今回は、ほんの少しだけタイから離れた話題に触れてみたいと思う。
『瞑想』であるとか、『マインドフルネス』あるとか、そのような用語も聞き慣れてきたのではないだろうか。
手元に私がタイにいた当時、タイで流通していた英語の書籍がある。
それらを見てみると、私がタイにいた当時から、確かに『マインドフルネス』や『メディテーション』などといった用語が見られ、英語においては決して特殊な用語ではないことがわかる。
もともと仏教の実践行として、心を静め、観察や洞察を行うといった行為が身近にあるタイにおいて、『マインドフルネス』や『メディテーション』などという用語がどのように理解されていたのであろうか。
これは、あくまでも私の憶測ではあるが、日本のような曖昧模糊とした理解ではないと思う。
タイでは、『サティ』は“サティ”として、『ヴィパッサナー』は“ヴィパッサナー”として、仏教の実践としての文脈において理解されているはずだからだ。
ゆえに、仏教用語の英語訳として理解されていたのではないだろうか。
日本にも仏教というものがあるにはあるし、さらには日本の仏教諸派においても、その宗派における所謂『瞑想』が実践されているはずではある(存在しない宗派もあるが)。
しかし、それが一般に正しく理解されているのかといえば、決してそうではないだろう。
このような問題は、私がタイにいた当時には、全く気づかなかった問題で、予想だにしなかった問題だ。
先日、拙ブログにおいて、『注意しておきたい『瞑想』という言葉』という記事のなかで少しだけタイにおける『瞑想』というものの理解について触れた。
日本においても、近年、『瞑想』という言葉が一般に広く知られるようになってきた。
ところが、その意味や意義、定義となると、全く理解されていないばかりか、誤解や曲解されているというのが実情だ。
この記事では、日本における『瞑想』という言葉のルーツやその周辺のことについて触れていく。
日本の『瞑想』の世界は、非常に混乱しており、まさに“カオス”の状態だ。
一口に『瞑想』と言っても、実に多種多様な『瞑想』があり、ややこしいことにそれぞれ定義も違えば目的も違う。
さらに、そのルーツとなるものは仏教の『瞑想』だけではない。
ゆえに大変な混乱を生じさせるのだろう。
その混乱ぶりを象徴しているのが、『瞑想』、『メディテーション』、『マインドフルネス』、『禅』は、どのように違うのか?という質問だ。
少しインターネットを検索すれば、怒涛の如く様々な回答が出てくる。
ここでは、『瞑想』という言葉を紐解きながら、その違いについて解説していきたいと思う。
まず、一番はじめに『瞑想』という言葉について、簡単に触れておくこことしたい。
『瞑想』という言葉は、包括的用語である。
例えば、『動物』であるとか、『スポーツ』であるとかと同じく、その種のものを包括して呼称する言葉だ。
人間も、犬も、猫も『動物』であり、野球も、サッカーも、マラソンも『スポーツ』である。
何らかのある特定のものを指して言う言葉であるのではなく、『瞑想』も、『動物』や『スポーツ』というひとつのジャンルの枠組みを示す言葉である。
ゆえに、近年、一大ブームとなっている『マインドフルネス』も、他の瞑想法による『瞑想』も、全てが『瞑想』のひとつであり、日本の『禅』をはじめ、他の宗教による精神を安定させるための行為なども、広義においては、全てが『瞑想』に含まれる概念のものである。
すでに、これだけでおおむね『瞑想』という言葉の外郭を示すことができたのではないかと思うのだが、もう少し詳しく見ていくこととする。
『瞑想とメディテーションは別物である。』
このような解説があるようであるが、単刀直入に言えば、『メディテーション』とは『瞑想』の英訳である。
『瞑想』という言葉は、明治期に日本へと入ってきた英語の『メディテーション』の訳語としてあてられた言葉で、長い歴史を持つ日本語の中では比較的新しい言葉だ。
ただそれだけのことなのであるが、『瞑想とメディテーションは別物である。』という説明を逆から考えると問題点が明らかになるだろう。
どのように教えているのかは、私が存知する範疇ではないが、誰かがそのように教えているのであろうということが推測できる。
つまり、『瞑想』とはこうである、『メディテーション』はこうである、といったような具合に、両者を定義づけて教えているということなのではないかと思われる。
