。



“お守り好き”という点では、日本も全く同じで、非常に親近感を覚える。


無宗教を堂々と標榜している日本人であるが、実は、日本人は尋常ではないほどのお守り好きだろう。


車を見れば、神社やお寺の交通安全のステッカーが貼られているし、運転席やダッシュボードのなかに、お守りを置いている人は多いことと思う。



このタイのプラクルアンであるが、近年、インターネット上にてさまざまなプラクルアンの画像がアップされるようになった。


それらを眺めるのが最近の私のちょっとした楽しみとなっている。



私が知っているもの以外にも、実にさまざまなタイプがあって、本当に面白い。



ちなみに、森林僧院や瞑想修行を主とする寺院などでは、呪術的なものや、お守りの類の頒布は嫌うので、このようなプラクルアンの類は僧院内には一切ない。


しかし、タイでの生活のほとんどを、そうした森林僧院に身を置いてきた私のところにさえも、たくさんの情報が入って来るのだから、どれだけタイの人たちの間にプラクルアンが浸透しているのかということをご想像いただけるかと思う。



日本へ帰国してから20年が経った今も、私の手元には、たくさんのプラクルアンがある。


私の仕事場も、プラクルアンに見守ってもらっている。


実は、私の手元にあるプラクルアンは、自分で手に入れたものではなく、タイ滞在中にさまざまな人たちからいただいたものばかりだ。


自分で手に入れたものは、ほんのいくつかしかない。



タイの人たちは、お互いの関係が打ち解けてくると、友情の証として、よくプラクルアンをプレゼントしてくれる。


私の手元にあるひとつひとつのプラクルアンには、そうした温かな思い出があり、私に譲ってくれた人たちの気持ちが籠っているのだ。



出会ったタイの人たちの温かな気持ちとともに集まってきたのが、私の手元にあるプラクルアンたちである。






サーマネーンたちが集うお寺の学校で
いただいたプラクルアン。
ともに過ごしたサーマネーンたちの
明るい笑顔が浮かんでくる。





私にタイ語を教えてくれた友達から
プレゼントされたプラクルアン。
一番のお気に入りのプラクルアンだ。





私は出家をしていたためか、手元にあるものは、ブッダや高僧をかたどったプラクルアンが多いのだが、実は、タイに伝わる神々やインド由来の神々をかたどったもの、また非常に絶大な“呪力”を有するという特別な祈祷が施されたものまであるようである。



“特別な祈祷”という言葉で思い出したのだが・・・言われてみれば、出家中にバンコクの超一流名門大学を卒業したとても真面目な先輩比丘が、これまたド真剣な顔をして“意中の人を振り向かせるお守り”というものの作り方を教えてくれたことがあった(実際に作っているわけではなく、そのようにして作るのだという話題である)。


さまざまな呪文を唱えながら、なんと女性の陰部の分泌液を混ぜつつお守りを作製していくというもので、いかにも『念』が込められた“効きそう”なお守りがあるものだ・・・そんな大層なものもあるのかと、話半分に聞いていた。


内心では、そもそもそんな“液体”を誰がどうやって入手するのだと、半ばシラけた思いで聞いていたのだが、インターネットを見る限りどうやらそういった話は、本当にあるようである。



真面目な先輩比丘の話なのだから、やはり嘘偽りはなかったわけだ。


いやいや、出家者たる者、そもそも嘘をついてはいけないから、やはり本当の話なのだ。


これは、いかにも『力』がありそうではないか!タイの呪術的な民間信仰の一面である。



兎にも角にも、タイのプラクルアンは、見ていて飽きることがないほど多彩で、大変面白いのだ。



私は、当時、タイへ仏教を学びに来たのだからと、努めて他のものへは関心を向けて来なかった。


しかし、仏教を学ぶ目的がなければ、もしかするとプラクルアンの愛好家になっていたかもしれないと思わなくもない。


ところが、軽々しく愛好家になっていたかもしれないとは口が裂けても言えないほど、非常に奥が深い世界であるというのがプラクルアンの世界だ(ゆえに、一時の興味であって、愛好家になっているということはないと思うのだが・・・)。






日本へ帰国する前に先輩比丘から
いただいたプラクルアン。
このエピソードに関しては下記の記事。
『煩悩の国の歩き方』





タイをガイドしてくださった方から
いただいた小仏像。
こういった小仏像もプラクルアンの
一種とされているようだ。





タイは、ご存知の通り敬虔な仏教国とあって、プラクルアンは生活とともにある非常に身近な存在だ。


身近ではあるけれども、決して粗末に扱ってはならない存在でもあり、特に丁重に扱うべき存在として心得ておかないといけない。


それは当然と言えば当然であるが(日本のお守りに関しても同じだろう)、その一方で、有名な高僧による製作であったり、絶大な呪力を持つとされているものであったり、骨董的な価値があったりすると、大変高価な値段で“取引き”されることがある。


タイでは、プラクルアンの専門雑誌がいくつも刊行されているほどで、その愛好家の多さが容易に想像できるわけであるが、例えば、貴金属などと同じく“投資”目的で売買されることもあるというから驚きだ。