そこは、その指導者なり、その教授者なりの見解となるのであろうが、『瞑想』と『メディテーション』の解説として正しくは、『瞑想』というのは、静かに心を落ち着ける行為全般を指し示す“包括的用語”であり、『メディテーション』はその英語訳であると理解をしておけばよい。
次に、最も誤解されていると思われるのが、『瞑想』は仏教用語であると理解されていることだ。
『瞑想』は、仏教用語ではない。
先述の通り、『瞑想』という言葉は、明治以降に使用されるようになった表現であるからだ。
また、その言葉の性格からも、仏教用語ではないことは明らかであろう。
仏教でも『瞑想』と呼んでいるではないかと思われるかもしれないが、厳密には、表現を借用しているだけである。
あるいは、『瞑想』と表現した方が一般に理解されやすいために使用しているに過ぎず、本来はそのように呼んではいなかった。
ただし、近年は、『瞑想』という言葉が広く定着してきたため、仏教においても使用されるようになってきたようである。
それでは、明治以前の日本では、所謂『瞑想』のことをどのように呼んでいたのであろうか。
それは、結論から言うと、『禅観』と呼んでいたようだ。
あまり聞き慣れない言葉である通り、実際にその当時から広く普及しなかったようである。
実質的には、『禅定(ぜんじょう)』や『三昧(さんまい・ざんまい)』などといった言葉が仏教における『瞑想』を示す言葉となっていたようだ。
ちなみに、現在でもよく耳にする『〇〇三昧』という表現は、特定のことに熱中している様子を指して使う表現であるが、心を特定の対象に集中させることが転じて一般に使用されるようになった仏教用語がルーツの言葉である。
ただし、注意しておきたいのが、『禅定』と『三昧』は、それぞれ全く同義であるのではなく、厳密には微妙にその概念が異なるものだ。
意味するところが微妙に異なりはするのだが、おおむね『瞑想』を指し示す言葉であると理解して間違いではないだろう。
『禅定』や『三昧』など、仏教における『瞑想』を指し示す言葉は、実践する内容によってそれぞれ違いがあり、それぞれ呼称も異なるので、注意が必要である。
端的に言うならば、言葉が違えば、意味も違うということだ。
ちなみに、『禅』や『止観』という言葉も、仏教における『瞑想』を意味する言葉のひとつであるが、『禅』というと“禅宗”を想起させ、『止観』というと“天台宗”を想起させるため、包括的用語としての『瞑想』を示す用語としては避けられてきたという事情もあるようである。
禅も、マインドフルネスの瞑想も、サマタも、ヴィパッサナーも、全て『瞑想』に含まれる概念のものであるということになる。
さて、ここで、もうひとつ、非常にややこしい問題がある。
ここまで述べてきた通り、『瞑想』には多種多様なものがあり、それぞれに目的や実践が異なるのだということは、ここまでお読みくださった方であれば、おおむねご理解いただいていることと思う。
ところが、日本の現状として、さまざまな“瞑想”が混在し、混交しているため、一般には正しく理解されていないことがほとんどだ。
“瞑想法”が変われば“定義”が変わるということを、ぜひとも頭の片隅に留めておいていただきたいと思う。
私が、日本の『瞑想』の世界は、非常に“カオス”であるといった理由は、この点にある。
私は、仏教で実践される『瞑想』が『瞑想』であるという立場である。
仏教が目指す目的や意義から外れるものは、『瞑想』であったとしても、“仏教”の『瞑想』ではない。
“リラクゼーション”ではあるかもしれないし、単に精神を安定させるための手段であるのかもしれない。
しかし、仏教の立場に立脚すれば、それらは『瞑想』ではない。
私と同じく、仏教の『瞑想』という立場に立脚する人であれば、私と同じ立場をとるはずだ。
これは、決して他の立場を否定しようとするものではない。
相手側の立場から言えば、仏教の『瞑想』のほうこそ“『瞑想』ではない”ということになるかもしれない。
なぜなら、立場によって『瞑想』の“定義”が違うからだ。
そこは、お互い様であろうし、『瞑想』の定義自体が違うのであるから、どちらも正しい見解だと言わざるを得ないだろう。
同時に、瞑想法が変われば、その『目的』も変わる。
なぜ、その瞑想法を実践するのかについても、それぞれの立場による意味と理由があるはずだからである。
このように、同じ『瞑想』という言葉を使用していても、立場が異なるし、実践する意味も理由も異なるのであるから、全く別のものなのである。
例えば、アスリート向けの『瞑想』というものがある。
その『瞑想』が目指しているものは、徹底したアスリートたちの集中力アップとパフォーマンスアップの一点だ。
その『瞑想』の方法論から、多く場合、仏教の『瞑想』から理論や手法が取り入れられており、組み立てられていることは明らかなのであるが、そこには宗教的な意味合いは一切含まれていない。
しかも、ごく短期的な実利を、素早く、確実に得る、ということにフォーカスされており、一貫して集中力アップとパフォーマンスアップのみが目的となっている。
本来であれば、『瞑想』には体系だった緻密な理論と実践があり、心のはたらきから、認識のはたらきに至るまで、なぜそのようになるのかが全て明確に説明されている。
しかし、現代人にとっては、そのような難解な理論よりも、即効性と直接的な『実利』が最優先されるようで、非常に歓迎されるようだ。
きっとそのほうがより身近に受け取ることができるのであろう。
その種の一群の『瞑想』は、パフォーマンスアップとしての“エクササイズ”のひとつとなっており、“トレーニング”の一環でしかない。
それはそれで、全く構わないし、そうした目的のものであると理解しておけばよい。
ただ、一点だけ指摘するとすれば、そのごく短期的な『実利』の先には、何も残るものはないし、本来の『瞑想』が目指している“生死の問題”の解決をはかる方向性のものでは到底あり得ないということである。
『瞑想』とは、“包括的用語”である。
『マインドフルネス』も、他の瞑想法による『瞑想』も、全てが『瞑想』のひとつであるという捉え方が適切である。
おそらく、このあたりで気になってくるのが、どのような『瞑想』を選べばよいのか?ということではないだろうか。
単刀直入に言うとすれば、ごく入口の段階では、どのような瞑想法であったとしても、一定の効果は得られるし、一定の心の落ち着きは得られるだろう。
違いがあるとすれば、長期的に継続し、実践していく場合だ。
その瞑想法が有している“目的”と“性格”が少しずつ実践者の中へと浸透していくため、ゆるやかに影響されていくこととなる。
その点をよく理解したうえで選択することをおすすめしたい。
逆に言えば、何を目的とするのかによって、瞑想法を選べばよいと思う。
とはいえ、瞑想法の良し悪しや合う合わないなど、専門的な知識がないと判断が難しいだろう。
そうした場合の選び方のひとつとして、先生や指導者で選ぶというのも、ひとつの方法なのではないかと思う。
どのような先生が『瞑想』をご指導なさるのかという観点で選ばれると良い。
一言で言えば、先生の『お人柄』だ。
繰り返し実践していくなかで、瞑想法そのもののエッセンスが実践者の中へと入ってくるのと同じく、指導者となる先生のエッセンスも指導を受ける者の中へと必ず入ってくる。
表現を換えるならば、必ず影響されることになる。
それゆえに、この先生ならば・・・という指導者を選ぶようにしたい。
そのような意味で、指導者選びは非常に重要である。
『瞑想』、『メディテーション』、『マインドフルネス』、『禅』・・・これらの整理をつけることができたであろうか。
『瞑想』は、包括的用語である。
『マインドフルネス』も、他の瞑想法による『瞑想』も、全て『瞑想』のひとつである。
日本の『禅』や他の宗教による精神を安定させるための行為なども、広義において『瞑想』に含まれる概念のものである。
しかしながら、そうは言われていなかったり、そうは理解されていなかったりする方々も多いので、私は、その方やその先生の解釈や説明に従ってくださいとお伝えしている。
その方なりの立場や理解があるのだから、そこを云々言うつもりはない。
そのような観点から言えば、ここに解説させていただいたことも、私の立場からの解説だということになるかとは思うが、参考にしていただけるだけの根拠があるものを示しているつもりである。
少しでも混乱を解消し、整理するきっかけとしていただくことできれば幸いである。
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