事実、信じられないほど高額なプラクルアンや目が飛び出るほどのプレミアがついたプラクルアンが存在するのである。



この点は、インターネットのオークションサイトや販売サイト等で『お守り』や『御朱印』が取引きされることに対して、あまり良い印象を受けない日本の感覚とは大きく異なるところである(信仰形態や意味合いが異なるので、比較できないことであるということをあらかじめ断っておく)。


神聖なものを寺院以外の場で販売していたり、売買や投資の対象とするのは、日本人としては大いに戸惑うところだろう。



それはさておき、タイには、日本人には想像もつかないほどのプラクルアンの一大マーケットが存在するのだ(※1)。



さて、タイ好きの間ではよく知られるようになってきたプラクルアンであるが、こうしたプラクルアンの扱い方について、あまり知られていないことがある。


特に注意しておかなければならないことがいくつかあるので、記しておくこととしたい。




・『買う』とか『購入する』とは言わず、『借りる/お借りする(タイ語:เช่า・チャオ)』と言わなければいけない。


・足元や床に置いてはならない。ブッダや神々の分身、あるいはブッダや神々の力がこもったものであるとして、丁寧に扱うようにすること。


・人から受け取る際は、合掌してから受け取ること。特に僧侶から受け取る際は、必ず受け取る前に合掌しなければならない。

(僧侶から物を受け取る際は、どのような品物であっても、受け取る前に必ず合掌してから受け取ること。)


・男女の交わりを行う際は、身につけていてはいけない。身につけたまま行為を行ってしまうと、お守りとしての『力』が消えてしまうと言われているため、必ず身体から外したうえで行為を行わなければならない。




タイにおいては、神聖なものであるのだから、決して粗末に扱ってはならないのは当然のことであるが、このような常識もあるので、もしもタイでプラクルアンを手にされることがあれば、少しだけ思い出していただければと思う。



プラクルアンを身につけていると(鉄砲の)玉に当たらないと言われているのは、タイに滞在経験がある方であれば、一度くらいは耳にされたことがあるかと思う。


それだけ一般に広く浸透しており、深く人々の心そのものともなっているプラクルアンだけに、仲良くなった『友情の証』として譲っていただけたことは、本当に嬉しく思ったものだ。



一方で金銭的価値がつけられることも多く、単に『お守り』としての価値以外の価値が付されることがあるのがプラクルアンでもある。


プラクルアンの価値を見極めるには、深い経験と知識が必要であり、相当な“プロ”でないと目利きができない。所謂本物なのか偽物なのかの判断は素人では到底不可能だ。


私がインターネットでたくさんのプラクルアンを眺めている通り、近年は、日本の市場でもよく見かけるようになったものの、それらはおおむねタイではそれほど“価値”のあるものではない、所謂“偽物”であるといわれている。



私の手元にあるプラクルアンたちの金銭的な価値は私にはわからない。


所謂“本物”なのか”偽物”なのかも、私にとってはどうでもいい問題だ。



プラクルアンはプレゼントされても嬉しいが、タイ人にプレゼントをしても非常に喜ばれる。


私が、あるタイ人に『このプラクルアンは“偽物”かもしれないけれども、あなたにどうぞ。』と言ってプレゼントさせていただいた際に、『これは、あなたからもらったプラクルアンだから価値があるのよ。』と言ってくださった時には、とても嬉しく、大変心が温まったことを覚えている。



そんな人と人とをつないでくれるのも、プラクルアンのご利益なのかもしれない。




※1、【参考資料】

・NHK出版『ブッダ大いなる旅路2 篤き信仰の風景 南伝仏教』1998年

156頁~160頁が参考になる。大変面白く興味深い記事である。



※2、【関連記事】


『タイのお守りとタイで出会った人々1』


『タイのお守りとタイで出会った人々2』


『タイのお守りとタイで出会った人々3』


『タイのお守りとタイで出会った人々4』


『タイの呪術』


『煩悩の国の歩き方』




(『タイのプラクルアンのこと』)






▼ご登録はコチラから▼





ブログには紹介しきれない“こころの探究への旅路”を綴っています。


踏み込んだ話題やプライベートな話題、心の葛藤や越えてきた道のりなど、内面的なことがらに触れつつ、振り返っていきます。


一通、一通、心を込めてメールをお届け致します。


何かを感じて取っていただくことができましたら幸いです。


登録は無料です。どうぞ、お気軽にご登録ください。



⇓⇓⇓下記の登録フォームからご登録ください⇓⇓⇓





仏教の生き方とは何かを考え、真の仏教で生きる道を歩んでいきたい・・・


そんな思いをあなたとともにわかち合っていきたいと考えています。


日々、心穏やかで、心豊かな生き方を探究しています。







毎日更新しています!



情報交換や情報共有等、様々な方面で活用しています。


友達リクエストの際は、メッセージを添えていただきますようお願いいたします。






Facebook : Ito Masakazu






0 件のコメント: